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<東京怪談ノベル(シングル)>


人と魔と

「ただいま」
 待ち人のいない部屋に戻るのに、何故か、玄関に上がる時、その一言を言ってしまう。
 返ってくるのは、闇と静寂。
 一人でいることには慣れているはずなのに、この無音の空間を、いつも、重いと感じてしまう。
 靴を脱ぎ、玄関にあがる。明かりを付ける。
 まずはテレビのスイッチを入れた。仕事が忙しいせいで、新聞を読む暇はあまり無い。手っ取り早く情報を仕入れるために、家にいる間は、ニュース番組を付けっぱなしにしていた。
 人間世界の大小様々な事件を、その顛末を、知識として取り入れるのは、面白い、と思う。
 これは、妖狐、久遠(くおん)の感覚だ。
 部外者として、世の中を見る。当事者ではない。一人かけ離れて、遠く、蚊帳の外にいる。地上で蠢く、無数の人の波。それを遙かに上回る、無限に近い、感情のうねり。
 飽きるという事が、ない。
 惹かれる……。
 どうしようもないほどに。
 
「今、ここにいるのは、人間なのか。妖狐なのか」

 久遠自身にも、わからない。
 生きているのは、「人」なのか。「魔」なのか。



 あれは、何年前のことだろう?
 随分と古い話のような気もするし、割と最近、身に起こったことのような感覚もある。
 人ならぬものと融合した瞬間に、久遠は、正しい時間の認識を失った。

 幻のような、一瞬。
 永遠のような、刹那。

 乗っていた飛行機が、落ちたのだ。
 エンジントラブルだった、と、聞いている。整備が甘かったのだろう。悪天候も、関係していたかも知れない。火の回りは早かった。操縦士とても、状況を正しく把握できないほどに。
 切れ切れに、曖昧な説明が繰り返される。機体が、あり得ないほど震えても、客のほとんどは、墜落を考えはしなかった。ほぼ全員が油断している間に、後翼部で爆裂音が轟き、事態は急変を迎えた。
 たまたま窓側に座っていた久遠は、自分の乗っている飛行機の片翼がもげて虚空に消えてゆく様を、その目で、はっきりと、目撃してしまったのだ。
 
 あの衝撃は、たぶん、一生、忘れることは出来ないだろう。

 飛行機が、落ちる。
 恐ろしいほどの速度で、切り立った山々が、眼前に迫る。人の力でどうこう出来るものではなかった。むろん、祈りが届くはずもない。

 全てが砕けた。硬い地面に激突したときの衝撃は、ただ一瞬で、乗員の八割の命を容易く奪った。体が粉々に千切れ飛び、後には肉片で発見された者も少なくない。その後は、待ち構えていたかのように、炎がわずかな生存者を襲った。

 全滅だった。
 
 相沢久遠は、炎に巻かれて死んだ一人だった。墜落した時、彼は壊れた機体から放り出されて、それで即死を免れたのだ。だが、五体満足というわけにはいかなかった。肘から先の腕が、無くなっていた。もしかしたら、裂けた腹から臓物がはみ出ていたかも知れない。
 彼は、痛みのあまり、かえって気を失うことが出来なかったのだ。
 意識を保ったまま、自分の体が冷えていく様を、鼓動が弱々しく止まってゆく様を、まるで、他人事のように、感じていた。
 
「死ぬのか……」

 人間、ここまで追いつめられると、逆に、潔くなれるものなのかも知れない。
 足掻こうとは少しも思い付かないから、不思議なものだ。
 思い出が、苦痛を和らげるように、脳裏に広がってゆく。懐かしい、出来ることなら還りたい、楽しい綺麗な過去ばかりだ。昔、何かと面倒を見てやっていた小さな男の子の顔が、目に浮かぶ。
 
 いや。違う。
 あれは、あの子ではない。あれは、自分。
 幼い頃の…………遠い、遠い、まぼろし。

 子供の頃から、運動神経は、良かった。徒競走では、一等以外をとったことがない。夏休みの読書感想文が、地域の代表に選ばれたこともある。負けず嫌いなところがあったから、成績は、いつもかなり上の方だった。
 だけど、全てが、今、死の間際のこの時には、役に立たない。
 
