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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─巣鴨崩壊後日談─

【1g:2004-01-2X】

「……ばんざーい!」
 大学の敷地を後にするウィン・ルクセンブルクの表情は、穏やかな陽射しを受けた彼女のプラチナブロンドに映えて晴れやかだった。
 彼女の足取りはふらふらとしていて、寧ろ開放感というよりは虚脱感に覆われているように見えるが、せめて大声で歓声を上げて無邪気な喜びに浸ってみたい。

 卒業論文提出終了。

 締め切りよりも3時間早い提出だった。
 ここの所、夜通しコンピュータと文献と睨み合って全精力を注ぎ込んだ大学生活(始めての、では無いが)の結晶である。好きでやっている学生だ、辛かった訳では無いが、矢張り達成感や感慨も大きかった。
 来年からは社会学部の文化人類学科に編入する。彼女の万年大学生生活は、未だ未だ続くと云う事だ。──が、当分は余裕が出来る。
 卒業論文さえ終われば、と保留していた色々な計画を一つずつ脳裏にリストアップして行く。……本当に色々。これからは、逆にもっと忙しくなるかもしれない。
 
 取り敢えず。

 今の所は、恋人と待ち合わせたカフェに向かおう。
 飛行機のチケットを予約する積もりだったけれど、それはカフェから携帯電話でも出来る事だわ。

【2g:2004-02-XX】

「『EOLH』、」
 ウィンの向かいで、ここのホテルの女主人が自らいれた珈琲を美味しそうに啜っていたレイは耳慣れない単語を、ぎこちない発音で反誦した。
「どういう意味?」
 カチャ、と彼女はカップを置き、不思議そうな表情でウィンを見詰めている。ウィンは、どこか歌うように滑らかな声で言葉を紡ぎ、レイに説明を与えた。
「ルーン文字で、大鹿、或いはパトロンという意味なの。私は演奏する訳では無いけれど、芸術家や或いはそれを志す若い音楽家の卵に出来る限りの事をして支援したい、護って行きたいと思ったの。その願いを込めて付けた名前なのだけど、どう?」
 ウィンは元々、ドイツで古城をそのまま活かしたホテルを経営する母の跡を継ぐ予定で(長男である兄にはその気が全く無いようであるから)、遥か留学先の日本で万年大学生活を満喫していた身である。
 投資は趣味でもありまた特技でもあって、彼女は若干25歳にして『困ったちゃんの芸術家を1人抱える程度の個人資産はある』と豪語しても全く嘘では無い状態である。が、幾ら資産を増やしても有効活用出来なければ意味が無いのでは無いか、また、兄から「いい加減無駄な勉強ばかりしていないで真面目に仕事をしろ」と云われて来た事もあり(無駄な勉強など無いが、そこは言葉のアヤだろう)、幾らか罪悪感を感じていた所だった。
 今回の一件は、──得にシドニーの口にした言葉は、ウィンに「自分が出来る最大の事」を考えさせる結果となった。

