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<東京怪談・PCゲームノベル>


音楽都市、ユーフォニア ─巣鴨崩壊後日談─

【1h:2004-01-1Xa】

 センター試験が終わった。
 外国語は略ネイティヴのドイツ語を選択したので問題は無かったが、彼自身の不安材料であった国語も、冬休みに従姉の紹介で付いてくれた家庭教師のお陰で、手応えも自己採点の結果も概ね満足の行く結果に終わった。
 彼の受験する音楽大学では、学科の成績は余程で無い限り影響が無いとは云え、出来る限りの努力をして置けば3月に受験する実技、副科実技試験にも余裕のある精神状態で望む事が出来る。
 ともかく、──束の間の猶予とは云えブレイクを得る事が出来た訳だ。
 そこで、葛城・樹(かつらぎ・しげる)は現在、年末から気掛かりだった事へ向き合うべく、知り合いの自宅を目指していた。

「こんにちは」
「──樹君、」
 対応に出た硝月・倉菜(しょうつき・くらな)は、彼を認めて数度、目を瞬かせた。
「……ええと、」
「センター試験が終わったんです。それで、少し余裕が出来たから。……磔也君がここって聞いて」
 
 ──年末に、樹も否応無しに(魔法少女への合体変身だとかその他)巻込まれた巣鴨ユーフォニアハーモニーホール騒動、恐らくあの一件で一番痛手を追っただろう磔也は、落着して後も自宅へは帰らないだろうとは思っていた。と云って彼の身を寄せる先は決っている、──『時空の狭間』、彼が父親か何かのように慕っている太巻・大介の喫茶店(?)だ。従姉のウィンは、「甘やかすと、ダメになってしまう子だから。太巻さんに任せておけば安心よ」と云う。それは樹にも頷ける意見だったので、彼等の間で磔也は太巻に任せようという事になっていたのだが、──間違っても不良学生を甘やかしそうにない太巻の性質が裏目に出たようだ。
 オペラの直後から、磔也は目的意識を失って呆然自失の精神薄弱状態に陥ってしまったらしい。以前の彼であれば、太巻が甘やかさないなら甘やかさないなりに自力で這い上がれただろうが、今回はそうも行かなかったらしい。同じく、彼を気に掛けて様子を見に行った倉菜は、これでは磔也が衰弱死し兼ねないと懸念して彼を自宅へ引き取ったのだそうだ。一度、オペラ以前にも散々虐めて来た相手からの逆恨みで刺され(……)、重傷と、ついでに高熱まで負った彼に自宅を提供して看病した経験があるからそこは自然な流れだったのだろう。
 それはそれで良いと思う。精神的に立ち直るのは、身体が持ち直してからだ。
 倉菜にも彼女なりの責任がある。彼女はオペラの時に、色々な意味で崩壊し掛かった磔也の身体を能力で治しているのだ。それは良いが、あまりに急激な変化が身体に起こると、感覚が追い付かずに逆に持て余した身体を壊しかね無い。元々健康には無頓着な(衛生面には神経質にこだわる癖に)磔也にはその恐れが充分にある、だから、せめて身体が慣れるまでは「主治医」と自覚している彼女が対応するのも。
 ただ、彼女にはどうしても云いたい事があった。
 樹は今、大き目の紙袋を一つ提げていた。磔也の姉のレイが、ウィンのホテルに居るものと勘違いして弟の着替えと、身の回りの物を届けて来たのだ。
 ……流石に、突然彼女の自宅を訊ねて云いたい事だけを切り出すのは樹には厳しい。たまたま居合わせた樹は、良い口実、でも無いが自分が届ける、と申し出てそれを預かった。レイは恐縮していたが、彼女も未だ磔也には冷静に向き合えないと自覚しているらしい。弟と対面するかも知れない彼女の自宅に出向くのは気が重いだろう。殊更軽率に振るまいながら、「じゃ、お願い」と樹に任せた。

