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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─巣鴨崩壊後日談─

【1b:2003-12-21】

 事務所に戻ると、亮一より先に帰還していたのは御影・涼とレイだった。涼は彼女を気遣い、自宅へ帰して取り残すよりは慣れた仲間の居るここへ、と連れて来たらしいが、まあ、何という姦しい事か。
 わあわあと泣き喚くレイを宥め透かしていた涼は、亮一に気付いて顔を上げ、苦笑いが交わされた。これでは留守番の少年も口を挟みようが無いだろう。
 
──まあ、泣ける内は未だ良いですね。

 彼に比べれば。
「結城さんは?」
「自宅に帰ったみたいだ。……それより、磔也は?」
「時空ですよ」
 磔也、と聴いてぴくり、と顔を上げたレイだが、時空と云われてもピンと来ないらしい。が、敢てどこ、と訊ねる切っ掛けも掴めないらしかった。亮一はレイへの配慮を踏まえ、涼には「大分お疲れのようでしたし」とだけ報告した。
「自棄、起こしてないよな、あいつ」
「大丈夫ですよ、保証します」
 自棄も起こしようが無いらしい、と告げるのはレイに更に刺激を与えるだろうから、今は云わないでおく。
「レイさん、磔也君ですが、暫くは未だお宅へは帰らないかも知れませんけど。身の安全は保証出来ますから、安心して下さいね。今日はもう遅いですし、良ければこちらでお息みなって行かれたら如何です?」
 ──シャアッ!!
 ……何か殺気立った物音がしたが、涼がその方向へ向けて「こら」と笑顔のまま窘めた他、亮一は聴こえない振りをしていたし、レイは気付きもしないで「そーするー、……ひばさーん、」と勝手に部屋を出てふわふわと別室へ移動し出した。
「彼女の所が良いですか」
 苦笑混じりの亮一の独白に鋭く反応したレイは、ぺろ、と舌を出して振り返った。
「だってぇ、田沼さん怖ぁい。緋磨さんの方が好き」
「……そうですか」
「……でも、」
 でも、と低声でレイは云い加えた。
「有難う、……磔也の事、叱ってくれて」
 そこで止めて置けば良いのに、レイは更に某所へ向かって「あんた、良いぱぱ持ったわよ。感謝しときなさい」などと知った風な事を云う。流石にクッションが飛んだが、ヒットする直前にばたん、とドアが閉まり、ぱたぱた、と軽やかな足音が遠離って行った。
「おやすみ、レイさん」
 涼までが優しい言葉を廊下へ向かって呟いたので、彼までが完全に拗ねて「……寝るッ!」と部屋を出て行った。
「……さてと、」
 2人になった所で、亮一と涼は向き直った。
「磔也、どうって?」
「反動が来ましたね。もう、何も無くなってしまったんですよ。……『復讐心』も、立派な目的意識ですからねぇ。……本当に、レイさん位泣き喚けたら、良かったんでしょうがね。まあ、ぞっとしないですけど」
「太巻さんの所か、……まあ、楽は楽なんだろうけど……」
「女性は、良いですね」
「?」
 ぽつり、と亮一が呟いた言葉に涼が首を傾いだ。
「強いですよ。ちゃんと、ストレスを発散する能力を本能的に備えているんです」
 ……この部屋にまで、未だレイの甘えた声が聞こえて来た。「緋磨さんと一緒に寝たいー」……「はいはい、」と慰める方も大変である。
「……、」
 涼は片手を口許に当てたまま、やや無言で思案していた。……が、ここでこうして考えていてどうなる問題でも無い。ともあれ、騒動自体は終わったのだ。
「涼も泊まって行きますか?」
「いや……、」
「……終わった日位、『寝ても許されますよ』」
「……、」
 顔を上げた涼は、──叶わないな、と笑顔を浮かべた。
「じゃあ、そうさせて貰おうかな。……本当云うと、俺も疲れた」
 態と大きく欠伸をして冗談めかし、涼は部屋を出た。
「……、」
 ──ぱたん、と静かに後ろ手に閉めたドアに凭れ掛かり、涼は大きく溜息を吐いた。然し彼の表情はすっきりした笑顔で溢れていた。
「……寝ても良い、か……」
 ──……、……、
 勝手知ったる事務所の廊下を、仮眠の取れる部屋へ向けて歩き出した彼の足取りは、低く口ずさんでいた鼻歌の通り軽やかだった。