──音楽、それも負の感情に利用された音楽に対抗するならば、こちらは真摯な、美しい、……心から美しい音楽を。

 ウィンは、元々は実家の古城ホテルの東京での知名度を上げる為、といった気軽な気持ちで設立したこの東京営業所を、この機会に法人化する事を決意した。
 ただの宿泊施設では無く、ミニコンサートの企画や、レイの父であるピアニスト、忍だけに限らず若手の、才能はあれど資金に恵まれない若手への援助を積極的に行い、──『EOLH』、と名付けた社名に相応しい活動を広げたいと思っている。
 レイは、どう、と聞かれてもピンとは来なかったようだ。ただ、「『EOLH』、」と繰り返し呟いた後に無邪気な笑顔をウィンに向け、「とてもきれいな響きだわ」とだけ答えた。
「有難う。……所で、レイ、あなたも会社のお手伝いをしてくれるって話、本当に良いの?」
 勿論、とレイは頷いた後で改めてぺこりと頭を提げ、「こちらこそ宜しく」と云う。
「何て云うかなあ、ん──、父がウィンさんにお世話になるから、っていう、借りのつもりじゃ無いのよ。私が、やりたいのよね、要は。役に立てばの話だけど」
「私だってそうよ」
 ウィンは目を細め、優しい笑みをどこへともなく向けた。
「私が芸術家のパトロンになろうと思うのは、例えば忍さんならあなた達とはお友達だから、だとか、若手であれば将来、必ず成功する事を期待して、では無いの。……私も、結局は本当に芸術が好きなのよ。芸術の為に、私が多少得意な経済を活かせればなんて素敵かしら、と思うの」
「らしい」
 と呟いて、レイはニヤ、と笑みを浮かべた顔をウィンに向けた。
「らしい?」
「ウィンさんらしい。……そういう所、凄く好き。……あなたって、本当に『wynn』よね」
「……、」
 暫く黙って微笑み合っている内に、レイがやや低声で呟いた。
「父は最近、優しいわ」
「忍さん、磔也の事は何と仰ってるの?」
 磔也。──レイの弟は、結局年末来一度の自宅へ帰っていない事になる。身を寄せている先は知れているが、心配は心配だろう。元々、過去に暴行を受けた経験からどうしても弟とは素直に向き合えない、というレイでさえ、表向きは冷淡な振りをしながら着替えを持って来てみたりして不安気ながら気遣いを見せている。
「生きてさえいてくれれば良い。……そう、云ってるわ」
「そう……、」
 以前ならば、忍が磔也の心配をするとすれば真っ先に「手」の事を案じた筈だ。彼は、忍に取っては子供である前に先ず鍵盤奏者だ。レイにしても、彼が子供の価値を才能で計った結果彼女は磔也の二の次にされ、レイ自身は父を敬愛しているに関わらず表面上はともかく、実際は冷淡な扱いを受けて来たようだ。
 それが、巣鴨以来僅かずつだが変化していると云う。
 彼自身、未だ無条件に家族としての愛情を娘へ向ける事に慣れていないのだろう、「ぎこちなくて可笑しくなっちゃう」とレイが戯けるような有り様らしいが、自分から娘へ歩み寄ろうとあれこれ手を尽くしているらしい。
 実は、ウィンは巣鴨で釘を差してからも何度か忍に連絡を取り、今後の事、──資金援助の具体的な話であるとか、計画中のミニコンサートへの出演依頼など──の相談の他にも然りげ無く、レイや磔也に対して父親らしい振る舞いをするように忠告して来た。

「だから、今後は活動、生活の資金を気にしてあんな組織に使われる事は無いのよ。……多少は時間が出来るのじゃ無いかしら、これまで離れて来たお子さん達との失われた時間、取り戻せれば良いですわね」

「一回、帰って着たけどね、磔也」
「そうなの!?」
 倉菜の家に再び転がり込んだ事は、ウィンも知っていた。レイなどはその時、「どこに潜伏してるかと思えば彼女の家ですか、案外隅に置けないヤツ」などと嘯いていた。
「今も?」
「まさか、一晩泊まってさっさと出て行ったわよ。……どうもねぇ、また、やっちゃった、っぽかった」
「何?」
「……倉菜ちゃんにまで何か云ったっぽい。何となく」
「本人が何か云ったの?」
「云わないわ。ただ、……あれ、バレンタインかなあ。花とケーキ持って帰って来たの。磔也、甘い物大っ嫌いなのよ。でも、捨てなかったし、花は私が水に浸けて置いたんだけど、出て行った後に見たら無かった。……ははーん、気が咎めてる証拠だなって」
 仮にも十年間、一緒に暮らして来た弟だ。大体の心中は図れるらしい。──同時に、今度も結局何も云えなかった自分をもどかしく思っているらしい事がウィンには手に取るように伺えた。
「……そう、」
 ──今度こそ太巻の所か、とウィンは心の中で頷いた。一度、話しに行かなければ。
「所で」
 レイは話題を切り替えながら、自分が宣伝用に使っている彼女の連絡先を書いたカードをひっくり返し、その余白にボールペンを走らせた。
 それをすい、とウィンに滑らせる。受け取ったウィンは「何?」と首を傾げながら覗き込んだ。