「これ、レイさんがウィン従姉さんの所へ持って来てくれたんです。磔也君の着替え、って。渡して貰えますか? 多分、倉菜さんも磔也君も困ってるんじゃ無いかって」
「ああ……、……お姉さん、」
 倉菜は頷いて樹が差し出した紙袋を受け取ったが、彼女の表情は微妙である。
「……気遣いは分かるけど、……でも、少し冷たいわ。家族なのに、今まで難聴の彼を放って置いたり、着替えを渡して終わりなんて。……磔也君が可哀想」
「レイさんは、……」
 樹としても、レイと磔也との付き合いは去年の9月に起こった幻想交響曲事件の時からで日が浅い。が、それよりも更に後から知り合った倉菜は、あまり彼等の過去の事情を知らないのだ。……彼女がレイをそう評価するのも仕方ないかも知れない。
「……それより、倉菜さん」
 ……ん、何? と倉菜は明るい笑顔を取り繕い、先程の不満は樹に見せないようにして顔を上げた。
「……あの……、」
「?」
 ──倉菜は無邪気にただ磔也を気遣っているだけなのだ。本当に優しいと思うし、悪気は微塵も無いのだと分かっている。だが、だからこそ、無意識の内の事だからこそ、どうしても樹には彼女に云って置きたい事があった。
「──磔也君は、楽器じゃ無い。……人間です」
「……、」
 ──分かってるわ、当然じゃない、と答えかけた倉菜は、樹の表情を見て、その言葉には未だ、もっと深い意味があったらしい事に気付いて当惑した表情を浮かべた。
「……樹君……?」
「すみません。……でも、ずっと引っ掛かってたんです」
「物だなんて思ってないわ、人の心まで他人が自由に出来る訳無いじゃない、……ただ、ピアノ、」
「ピアノを弾く人間だからって、楽器ですか? 楽器に近しい立場である事は確かだと思います。でも、それをだからって楽器、と認識してしまうか、それとも楽器を扱う人間、ちゃんと、1人の人間として認めているかの違いは大きいと思うんです。磔也君、最近、大分他人に心を開きかけてると思います。……そんな時に、特に気を許している人から楽器扱いされるのは、残酷じゃないかな」
 最後の一言は、出来るだけさらりと云った。──裏の意味に気付かれなければ良いが。
「……私、」
 俯いたまま、倉菜は小さな声で口を開いた。
「……分からないの。あんまり人と関わって来なかった所為かも知れないけど。……人を物扱いしようなんて思った事は無いわ。でも、……樹君から見て、そういう風に見えた?」
「そんな事は……、」
 寧ろ、樹が動揺した。……倉菜自身、人との関わりに慣れていなかっただけなのだ。
「──ないです。……ただ、これからは楽器、なんて云わないで。磔也君と、人間として向き合って行ってくれますか? 僕からのお願いです」
「……磔也君は、私を憎んでると思ってたわ」
「どうして!?」
「本当は、許可を取ってから治そうと思ってたの。聴覚障害と、アレルギーの事。でも、ついあの状況で勝手に治してしまったから、……責任を果たしたくて世話をしてたけど、反抗する元気が無かっただけで、嫌われていると思っていたわ。……なのに、分からないの、磔也君」
「……何かあったんですか?」
「……、何でも無い」

──気付いて無いんだろうな……。

 磔也君、多分倉菜さんの事が好きなんですよ。好きな相手程乱暴な対応をしてしまう彼の性格、分かるでしょう?

 ……とは、流石に樹には云えなかった。何となく、その事にだけは直感的な自信があったが、だからこそ、本人達より先に第三者が軽率に告げて良い事では無い、という彼なりのルールがあった。
 ──もどかしいけど、こればかりは僕が口出しする事じゃない。
 にこ、と樹は浮かない表情の倉菜に微笑んで見せた。
「そんな事は無いと思いますよ。……だから、さっきの事、お願いします。物凄く不躾で、御節介な事を云ったと思う。でも、……どうしても、それだけは考え直して欲しかったんです」

【2h:2004-01-1Xb】

 暇を告げて倉菜の自宅、楽器工房沿いの道を少しばかり歩いた所で、何気無く建物を振り返った樹は思わず足を留めた。
 彼女の家の窓の一つが冬だと云うのに開け放してあり、人影が見える。