「……Nessun dorma, nessun dorma……、」

──そう云えば、どこで聴いた曲だったかな。……駄目だ、思い当たらない。──でも、

「……休んでも、許してくれるよな」

──東京は、優しい街だ。

 だからこそ、この東京と、そこに生きる人を護りたい、と願う。

【2b:2003-12-31】

「……、」 
 どん、とレイが目の前に置いた丼を目にした涼は、唖然として最早言葉も無くぽかんと口唇を開いて棒立ちになっていた。
 大晦日である。新年には本家に顔を出さない訳にも行かないし、誰かほど神経質では無いが大雑把には部屋の大掃除も済ませて置きたい、と独り奮闘していた涼へ、亮一から電話が入った。
 ──何でも、年末の間、レイに気抜けする暇も与えず(強制的に)家庭料理を伝授していたそうである。……で、毒味に来いと云う訳だ。
 勿論そこは亮一の事なので「大晦日ですし、学生独りの年越しというのも味気無いでしょう? 一緒に除夜の鐘を聴いて紅白でも見ませんか」と非常に情緒的な事を宣っていたが、まあ、そういう事だろう。
 それで、分かっていながら律義に夕食も抜いてやって来るのが涼の律義と云うか気の好い所だ。
「……云いたい事は分かってるわよ、どうせ、うわー不味そー、とか思ってるんでしょ。……良いわよ、良いわよ好きに思えば。でも、これは師匠命令よ」
 そして、レイはずい、とその丼を涼の前に突き出した。
 中に入っているのは暖かい湯気を立てる、……然しその蒸気に霞んだ向こうに見えるのは、生煮え所か完全に固形のままだったり最早原形を留めて居なかったりとてんでバラバラな形状に茹で上げられた灰色の麺が、どう贔屓目に見ても灰汁が浮いているようにしか見えない出汁に浸かっている図、であった。
「年越し蕎麦。……食べなさい」
 命令である。つまり、拒否権は無い。
「……嬉しいな、有り難うレイさん。お疲れさまでした」
「お世辞云うならそれらしく、実際食べてからにしてよッ!!」
 ──うわぁぁん……。と泣き真似まで出た辺り、彼女も一杯々々らしい。余程、厳しい試練だったと見える、──亮一の特訓は(なまじ、彼の怖さに気付いてしまた後では特に)。
「いや」
 と、涼はレイの頭をくしゃ、と軽く掻き回した。
「本当に嬉しいな。まさか、こうして年末をレイさんと一緒に、然も年越し蕎麦まで御馳走して貰って過ごせるなんて。……な、以前だったら考えも付かなかったよなあ、」
「……、」
「さ、」
 ──頂こうか、と涼は箸を割った。──心なしか、レイの丼の方がヴィジュアル的にはまだましなように見えたが、構う事は無い。

 ……優しさでも、あまりに本心と掛け離れた嘘はどうかと思う。で、あるからして涼は、味の感想を回避するべく別の定例句を述べた。
「……今年一年、会って未だ短いけど本当にお世話になりました」
「……こちらこそ」
 自分は一口だけで箸を置き、それを誤摩化すかの如くレイは殊勝に頭を下げた。ぺこり、と。

「……あ、除夜の鐘、聴こえるな、」
「……なんか、あんまり有り難く無い。……幻想を思い出す」
「確かに」
 ──でも、彼女達と会えたのはあの事件が切っ掛けだった。
 ……磔也も、あの時はどうしようも無い愉快犯だったが、意志が明確で元気だった。
 傍らの、余り浮かない顔のレイを眺めながら涼は思う。

──大丈夫。必ず、また元気に姉弟喧嘩出来るようにしてあげるよ。請け合う。 

【3b:2004-02-0Xa】

 本当はロードバイクでツーリングしたい所だった。が、磔也の様子を見て断念した。──まさか、ここまで衰弱しているとは思わなかった。
 一目見た時、涼には今の彼には自転車で長距離を走るような重労働が不可能らしい事は直ぐに理解出来た。全体に、特に筋肉が衰えた痩せ方だった。
 そんな訳で涼は交通手段の変更を余儀無くされ、今現在二人はりんかい線の車中の人となっていた。

