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アトラスの日に
■クリームソーダ■
山岡風太は、賑やかな応接室の入口付近に、何気なく目を向けた。聞こえてくる言語は英語と日本語とフランス語が混じり合い、混沌としている。
一行はやがて応接室に入っていった。最後に部屋のドアを閉めたのは、灰色の髪に灰色の目、灰色のスーツのイギリス人だった。
――あ、今の、レイさんかな。
風太が憧れる作家の姿も、このアトラスでは最早見慣れた顔だ。けれども、風太はまだ見かけるたびに少し緊張するのである。
――俺もあの部屋に平気で入れるような常連になりたいかもな。
「ぅわ!」
溜息混じりに振り向いたと同時に、風太は軽く飛び上がった。
黒いレインコートの少女が、いつの間にか背後にいたのだ。気配はなかった。まるで命を持たない物体のようにそこに佇んでいた。
「び、ビックリしたー!」
「あ、ご、ごめんなさい」
少女は、ちょんと一歩退いて、口を押さえた。口を押さえる手は、黒い手袋をはめている。土気色の顔をした気配のない少女は、あの作家リチャード・レイといつも一緒にいるはずだった。
「い、いや、謝るのはこっち。いきなり驚くなんて失礼だし」
「気にしないで下さい、よく驚かれるから」
少女は本当に傷ついてもいないようで、肩をすくめて苦笑した。
「……レイさんなら、応接室に入ってったよ」
「あ、えっと、今日はお友達がたくさん来てて、その中にはアラビア語しか話せない人もいるから、レ……先生は通訳で忙しいみたいなんです」
「そっか」
「あたしがいても、邪魔だから」
「そんな……そういう暗いこと考えちゃ、毎日が楽しくなくなるよ」
風太が言うと、少女は恥ずかしそうに唇を噛んで、また肩をすくめた。
風太はそのとき唐突に、自分が編集部に来た理由を思い出す。そうだった――自分はバイトをしに来たのだ。今抱えている書類の束をすぐ目の前のデスクに置けば、それで仕事は終わりだが。
「と、と、と」
思いついてから早速書類をどさりとデスクに置き、風太は肩を回した。
「俺の仕事は終わり。暇なら、それを潰すの、手伝うよ」
「え」
「1階に喫茶店あったよね。そこ行こう。あそこの飲物、結構美味いよね」
「……はい」
ふうっ、とふたりは微笑んだ。
コーヒー1杯280円。
風太の懐はたった今非常に温かい。バイト料は、日払いだったのだ。が、彼が注文したのはコーヒーだった。
「あ。……あたしもコーヒーで」
黒尽くめの少女は、ライトも夕陽も当たりそうにない隅の席に座った。喫茶店の中に入っても、彼女は手袋を取らなかったし、レインコートのフードから頭を出そうともしない。
少女はメニューをろくに見ず、風太の「俺コーヒー」という言葉に便乗した。
「いいよ、俺が奢るから。今かなり金持ちなんだ。何でも好きなもの頼んでよ」
「え、でも……」
「パフェとかさ」
「……えっと、……じゃ、クリームソーダで」
クリームソーダ580円。
「……味は、メロンより、ブルーハワイがいいな」
恥ずかしそうに微笑んだ少女から目をそらし、風太はウエイトレスを呼んだ。
呼ぶ声は多少ながらも上ずっていた。
「……」
「……」
コーヒーは、オーダーから5分も経たないうちに来た。
「……」
「……」
「なんか……」
「なに?」
「……」
「……」
「ナンパされたみたい」
ぶっ、と風太はコーヒーを噴いた。ふたりはあーあーと声を上げながら、こぼれたコーヒーを紙ナプキンで拭き取る。
「そ、そんなつもりなかったんだ。ただ――」
そこで、風太はようやく気がついたのだ。そして、今こそが機会なのだとも気がついた。自分はこれまで、この少女が黒尽くめでいる理由どころか、名前すらも知らなかったのだ。
「ごめん」
「はい?」
「名前……聞いてなかった」
風太が気まずい顔で言うと、少女は目を見開いた。
ああ、気のせいではなかった。変わった目の色だと思っていた。彼女の瞳は、夜の獣のような金色だ。黒い影の中で煌いている。この目に、自分は惹かれたのか?