『上塚浩司 090-XXXX-XXXX』

「知り合いのヴァイオリニスト、……まあ、十人くらい知り合いを辿れば父に繋がるような、だけど。超非凡な才能の持ち主、って訳でも無いのよ。ただね、物凄く音楽には真面目で、努力でそれを埋め合わせている人。仕事に限らず色々なコンサートとかイベントに参加してるみたいだから、経験だけはあると思うわ。何か使えそうだったら使ってやって。携帯を教えても良いって許可は貰ってるし、過去にも彼には何度かその手の仕事、回した事あるから大丈夫」

【3g:2004-02-XX】

 パリ19区、parc de la Villette──ヴィレット公園の傍らにあるカフェのオープンテラス。
 日当たりの良いテーブルの一つで、一人の日系人の少女が頬杖を付いて広げた楽譜を眺めながら、エスプレッソを口に運んでいた。
「Sidonie」
 通り掛かった学生が彼女に目を止め、声を掛けた。──少女は、シドニー・オザワは顔を上げる。
「Ca va? A plus tard.」
 親しい相手らしく、簡単に手を振って同級生が去ってしまうとシドニーは荷物を席に残したまま席を立って手近な電話ボックスへ入り、慣れた様子で一連の番号を押した。そのまま、暫し受話器を耳に当てたまま小首を傾いでいたが、やがて諦めたように受話器を置いてボックスを出て来た。
「……、Ca vient?」
 微笑して溜息を残し、再び荷物を残して来たテーブルに戻るが、──その僅かな間に向かいの空いた席に座っていた人物がいて、彼女の楽譜を眺めていた。
「Pardon.(失礼)」
 その女性は、シドニーに気付くと即座に詫びて楽譜を彼女へ返す。
「Ca ne fait rien(いいえ)……、」
 一見、魅力的な微笑みを浮かべて首を僅かに傾いで愛嬌を振り撒いたシドニーの目にその女性が映った時、彼女の余裕は消えた。
「Comment vas-tu?(元気?)」
「……、」
 シドニーはまだ呆然としてその女性を、──豪奢なプラチナブロンドを輝かせ、サングラス越しにもその美貌がはっきりと見てドイツ型の美女を──ウィンを、見上げていた。
 ──が、直ぐに気を取り直したらしい。眉を吊り上げたやや悪意の見える笑顔だったが、シドニーは微笑みを返した。
「Ca va bien, merci. Et vous?(元気よ、あなたこそ如何?)」
「Je vais bien, merci. Mettez-vous la.(お座りなさいな)」
 ウィンはサングラスを外し、構わずシドニーへ着席を促した。ギャルソンを呼び止め、自分もエスプレッソを、そして彼女にも新しく、とシドニーの分まで纏めて注文した。
「……Il fait beau.(良い天気ね)」
 冬の穏やかな陽射しを受けた広場の向こうに、コンセルヴァトワールの建物を目を細めて見遣りながらウィンはそんな社交辞令を呟いた。
「Je ne sais pas.」
「冷たいわね。あなたの愛人が遥々東京から逢いに来てあげたって云うのに」
「とても嬉しいわ」
 ウィンは目を細めた。……強がること。……話を聞いただけで、お母様が興味を示した訳だわ。
