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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─巣鴨崩壊後日談─

【1e:2003-12-20】

 巣鴨ユーフォニアハーモニーホールでの騒動が一段落し、一同が引き上げたのに田沼・亮一(たぬま・りょういち)も従った。
 が、彼の「職務」は未だ終わっていない。ホールを出て、他のメンバーから離れた場所まで来た所で亮一は携帯電話を取り出した。

「……俺ですが。終わりました。まあ、死人が出なかっただけ良しとしますよ。……ああ、一人、出ましたかね。でもまあ、『元から死んで居た人間』ですし。取り敢えず、お疲れ様でした。東京コンセルヴァトワールに関する継続調査は情報分局で担当しますので。……あ、それと、聖さんにはあと一つだけ取次ぎ願いたいんですが。こう伝えて貰えますか、『お預かり頂いていた物を引き取ります、とシェップに伝えて下さい。場所は<時空の狭間>で』」

【2e:2003-12-21】

 この空間の主は相変わらず紫煙をもうもうと立ち登らせている。亮一が、「今朝は早くから失礼しました、俺も大分冷静さを欠いていたようで」と頭を下げて丁寧に侘びても、気分を害していた風も無いがまた関心も無さそうに「何が?」と一言、答えただけである。
「……彼、真直ぐここへ来てたんですねぇ……」
 店内の奥で、亮一の存在すら気に留めた風も無く呆然と天井を見詰めている少年を一瞥しながら、人待ちの間の手持ち無沙汰に彼は主に話し掛けた。
「大分、お疲れのようですが。ずっとああですか?」
 「っあー、」と太巻・大介は面倒そうに空になったグラスを置き、ウィスキーのボトルに手を伸ばした。すかさず、亮一はボトルを取り上げて酒を注いでやる。
「お、気が利くねェオニイサン。まあ、そうだな。……アンタ、朝の勢いのまま説教でもしたんじゃ無ェの? ガキだからな、叱られるとしゅんとしちまうんだよ、犬みてェに」
 俄に機嫌良く酌を受けながら太巻はそう訊ねるが、──まあ、実際、当たらずとも遠からずであるとは云え、どちらかと云えば口から出任せの軽口のようだった。
「そこまで堪えたんですかねぇ……、」
 亮一もまた、暢気な笑顔でのんびりと答えた。
「……、」

