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<東京怪談ノベル(シングル)>


カモミールとローズヒップ

 背筋を伸ばして歩きなさい、胸を張って歩きなさい。背を丸めていると、姿勢が悪くなって発育を妨げるだけでなく、いろんなツキをも逃してしまうんだよ?
 幼い頃、親にこんなような事を言われた記憶は、誰しも持っている事だと思う。勿論、こんなのは子供に言って聞かせる事だし、大人になってまで言われるような事ではない。だが今、アトリの目の前を、肩を落としてとぼとぼと歩いている一人の成人男性に対しては、思わずその肩を掴んでガクガク揺さぶりながら、懇々と言い諭したくなるような、そんな気分にさせられた。
 「……はぁああっぁ〜………」
 「これまた盛大な溜息ですね、三下さん。溜息をつくと幸運が逃げちゃうって、聞いた事ありません?」
 「ふぇえっ!?……あ、アトリさん」
 背後から不意に声を掛けられ、びっくりして素っ頓狂な声を出した三下だったが、その相手がアトリである事に気付くと三下の顔は、相変わらず間抜けな事は間抜けだったが、ほっとしたような表情になった。

 「うわぁ、可愛いお店ですね〜」
 「ですよね?私も前から興味があったんですけど、なかなか入る機会がなくて…」
 「え、アトリさんも初めてなんですか?このお店」
 三下の問い掛けに、アトリがこくりと頷く。ここは二人が出会った表通りから一本内側に入った路地にある、日当たりのいい小さな喫茶店である。都会のど真ん中にあるとは思えないぐらい、周囲は静かで木々の緑が美しく、店先には冬であるにも関わらず、色とりどりの綺麗な花が咲き乱れている。今日のアトリの、春先めいたベビーピンクのロングフレアスカートと相俟って、ここだけ一足早い春が訪れたような、如何にも女性が好みそうな、そしてデートで訪れるのに最適な雰囲気の喫茶店であった。あんまりにも疲れた様子でやさぐれている三下を見かね、アトリは休憩しましょうとお茶に誘ったのだ。
 「…でも、そんな初めての場、しかもこんなお洒落な喫茶店、僕なんかと一緒でいいんですか?」
 他に、もっと一緒に来たかった男性がいるんじゃないですか?そう言う意を込めて三下がアトリの方を見た。
 そうですね。(本当は他に一緒に来たかった人がいるんですけどね)
 と、答える事は簡単だったが、アトリはあえてそう答えず、笑顔で首を縦に振った。
 「勿論です。こう言う所は、来られる時にチャンスを逃さず来ておかないと。それに私、三下さんとオハナシするの、好きですよ?」
 それは満更嘘ではないので、アトリは心からの笑顔と共に三下にそう告げる。その笑みを見た三下が、またもだらしなく表情を崩し、エヘヘと後ろ髪を掻いた。
 「取材に行く途中だったのですか?」
 「ええ、まぁ一応…でも、編集長ったら相変わらず無理難題を押し付けるんですよぅ〜。記事の中身もさることながら、ネタも自分で掴んで来い!それまで帰って来るな!って」
 「まぁ…でもそれは、三下さんの腕を買っているからじゃないんですか? きっと編集長さんも、頼りにしてるんですよ、三下さんの事を」
 十中八九、そんな事は有り得ないとは思ったが、ここはひとまずそう言っておく。それに、例え僅かな可能性でも、本当に編集長がそう思っているならばいいな、との願いも篭っていたのだ。三下は確かに情けなくてへなちょこで頼り甲斐もない、有り体に言うとどうしようもない男であるが、それはそれで母性本能を掻き立てられない事もなく、どこか保護欲を擽られる部分もあるにはあるのだ。…極々僅かとは言え。
 そんな事を思いながら、アトリはテーブルに頬杖を突いて向かいに座った三下の顔を見る。綺麗な女性に真正面から見詰められ、三下が顔を赤らめて視線をうろちょろさせた。その様子が可笑しく、アトリは口元でそっと微笑む。ここでちょっと悪戯心の旺盛な女性なら、更に三下を見つめ続けてしどろもどろにさせる所なのだろうが、生来の優しさ故かそんな意地悪は仕掛けられず、アトリは椅子に深く腰掛け直して姿勢を正し、三下から少し遠ざかった。逸らした彼女の視線が、テーブル脇にある小さなメニュー立てへと移った。
 「ほら、三下さん。このお店、ハーブティがあるんですって。三下さんにはジャスミンなんかどうです?疲れを取り、心を落ち着かせて安らいだ気持ちになれる、って書いてありますよ?」
 「へぇ、ハーブティですか。最近、流行ってるみたいですねぇ。……あ、こんなのどうでしょう?『怪奇!ハーブティの呪い?!』とか」
 「……ええと、…あんまり恐くないんですけど…」
 恐い恐くない以前の問題として、ハーブティの呪いとは何ぞや、花として生を全うしたかったハーブが、無理矢理お茶にされた事で恨みを抱き…とでも言うのかとツッコみたくなるような話なのだが、アトリの優しさはそれは意識的に聞かなかった振りをしたようだ。ダメかぁ、と残念そうな声を漏らす三下に、アトリはついクスッと口元で微笑んだ。
 「それはともかく、あ、ローズヒップも良さそうですよ?ビタミンCが豊富なんですって。三下さん、この間、風邪引いてたみたいだから如何です?」
 「…アトリさん、僕が風邪を引きかけていたのは、皆に凍死させられ掛けたからですよぅ…」
 「あっ、そ、そう言えばそうでしたね」
 先日、三下の取材に同行した時の事を思い出してアトリは少しだけ焦って苦笑いをした。