「助けて、やろうか?」
 
 不意に、声が、聞こえた。

「だ、れ……」

 唇がわずかに動いたが、声は出なかった。
 辺りを見回す力も残っていない。炎の燃えさかる音と、誰かの苦痛の呻きが耳について、正確に聞き取れない。やはり幻聴かと、最後の力を振り絞って開けた目を、また閉じた。
 闇に包まれると、五感が怜悧さを取り戻し、さっきよりは、はっきりと、再び、慣れぬ声を聞いた。

「ここで果てるか? その惨めな姿で。ボロ布のように引き裂かれた、その姿で」

 その言い方には、腹が立った。
 好きでこんな事故に巻き込まれたわけではない。死にたくなかった。生きたかった。やりたい事も、やれなかった事も、それほど両手の腕には抱えきれないほどに、まだ、たくさん、残っている。

 だいたい、どうして、自分でなければならないんだ?

 世の中に、死にたがっている奴なんて、掃いて捨てるほどもいる。勝手に自分が不幸だと思いこんで、いとも容易に、命を、あっさりと投げ捨てるような連中だ。残される人間のことなど、微塵も考えてはいない。
 どうせ命を奪うのなら、運命の神とやらも、そういう輩から、好きなだけ魂をかすめ盗ってやれば良いものを……。

 相沢久遠は、まだ、死ねない。
 これまで生きてきた道のりに、捨てられないたくさんの人々がいる。
 泣いて悲しんでくれる人がいる。
 まだ…………死ねない。

「死にたくない!」
「生きろ!」

 何かが、同調した。共振した。
 自らの中に入り込んでくる、得体の知れない気配。力が、細胞の一つ一つを、組み直し、作り替えてゆくような、その感覚。
 痛みが消えてゆく。無くなったはずの片腕が、再生していた。立ち上がる。腹に傷は見あたらなかった。俯いた顔にかかる髪は、銀色だった。おさまることを知らぬ劫火を映し、今は、緋色に輝いている。
 飛行機の残骸の中に散らばる、無数の遺体。
 地獄絵図の合間に、久遠は、奇跡の生存者を捜す。
 炎と黒煙が、邪魔だった。
 このままでは、せっかく永らえた命も、いずれ、消えてしまう。

「鬱陶しい……」

 邪魔だ。炎が。
 そう思った。
 逆らうな。妖焔の主である、この俺に!



「消えろ!」



 この開放感。この愉悦感。
 久遠は、笑った。
 笑ったのが、どちらの久遠だったのか、今も、よく、わからない。

 人か。魔か。

 魔と融合し、命を繋ぐ。人と同化し、世界に溶け込む。
 互いが互いを必要としている。奇妙な関係でありながら、もう、離れることは、決してない。
 
「いくら死にかけていたからって、お前をアッサリ受け入れるなんて、僕もお人好しだよな」
「ほざいていろ。死に損ないが、泣きついてきたくせに」
「ふん。関係は五分五分さ。先に話を持ちかけてきたのは、お前の方だ。知ったこっちゃないね」
「生意気な人間が……」

 実際に、そんな会話が取り交わされているわけではない。
 二人の「久遠」は一つとなり、そこに較差は何もない。妖狐でもあり、人間でもある。二つの人格がはっきり別離して在るわけではなく、一人の久遠の中に、人と魔の性質が、複雑に絡み合い、時に反発し合いながら、混在しているに過ぎないのだ。

「でも、まぁ……。生かしてくれたことには、感謝できるかな」

 懐かしい人にも、再開できた。
 新しい仕事に手を出し、そこから、違う生き方が広がった。

 全てが、生きていればこそ、叶った望みだ。
 純粋な人間ではなくなったぶん、それに苦悩や悔恨を抱える日も、あるいは訪れるのかも知れないが……。
 長い生に押し潰されたりは、しない。

「生きると決めたのは、僕の意思だ」

 選択者は、自分。
 不条理を押しつけられたわけでもない。
 だから、これからも、生きてゆく。
 目の前に開けた道を、真っ直ぐに、突き進む。
 くだらない迷いには、囚われない。

 そして、いつか、完全に一つになる。
 人と魔が。
 それこそが…………「久遠」の真なる願いなのかも知れない。