 矢っ張り、お説教したんかい。

 とでも云いた気な表情で亮一を一瞥してから、太巻は「……飲む?」とグラスを掲げた。
「遠慮します。……飲み出すと俺、店中のボトルを空にしかねないそうですから」
「……『そう』?」
「……、」
 詳細は御想像にお任せします、と亮一は笑顔だけを残してそれ切り黙った。
 丁度折良く店の扉が開き、いつか会った時よりも大分くたびれた様子の「彼」が姿を見せた。
「……何なんだ、ここは……、」
 現れたIO2構成員──多分、『ディテクター』の計らい(亮一達にとっては借りである)で今現在もそうであろう──、シェップは先ず、店内の異様な空気(時間の流れの妙な事は半分で、あと半分はつまり、タバコ臭いということだ)に顔を顰めてそう吐き捨てた。
「どうも、態々お呼び立てして」
「……ああ、あんただな」
「お分かり頂いているとは思いますが、今日はあくまで、彼」
 彼、と云いながら亮一は店の奥を目で示した。……彼は、シェップが姿を見せた事にさえ、反応しない。
「──彼の持ち物を引き取りに来ただけですから、まさか、引っ張られたりしないですよね?」
 ──異能者として。無論、だからと云って大人しく云いなりになる気も無ければ半分は主たる太巻への配慮から出た言葉だが、シェップもまた「職務外」なのだろう、異論は無いらしかった。
「クシレフは消滅しました。シェトランの御令息もあの通りですし──、」
「安心しろ、……以後、東京コンセルヴァトワールに関する事柄については一切干渉無用、だそうだ」
「私情が絡まずにいられない事については『仕事』しない、賢明な選択ですよ」
「……探偵か」
 亮一の目を暫し眺めた後、諦めたように頷いてシェップは荷物の中身をカウンターに広げた。……御丁寧に……、『ブツ』扱いで一つ一つビニールパックに包まれた物は、携帯電話、バタフライナイフ、ライターに煙草まできっちり揃っていた。
「……あなたも几帳面な方ですねえ……、」
「証拠品だからな。……あんたとしても、そこはきっちりしたいんだろう。今後、どうした形であのガキをマークする材料になるか分かない。そうだろう? だから、こうして態々取りに来たんじゃ無いのか」
「今時は、物を捨てるにも税金が掛かるでしょう? それで無くとも空間料の高い東京で、保管料も支払わずにずっと預かって頂くのは申し訳無いですから」
 飄々と論点を摺り替える亮一とは、シェップも争う気が無いらしい。くたびれている所為もあるだろうが、彼は追求しなかった。
「……携帯電話中の着信履歴と登録番号は、一通り吸い取らせて貰った。一応な。が、終わった、と云うんで全てデータは消去した。ここまでバカ正直に話してるんだ、信じるだろう? これで全て返したぞ、異論は無いか」
「ええ、確かに受け取りました。サイン、しましょうか?」
「要らん。……書類が必要にでもなったら、あのデカい女の旦那の名前を使わせて貰うさ」
「……!」
 思わず、亮一は素の顔をシェップに見せた。彼女が今、この空間に居ない事を承知の上で反射的に「シッ、」と人さし指を立ててしまったのである。
「……?」
「……あ、失礼。……今後、丸きり関わりが皆無であるとも断言出来ませんから先に忠告して置きますけどね。……それは、本人の前では絶対禁句です。良いですか、『敵』であってもです。本当ですよ、親切の積もりですが」
「……はァ、」
 呆れたように肩を竦めたシェップは、ちら、と奥の少年を見遣って亮一に低声で訊ねた。
「どうした、あのガキ今日は随分と元気が無いな」
「……、」
 それまで返却物を確かめていた亮一はにこ、と微笑みを浮かべた顔を上げた。
「いえ、『大人』としてちょっとお説教したんですがね。大分落ち込ませてしまったようです」
 そういう事です。──詮索は無用。
「……はあ、説教ね」
 丸きり信用した訳でも無さそうだが、シェップも亮一の表情を見てそれ以上は追求しなかった。
「──それじゃ、用事はこれで終わりだな。帰らせて貰う」
「お疲れ様でした。御協力に感謝します」
「良いさ、元々携帯電話くらいは返してやって良いと思っていた。……今時の高校生は、ケータイが無いと生きて行けないんだそうだからな」
 中学生でもそうですよ、とは心の中だけで呟いて口には出さず、亮一は笑顔でシェップの後ろ姿を見送った。
 太巻は相変わらず、我関せず、である。

 ──さて。
 先程の説教の後でバタフライナイフなんぞを「はいどうぞ」と渡すと筋が通らなくなってしまうし、日用品なのだからスペアはいくらでもあるだろう。保護者でも無い未成年の喫煙に小煩く口出しする気も無いが1ヶ月封を切って放置した煙草も吸えたものでは無いだろうし、問題は携帯電話だけである。
「……、」
 亮一は奥へ歩み寄った。近くで見れば、彼の瞳は焦点が定まらない、完全に気力の抜けた色をしていた。そこには亮一の姿も何も映らないらしい。
 ──ことり、と亮一は彼との間のテーブルに携帯電話を置いた。これで、彼のこの件に関する仕事は終わりである。

「……あなたの事を守る気がしない。……そう感じた理由が理解出来ましたよ」

 溜息と、太巻には一応の挨拶を残して亮一も時空の狭間を後にした。

【3e:2003-12-21a】

 事務所に戻ると、亮一より先に帰還していたのは御影・涼とレイだった。涼は彼女を気遣い、自宅へ帰して取り残すよりは慣れた仲間の居るここへ、と連れて来たらしいが、まあ、何という姦しい事か。
 わあわあと泣き喚くレイを宥め透かしていた涼は、亮一に気付いて顔を上げ、苦笑いが交わされた。これでは留守番の少年も口を挟みようが無いだろう。
 