 目の前を足早に行き交うのは、殆どがコンセルヴァトワールの学生だ。やや急いた足取りながら、肩に掛けたチェロのケースだけは大事にそうにしっかりと抱え込んだ小柄な少女、ウォークマンで聴いているのはワルツだろう、颯爽とした足取りの女性、ウィンにまで聞こえる大声で2人の青年が論じているのは何かのシンフォニーの話題。
 他人の目で見れば、きっと、ここに集うのは音楽を心指し、夢に向かって真剣に毎日を過ごしている学生ばかりだろう、と思える。……中に、こんな悪意を持った文化遺伝子、ミームが紛れ込んでいるなんて、誰が思うかしら。
 さっさと楽譜を仕舞い、新しく運ばれて来たエスプレッソに「Merci beaucoup、」と態とらしい程丁寧な礼を述べて角砂糖をスプーンで混ぜているシドニーへ視線を戻し、ウィンは再び笑顔を浮かべた。──ちゃんと、手許に注意している? ちょっと、砂糖を入れ過ぎじゃないかしら? 
「……そうそう、」
 ウィンは、婉然とシドニーに微笑み掛けた。
「最近ね、この間の件や何かで、ドイツの母に会ったのよ。……それで、あなたの事も話題に上ってね。……あなた、凄ーく、母のお気に召したようだわ、直ぐにでも逢いたい、なんて云ってたわよ」
「──光栄ね、」
 シドニーは笑顔のまま──というよりは、やや表情が強張ってそのままの笑みさえ消せない、といった感じで──押し出すような声で応えた。
「近々ね、磔也を更生の為に実家へ送り込もうかと考えているの。……あなたも、来る? 私はともかく、母は大歓迎だそうよ」
「まあ、嬉しい。……でも、どうかしら。磔也がそう簡単に真面目になるとは思えないけど?」
「どうかしらね?」
 母の許なら分からないわよ、とウィンは含み笑いして見せた。実際の所、ウィンも人間の根本がそうそう簡単に変化するなどとは楽観していない。──が。
 まあ、今の所はぼんやりとした内に不安や畏怖の感情をシドニーに抱かせればそれで良いのだ。
「そうね、それが良いわ。あなたもいらっしゃいな。あなたが来たら、母は磔也を放って掛かり切りになてつぃまうでしょうけどね☆ 良いわよ、遠慮しなくて。そうしたら、磔也は義母に任せる事にしましょう」
「慎んで辞退するわ。私、ドイツの音楽界は嫌いよ」
「あらあら。弱気じゃないの。そんな事じゃ、世界に通用する文化遺伝子なんて生めないわよ?」
「……、」
 シドニーの手の中で、カップに差し入れたままのスプーンが小刻みに震えていた。
「……じゃあね☆ 私は今日深夜の便で帰るわ。……勿論、あなたが呼べばまたいつでも逢いに来てあげるから、遠慮しないで。……Vous voyez ce que je veux dire.(どういう意味か、分かるわね?)」
「Voila!(もう結構よ!)」
「A bientot(またね)☆」
 ヒステリックな大声を上げたシドニーへ、晴れやかな笑みを浮かべたウィンは軽く手を振って颯爽と踵を返した。

「……Elle vient me voir.……Me sens bien.」

──本当にフランスまで来るなんて、……最低。

【4g:2004-03-XX】

 京都駅を降りた時点で、気の早い透は既に子供のようなはしゃぎようだ。
「透、はぐれないで、こっちよ」
 引率教師を兼ねなければならない恋人は、大変だ。人混みの中で彼を見失わないよう、腕を引くと、振り返った透から幽かに良い匂いがした。