 結局、アトリはカモミールを、三下はローズヒップを注文して落ち着いた。ぽかぽかと暖かい昼下がりの太陽が、大きな窓ガラス越しに三下とアトリに降り掛かる。外は冷たい風が吹き荒んでいるようだが、こうして室内から眺めている分にはもう冬は終わったかのように思えた。
 「早く冬が終わるといいですよね。僕、寒いのって苦手なんですよね」
 「そうですね、それに春になれば花も咲くし、緑も多くなりますしね。冬の色彩は凛としていて綺麗ですけど、でもちょっと寂しげですものね」
 「そう言えば、アトリさんのイメージって春っぽくないですか?なんつーか、春は春でも、冬と春の境目の、これから暖かくなるぞーって感じ」
 それは三下にとっては、ただの素直な感想だったのだが、どことなく照れ臭いような気になってアトリは目元を僅かに染めた。そんなアトリの変化には全く気付く事無く、三下は呑気な調子で言葉を続けた。
 「あっ、そう言えば春と言えばですね、去年の春の事なんですが、……」
 去年の春、珍しく編集長から一発OKを貰った記事の話を、三下は嬉々として話し始める。アトリはと言えば、己の表情を三下に悟られなかった事を、内心ではほっとしていた。三下も、女性のこう言う微妙な変化に聡くなれば、もう少し現状は好転するような気はするのだが。
 『でも、きっとこう言う所が三下さんのイイ所なんでしょうね』
 そう思い、アトリは思わずくすりと笑みを浮かべる。その笑みが、己の話術の賜物であると勘違いした三下は、更に滑らかに喋り続けるのであった。
 「そう言えばアトリさん。僕、さっきから思ってたんですけど」
 「なんですか?三下さん」
 「このハーブティって…匂いは確かにいいけど、なんだか枯れ草みたいな味がしませんか?」
 「…………」
 でもやっぱり、ちょっとはお洒落とかセンスとか、人の心の機微に敏感になった方がいいかも。と、アトリは考え直した。
 「そう言えば、三下さん」
 「はい?」
 少しだけ三下の発言に呆れた事などはおくびにも出さず、アトリは笑顔を向ける。
 「ハーブティって、それ単独だけで飲むと結構アクが強かったりしますから、何かとブレンドしたりするのがいいんですよ。香りの足りないハーブには芳香の強いものを、とか。足りないものを補ったり、特徴を更に引き立たせたり。なんかそれって、三下さんみたいですね?」
 「………へ?」
 アトリの言葉に間抜けな顔を見せる三下に、ただ笑顔を向けるのみのアトリであった。

 のち、二人は他愛もないお話を続け、夕方になってようやくその喫茶店を後にした。二人の間に培われた和やかな空気は、厭な事や辛い事を全て忘れさせる効果があったようで、そのまま、取材の事などすっかり忘れ呆けた三下は手ぶらで編集部へ戻った為、編集長の怒りの鉄拳を喰らったとか喰らわなかったとか。(いや、確実に喰らっただろう)


 勿論、アトリがそんな事まで、知る由はなく。