──まあ、泣ける内は未だ良いですね。

 彼に比べれば。
「結城さんは?」
「自宅に帰ったみたいだ。……それより、磔也は?」
「時空ですよ」
 磔也、と聴いてぴくり、と顔を上げたレイだが、時空と云われてもピンと来ないらしい。が、敢てどこ、と訊ねる切っ掛けも掴めないらしかった。亮一はレイへの配慮を踏まえ、涼には「大分お疲れのようでしたし」とだけ報告した。
「自棄、起こしてないよな、あいつ」
「大丈夫ですよ、保証します」
 自棄も起こしようが無いらしい、と告げるのはレイに更に刺激を与えるだろうから、今は云わないでおく。
「レイさん、磔也君ですが、暫くは未だお宅へは帰らないかも知れませんけど。身の安全は保証出来ますから、安心して下さいね。今日はもう遅いですし、良ければこちらでお息みなって行かれたら如何です?」
 ──シャアッ!!
 ……何か殺気立った物音がしたが、涼がその方向へ向けて「こら」と笑顔のまま窘めた他、亮一は聴こえない振りをしていたし、レイは気付きもしないで「そーするー、……ひばさーん、」と勝手に部屋を出てふわふわと別室へ移動し出した。
「彼女の所が良いですか」
 苦笑混じりの亮一の独白に鋭く反応したレイは、ぺろ、と舌を出して振り返った。
「だってぇ、田沼さん怖ぁい。緋磨さんの方が好き」
「……そうですか」
「……でも、」
 でも、と低声でレイは云い加えた。
「有難う、……磔也の事、叱ってくれて」
 そこで止めて置けば良いのに、レイは更に某所へ向かって「あんた、良いぱぱ持ったわよ。感謝しときなさい」などと知った風な事を云う。流石にクッションが飛んだが、ヒットする直前にばたん、とドアが閉まり、ぱたぱた、と軽やかな足音が遠離って行った。
「おやすみ、レイさん」
 涼までが優しい言葉を廊下へ向かって呟いたので、彼までが完全に拗ねて「……寝るッ!」と部屋を出て行った。
「……さてと、」
 2人になった所で、亮一と涼は向き直った。
「磔也、どうって?」
「反動が来ましたね。もう、何も無くなってしまったんですよ。……『復讐心』も、立派な目的意識ですからねぇ。……本当に、レイさん位泣き喚けたら、良かったんでしょうがね。まあ、ぞっとしないですけど」
「太巻さんの所か、……まあ、楽は楽なんだろうけど……」
「女性は、良いですね」
「?」
 ぽつり、と亮一が呟いた言葉に涼が首を傾いだ。
「強いですよ。ちゃんと、ストレスを発散する能力を本能的に備えているんです」
 ……この部屋にまで、未だレイの甘えた声が聞こえて来た。「緋磨さんと一緒に寝たいー」……「はいはい、」と慰める方も大変である。
「……、」
 涼は片手を口許に当てたまま、やや無言で思案していた。……が、ここでこうして考えていてどうなる問題でも無い。ともあれ、騒動自体は終わったのだ。
「涼も泊まって行きますか?」
「いや……、」
「……終わった日位、『寝ても許されますよ』」
「……、」
 顔を上げた涼は、──叶わないな、と笑顔を浮かべた。
「じゃあ、そうさせて貰おうかな。……本当云うと、俺も疲れた」
 態と大きく欠伸をした涼が引き上げると、部屋には亮一独りが取り残された。
 彼は未だ、眠る様子は無い。デスクから書類、──調査報告書を引き出し、一先ず書き上げなければならない。聖への報告がある。
 ……寝たら寝たで、彼の場合異界へ引き擦り込まれる可能性が無きにしも在らずでそうそう安泰では無いのだが。

「……受け取りサインした方が、早かったですかねえ……」

【4e:2003-12-21b】

 朝、上手く猫が外出した後にぐっすり休めたらしいレイが起き出して来た。
 レイには「お早うございます」と声を掛けつつ、伴って来た彼女には「すみませんねえ、」と(こっそりと)苦笑を投げた。──気にするな、というように彼女は手をひらひらと振る。まあ、一晩くらい良いだろう。連携体勢の依頼が終わったのだから、これからは彼女も自宅に帰れる事だ。