──磔也君、……、

 ──寒くないのだろうか、窓を開け放したままで。
 遠目にもあまりに憔悴した彼の様子と、そうした気遣いから注意を喚起されて見守る内、樹はふと物哀しい感情に捕われた。
 ずっと、窓の外を見ている磔也は、もしかしたら、空に憧れているのでは無いだろうか、──自由になりたいのでは無いか、と。
 今の彼の事だから、そうして、──飛びたい、と願ってもどうせ自分には無理だ、と端から諦めて掛かって、物の試しにでも出来るだけの努力をする事をしない。それは、今に限らず磔也の元々の性格だ。
 他人に、自らの都合で変化を要求するのは勝手な願いだとは思う。……ただ、今の状態で居るのは良く無い、とも思う。
 分かっているからだ。樹は、──心の弱さから決断を出来ない事の辛さを、過去の経験から身を持って知っているからだ。
 そんな時は、他人に甘えたくなる。つい、目先の優しい言葉や、判断を他人に委ねる誘惑に負けそうになってしまう。その時は、それで何となく慰められたような気になる。だが、後から結局は余計に辛くなるのだ。更に、自分の弱さに絶望して。
 最初に音楽大学の受験会場から逃げ出した時は、本当に自分が情けなくて仕方無かった。あの時の自分は、本当に、──飛べない鳥だった。
 作曲科を受験するという決断をし、自らの足で新しい一歩を踏み出そうとしている自分の方が、今の磔也より優れているなどとは思わない。優劣の問題では無くて、──そう、本当に、甘える事は辛いから。今のきみは本当に苦しいだろうけど、でも、ここで何かを磔也君自身の手で選び取らなきゃ、それだけ多く苦しむ事になる。

──磔也君、

 樹は軽く呼吸を整えた。そうして、──すっ、と窓の向こうの磔也へ向けて顔を上げ、口唇を開く。

「Auf Flugeln des Gesanges……、……Herz liebchen, trag'ich dich fort、──」

 『歌の翼に』。母が好きで、良く家事をしながら口ずさんでいた曲、幼い頃からの色々な思い出と共に良く覚えていた曲が、彼が好きらしいメンデルスゾーンというのは気紛れな偶然だ。
 きっと、言葉を掛ければ、従兄のようにシビアになり切れない自分は彼を甘やかしてしまう気がする。上手く、思いを言葉にする自信も無い。
 だから……。

──僕が、磔也君に贈れるものは、歌しか無い。

 甘えないで。自分が辛くなるから。そして諦めないで、飛びたいと思うなら、自力で立ち上がって、腕を伸ばして欲しい。
 呪歌というよりは、彼が本来音楽に向き合う時の姿勢そのままで、樹は美しい歌声を磔也へ向けて紡ぎ続けた。──思いを、音楽に、歌に託すという事。

「……、」
 ちら、と彼の暗い瞳が、歌に気付いて樹を見遣った。……だが、だからと云って何の行動を起こすでも無い。──未だだ。

──でも、信じてますから。

 君が自力で立ち直ったら、──そうして、その時に矢張り音楽を、ピアノを弾きたいと思っていたら。
 
「その時は、僕の曲を弾いて下さいね。……磔也君の為に作ったピアノ曲」

【3h:2004-03-2X】

 ビルディングの屋上から殺伐とした東京の街を、乾いた風を身に受けながら眺めている青年がいる。
 彼の脳裏に、微かに音楽が聴こえて来る。限りない程の繊細な美しさが哀しい程のストリングス・シンフォニーは、ベートーヴェンの交響曲第九番第一楽章の冒頭である。
 それはすぐに立ち消えてしまう。然し青年はそこで、「O Freude, nicht diese Tone、」と呟く。つまり、シラーの『歓喜に寄す An die Freude』の一節である。
 再び、彼のイメージの中に音楽が聴こえ出す。スケルツォやレスタティーヴォの断片が間断無く現れ、次第に高揚して行く音楽は、有名な歓喜の主題に移行する。青年は両手を翳し、伸びやかな声で歌い出す。「Freude Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Bruder, Wo dein sanfter Flugel Weilt.(汝の神秘なカは、引き離された者を再び結びつけ、汝の優しい翼の留まる所、人々は皆兄弟となる)」
 その背後には既にフルオーケストラとフルコーラスが流れている。同時に、青年の足許から一面の白い鳥の群れが舞い上がり、後には陶然とした表情の青年が残される。
 静寂の中に、青年は歓喜に包まれる。