──ああ、つけてくれてるんだわ。

「ウィンちゃん、京都タワーだよ!」
「そうね。面白いでしょう、東京タワーとは構造がまるきり違うのだけど、らしいわよね。蝋燭に見立ててあるのよ。何でも、京都の街全体を仏壇に見立てて、そこへ備えた蝋燭という事らしいの」
「登りたい!」
「良いわよ、お昼にもう一度戻ってきましょう、ランチは、展望レストランでね」
 駅前のタクシープールに、見覚えのある車体が乗り入れてウィンと透の前で停止した。
「どうも、お久し振りです」
 降りて来た運転手が、余り顔色が良く無い割に明るい笑みを浮かべて挨拶した。
「ごめんなさいね、わざわざ呼び出して。奈良にも付き合ってくれるのでしょう? 良いのかしら、京都を出てしまって」
 構わないですよ、と帽子を被り直しながら、その、妙に生活感の薄い青年運転手は冗談めかして答えた。
「善行は積めるだけ積んでおかないと、成仏出来ませんからね」
 意味深長なウィンと運転手の会話は気に留めず、「貸し切りタクシーだァ〜」とはしゃいでいる透を一瞥した運転手は、ウィンに片目を閉じて見せた。
「素敵な恋人ですね。……秋に、願掛けに来た甲斐があったようで、京都人(自縛霊)として何よりです」
 
──そう、まさか、透と一緒に来られるなんて。

【5g:2004-03-2X】

 ビルディングの屋上から殺伐とした東京の街を、乾いた風を身に受けながら眺めている青年がいる。
 彼の脳裏に、微かに音楽が聴こえて来る。限りない程の繊細な美しさが哀しい程のストリングス・シンフォニーは、ベートーヴェンの交響曲第九番第一楽章の冒頭である。
 それはすぐに立ち消えてしまう。然し青年はそこで、「O Freude, nicht diese Tone、」と呟く。つまり、シラーの、『歓喜に寄す An die Freude』の一節である。
 再び、彼のイメージの中に音楽が聴こえ出す。スケルツォやレスタティーヴォの断片が間断無く現れ、次第に高揚して行く音楽は、有名な歓喜の主題に移行する。青年は両手を翳し、伸びやかな声で歌い出す。「Freude Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel Weilt.(汝の神秘なカは、引き離された者を再び結びつけ、汝の優しい翼の留まる所、人々は皆兄弟となる)」
 その背後には既にフルオーケストラとフルコーラスが流れている。同時に、青年の足許から一面の白い鳥の群れが舞い上がり、後には陶然とした表情の青年が残される。
 静寂の中に、青年は歓喜に包まれる。

 青年とは、つまりウィンの従弟葛城・樹(かつらぎ・しげる)である。丁度彼が、応仁守・雄二(おにがみ・ゆうじ)の音楽事務所からDVDにダビングした、──年末に樹がほぼ強制的に撮影に狩り出された──映像作家、柾・晴冶(まさき・はるや)の新作映像が出来上がった物を貰って来たので、こうしてドイツ古城ホテル東京営業所にあるモニタでウィンと共に鑑賞していた所だ。
「……この鳥、どうやって撮ったの?」
「それは合成です」
「ああ、そうなのね。……分からなかったわ。でも、……柾さん一人で撮ったのよね? どうやったのかしら」
「……謎です……」
「……そう。……不思議な人だったものねえ……、」
 ホワイトアウトしたままのモニタを見詰めたまま、ウィンは紅茶を軽く啜った。
「ねえ」
 そして悪戯っぽい笑みを浮かべ、映像を少しサーチする。最後のワンカット、白鳥が飛び立った後に残された白い羽がひらひらと樹の周囲に舞っているのが光の加減で丁度、彼の前髪に現れた白銀色の一筋と同じ色合いに見える。
「樹ちゃんの羽みたいに、見えない?」
「……そんな、……多分、柾さんが上手くバランス調整したんですよ」
「でも」
 パチリ、とリモートコントローラーでモニタの電源を落としてから、ウィンは樹を振り返った。彼女の顔に現れた微笑は、とても優しい。
「飛べたじゃない、本当に」