 遊びが仕事と云われる大学生が、押し並べて厭でも学業に悲鳴を上げなければならない一大イベント、学年末試験が終わった。元々真面目且つ優秀な(と、某教授は本人の前以外では評価しているそうだ)涼と云え、去年暮れから年始まで様々な雑務が重なって多忙であり、余り余裕が無かった。双方に気が偏って集中力が散漫になっては本末転倒だ、と保留していた事、──云ってみれば、聴いた所巣鴨以来茫然自失に陥っているらしい磔也に喝を入れようとした訳だが、そちらに向き合う事にした。
 が、時空の狭間へ赴いてみればいつかと同じく磔也の姿は無く、あまり感心しない口調で(同じ素っ気無い物であっても、涼には大体の所は分かる)太巻が「磔也なら女の所だ」と告げた。
 女。
 磔也が女の所。
 彼が身を寄せる女性といって、姉で無ければ他に誰が居るだろう。シドニーの訳は無いし、……となれば、彼女の所か、と涼は硝月楽器工房に向かった。そしてその予測は「当たり」だった。
 倉菜は巣鴨で、元々は本人に許可を求めてからにするつもりだった磔也の感音性難聴を咄嗟に治療してしまった事を気に掛けて、不意に心身のバランスが崩れたであろう彼に何か反動が起きてはいないかと案じて直ぐに時空の狭間へ行ったそうだ。そこで、既に口を利く事さえ放棄していた磔也を見て、そのまま自分の自宅へ連れ帰ったのである。
「磔也君が太巻さんを慕っているのは知っています。でも、太巻さんが今の磔也君の面倒を見切れるとは思わない。──だって、自分で食事も出来ないのよ、そんな人に、太巻さんがちゃんと世話をしてあげられると思いますか?」
 という倉菜の弁には、涼は全くその通りだな、と苦笑するしか無かった。寧ろ驚いたのは、そうまでしてこの我侭で、彼女にも大分酷い事を云っただろう不良学生の看病をしようとする倉菜の優しさだ。彼女は確か実家がニューヨークで、年末年始に帰省したりはしないのかと思えば、その筈だった予定まで返上したそうだ。
「会わせて貰える?」
「……、」
 倉菜は頷いたが、彼女の表情は酷く哀しそうだった。「逢うのは構わないんですけど」と涼を客室へ案内しながら彼女は説明した。
「年末よりは、大分良くなったと思うんです。……でも、未だ自分からは何もしようとしないし、話し掛けても答えてくれないの。たまに、目を合わせてくれれば良い方」
「ピアノは?」
「全く」
 既に、倉菜は磔也がピアノを弾く、弾かないは問題では無いらしい。が、客室に辿り着いてドアを開ける直前、未だ哀し気ながら微笑みを浮かべて倉菜はこう云った。
「でも、もしかして涼さんが逢ってくれたら、何か変化があるかも知れないですね。……きっと、磔也君にとってはお兄さんみたいな存在だと思うから」
「どうかなあ、」
 苦笑する涼の前で倉菜はドアをノックし、応答が無い事には慣れた様子で「磔也君、お客さんよ」と先ず顔を見せた。
「誰だと思う? ……涼さん。わざわざ、太巻さんの所から訊ねて来たんですって。入って頂いて良いわよね」
「……、」
 そこで、涼は年末以来始めて磔也と対面した訳だ。──死んだ魚のような目を床へ落としたまま何も見ようとしない磔也と。

