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<PCシチュエーションノベル(グループ3)>


あるいは硝子の蝶を以って


 その日、武田小夜子は実に『親戚らしい理由』で、叔父である武田隆之の自宅を訪れていた。
「これ、ママから叔父さんへ」
 そういって差し出されたのは、紙袋から覗く紅玉だった。母方の実家で充分に熟してから収穫されたそれらからは仄かに甘い香りが漂ってくる。
「ああ……義姉さんにはいつも気ぃ使ってもらって……」
 申し訳なさそうに隆之は自分の髪を掻き撫でる。その視線はどこか所在なげに床の辺りを彷徨っていた。
「それから伝言。忙しいのも分かるけどたまにはウチにも顔を出せ、ってパパが」
「う」
 青い瞳でまっすぐに叔父を見詰めると、今度はたじろぐように目が泳ぐ。
 それを無言で小夜子は眺めていたが、それに気付くと、隆之は決まり悪げに苦笑いを浮かべて自分の背後を指差した。
「せっかく来たんだ。上がっていけ。茶ぁくらい出すぞ?」
「えと……」
 居間に続く扉の向こうに女性がたっているのが見えた。先客がいるところへ自分があがりこんでいいものなのだろうか。
 そんなことを逡巡する小夜子に、再度隆之は上がるよう促す。
「じゃあお邪魔します」
 後ろに立つ女性を気にしながら、誘われるまま、叔父ひとりで住むには少々広すぎる家へと上がった。
 
 大雑把に片付けられた居間で紅茶を振舞われる間も、小さなテーブルを挟んで向かいの席に腰掛けたまま、『彼女』は俯いてじっとしている。
 叔父が甲斐甲斐しくお茶請けなども用意してくれているけれど、なにをするでもなくただ静かにそこにいるだけだ。
 誰だろう。
 小夜子は紅茶のカップに口をつけながら、そっと盗み見るように彼女の様子を窺った。
 黒い髪が彼女の肩から胸、腰にかけて、ストールか何かのようにすっぽりと包んでいる。
 髪に縁取られた鋭利な顎のラインと、少々血の気のない蒼ざめた肌の色。唇だけは何故か印象的な紅を配している。
 叔父さんの知り合い、かな。
 そう思ったが、紅茶を飲み終えて他愛のない雑談をニ、三交わし、そうして暇を告げる時間になっても、叔父が彼女を紹介してくれる素振りはなかった。
 玄関先で、小夜子はさりげなく隆之の背後に視線を投げかねながら、問いかける。
「ねえ、聞いてもいい?」
「ん?」
「叔父さん、再婚するの?」
「は?なんでだ?」
 あまり暖房の利いていない部屋で、隆之はしきりに流れ落ちる汗を拭いながら訝しげに問い返す。
 それは照れ隠しでもなければごまかしでもない。純粋に質問者の意図を解していない表情だった。
 まるで彼女の存在そのものに気付いていないかのように振舞っている。
 自分と叔父だけしかいないかのように。
「あ、そっか」
 口の中で、ひとり納得して呟く小夜子。
 どうやら、自分は『また』間違えてしまったらしい。
「ん、なんでもない。じゃあね、叔父さん。また」
「ん?あ、ああ…じゃあ、またな」
 姪の言動をまるで理解できずに置いてけぼりにされたカオの隆之に背を向け、小夜子は迷いのない足で玄関を踏み出した。
 扉が閉まる瞬間、一度だけ小夜子は振り返る。
 黒い髪がさらりと肩を掠めて揺れる。
 叔父の背後で、『彼女』は赤い唇をすぅっと吊り上げて音もなく嗤った。
「…………今夜、行くわ……」
 小夜子の宣告とも取れる呟きは、隆之にも『彼女』にも届かない。
 これからどう動けばよいのかを、自分は嫌というほど積み上げてきた経験によって知っている。



