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<東京怪談ノベル(シングル)>


正閏

 人間の身体は細胞で構成されており、その細胞で構成された内臓器官や脳神経により、空腹を感じる。
 だが今の迦迦は、一個の肉体としての存在は不確かで、喰らった肉を消化する胃も腸も、それどころか噛み千切り咀嚼する歯も顎も喉も、有ったり無かったりしている状態だ。それでも尚、強烈な飢餓を感じると言う事は、迦迦の場合は、その身を形作る個個の片それぞれが、飢えを感じていると言う事になるのだろう。

 それは、細胞がその仕組みの一環として、酸素や水を求めるのと同じように。

 迦迦が封印されてから幾年月、そこに禍々しきものが封印されている事さえも人々が忘れ去ってしまった頃の事。争いも無く、飢えや疫病の心配も無い平和な日々は、人々から危機感を失わせた。
 迦迦は、桧の箱の中で、人間の胎児のように身を折り曲げて縮こまり、深い眠りについていた。正確には、眠ってはいなかったのかもしれない。ただ、箱の中は五感の感覚を全て奪う闇であり静寂であり、迦迦は己が封印されてからどれだけの時が過ぎたのかも、外部で何が起こっているのかも、自分の手足がどういう状態にあるのか、何本あって何本失ったかさえ、全く推し量れない状態にあったのだ。
 それがある日突然、目前に光が溢れた。その刺激は迦迦にとっては苦痛にしかならず、迦迦は思わず呻き声を上げて初めて、己に声がある事を察したのだ。呻き声は叫びとなり、それは懐かしいとさえ言える感覚、飢餓の怖れであった。
 謂れの分からない、だが作りが強固で何かしらの因縁を感じる古い祠や塚には、何らかの意味がある故、無闇に侵してはならないと代々言い伝えられたのは最早昔。今となってはただの邪魔な建造物としか見られる事はなく、或いはいっそ、そこにそんなものがあった事さえ気付かれる事もなく。迦迦が封じられていた祠もそれと同じ理由から、都市開発の一環として土や木々と一緒に倒され、破壊されてしまったのだ。

 不意に解かれた封印、手にした自由を、迦迦は喜びと取る事ができない。今までは全ての感覚を奪われていたが為、当然、空腹も全く感じる事がなかった。それは、ある意味で幸せだったのだと迦迦の一部は思う。だが大半の迦迦は、そこまで論理的にものを考える事は出来ない。もっと感情的で直接的、言葉と言うものは存在せず、ただ感覚だけでものを見、判断する。そして今の迦迦を支配するもの―――尤もそれは、封印される前でも迦迦を支配していたのだが―――は、ただ飢えだけであった。
 迦迦が以前の時代で形どっていた姿は、今は見る影もなく散り散りになっている。だが、それ以外の形状が思いつかなかった為、迦迦は何とかしてその姿を保ちたいと努力していた。だが、法師の呪の術は意外にも強固なものであったらしい。この時代にあって尚、迦迦に形として存在する事を許さず、少しでも気を抜けば塵芥へ戻そうとする。それに逆らうも、まるで法師の意を引き継ぐかのよう、迦迦を苛む飢餓と苦悶も、迦迦の身を引き裂いては引き千切り、踏み躙っていく。迦迦は、己の身を保つ事ができない苦しみ以上に、飢えの苦しみにのたうちながら、それでも何かを感じ取ったのだろう、徐々に己が復活した場所から然程遠くは無い、廃墟へと近付いていった。

 そこは、元は寺か何かだったのだろうか。今は既にその法力も失われ、迦迦を遮る物はなにもなかった。荒れ果てた建物は何かの獣が居付いた匂いと埃、垢に満ちている。陽の光が差し込んでも、それは廃墟の鬱々とした空気を乾かすまでに至らず、その前に月の光が満ちて、再びその場所は陰へと落ち着くのだ。そんな場所だからか、ここには世間をおおっぴらに歩けないような素性を持った者が集まる事が多かった。その日も、どこぞで何かを仕出かしてきた男が二人、夜露を凌ぎに黴臭い畳の上で寝転がっていた。
 ざっ。と乾いた草を踏み拉く音に、男の一人が気付いて顔を擡げる。何がそこに立っていたかを見極める前に、彼の視界は奪われた。正確に言えば、男の頭部は一瞬にして迦迦に食われ、噛み砕かれたのだ。久し振りに味わう、肉の温かみと感触、血の味わいが、迦迦に以前の姿、人に異形と恐れられ、忌み嫌われた頃の姿が復活した。身体全体に染み渡る生き物の生と精。空腹が一時押さえられた悦びに迦迦が咆哮をあげると、それまで恐怖で凍り付いていたもうひとりの男が、呪縛から解き放たれたように大声で悲鳴を上げた。
 その男は、迦迦が肉や骨を咀嚼する音で目を覚ましたのだが、いきなり己の脳裏へと映った、まるで一時流行ったスプラッタムービーのような光景に、全ての感覚が麻痺してしまっていたらしい。それが、迦迦の叫びで、自分の中に湧き出た恐怖に素直に反応する事が出来たのだ。完全に本能的な恐れから、男は勢いよく立ち上がって駆け出そうとする。が、それはあくまで彼の思考上の事であり、実際は身体に力が入らず、ただ畳の上を這い回っていたに過ぎなかった。それでも男の姿は迦迦の目にも、逃亡を図ろうとしている事を示唆した。このまま男が逃げ切って己の存在が明らかになり、再び封印される事、そんな事までには迦迦の思考能力は働かない。迦迦には過去があるようで無く、以前の経験から何かを導き出そうとする思考能力は、今の迦迦には皆無であった。迦迦にとって、過去はただの出来事であり、経験ではない。だから、迦迦が逃げる男を追おうとしたのは、ただ単に目の前の獲物を逃してはならないと言う、これまた迦迦にとっての本能に過ぎなかった。