「実は、一日磔也を借りたいんだけど」
 涼が入っても何一つ反応しなかった磔也を前に、涼は倉菜に打ち明けた。
「海を見せてやりたいんだ。──他にも、色々、話したり、見せたいものがある」
 構わないかな、と確認すると倉菜は「私は構わないんですけど、でも磔也君が──、」とやや戸惑った風だ。確かに彼女が判断出来る事では無いだろう。
「ちゃんと夕方には帰すから、さ」
 ここは強引に出るしか無い。倉菜には安心して、と微笑みながら磔也の腕を掴んで立たせようとした、──反射的に、彼はその手を払い除けた。
「……、」
 倉菜が、驚愕したように目を瞬いた。磔也はその後、未だ黙ったきり涼を見上げていたのだが、その鋭い視線は明らかに反抗の色で溢れていた。つまり、その時の彼には「抗う」という意思があったのである。年末以来、初めて彼が示した意思表示だった。
「磔也」
 ──脈がある、と涼は思った。彼が本気になれば、衰弱し切った体の磔也がどれだけ反抗しようとしても叶う訳は無い。涼は彼の腕を確りと掴み、楽々と肩を貸して部屋から引き摺り出した。
「厭だって云っても駄目だぞ、お前、レイさんやお父さんが、それに他の皆もだ。どれだけ心配してるか知らないだろう。それに、くらちゃんにお世話になって置き乍らこんな哀しそうな顔させて」
 
──反抗しろ。もっともっと、好きなだけ暴れろ。俺を憎みたければ幾らでも憎め。……そうして、自分の意思を示せ。

「涼さん……、」
「くらちゃん、一日だけ、俺に任せてくれ。……大丈夫、帰った時には俺の悪口を捲し立てられるようになってるよ。……その時は、また君にも乱暴な事云うかも知れないけど、そこは勘弁してやってくれよ」

 不安そうな倉菜にそう請け合った責任がある。大丈夫だろうが、途中で不意に逃げ出そうとして人込みに紛れでもしたらいくら涼でさえ合流は困難だ。
 ──窓の外に見える東京湾が、冬の日差しを受けて輝かしい程に明るい。
 次の停車駅を告げる車内アナウンスが入り、涼は磔也の腕を取って立ち上がった。
「磔也、降りるぞ」

【4b:2004-02-0Xb】

 お台場の海浜公園だ。──いつか、磔也がここから何の音も聴こえないのに、涼に電話をして来た場所だ。
 あの時の磔也は、恐らく(それは涼にしてみれば絶対に認められる事では無かったが)もう直ぐに死ぬ心積りだったのだと思う。そんな精神状態の中で、最期に彼が見たいと思った景色、──それを、彼に見せてやりたかった。一連の、彼にしてみればやや大胆な程の行動は全てその為だった。

 海辺に並んで座ったまま(それも定番のデートスポットで)黙っているお年頃の少年2人。
 ……何という寂しいと云うか寒々しい光景だろう……。──尤も、傍目にも明らかに心身が衰弱し切っているような磔也が相手では、精々病人の休日に付き合ってやっているボランティア(困った事に、医大生の彼は当たらずとも遠く無い)の青年、と見えたかも知れない。
 その状態のまま、既に1時間以上が経過していた。磔也は、海を見ようともしない。あれ程、海を、……ヘブリディーズの洞窟の中で水に身を浸したいと渇望していた癖に。
 ふと、傍らを通り掛かった、デートスポットには場違いな中年女性の3人連れが涼達に目を止めた。
「あらやだぁ、ちょっと見て、男の子の2人連れよ。……昼間から大胆だこと」
「ちょっと、──ちゃん。見れば分かるでしょう、きっとボランティアよ」
「まあ、……今時はあんな若い子がボランティアをやってるのねえ……」
「ねえ。まあなんて優しそうな目かしら。この寒いのに、辛抱強く付き合って……」
「……、」
 本人達は内緒話の積もりだろうが、その姦しい話声は充分に涼本人にまで聴こえて来た。……当然、磔也にも聴こえている筈だ。以前の彼なら血相を変えて白昼彼女達を刺し殺してしまったかも知れないが、そこまで屈辱的な噂を交わされてまで、彼は何の興味を示そうともしない。涼が苦笑した後、遣り切れなくなったのは寧ろその所為だ。
「磔也」
 限界だ。涼は不意に、磔也の頭を抱き寄せて彼の額に自らの額を押し当てた。

──そこまで、もう何の希望も失くしてしまったと云うなら、俺がお前に見せてやる。……ヘブリディーズ、……見たかったんだろう?