 第一志望の音楽大学作曲科に、樹は合格したのだった。
 
「本当におめでとう」
「……有難うございます、」
「叔母様も叔父様も、お喜びでしょうね。私も本当に嬉しいわ」
「両親には真っ先に伝えたんです、喜んでくれました。おめでとう、って云ってくれたけど、でも本当は僕が感謝しなきゃいけない。甘えていた僕を、暖かく見守ってくれた、父や、母に。……そしてウィン従姉さんや従兄さん、……他の皆さんにも。本当に有難うございました」
「何だか、偶然だけど素敵ね。上手い具合に、樹ちゃんが飛べた映像が出来上がった所なんて」
「未だ、……これからです」
 樹は笑みを浮かべた。
「飛べても、力尽きて墜落してもいけない。ただ舞い上がり過ぎてもいけない。……実際に本番、という形で実技試験を受けてみて、音楽には相当冷静な判断能力が必要なんだって、改めて分かりました。僕はつい、感情に任せてしまう方だから。今後はそうした事も、合わせて勉強して行かなきゃ」

「──柾さん、今後はヴィジュアルオペラに取り組みたいそうなんです」
「ヴィジュアルオペラ?」
「ええ」
 樹は頷いた。
 ヴィジュアルオペラ、──ライヴのオペラ上演では無く、映像として配信されるメディア形式のオペラだ。近年、──マルチメディア社会へまっしぐらの世界では当然の流れかも知れないが、日本でも外国の良い作品が注目されつつある。保守的なクラシック界も、変化している。
 柾は、それを撮りたいと云って樹を狩り出したのだ。
 その試作品として、ベートーヴェンの交響曲第九番「合唱付き」、所謂「第九」をモチーフにした映像を撮っていたのである。
 全曲では無い。試作品として柾が独りで撮影から編集を行ったもので、全体として10分未満の短編フィルムだ。尤も、元々幻想交響曲を映像化しようとしていた彼の事だから、以前からそうした希望はあったのかも知れない。
 だが、柾は今後、出来れば全曲を映像化したヴィジュアルオペラを撮りたい、と云い、長編、大作にも取り組みたいそうだ。
「未だ本当に出来たばかりのジャンルですから、どうした形で商品にするのか、或いはどうした形で流すのか、テーマは、とか色々問題はあるみたいです。でも、柾さん、真剣でした。きっと、これから良い作品が本当に完成すると思います。応仁守さんも、全面的にその活動はバックアップする(って云うか、安心して僕に付いて来なさい、って云ってたっけ……)って仰ってましたし」
「……そうねえ、」
 ライヴ形式では無く、可能性としては世界へ向けて限り無く発信する事が可能な形の総合芸術。
 それも、ある意味で文化遺伝子、ミームと云える。
「……私個人では無くて」
 ウィンは低声で、だがはっきりした声で付けて呟いた。
「『EOLH』としても、柾さんには期待出来るし、全面的にバックアップしたいわね」
 ──彼女の憧れの人、応仁守社長も居ることだし。
「樹ちゃん、お気に入りのようね、柾さんの。……これからは晴れて音大生、大学は自由だから時間にも余裕が出来るわよ。また、協力してあげるでしょう?」
「ええ」
 ──正直、柾のあの人間離れした勢いには引き摺られそうになる事もあるが……。彼の芸術は素晴らしいと思うし、自分に出来る限りの事はしたいと思う。そしていつか、自分から柾に素材として音楽を提供出来るような事になればどんなに良いかと。
「それに、ウィン従姉さんの事業も、僕に出来る事をお手伝いさせて下さい。個人的に、ミニコンサート(とか応仁守さんのギター……)が楽しみ、っていう事もあるんですけど」
 勿論、と従姉が微笑み返す。──『EOLH』、パトロンとして応援して行きたいと思うのは、結城忍のような既に地位を確立したプロだけでは無い。芸術家の卵の若者にも、出来る限りの支援をして行きたいし、彼等から逆に学び取る事もあると思う。
 ──樹を始めとして。