「レイさん、今後はどうされます?」
 コーヒーには煩いと云うからわざわざ煎れたカップを置きながら、亮一はレイに訊ねた。
「うん……、……帰るわよ」
 寝惚けているのか、ぼんやりしているのか。ふわふわとした声で彼女は答えた。
「年末の予定は?」
「……ん──」
「……じゃ無くて、配達業も年末は忙しいでしょう?」
「……孝君が居るし……、」
「……、」 
 やれやれ、と亮一は溜息を吐いた。矢張り彼女も多少は反動が来ているらしい。
 探偵としての仕事は、一旦終わった。が、このままでは彼女まで魂が抜け兼ねない。その辺りを気遣う、友人としての役割を果たす程度の心積りはあった。
 こうした場合、問題はその作業の意義の有無では無い。ともかく、人間は何か作業を行う必要性がある厄介な生き物なのだ。
「……寂しいですねえ、お忘れのようで」
「何を?」
「約束したでしょう? あなたのたってのお願いで、手料理を伝授する約束。俺はその積もりで色々、予定を立ててたんですがねえ……、」
「……」
 寝起きの低血圧らしく、真っ白だったレイの顔が今度は真っ青に変わった。
「……え、田沼さん、何云ってるの? 丁重にお断りしたじゃない……、」
「そう云われましても。探偵として、一度取り付けた約束を反故にするのは俺としても気が引けますしね」
 亮一の声は、妙ににこやかだ。
「そんな、全然、気にしないで。……ほら、あのコにも悪いし、ぱぱ、年末年始はちゃんと遊んであげなきゃ駄目よ、」
「お気兼ね無く。あの子も、年末年始は流石に実家に帰しますから。丁度良いですよ、正月前ですから、簡単な雑煮位はマスターして頂きます」
「ご ち そ う さ ま で し た」
 一気に飲み干したカップに両手を合わせ、レイは現実逃避に走った。先程までの虚ろな気配は何処へやら、素早く背筋を伸ばしてソファから立ち上がり、──さっ、と踵を返そうとして、……叶わなかった。
 慌てずとも亮一には有利なリーチがある。微笑したままひょい、と彼が伸ばした腕は簡単にレイの手を掴み、もう片方の手をわたわたと空中に泳がせる彼女の逃亡を阻んだ。
「負け試合は嫌だと仰ってましたが、敵前逃亡はもっと格好悪いですからね。……お仕事は、天音神君にお任せ出来るんですよね? じゃあ、都合は良い事になりますね。……通って頂きますよ。……そうそう、包丁が駄目というのは通じませんよ。『お忘れ』になっても、こちらでもちゃんと、バタフライナイフは常備してお待ちしてますから」
 意外な所で、IO2の几帳面さが役に立ちそうだ。
 約束さえ取り付けてしまえば、はい、今日の所はどうぞ御自由に、と亮一はレイの腕を離した。その反動か、完全に脱力したのか、ぱたり、とレイはその場に倒れた。

【5e:2003-12-2X】

「……、」
 さて、少しは進んだかと様子を伺いに、キッチンへ戻って来た亮一は無言のまま目を細めた。
「……、」
 同じく無言のまま彼を振り返ったレイはやけに神妙な表情で真面目くさって、亮一の言葉を待っていた。
 据え物斬りの後の見栄宜しく制止させた彼女の手には、その見た目の物騒さに似合わない瑞々しい汁気を滴らせたバタフライナイフが。そして更に彼女の手許に据えられた俎板の上には、これまた見事な赤い猿が彫り上げられて居た。その緻密な細工たるや、思わず亮一が拍手を送り掛けた(無論、甘やかす気は無いのでそれが思い留まった)程だが、その材質は人参なのである。──食べ物を粗末にしてはなりません、……では無くて……。
「……見事ですねえ、……流石です。涼の蒟蒻蛙に、勝るとも劣らないですね」
「……フフフ……、来年の干支の縁起物よ……、」
 ようやく、格好付けた手を下ろしてレイは得意気な笑い声を洩した。──が。
 亮一は感心しつつ人参猿をじっくり眺めて検分した後、「……で?」と一見、穏やかそうな笑顔で、奥に不吉な光を宿した視線をレイへ向けた。
「まさか、この間の成果がこれだけ、という事は無いでしょうね? ……出汁は?」
「……、」
 レイはニヤ、と満面の笑顔(誤摩化し笑いとも云う)で応えた。
 亮一も負けてはいない。更に親し気な、つまりはその分だけ不穏な笑みを以て「笑って誤摩化しちゃえ」ミッションを一蹴した。
「出汁は?」
 あまり、亮一が2度も同じ台詞を繰り返す事は無い。これが最後のチャンスである。
「……これで良いじゃない」
 観念したようにレイがこそこそと差し出したのは、某超有名メーカーのロゴが入った所謂「ダシのもと」と云う奴の小袋である。
「駄目です。レイさん、あなた、それじゃ結局インスタントと変わりありませんよ」
「だってぇ──!!」
 じたばた、と癇癪を起こして暴れながらレイは「ブヨブヨした昆布ってヴィジュアル的に気持悪──い!!」と喚き散らす。
 教えるからには容赦も手抜きもしない。亮一はそこで甘やかしはしなかった。
「聞いた話ですが、磔也君ですね、簡単な料理なら自分でそこそこ出来るそうじゃ無いですか。……レイさん、ピアノはともかく、料理でまで彼に負けて口惜しく無いんですか? ……お父さんがああ、お腹が空いたな、と思われた時、美味しい食事を差し出してあげる役目まで弟君に奪われて良いんですか?」
「……ヤダ、」
「お嫁に行けないとか何とか、以前仰ってましたよね? ……そりゃあそうでしょう、出汁一つ取れないようでは。俺でも、それ所か中学生の男の子でさえその程度の事は出来るんですからねえ、」
「ごめんなさい」
 ぱたり、とレイは床に、殆ど三ツ手を付くような姿勢で平伏した。
「私が甘かったです。料理、出来るようになりたいです。もう怠けません、手を抜こうなんて思いません。だから、教えて下さい」
「勿論です。中途半端な腕前で帰って貰っちゃあ、俺としても納得出来ませんからね」
 