 丁度、応仁守・雄二(おにがみ・ゆうじ)の音楽事務所からDVDにダビングした、──年末に樹がほぼ強制的に撮影に狩り出された──映像作家、柾・晴冶(まさき・はるや)の新作映像が出来上がった物を貰って来たので、こうしてドイツ古城ホテル東京営業所にあるモニタでウィンと共に鑑賞していた所だ。
「……この鳥、どうやって撮ったの?」
「それは合成です」
「ああ、そうなのね。……分からなかったわ。でも、……柾さん一人で撮ったのよね? どうやったのかしら」
「……謎です……」
「……そう。……不思議な人だったものねえ……、」
 ホワイトアウトしたままのモニタを見詰めたまま、ウィンは紅茶を軽く啜った。
「ねえ」
 そして悪戯っぽい笑みを浮かべ、映像を少しサーチする。最後のワンカット、白鳥が飛び立った後に残された白い羽がひらひらと樹の周囲に舞っているのが光の加減で丁度、彼の前髪に現れた白銀色の一筋と同じ色合いに見える。
「樹ちゃんの羽みたいに、見えない?」
「……そんな、……多分、柾さんが上手くバランス調整したんですよ」
「でも」
 パチリ、とリモートコントローラーでモニタの電源を落としてから、ウィンは樹を振り返った。彼女の顔に現れた微笑は、とても優しい。
「飛べたじゃない、本当に」

 第一志望の音楽大学作曲科に、樹は合格したのだった。
 
「本当におめでとう」
「……有難うございます、」
「叔母様も叔父様も、お喜びでしょうね。私も本当に嬉しいわ」
「両親には真っ先に伝えたんです、喜んでくれました。おめでとう、って云ってくれたけど、でも本当は僕が感謝しなきゃいけない。甘えていた僕を、暖かく見守ってくれた、父や、母に。……そしてウィン従姉さんや従兄さん、……他の皆さんにも。本当に有難うございました」
「何だか、偶然だけど素敵ね。上手い具合に、樹ちゃんが飛べた映像が出来上がった所なんて」
「未だ、……これからです」
 樹は笑みを浮かべた。
「飛べても、力尽きて墜落してもいけない。ただ舞い上がり過ぎてもいけない。……実際に本番、という形で実技試験を受けてみて、音楽には相当冷静な判断能力が必要なんだって、改めて分かりました。僕はつい、感情に任せてしまう方だから。今後はそうした事も、合わせて勉強して行かなきゃ」

「──柾さん、今後はヴィジュアルオペラに取り組みたいそうなんです」
「ヴィジュアルオペラ?」
「ええ」
 樹は頷いた。
 ヴィジュアルオペラ、──ライヴのオペラ上演では無く、映像として配信されるメディア形式のオペラだ。近年、──マルチメディア社会へまっしぐらの世界では当然の流れかも知れないが、日本でも外国の良い作品が注目されつつある。保守的なクラシック界も、変化している。
 柾は、それを撮りたいと云って樹を狩り出したのだ。
 その試作品として、ベートーヴェンの交響曲第九番「合唱付き」、所謂「第九」をモチーフにした映像を撮っていたのである。
 全曲では無い。試作品として柾が独りで撮影から編集を行ったもので、全体として10分未満の短編フィルムだ。尤も、元々幻想交響曲を映像化しようとしていた彼の事だから、以前からそうした希望はあったのかも知れない。
 だが、柾は今後、出来れば全曲を映像化したヴィジュアルオペラを撮りたい、と云い、長編、大作にも取り組みたいそうだ。
「未だ本当に出来たばかりのジャンルですから、どうした形で商品にするのか、或いはどうした形で流すのか、テーマは、とか色々問題はあるみたいです。でも、柾さん、真剣でした。きっと、これから良い作品が本当に完成すると思います。応仁守さんも、全面的にその活動はバックアップする(って云うか、安心して僕に付いて来なさい、って云ってたっけ……)って仰ってましたし」
「……そうねえ、」
 ライヴ形式では無く、可能性としては世界へ向けて限り無く発信する事が可能な形の総合芸術。
 それも、ある意味で文化遺伝子、ミームと云える。
「……私個人では無くて」
 ウィンは低声で、だがはっきりした声で付けて呟いた。
「『EOLH』としても、柾さんには期待出来るし、全面的にバックアップしたいわね」
 ──彼女の憧れの人、応仁守社長も居ることだし。
「樹ちゃん、お気に入りのようね、柾さんの。……これからは晴れて音大生、大学は自由だから時間にも余裕が出来るわよ。また、協力してあげるでしょう?」
「ええ」
 ──正直、柾のあの人間離れした勢いには引き摺られそうになる事もあるが……。彼の芸術は素晴らしいと思うし、自分に出来る限りの事はしたいと思う。そしていつか、自分から柾に素材として音楽を提供出来るような事になればどんなに良いかと。
「それに、ウィン従姉さんの事業も、僕に出来る事をお手伝いさせて下さい。個人的に、ミニコンサート(とか応仁守さんのギター……)が楽しみ、っていう事もあるんですけど」
 勿論、と従姉が微笑み返す。──『EOLH』、パトロンとして応援して行きたいと思うのは、結城忍のような既に地位を確立したプロだけでは無い。芸術家の卵の若者にも、出来る限りの支援をして行きたいし、彼等から逆に学び取る事もあると思う。
 ──樹を始めとして。