 何度も繰り返し聴いて完全に覚えただけでなく、その洞窟のイメージまで明確に思い描けるメンデルスゾーンの序曲「ヘブリディーズ」、……フィンガルの洞窟。感覚器官が既に何の興味さえ示せないなら、精神に「感応」して直接聴かせてやる、──見せてやる。お前の憧れを。
 丁度その時、磔也のコートの中で携帯電話の着信を告げる音が響いたが、音楽に満たされていたその時の二人はどちらも全く気付かなかった。それほどに、流れ出したその音楽は大きな広がりと意味を持ったものだった。

 然し楽在れば苦在り。天国と地獄(違いますか)。
 ここで発生した新たな問題は、折角「優しそうな青年ボランティア」と勝手に勘違いして2人の傍を通過しかけていた中年女性達がその光景までもを目に留めてしまい、「あら」……矢っ張りそうだったのねえ、などととんでも無い誤解を抱いたまま、今度は邪魔者は退散とばかりそそくさと立ち去ってしまった事である。

【5b:2004-02-0Xc】

 美しい弦楽器の旋律、その情景の空気の温度の移り変わりさえ表現し得る管楽器の深い音。

──身体が冷たい。

 水に浸っているようだった。──冷たい、だが、何故かその水の表面は暖かい程に違和感無く自分の身体を包み込んでくれているようで、……苦しい。苦しいのは、感情だ。何か、目を向けるのが怖くて、今まで境界を張り巡らせて拒絶していた感情が溢れそうになるのを止められない。それは、痛い。痛いのに、微熱に浮かされたような恍惚とした感覚はそれを拒否出来なかった。

──音楽なんか、──……卑怯だ。音楽には、絶対に感情を隠せないのに、

 そうした磔也の感情の波に、身を切るような痛みを覚えてもじっと耐えて感応していた涼の皮膚までが、水を浴びた錯覚に捕われた。
 ──否、錯覚では無い。本当の水だ。……水……、……何だろう?

──……涙?

 驚いて、涼は目を開けた。当然乍ら、目の(本当に真ん)前に在るのは磔也の目である。……泣いた? と涼が呆然とした一瞬の隙に、彼はとうとう反撃に出た。
「……この優男。手前ェ、ぶっ殺す」
「おっと、」
 不意に鼻先を掠めたバタフライナイフの一閃を、涼は身軽に後方へ飛びすさって避けた。
 
──くらちゃん、チェックが甘いな。

 バタフライナイフを取り上げるまで、彼女の思考は至らなかったらしい。目の前では、よろめきながらも自分の足で立ち上がった磔也が、先程まで淀んだ空気のように沈ませていた黒い瞳を怒りにギラギラと輝かせながら涼にナイフを向けていた。
「何だ、元気じゃ無いか」
 自分の足で立った。言葉を発した。……あ、またコイツ、人の事を優男なんて云って。
 涼は余裕のある笑顔で、白昼のナイフ魔を生暖かい視線で見守った。
「ああ、元気にもなるさ、……大体手前ェ、前から一回刺してやろうと思ってたんだ」
「何よりだ」
 そう云いながら、涼は軽く腕を伸ばして磔也からナイフを取り上げる。──俺は良いけど、周りが驚くだろう。
「でも、ここでは駄目だ。お前、警察呼ばれるぞ。銃刀法違反だ。……尤も、オペラの時から既に銃まで不法所持してたっけ、」
「卑怯なんだよ、一方的に、……人が絶対逆らえないような方法で、頭ん中攻撃しやがって──」
 既に息が切れていた。が、相変わらずの減らず口を叩きながら胸を押えていたのは強ち、呼吸が苦しい所為だけでは無いだろう。
「それだけ、お前に取って音楽が大事なものだって事だろう?」
「煩ェッ!!」
 一旦喚き出した不良学生を宥めるのは、涼にも一苦労だった。──尤も、相手が涼だったからこそ彼はそこまで元気良く暴れたのかも知れなかった。