 ネエ聞いて私の声を聞いて私を見てネエ私を助けてお願いお願い助けて助けて助けて――――――



 定期試験を明日に控えた午後9時25分。
 非常に切羽詰った状況下にもかかわらず、武田一馬は何故か薄暗い自宅の車庫でバイクのメンテナンスを行っていた。
「息抜きは必要ってね」
 部屋の机に書きかけのレポートや開いただけの教科書、これから写す予定のノートのコピーを雑然と積み上げたまま放置して、一馬はペンの代わりにドライバーを握る。
 床にはオイルや整備用品一式を広げ、白熱灯の下、最近あまり構ってやれていなかった愛車の状態をひとつひとつ丁寧に点検していった。
 カバーを外し、エンジンを見、ブレーキの状態を確認する。錆びてもいないし、タイヤも大丈夫そうだ。
 時間が経つのも忘れて、一馬は黙々とかつ活き活きと作業に没頭していく。
 だから気付かなかった。
 いつのまにか彼女が自分の背後に立っていることに。
「ねえ、カズ」
「うわっ!?」
 不意打ちで名を呼ばれ、思わず悲鳴じみた声を上げて弾かれたように背を伸ばす。
 バクバクと激しく打ち付ける動悸を宥めながら、一馬はゆっくりと後ろを振り返る。
「さ…小夜ちゃん……」
 そこには見慣れた従姉が見慣れない表情を浮かべて立っていた。
「こんな時間にどうしたの?」
 時計は既に、女性が一人歩きをするには少々物騒な時間帯を示していた。何より、予告なく彼女が現れたその意図を一馬は測りかねて問いかける。
 だが、彼女は質問に質問で返して来た。
「ねえ、カズ……最近、叔父さんの家に行ったか会ったかした?」
「叔父さん?撮影があって留守にするって聞いてたから行ってないし、会ってないよ。明日あたり顔を出そうとは思ってたけど」
「撮影、どこに行くとかは聞いた?」
「海とは聞いてたけど、詳しいことまでは何も。オレ、テスト期間だったし」
「そう……」
 ふぅっと考え込むように彼女は押し黙り、会話が途切れた。
「小夜ちゃん?」
「私と一緒に来て。叔父さんの家に行きたいの」
「え?」
 訝しげに手を伸ばしかけた一馬に、彼女は何の前置きもなく、限りなく命令に近い口調でそう告げた。
 小夜子の思考についていくことが出来ず、それでも必死に考えをめぐらせながら問いかける。
「なんかあった?」
「あったわ。だから付き合って欲しいの」
 理由を聞きたいし、きちんと何があったのか知りたいと思う。
 だが、彼女はそれに対して理由らしい理由も述べないまま、その細い腕で一馬を捕らえて引き摺る。
「お願い。とにかく叔父さんちに一緒に来て」
 ひとつ上の従姉の言葉はどこかひどく胸騒ぎを誘う。
「え?ちょっと、小夜ちゃん!?」
 整備の終わったバイクに半ば押し上げられるカタチで跨ることとなる。
 いまいち釈然としないが、それでもなかったことにして無視を決め込むことなど当然出来るはずもなく。
 一馬は軽く溜息をつくと、黙って彼女にヘルメットを手渡した。
 小夜子が背中にしがみつくのを合図にグリップを握りなおし、エンジンが掛かるのと同時にアクセルを思い切り踏み込んだ。
 マシンが上げるゴウッという声と共に、風が冷たく巻き上がる。



 私を助けて私を見て私を私を私を――――ネエ……私と………来て――――?



「なんか、今日はやけに冷え込むな」
 隆之は、暖房をつけているにも関わらず、ずっと粟立ったままの二の腕を時折擦りながら現像作業を繰り返す。
 赤い光に照らし出された液体の中の写真たち。
 それらを掬い上げては、目線の高さより上に縦横無尽に張り巡らした紐に吊るしていく。
「……ん?」
 だが、作業を進めるその手が不意に止まる。
 砂浜を背景として笑うモデルに、濡れた女の影が二重写しとなって貼り付いていた。
 黒く長い髪がまるで生き物のように絡まっている女の身体。俯いた顔に表情らしい表情は窺えない。ただどこまでも冷たく沈んだ瞳は、ぞっとするほど空虚で哀しかった。
「こいつはアトラス行き確定、だな」
 そうしてうんざりしたように吐き出された溜息には、僅かだが憐憫めいた優しさが混じりこんでいる。
 早くこの女も楽になれたらいいと思う。誰かが、彼女を導いてくれたらいいと思う。そして、モデルの少女に何も起こらなければいいと強く思う。
 隆之はネガと写真とそっと机の端に避けて、また現像作業に戻る。