「所でね、先日、私太巻さんの所へ行ったのよ」
 徐ら、ウィンは話題を変えた。顔を上げた樹を見つめる彼女の目は、可笑しくて仕方無いというように笑っていた。
「磔也の事だったんだけどね。──そうしたら、私が店に入った途端に、フライパンが飛んで来たのよ」
「はい!?」
「磔也よ」
 そこでウィンはとうとう吹き出した。
「勿論私を狙ったのじゃ無くて、太巻さんが避けたからなのだけど。危ないのよ、何せ熱したままだったんだもの。思わず、咄嗟にサイコバリアを発動してしまったわ。……あの人達の『親子』喧嘩って、ホント、過激」
「……何があったんでしょう?」
「何でも無いわ。きっと、いつもの調子で太巻さんが揶揄かったのよ。今じゃねえ、磔也、太巻さんの食事係よ。……フライパンを投げるくらいだから、大人しく云いなりになっている訳じゃ無いでしょうけどね☆」
「そうだったんですか……、」
 ……それほど、元気に立ち直ったのだ。
 と、安心すると同時に今度は、いずれはその熱したフライパンが自分に向けて飛んで来る事も有り得るのだろうかという不安も発生したが。
「ねえ、私、春休みにでも磔也を母に預けてみようかと思うの」
 含み笑いと共に、ウィンが大変な事を提案した。

【6g:2004-03-2Xa】

「Auf Flugeln des Gesanges……、……Herz liebchen, trag'ich dich fort、──」

──まあ……、

 その光景を目に留めたウィンは驚きに目を見開いた後、笑顔が溢れるのを抑え切れ無かった。
 樹が、珍しく積極的に電話で呼び出した磔也が、彼の送ったピアノ曲を弾いた後に突然歌い出したのである。──『歌の翼に』。
 磔也はピアノは引き続けながら歌は直ぐに止め、樹に「歌え」と命令している。彼らしく横柄な口調だが、ウィンから見れば、素直には頼めないものの、きっと、樹の歌が聴きたいのだろう、と理解出来た。
 樹も屈託無くそれに答え、(やや伴奏が歌い難そうだが)伸びやかな声で歌い出した。

「──Dort wollen wir nieder sinken unter dem Palmenbaum,
und Lieb' und Ruhe trinken und traumen seligen Traum,
und Traumen seligen Traum, seligen Traum……、」

──未だ、望みがあるわ。

 彼の記憶を見たウィンは、磔也が過去に姉に暴力を振るってお互いの心に深い疵を残してしまった、ショッキングな事実も知ってしまった。
 彼に罪悪感がある事も知っているだけに、何とか立ち直って欲しいが、年齢が年齢だけに難しいだろう事も彼女には分かる。
 だが、──何となく、今の彼を見ていると、全く望みが無い訳では無い、と思える。

──……だからって甘やかしはしないけどね。

 とは、寧ろつい彼を弟のような感覚で甘やかしそうになってしまう自分へ向けて呟きながら、ウィンは踵を返した。
 ──ともかく、彼が再び、好意を持っている相手に対して過ちを犯さないように。

「磔也が来てるわよ。……来ない? 話だけでも、」

【7g:2004-03-2Xb】

 樹と話を終え、素早くホテルを退出し掛けた磔也の前にウィンは立ちはだかった。そうでもしなければ、彼は逃げ足に関しては尋常で無く素敏捷っこいのだ。
「未だ、帰さないわよ」
 悪戯な微笑を浮かべながら両手を広げる。
「何……、」
「倉菜を呼んだわ」
「──……はぁ!?」
 詳しくは云わない。だが、ウィンは、次の一言だけは真直ぐに厳しい目で磔也へ告げた。
「もう二度と、好きな人を傷付けては駄目。……分かっているでしょう、それが、どれだけ自分にとっても辛い事か」
「……好き……って、一体誰が、」
 今の所は、未だ本格的に過去を掘り返す必要は無い。だからウィンはそれ以上その話題については触れない。が、くす、と笑みを浮かべて耳許で囁いた。
「別に、告白しろなんて云わないわよ☆ そこはあなた達の問題。でもね、云った事に後悔したなら、その時点で謝る事。……お説教する気は無いわ。でも、騙されたと思ってそうして御覧なさい。とても楽だから」
「……、」
 磔也もまた、(理論云々は別にして)感情を言葉にするのが下手らしかった。黙ったままでは持て余しそうな間を過ごす為か、拗ねたようにふい、とウィンに背中を見せ、再びピアノの前に座った。──気分任せで弾き始めたらしい音楽は、全く全身の力が抜けた心易い物だった。