「ガキじゃ無ェんだ、引率なんか要らない。優男、お前さっさと帰れよ」
「駄目だ。この先はお前の自由だけど、取り敢えず今日の所はくらちゃんと約束してるんだ、あんまり心配させるなよ」
 既に周囲は薄暗かった。倉菜の自宅、楽器工房の明りが見えて来た所で涼は磔也を呼び止めた。
「磔也」
「……未だ何か」
「お前、オリジナルのオペラ創れよ。磔也自身の、誰の模倣でないのをやってみろよ。完成したら俺は絶対何を置いてでも聴かせて貰うから。おまえのこれまでの気持ち、表現してみたらどうだ? どんな曲でも俺は受け止める」
「受 け 止 め て 要 り ま せ ん」←棒読みで
 じろ、と上目遣いに涼を睨みながら、磔也はさっくりと彼の申し出を拒絶した。
「おい、冗談じゃ無いんだぞ。……このままで良いのか。何か、自分から。音楽にただ憧れるだけじゃなくて、何か、それに自分から近付く為の目標を持とうとは思わないのか?」
「オペラなんかそうそう簡単に出来るか、バカ。何の為に音大に作曲科があるんだよ。それに、……気狂いのベルリオーズじゃあるまいし、そんな、個人の感情だけでオペラが出来て堪るか」
「──ほら、あるんじゃないか、お前なりの、音楽へのこだわりと向き合い方が。じゃあ、良いよ、別にオペラで無くても。磔也、せめて音楽にだけは素直になれ」
「……うぜェ。血を吐きそうな位鬱陶しい」
 ──くす。
 既に、拗ねた子供のような口調の磔也にはつい、忍び笑いが漏れた。
「ピアノ、弾くだろう?」
「弾くよ、優男に云われなくても。──見てろよ、俺が本気出したら早いぜ、……レイの奴、素人の癖にこの俺に音楽性云々説教しやがったあいつを黙らせてやる。バロックでも古典でも何でもやってやるさ、」
 ……相変わらず、少々方向性が妙な方角を向いているようではあるが……、──取り敢えず、目的意識だけは充分な程はっきりした訳だ。
「忘れるんじゃないぞ。……そして、次、どんな曲でも良い、お前が、自分で本心から納得出来る演奏が出来た時には俺に聴かせてくれ」
 
【6b:2004-03-XX】

「俺、これからは自分の運命と向き合う事にするよ」
「……、」
 ロードバイクを降り、押しながら並んで歩き出した涼とレイの視界は、満開の桜色で包まれていた。
 
「レイさん、花見に行こう、ロードバイクで」
 突然、涼が持ち掛けた誘いにレイは気軽に「オーケー」と請け合った。ちゃっかりと「デートだから君の奢りよ」と(前髪の奥で)ウィンクを投げるのも忘れない。因みにメッセンジャー業は一日孝にお任せらしい。
「ねえ、どこまで行くの?」
 桜並木を、レイの前に漕ぎ出して軽快に走り出した涼の背中に、レイの声が追い掛けた。
「ずっと」
 桜が一番きれいな所まで。この道が途切れてしまっても、ずっと。──大事な話があるから、……打ち明け話は少し照れ臭いから、きれいな桜の花の力を借りたいんだ。
「ずっと、って、どこまでよ」
 負けじと追い上げたレイを導く為に、彼女の前を走ってやる為に、涼は更に速度を上げた。
「ずっと」
 軽快な笑い声を上げながら、レイは素直に付いて来た。──東京を出てからも、ずっと。