 ピチャンピチャンぴちゃ…ん………

 『彼女』は心地よいぬくもりを、その背後からじぃっと見つめている。
 自分を思ってくれるもの。自分を見つけてくれたもの。自分の声を聞いてくれるかもしれないもの。
 この暗く苦しく淋しい世界から、自分を救ってくれる存在。
 ついて来て良かったと、『彼女』はただその幸運を喜んだ。
 この人ならば、自分をきっと幸せにしてくれる。
 女はただ隆之の広い背に縋りついて、ひっそりと歓喜に嗤う。



 窓から明かりのこぼれるその家を、小夜子は強い光をその瞳に宿し、見上げた。
「昼間よりひどくなってる……」
 眉間には深い皺が刻まれる。
「……これって」
 何も知らされないままにバイクを走らせた一馬も、ここに来てようやくことの次第を正確に理解する。
 あの中で、鮮赤の唇を吊り上げて女が嗤っているのが分かる。
 禍々しい空気。
 吐き気のする濃い死臭。
 女を中心として、どろりとして黒く淀んだ影がじわじわと内部を侵している。
 叔父の家が『影』に蝕まれていく。
「私、最初、叔父さんが再婚するのかと思ったの」
「え?なに?」
 いきなり飛んだ話題に面食らって思わず聞き返す。
「女の人がずっと傍にいてじっと叔父さんのこと見ていたから、私、てっきりこの人と結婚するんだと思ったの。傍にいるのが自然みたいで、そんなふうに好きなのかなって思ったわ」
 叔父が再婚するなど、そんな素振りすら自分は見たことがない。むしろ、仕事以外では出来る限り妙齢の女性から逃げ回っている叔父の姿しか一馬は知らないのだ。
 女性がいても緊張感を持たず、平然としていられるとしたら、それは確かに相手との関係が気になるところだ。
「でも、私の勘違いだったわ」
 さすがに死んでしまった人とじゃ籍を入れられないもの。
 そんな台詞が後に続く。
「あ、ああ……なるほど」
 妙な説得力に、思わず素直に頷いてしまった。
 そこから一拍置いて、「ん?」と思う。
 微妙に何かが間違っている。そもそもの出発点というか観点が違うような気がしたが、でも小夜子ならばそれも仕方がないかもしれないと納得する一馬。
 そしてもう一度、今度はしっかりと闇を見据えるために感覚を研ぎ澄ませる。
 この家を取り巻く空気と、そこに含まれた黒い想いが、自分の中に訴えかけてくる。
「どんどん膨らんでいくわ。どんどんどんどん叔父さんを絡めて縋りついていく……」

 ――――寒いのコワイノ淋しいサビシイ寒い寂しいネエここに来て私とキテ私の声をキイテ聞いてキイテ

「………でも、彼女も辛いとか思っちゃダメかな」
 ポツリと呟く。
「何とかしてあげたいというか……なんとか、さ」
 孤独に震え、抜け出すどころかどんどん深みに嵌っていく魂に、救いをもたらすことは出来ないのだろうかと考えてしまう自分がいる。
 笑いながら狂おしくもがき、足掻く彼女が痛くてたまらない。
 叔父が狙われている。
 でも、隆之を守りたいと思うのと同じ強さで、彼女を自由にしてあげたいと思わずにはいられない。
「カズはいい子ね」
 ひとつしか違わない従姉が、自分を見上げ、不意打ちでくすりと笑った。
 その瞳が何故かひどく優しげで戸惑う。
「いい子……いい子っすか?」
「でも、だからあなたに一緒に来てもらったんだけどね」
 そうして、彼女は一馬が見守る中で禍々しい闇と正面から向き合う。
 精神を細く鋭く見えない糸のように張り巡らせ、ゆるやかに深呼吸を繰り返し、下ろされた両手をそうっと家に向けて開いた。
 薄く開いた唇が何事かを紡ぎ、何かがそれに呼応する。
 ゆうらりと、空間に別の次元が重なっていく。
 一馬はただ、息を詰めてその光景に見入っている。
 不意に、リン…と、繊細な硝子を触れ合わせたような、細く高く澄んだ音色が闇の中に響いた。
 見上げた空に、硝子細工の透明感を持った蝶が闇の中から群れとなって溢れ出す。
 それは彼岸と此岸の狭間から舞い降りてきた鮮やかな幻影。
 この世ならざる世界から召喚された蝶たちは、燐粉の代わりに清浄な光と微かな羽音をこぼしながら隆之の家へと吸い込まれていった。
 彼女が呼ぶ虫達は、いつもひどくきれいだと思う。
「カズ……あの人のこと、お願いね」
 視線を叔父の家に固定したまま告げられた言葉に、一馬もまた彼女を見ずに頷いた。