 だが、人一人喰らっただけでは、迦迦の全てを取り戻す事は不可能だった。先程啜った生き血は既に冷たくなり、迦迦の中で歪に凝固していく。逃げる獲物へと向かって踏み出す両足の感覚は現実味を失いつつあり、伸ばす腕が指先から砂塵となって散っていく。迦迦の身体を構成する、飢餓と言う名の粒子が纏まりを失い、もとの姿に戻ろうとしているかのように。その感覚は、迦迦に苦痛を与えるものではなかったが、迦迦にとっては身体を失う事、即ち肉を喰らう媒体を失う事、は、死よりも辛い事だったのだ。再び上げる咆哮は苦悶と悲しみに満ち、それは逃げる男の動きを止める。恐怖で感情を失い凍りついた男の瞳は、以前には見慣れたものだった。だが迦迦はそれを何故か新鮮な気持ちで見、引き寄せられるようにして男の方へ、粒子が流れていく。喰らう為の牙が存在しなかった為か、或いは、己が崩壊しないが為の本能が働いた為か。迦迦は男を喰らう事はせず、そのまま粒子の姿のままで男に纏わりつき、一体化してその肉体を取り込んだのだ。
 幾ばくかの時が過ぎ、月が天空の頂上へと昇った頃。ゆらり、と白銀の冷たい光を浴びてひとりの姿が立ち上がった。ゆっくりとした仕種で両手を挙げ、その掌を見詰める。五本存在する指、皺のある掌。それは血と埃に汚れてはいたが、迦迦が今まで喰らってきた二つ脚が持っていたものと近かった。ゆるりと頭と巡らせて周囲を見渡す。先程までの強烈な飢餓は感じなかったが、その目に映るものの姿が、微妙に違っているような気がした。
 それは、迦迦が取り込んだ人間の目から見ているからであろうか。だが、今の迦迦の姿は人間とは程遠い。鏡も何も無いこの場所では、迦迦がそれを実際に目にするのはもう暫く後のことだろうが、迦迦の頭部には鹿のような角、それは迦迦が初めて喰らった鹿の物だろうか。ばさばさの髪は憤怒か激情か、燃え立つような赤い焔の色。取り込んだ男の記憶のお陰か、迦迦の中に言語が甦った。だが、それを活かす事が今の迦迦には出来ない。飢えを忘れていられたのはほんの一瞬で、再び迦迦に激しい飢餓と苦悶が襲い掛かる。どうやら、普通に肉を喰らうよりは、こうして取り込んでいった方が、己の渇望を埋める効果が高いようなのだが、そんな論理だった行動を起こす事は不可能だった。数が減ったとは言え、今の世でも存在する法師や陰陽師など、迦迦が恨みと畏怖を抱く相手に対しても、過去の経験を踏まえて危険を察知し、避けるという事が出来なかっただろう。迦迦の目に映る、動くものは全て獲物としか見えなかった。その為、風で舞い飛ぶ木の葉にさえ反応して迦迦は飛び掛り、乾いたそれを貪り食う。当然、肉の感触や血の味を感じる事は出来ず、迦迦は渾然とした悔しさと悲しさに、顎を仰け反らせて天を仰ぎ、声にならぬ叫びを上げた。

 その姿はまるで、己をこの世に産み落とした何かに、慈悲を求めるかのようであった。

 彷徨う迦迦は、生来の能力からか、生きたものの在り処を感知してそちらへと蠢いていく。新たに得た四肢はそれなりに都合が良く、迦迦の思うが通りの動きを再現してみせたが、それを体系的に思考する事はできなかった。目にした山の獣を喰らい、一時の飢えを埋める。その行動は以前と何ら変わりがなかったが、二つ脚については、違ってしまった。
 山歩きをする人間を見つけて、いつものように迦迦がそれを喰らおうと身体が動く。が、何故か足の歩みが止まった。それを訝しく思ったのとほぼ同時に、迦迦の脳裏には大量の情報がフラッシュバックした。それは己を封じたあの法師の怒りに満ちた瞳であり。また、封印される直前に見ていた、童の無垢な瞳であり。己を追う、幾らかの力を持った人々の眼差し、恐怖に逃げ惑う獲物たる人々の眼差し。それらには全て、何らかの感情や意味合いがあるのだが、迦迦にはそれを正しく受け取る事が出来ない。それが畏怖なのか憤怒なのか、それさえも分からない。ただ、その『感じ』は迦迦の根本を構成する、飢餓と言う本能さえも押さえ込む程の効力を持っていた。何かに阻まれ押さえ込まれたかのよう、それ以上、二つ脚の方に歩み出す事が出来ず、ただ歯噛みをしてその背中を見送る事しか出来なかったのだ。

 封印される前までの記憶は、迦迦には無い。本当はあるのだが、それを記憶として己の中で整理できないだけだ。散り散りになったそれは時折迦迦の行動や感情に作用して、苦しめたり混乱させたりする。可能であれば、それらを整理して体系立て、今後の己に活かす事も出来るのだが、その事さえ、迦迦には知る由も無かった。
 だが、人と一体化してからの迦迦は、取り込んだ人間の能力故か、記憶を積み重ねていく事が出来た。形のない古い記憶と、形成された新しい記憶。この二種類の記憶は互いに鬩ぎ合い、混ざり合って迦迦の中に存在した。その混在は決していい方向へ迦迦を導く事はなく、ひたすらに混乱をもたらし、その度に、元々の飢餓の感情と相俟って迦迦を狂気へと導いていく。
 「……、―――……!!!…―――………」
 声にならぬ叫びが、今夜も山に響いた。