 ──彼の一年は、未だ終わらない。


【6e:2003-12-31】

「大晦日ですし、学生独りの年越しというのも味気無いでしょう? 一緒に除夜の鐘を聴いて紅白でも見ませんか」

 電話口の涼にも、大体の意図は伝わっただろう。が、彼は明るい声で招待に応じた。……レイが作った年越し蕎麦を食べに来いという、毒味パーティのご案内に……。
 レイは、料理に関しては(猫にもあそこまでの料理を仕込んだ実績を誇れる)亮一の自信を喪失させ得る程に出来の悪い生徒だった。
 せめて、最後くらいは多少の自信を付けて彼女が前向きに新年のスタートを切れるよう、比較的難易度の低いかけ蕎麦を課題に選んだのだが、──甘かった。探偵、田沼・亮一の読みは完璧に甘かった。
 何故、蕎麦一つ満足に茹でられないのか、剰え出汁に灰汁が浮上して来るのか理解に悩む。刃物を使った作業だけは職人級の癖に、──卒業試験とここまでの成果披露を兼ねて、年越し蕎麦の調理を彼女に任せたのが、田沼・亮一2003年度最大の過ちだった。
 後悔してももう遅い。
 然も、元々は巣鴨後、失意に向い兼ねない彼女を叱咤激励する為の料理教室であった筈だ。それが逆に、「お嫁に行けない……、」観念を更に圧迫する結果に終われば本末転倒である。
 然しながら、亮一にさえその、蕎麦、否麺類とさえ呼べるかどうか疑問なまでの年越し蕎麦を笑顔で誉める自信が無かった。では後は? ──猫は実家に帰っていたのが倖いだった、彼は居なくて逆に良かった。所長、……駄目だ。緋磨なんぞとは対面させる事自体回避した方が良さそうだ。その妻とレイは仲が良いが、彼女はお世辞を云うような性格では無い。
 ……涼。
 完璧な人選である。彼なら、お世辞どころか心からの笑顔で御馳走様してくれそうである。
 ……と、涼をこの毒味パーティへ引き込んだ事にも一応、亮一なりの最大限の配慮があったのだ。
 分かっていながら律義に夕食も抜いてやって来る辺りが涼らしいが、流石の彼もどん、とレイが目の前に置いた丼を目にした涼は、唖然として最早言葉も無くぽかんと口唇を開いて棒立ちになっていた。
「……云いたい事は分かってるわよ、どうせ、うわー不味そー、とか思ってるんでしょ。……良いわよ、良いわよ好きに思えば。でも、これは師匠命令よ」
 そして、レイはずい、とその丼を涼の前に突き出した。
「年越し蕎麦。……食べなさい」
 命令である。つまり、拒否権は無い。