 彼女の歩く後をどろりとした闇が這いずり、追いかけ、そうして『家』は少しずつ腐臭を伴った穢れに蝕まれていく。
 女は心地よいぬくもりの中で、光を塗りつぶしていくようにこの家を取り込んでいこうとする。
 隆之はそれを知らない。そして、気付かない。
 現在この家で何が起こりどうなっていくのか、その変化の一部始終が、彼が生きる理からは完全に外れた出来事なのだ。
 温かい人の背に繋がりながら、廊下を居間を寝室を、彼女の心を孕んだ黒い意識は浸潤する。
 何もかもが自分と一体になっていく。
 あの人もゆっくりと自分を受け入れてくれている。
 もうすぐもうすぐもうすぐ。
 だが、それはつかの間の恍惚だった。
 ひらひらと花びらのように舞う蝶のひとつが、彼女が広げ続ける領域にふわりと触れる。
 バチッ――――――
 青白い火花を散らして、蝶が数匹弾けて消滅した。
 同時に、どろりとした影も光を受けた一部が欠損する。

 ―――――――――ナニ…ナニなに何なんなの……?

 群れを成す光は散らされては再び一点に収束し、今度は穢れた闇と泥と影を拭い去るようにうねりながら押し寄せる。

 バチバチバチッ―――ッッ――――ザンッッ――ジジッ―――――

 煩わしげに女は蝶を払いのけ、穢れを広めようと動く。
 だが、先程まで自由に動けたはずの温かい家は急速に彼女を拒絶し始める。
 手を、アシを、喉を、全身を、ギリギリと締め上げられる苦痛に、女は低い呻き声を洩らす。
 念の本体とも言うべき黒い水も、うねり暴れ弾けて抗いながらも徐々に押し留められていく。
 ただひとつのぬくもりと救いを求め、彼女は再び隆之の元へ戻ろうと試みる。
 あの躰が、欲しくてたまらない。

 ヒトリになりたくない、コワイ、イタイ、嫌、ここにキテ私をミテ助けてたすけてネエタスケ―――――

『ダメ。叔父さんは連れて行かせない』

 刃のように研ぎ澄まされた鋭い念が、女の眉間をまっすぐに刺し貫いた。
 音にならない悲鳴が迸る。
 長く尾を引く慟哭。
 無理矢理引き剥がされた痛みに悶える女に、今度は別の声が降りてくる。

『大丈夫。オレが受け止めてあげるよ。こっちにおいで。大丈夫…大丈夫だから……』

 あの人と同じ優しい声。あの人と同じ優しい温度。あの人以上にはっきりと、自分に手を差し伸べてくれる存在。
 女はそれに縋った。
 纏わりつく闇から離れ、地を蹴り、手を伸ばし、向こう側に立つ声の元へと飛んだ。
 光の羽根はそんな彼女の躰と想いを優しく覆い隠し、ゆるゆると食むようにして内側へと取り込んでいく。
 ほんの僅かな残滓も許さずに。一点の穢れも残さずに。一片の想いも取りこぼさずに。
 『彼女』は蝶に呑まれて消えた。
 孤独と恐怖と痛みと苦しみから、彼女の魂は完全に自由となった。
 そして。
 常ならばありえないほどに清浄にして静寂な時が、穢れを一掃された家の中にもたらされる。