「所でね、先日、私太巻さんの所へ行ったのよ」
 徐ら、ウィンは話題を変えた。顔を上げた樹を見つめる彼女の目は、可笑しくて仕方無いというように笑っていた。
「磔也の事だったんだけどね。──そうしたら、私が店に入った途端に、フライパンが飛んで来たのよ」
「はい!?」
「磔也よ」
 そこでウィンはとうとう吹き出した。
「勿論私を狙ったのじゃ無くて、太巻さんが避けたからなのだけど。危ないのよ、何せ熱したままだったんだもの。思わず、咄嗟にサイコバリアを発動してしまったわ。……あの人達の『親子』喧嘩って、ホント、過激」
「……何があったんでしょう?」
「何でも無いわ。きっと、いつもの調子で太巻さんが揶揄かったのよ。今じゃねえ、磔也、太巻さんの食事係よ。……フライパンを投げるくらいだから、大人しく云いなりになっている訳じゃ無いでしょうけどね☆」
「そうだったんですか……、」
 ……それほど、元気に立ち直ったのだ。
 と、安心すると同時に今度は、いずれはその熱したフライパンが自分に向けて飛んで来る事も有り得るのだろうかという不安も発生したが。
「ねえ、私、春休みにでも磔也を母に預けてみようかと思うの」
 含み笑いと共に、ウィンが大変な事を提案した。

【4h:2004-03-2Xa】

「お久し振りです」
 電話口に出た磔也は、──レイから、どういった手段かは想像も付かないが探偵の田沼がIO2から彼の携帯を回収して返却したので、今はそれで連絡が取れるらしいと聞いたもので──樹からの不意の連絡にやや戸惑ったような声で、ああ、とはっきりしない返事をした。
『……何の用』
「……あの、僕、通りました。……第一志望」
 ──だから? と冷めたような、然しただ冷たいだけでは無いニュアンスをどこかに含んだ声が返った。
『そんな分かり切ってた事を態々報告しに掛けて来た訳?』
 ウィンから、まあ随分とお元気らしいという話は聞いたものの、前に見た時とは打って変わった彼らしい対応に、樹は声にも笑みが溢れるのを隠せなかった。
 軽く息を吸ってから、年末に交わした切りだった約束を切り出す。
「──だから、余裕が出来たので。約束したじゃ無いですか。……僕のピアノ曲を弾いてくれるって。……お願い出来ませんか、近く」
 溜息の後、──良いよ、また今度……、と曖昧に答えた磔也に、はっきりした返事を貰おうと間髪を入れず、樹はやや積極的に予定を訊ねた。
『暇だよ、別に』
「じゃあ、今からでも良いですか? ウィン従姉さんのホテルに来て下さい。従姉さん、年末にホテル用のグランドピアノを購入したんです。凄いですよ、……ベヒシュタイン、」
 ふ──ん……、と気の無い返事をしつつ、殊更仕方無ェな、という風に彼は「昼過ぎには行くよ」と云う。──但し。
『男の方の従兄は追い出しとけよ。絶対に』
 くるり、と樹は(彼はそうそうホテルに入り浸っている訳でも無いのだが)周囲を見渡し、従兄が居ない事を再度確かめて安堵の溜息を吐いた。もし居たら居たで、樹としても従兄を追い出せる程の勇気も権限も無いからだ。