 涼には内心で「すみませんねぇ、一応、俺が一方的な約束を実行した結果ですから、(事務所の名誉に掛けても)責任を取らない訳に行かないんですよ」と侘びて置いて、亮一は2人の向かい合った部屋を出た。手には盆を持っているが、そこにも件の蕎麦もどきの灰汁出汁漬けの丼が3つ、乗っていた。──今更悔やんでも仕方あるまい。
 亮一と緋磨、彼の妻の分だが、せめて制作者とは別室で頂いてあげようという苦肉の策だったが。
「聖さんも如何ですか」
 部屋に入って緋磨にそう、声を掛ける。流石に彼は達観したもので、亮一の手許を見ても度胆を抜かれはしないばかりか、既にその蕎麦自体が彼の視界には入っていなかった。
「沼」
「はい?」
 せめて薬味だけはこだわって、と慣れた手付きでセッティングを始めた亮一に、彼の『仕事モードの』声が掛かる。亮一は手許から視線を上げないまま、態と雑談中であるかのような気安い調子で応えた。
「……あのお姉ちゃんだがな、親父さんは完全に東京コンセルヴァトワールからは切れたようだぜ」
「ああ、結城さんですね。ええ、聞きましたよ、何でもルクセンブルク嬢がパトロンになったとか」
「あの娘自体は元々親父さんと弟の付属扱いだったようだし、弟の方は、難聴が発覚した夏の時点で既に切られてたんだ。……皮肉だな。沼、お前が関わったあの幻想事件な、東京コンセルヴァトワールにも情報は筒抜けだったんだよ。そこで、あのクシレフの媒体が一丁上がった訳だろう。──危険物を扱うのは使い道の無くなった駒の役目。……そういう実験だったんだな、例の、巣鴨騒ぎは」
「……、」
 亮一は目を細めた。──それは、緋磨の言葉に対する反応か、それとも単に、目の前の男が立ち上らせる紫煙が染みただけなのかは、判断し兼ねる。
「──ま、その理屈に今更意見を述べても仕方あるまい。肝心な事は、つまり、『それだけだった』って事だ」
 そう云って、眉と口唇の端を吊り上げたままニ、と亮一を見遣る。──分かるな? と、長年行動を共にして来た勝手知ったる間柄だけで通じる会話だ。
「──やれやれ。……出来れば、もうあんな方々とは会いたく無いんですがねぇ……、」
「構うこた無い。──その時には、もう相手さんに対しちゃ誰一人遠慮する必要もあるまいし」
「……優しいですね、聖さん(あなたには珍しく)」
 ──暫し、微妙な沈黙が訪れた。それを破ったのは、亮一と緋磨のどちらでも無く、別室にまで聴こえて来るレイの「お世辞云うならそれらしく、実際食べてからにしてよッ!!」という喚き声、それに続くうわぁぁん……、という泣き真似にそれを宥める涼の声である。
「かみさんが、あの娘には優しいからな」
 空気の張力が変化した一瞬を巧みに掴まえ、緋磨は軽い調子で嘯いて姿勢をやや起こした。

「……そうそう、あの、巣鴨のホール」
 ──その言葉を切り出す為か、或いは単に余りの不味さに耐え兼ねたのか、毒味開始後間も無く箸を置いて、緋磨が云う。亮一は視線を上げるだけでそれに応じた。
「リンスター財閥お買い上げ、だそうだ。土地と建物、権利ごと」
 矢張り、緋磨が箸を置いた理由は後者であったようだ。それだけを何気無い調子で云い残し、緋磨は亮一を残して退室した。
 ──ずる、……辛抱強く独り、箸を動かしていた亮一はようやくの事で丼を片付け、箸を置くと微笑を浮かべた。
「……流石ですねえ、セレスティさん……」
 あの人にだけは叶わないだろう、と思う。然し、危惧の念が一つ消えた事も確かだ。
 もう会わない事を望む。それは本心だ。

 ──流石に2度、学業を理由に「蚊帳の外」は通じないだろうから。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0931 /  田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】

【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼異世界調査員】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1787 / 応仁守・雄二 / 男 / 47 / 応仁重工社長・鬼神党総大将】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】

【太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】
【緋磨・聖 / 男 / 28 / 術師兼人形師(+探偵)】

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■         ライター通信          ■
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流石探偵でした、田沼さん。
本編での未消化部分を確りと押さえて頂きました。

が。

料理教室は相手が悪かったと申しますか。
記念すべき大晦日、事務所を上げて災難に巻き込んでしまったようです。
新年からは良いスタートが切れれば良い、そうであって欲しい、(つまり出来ることなら彼女、自分が残して行った縁起の悪い料理の責任は負いたく無い)と思います。
反省はしているようです(WR共々)。

御参加有り難うございました。
御同僚の奥様にも宜しくお伝え下さい。

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