 大丈夫。怖くない。寂しくない。ひとりじゃない。暖かい世界へ。もう大丈夫―――――


 小夜子がふぅっと大きく息をついて、全身の力を抜いた。膝から崩れそうになる身体を、一馬が後ろからさりげなく支える。
「お疲れさま」
 自分にも、この家を覆っていたものが珍しいほど清浄な空気に拭い去られていったことが分かった。
 あれほどに圧迫感をもって迫ってきた気配が、今は微塵も感じられない。
 なにより、彼女がこの世界から消える瞬間に残した声が、自分に届いている。
 コレは錯覚などではない。
「えっと……カズ、ごめんね?」
 一馬は一瞬不思議そうに小夜子を見、それからどこか人を安心させる人懐こい笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいよ」
 分かっているからと、深い色の瞳が語る。
 彼女の複雑な心の中を透かしてみることなど、その手の能力の持ち合わせがない一馬には出来ないし、もし有ったとしても正確に把握することなど無理だろうと思われた。
 だが、それでも、彼女の行動原理がどこにあるのかは分かるつもりだった。
「ん。じゃあもう帰りましょうか?」
 彼の肩に手をついて体勢を立て直すと、もうしっかりした足取りでバイクに手を掛ける。
「送ってくれるわよね?」
「勿論」
 そうして肩越しに振り返ると、一馬は笑顔でそれに応えてくれる。
「あのさ」
「なに?」
「何であの人は叔父さんにくっついたんだろ?」
 それはとても素朴な疑問だった。
 だが、そんな彼を見つめて、小夜子はほんの少し意味ありげに目を細め、そして僅かに俯く。
「簡単で難しい質問だわ」
 肩をすくめて、自分にしか分からない理由で微苦笑めいたものを口元に浮かべる。
 淋しいヒトは優しいヒトに惹かれる。
 自分の声を聞き、心を傾けてくれるものを望み、そして自分ひとりきりしかいない暗闇の世界に光を求める。
 寒くて仕方がないから、優しい温度を求めてしまう。
 生きている人間も、死んでしまった人間も、それは多分一緒で変わらないことなのだ。
 だから、多分叔父と同じ理由で、この従弟も『彼女』のような存在を惹き付け、捕らえるだろうと思う。
 時々この2人が驚くほどよく似ていると感じるのは、そこに流れる血が為せる業なのだろうか。
「……世話が焼けるわ」
 750ccのバイクが、2人の重みに一瞬揺らぎ、そして夜の世界にエンジン音を響かせて吸い込まれていく。



 ネエ聞いて私の声を聞いて私を見てネエ私を助けてお願いお願い助けて助けて助けて――――――



「気を取り直してここらでちょっと記念写真、と」
 ポラロイドカメラを構え、試しとばかりに昼間に持ってきてもらったリンゴを撮ってみる。
 フラッシュが一瞬瞬き、空間を焼く。
 じわじわと映像が浮かび上がるのを手持ち無沙汰で待ちながら、隆之は何気なく窓の外へ目を向けた。
 一瞬、ひどく近くでエンジン音が上がった気がした。
 空耳だろうか。
 そう思いつつ、手元に視線を戻した彼は、今度は首を捻ることになる。
「……なんだ、コレ?」
 間違えようもないくらい確かに今自分が立っているこのリビングの背景に、何故か一匹の蝶が写り込んでいる。
 素人目から見ても明らかにおかしいと感じた。
 2月という季節に蝶がいる、というだけではない。
 それは硝子のような無機質な透明感を持ち、淡い燐光をまとって今にもそこから消えてしまいそうな不確かさで空に留まっている。
「………また、ヘンなもん撮っちまったか?」
 この世ならざるものだと、自分の勘が告げている。
 今夜2枚目の不可解な写真。
 だが、悪い気はしない。
「まあ、いいか……それにしても今頃暖房効いてきたか?」
 先ほどまで感じていた肌寒さの代わりにやってきたのぼせるほどの室温の上昇に、隆之の汗は止まらない。
 彼はここで何が起こり、自分の甥と姪が何をしたのか、やはり気付かないし知らないままだ。
 ただ僅かな変化のみをそこに感じ取る。
「調節してこないとダメか」
 額どころか全身を流れていく汗を気にしながら、彼はいまだテーブルの端に残されているリンゴの傍に写真とカメラと共に置いて居間を出た。
 そして、彼の日常は滞りなく繰り返され、夜は更けていく。


 写真に写りこんでしまった硝子の蝶はしばらくの間そこに留まり、それからふぅっと淡雪のように融けて消えた。




END