 楽器奏者に取っては1日練習を欠かしたブランクさえ手痛い。彼の場合、どうだろう、と思ったが、──やって来た磔也はベヒシュタインA189に何の感動も示さずに「30分くれ」と素っ気無く告げて勝手に鍵盤に向き合った。
 今日は未だピアノを触っていなかったのだろう、指慣らしである。ハノンをハ長調から攻略して行く彼を黙って見守っていた樹は、嬉しさを抑える事が出来なかった。確りした手の動きは、少なくとも年末からのブランクを完全に取り戻していた事が伺える。余程、再開後は必死で苦しんだ事だろう。──それほど、矢張りこのままピアノを忘れたく無い、何とか取り戻したいと思って、あの性格の磔也が努力した程に、音楽は彼に取っても大事な物だったのだ、と思った。 
 それに、──先ず基礎練習から始める辺り、傍目にはかっちりし過ぎた印象を与えるが、受験を経験した樹にとってはその基礎こそが如何に大切かが分かっている。──変わった、と思う。性格はそう簡単には変わらないだろうが、少なくとも、ピアノへ対する姿勢は。
「……、」
 黙ったまま彼の指慣らしを見守っていた樹の傍らには、いつの間にかウィンが立っていた。彼女もまた、同じ事を感じたらしく笑顔を浮かべている。
 きっかり30分後、磔也は初めて樹を振り返った。
「良いよ、見せてみな」

「……、」
 磔也の、様々な脅迫観念に捕われた精神から歌心を解放したい、という願いを込めた呪歌としてのピアノ曲。それを、特に特出した表現があった訳でも無いが難無く初見でさらりと弾いてしまった磔也からの感想を待って、樹はやや正した姿勢を張り詰めて黙っていた。
 だが、言葉を待つ樹を賺すように磔也は何も云わない。視線は楽譜に遣ったまま、肯定とも否定とも取れない感じで2、3度、軽く頷いただけで何も云わなかった。
 ──どうですか、と樹も切り出せなかった。──待とう。
 が、暫く黙っていた磔也が次に取った行動は、如何にも何となく、気紛れ、といった感じで軽くアルペジオの伴奏を弾きながら低声で歌を口ずさみ出す、という予測の付かないものだった。

「Auf Flugeln des Gesanges……、……Herz liebchen, trag'ich dich fort、──」

──……あ、

 『歌の翼に』。以前、樹が「自力で立ち上がって」、と願いを込めて歌った歌だ。
 覚えていてくれた……? とドキドキしながら見守る樹を、磔也が振り返った。ピアノ伴奏は続けながら、呆然としている樹に「おい」と声を掛ける。
「……はい、」
「……忘れた。……続き。お前、歌えよ」
「……、」
「早くしろ、」
 そう、偉そうに一方的な命令をすると、磔也はふい、と鍵盤に向き直ってしまった。──素直じゃない、だけど、……。
 多少、基本を正確に押さえようという意思が伺えるピアノにはなっていたが、未だ未だ他人の歌を聴けていない。歌い難い伴奏この上無いピアノではあったが、この時の樹は、そうした事を一切抜きにして歌いたい、と思った。

「──Dort wollen wir nieder sinken unter dem Palmenbaum,
und Lieb' und Ruhe trinken und traumen seligen Traum,
und Traumen seligen Traum, seligen Traum……、」