「何それ。運命?」
 ダダダダーン? と戯けてレイは手振りで「運命が扉を叩く真似」をしてみせる。そうじゃない、と涼は笑わなかった。
「御影家本来の運命。……今まで、何か目を背けて来た気がする。荷が重くて。……でも決めたんだ、もう、逃げない。……俺、今までレイさんや磔也を見て来て、羨ましくてさ。……レイさん達は、強かった。逃げなかった。だから、俺も逃げたく無いんだ」
「はあーん?」
 何云ってんの、とレイは未だ巫山戯て、蝶のように片手をひらひらと泳がせて降り注ぐ桜の花を掴もうとする。──聞いてくれ、と涼はその手を掴んだ。
「……前にレイさん云ったよね、『弟子だから守って』って。俺はレイさんが師匠じゃ無くても護るよ。レイさんだから護るんだ。俺、レイさん好きだから。その事だけは決して忘れないで」
「……つまり、何が云いたい訳?」
 言葉遣いは冷たいが、別段レイは苛立っているようでも無かった。ただ、手を掴まれた事で桜を掴まえ損なった事だけが少し惜しいように溜息を吐いただけだ。
「……俺は、レイさんが師匠じゃ無くても、誰に云われ無くても、護って行くって事。……これからも、ずっと」
「その云い方はあんまりシンプルじゃ無いわね」
 桜を掴む事を諦めたレイは、ロードバイクを足で蹴って桜の木に凭せ掛け、両手を腰に当ててくるり、と涼に向き直った。
「だって、御影君が本家の運命を継ぐとか云われても、私には関係の無い事だもん。まさか、由緒有る家柄だからこんなどっかの馬の骨みたいな女と口利いちゃ駄目って訳でも無いんでしょ。だったら、私には関係ないわ、御影君がどういう家系の人間だとか、運命がどうとか。……運命とか、護るとか、曖昧な云い回しは物事を複雑にするだけよ、そう思わない?」
「そうかな、」
「『心配事は縦に並べよ』って云うのが、最近の私のスタンスなの。結局、人生なんて絶えず選択の繰り返しじゃない。それも、問題をシンプルに整理出来れば選択肢だってそう複雑な訳じゃ無い。殆ど二択問題よ。一度してしまった決定は、決して取り返せないけどね。でも、その事を踏まえて新しい選択を考える事は出来る」
「……レイさんこそ、大分複雑な事云ってるよ」
「そう? ただ私が云いたいのはね、今、私の前にある選択肢は、今後、御影君とどういう付き合いをして行けば良いのかっていう、それだけの事なのよ。家がどうとか、運命とか、この間の事がどうだとか。そういうのは関係ない事でしょう。ただ、御影君は私の弟子だった、っていう関係が壊れちゃったのは明白。だから、新しい関係を繋がなきゃいけないわ。護る、とかそういうのじゃ曖昧過ぎる。……尤も、私より君が先に死んだら守護霊とかそういうチョイスもありかもね。でも、今は無しよ。君は未だ死んじゃ駄目。私が許しません。……そう、これからの、私と君の関係性の事でしょう。私だって今、凄く必死で考えてるの。……ねえ、君は何が云いたいの? 君は、どっちの道を望んでるの?」
 そう云ってレイは、未だ未だ果てしなく続きそうな桜並木の先と、今来た道とを交互に指した。
「Right? or Left? ねえ、どっち? それだけの凄くシンプルな選択じゃない。云い出したのは御影君でしょう。教えてよ、君の選んだ方向を」
「……狡いよ、レイさんこそ」
「曖昧な云い回しはキライ。……でもね、女には保留して気を持たせるって云う選択も許されるのよ」
 桜の木の下で、2人は暫し無言で向き合った。レイは笑いもしないが、戯けたりも、また頼り無く表情を曇らせる事も無かった。前髪の奥では、彼女の強い目が真直ぐに涼を見据えている事が分かった。

「はっきり、もっとシンプルに云って」

 ──これは、大分難しい選択だった。
 どちらを選ぶべきか、真剣に考え始めた涼の前に、もう一つの選択問題が提示された。
 風に追われた桜の白い花弁が、悪戯にレイの前髪に貼り付いた。
「……、」
 ともかく、シンプルな問題から片付ける事だ。涼は手を伸ばし、その花弁を摘まみ上げて差し出してやる選択肢を選んだ。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】

【0931 /  田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼異世界調査員】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1787 / 応仁守・雄二 / 男 / 47 / 応仁重工社長・鬼神党総大将】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】

【太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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自分から護ってくれなきゃヤダ、と云って置いて危険が去れば途端にリアリスト。
彼女、素性や家柄はどうでも良いそうです。情緒の無い事で申し訳ありません。
対人に於けるファーストプライオリティは実際に共有出来る時間の作り方、という事らしく。
弟の方では折角の素敵なプレイングに便乗して悪乗りしてみました。
寧ろその前後に今後、何かに繋がりそうな転びそうな話が入っていた気もしますが。

本編への御参加、有り難うございました。

x_c.