 彼女が顔を出した時、室内は明るい雰囲気に包まれていた。ウィンと樹を見付け、歩み寄ろうとした所でウィンの方が、「こっち、こっち」と倉菜を急かす。
「……あの、樹君……、おめ──」
「それは後で良いでしょ? さ、早く、行って」
 ウィンが悪戯っぽい笑顔で、倉菜の背中を押す。樹も穏やかな表情で頷いていた。
「どこへ……?」
「……ホワイトデーに少し遅れた事は勘弁してあげてね☆」
「……ウィン……さん……?」

 後は、不粋は無用である。ウィンは2人を残し、樹を伴ってその場を離れた。
 そこへ、丁度入って来たのは何やら大きな荷物を抱えた透である。
「あっ、ウィンちゃん! あのさぁ、蓬莱本館の豚饅貰っちゃったァ〜。蒸して食べようよ! あ、葛城もお早う! 一杯あるから、葛城のおばさんにも差し上げてね〜、」
「……有難う、透。シェフに蒸かして貰って来るわね、待ってて」
 笑顔で荷物を受け取ったウィンに、透は「この間の京都、楽しかったね〜、」と無邪気だ。
「本当ね。……そうそう、透、春休みには梅を見たいと云っていたでしょ? それでね、私、水戸の偕楽園はどうかと思ってたのだけど、どうせなら皆で福島のスパリゾートに行かない? 人数は多い方が楽しいじゃない。お兄様のアウディと私のプジョーに分乗すれば、10人位は行けるわよ、」
「行く〜」
 喜びを素直に全身で表現する透は、ウィンが厨房へ向かおうとして初めてピアノの音に気付いたようだ。
「あれ……、レイちゃんに似てる(でも女性崇拝者なので性別は間違わない)」
 透は見知らない筈の磔也だが、遠目にもそうした勘は鋭い。ウィンは人さし指を伸ばして透の口唇の前に立て、魅力的なウィンクを投げた。
「邪魔しちゃ駄目よ☆ ……豚饅、直ぐに出来るからね」
「うん」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】

【0931 /  田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼異世界調査員】
【1787 / 応仁守・雄二 / 男 / 47 / 応仁重工社長・鬼神党総大将】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【シドニー・オザワ / 女 / 18 / 学生】

【渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生(卒業間近)】
【太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】

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■         ライター通信          ■
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今後、音楽活動の支援が展開されるということで、レイからはお礼代りに事業のお手伝い(逆に面倒を増やしそうな気もしますが)と、音楽関係者を一人紹介します。意見なり手伝いなり、宜しければ気軽にお呼び出し下さい。
WRからのお礼は某幽霊タクシーの京都での観光案内で……。

色々と、ルクセンブルク嬢には人間関係を繋ぐ為に動き回って頂き、中にはWR都合で立ち入り過ぎてしまった部分もあります。
ここに目を留めて頂いた他PL様にも合わせて、その点のご理解を頂きたいと思います。

もう、お嬢さんでは無くルクセンブルク女史とお呼びした方が良い気がしました。シドニーも黙ってはいないでしょうが、EOLHの順風満帆な活動を期待しております。

後日談までの御参加、有り難うございました。

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