 ウィンが、ふいに踵を返した。どこかへ電話を掛けに行ったらしい。

【5h:2004-03-2Xb】

「歌も上手だったんですね」
「上手か無ェよ、お前、お世辞は良いけど自分が歌科(※声楽科の通称)で作曲して行く気なら、正確な判定能力は養っとけ」
 音楽が終わった後、自然と視線を合わせて言葉を交わしながら、折角誉めても磔也は無愛想である。
「お世辞じゃ無いですよ、音感も良いし。声はそんなに通らないけど、専門で無いなら音程とリズムソルフェージュがそこまで出来れば、」
「厭ほどやらされたし、自分で気持悪いからな、音程だけは一応取れる」
「でも」
 でも、と樹は微笑みを浮かべた。
「嬉しかったです。……この歌を、磔也君が覚えていてくれた事が本当に嬉しい。……音楽の勉強って、忍耐と辛い事の連続ですよね。練習に掛けた1パーセントさえ、喜びを感じる時間は無い。……でも、こういう事があると、本当に、音楽をやっていて良かった、そう、思うんです」
「……、」
 磔也は楽譜立てに肱を付いて、ぼんやりとしていた。──誰に向けて、とも無く呟く。
「……良かった、と思うかな」
「少なくとも僕は、そう思います。後は人それぞれだから、僕には磔也君の事は分からない。でも、矢っ張り、ピアノが残ってたんじゃ無いですか? 誰かに云われたからじゃ無い、違いますか。磔也君が、弾きたいから弾く、そうでしょう?」
 確信を込めて、樹は断言した。──そして、そうだ、と答えて欲しかった。彼が肯定したからには、それは本当に自分の意思だろうから。
 磔也は頷きはしなかったが、変わりに視線を譜面立ての上の樹の楽譜へ向けた。
「この曲、……暫く俺に預けてくれないか、」
「え?」
「……何つーか、……いくら音とリズムが読めても、全ての曲を初見でやろうなんて甘いよな。──と、思った、最近。別に練習って、その曲に必要な技術の無い人間がやる事だけじゃ無くて、……何て云うんだ、」
 ──と、そこで磔也は樹を見上げた。それを受けて、樹は後を継いだ。
「解釈や表現、……歌心。自分の中に、その曲の世界を少しずつ、確実に構築して行く事」
「……まあ、そういう事かな」
「全然構わないですよ、それに、その曲は磔也君の為に作ったんです。もしかしたら拒絶されるんじゃないかって怖かったけど、そんな風に取り組んで貰えるなら本当に嬉しい。僕が考えもしなかった表現が出て来ても良いと思います、それこそが磔也君の音楽なんだし、──即興じゃ無くて譜面に残して行く、作曲の醍醐味ですよね」
「──本当にきれいな旋律だと思ったんだ、……単純に、それだけ」
 そうして、譜面立ての上に広げた楽譜をざっと纏めて揃えながらやや視線を下へ落とした。
「……大体、批評とか、……俺に出来る訳無いだろう。……お前に比べて、一体俺にどれだけの音楽性があるって云うんだ。……精々初見弾きする位しかしてやれない」
「気にしないで、……僕は、ただ磔也君に弾いて欲しかっただけなんです。……ピアノ、続けるんですね」
「──俺にはそれしか無いし」
「……僕は、別にピアノを弾かなくても磔也君の事は友達だと思ってます」
「……何、厭なのかよ、俺がピアノ弾くの」
「そうじゃありません、」
 樹は慌てて言葉に詰った。

──ええと……、

 何と云ったら良いのだろう? そんな積もりじゃなくて、人間として磔也君の事を認めてるって云うだけで、……つまり、何だろう、それしか無いって、周りの人間が期待しているからピアノを続けるっていうのは違うな、って思っただけで……。
 ──上手く、言葉に出来ない気持ちがもどかしい。
「そうじゃ無くて、……それは、磔也君の意思なのかなあ、って」
「……、その、積もり」
 磔也が静かに頷いた時、何か、目の前の世界が、心が、暖かい空気に包まれたような感覚を覚えた。
 
──音楽をやっていて良かった。

 いつからかそう願っていたように、磔也と、同じ音楽を志す人間として良いライバルになれる可能性も現実味を帯びて来た。
 ともかく、樹は春から音楽大学へ行く。歌は続けながら、大学では作曲を専攻する事になる。
 大学生活は、予想出来ない事ばかりだ。
 きっと、今日のような思い掛けない、然し音楽の喜びを心から実感させてくれるような出来事も起こる事だろう。

 未だ、始まったばかりだ。
 だが、飛べない鳥は、歌の翼を広げる事を覚えたようだ。 

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1985 / 葛城・樹 / 男 / 18 / 音大予備校生】

【0931 /  田沼・亮一 / 男 / 24 / 探偵所所長】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼異世界調査員】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1787 / 応仁守・雄二 / 男 / 47 / 応仁重工社長・鬼神党総大将】
【1831 / 御影・涼 / 男 / 19 / 大学生兼探偵助手?】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1990 / 天音神・孝 / 男 / 367 / フリーの運び屋・フリーター・異世界監視員】
【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

NPC
【結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】

【太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】

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■         ライター通信          ■
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磔也はこれから、葛城君のピアノ曲を弾き込む以外にも主題の旋律を使った変奏曲を作ってみたいそうです。

本当は受験の実技試験はもう少し先ですけども、お疲れさまでした。本当におめでとうございます。
柾の暴走が差し障り無かったようで、ほっとしています(……)。
でも、このまま行けば今後は歌以外にも彼に振り回されそうな……どうも確定のような……。

不束なNPCをどうぞ宜しくお願い致します。

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