風太は少女の驚いた顔に驚いて、半開きのままの口にも気がつけなかった。
「……言ってませんでしたっけ」
「俺が悪かったんだ。聞きもしなかったから」
少女は風太を真正面から見つめて、それから気恥ずかしそうに小さくなった。
「蔵木みさとです」
クリームソーダが来た。青いソーダ水の上に、白いアイスクリームが浮いている。それを見て、みさとは嬉しそうに微笑んだ。
「ほんとにさ、変わった先生なんだ。とにかくミョーなことは全部プラズマのせい」
「実際に幽霊を見ても、ですか?」
「たぶんね」
「変わってるかも」
「蔵木さんの『先生』は? 変わってたりする?」
「はい、とても。……あ、そ、そんなことないです」
「あはは、こんなときに隠すことないのに。それに、作家さんて変わってた方が作家さんらしいよ。偏見かもしれないけど」
「……変わってますけど、とても親切で、いいひとですよ」
「いつも一緒にいるの?」
「はい」
「家に帰らなくて大丈夫?」
「――」
空っぽになったグラスとカップ、弾み始めた会話の中で、みさとがそのとき、本当に黙りこんだ。金の視線が、テーブルに落ちた。
本能的に、風太は慌てた。触れてはならないところに触れたらしい。龍の逆鱗よりもまずいところに。みさとが両親を亡くしているのか、はたまた家出中なのか、そんな事情はどうでもいい。
「あっ、と、えっ、と、俺んちも今大変らしいんだ!」
自ら罪を償うことにした風太は、自分の家庭の事情を引っ張り出してみた。みさとの視線が、風太に戻された。
「大変? ……何かあったんですか?」
心配そうに尋ねてくるみさとに、風太は言葉を詰まらせる。
みさとが心配するほどのことは、風太の家に起きていないのだ。山岡家は、本当に、どこにでもある普通の家庭なのだから。
「い、妹がいてさ。蔵木さんと同じくらいかな。今年大学受験だってのに、カレシなんか作っちゃってまー、おととい親父と大ゲンカしたんだって。お袋が泣きながら電話してきて、参ったよ」
乾いた笑いを飛ばす風太を見て、その話を聞いて、
みさとが苦笑いをした。
「ほんとに、大変ですね」
「ああ、ほんとに」
「でも、すてき」
「え?」
「あ、聞かなかったことにして下さい!」
「なになに? 聞いちゃったよ」
「ほ、ほんとに、今のに突っ込まないで!」
口元を押さえて小さくなったみさとの目が、きろりと喫茶店の入口に向けられた。風太もその視線を追って、ふたりは「あ」と声を漏らす。
喫茶店に入ってきた灰色の紳士は、まっすぐ風太とみさとの席に近づいてきた。灰色の目に、安堵があった。
「こちらでしたか。すみません、閉め出してしまったようなかたちになってしまって」
「いいんです。山岡さんとお話ししてました」
「あっ、ども」
憧れの作家に目を向けられて、風太は口篭もる。作家は――リチャード・レイは、静かに微笑んだ。
「ミサトさんを、有り難うございました」
「い、いえ、いいんですよ。いきなり誘っちゃって、蔵木さんも迷惑だったかも」
「ううん、とっても楽しかったです」
みさとが薄く笑いながら唇を噛み、空っぽのグラスに目を向けた。どうやら彼女は、恥ずかしいときに唇を噛むらしいのだ。
「クリームソーダ……ごちそうさまでした」
「気にしなくていいよ。……また話せるかな?」
「はい」
その返事と視線は、まっすぐにやってきた。
日が沈んでいて、灰色の紳士とともに白王社ビルを去る少女は、闇の中に溶けていた。
あの黒尽くめの理由も、聞いてはいけないことだろうか。
風太は薄っぺらい伝票を手に取って、空っぽのグラスをしばらく見つめていた。
「そうか、みさとちゃん、か」
<了>
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【2147/山岡・風太/男/21/私立第三須賀杜爾区大学の3回生】
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ライター通信
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モロクっちです。このたびは試験的な募集にも関わらず、内容お任せゲームノベルの発注、まことに有り難うございました!
みさと嬢、人気なのでしょうか。少女キャラは苦手……というわけではないのです。ただ、いつもオヤジばかり書いているので慣れていないというか(笑)。可愛らしすぎやしませんでしょうか。しかもクリームソーダ。
これから風太様とみさとの関係はどうなっていくのか、楽しみでもあります。でも、これ以上書けるかしら(笑)。
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