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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


water ripple

 意識が落ちていた自覚すらなかった。
 眠りとも呼べぬ闇は、知覚した途端に麻痺した上下の感覚を意識させ、不意に落ちた水の内で天地を求めて足掻くように浮上する。
「……は……ッ」
水面を突き破るような衝撃を伴った覚醒に、氷川笑也は鋭く呼気を吐き出した。
 仰向けに横たえられ、見慣れない低すぎる天井に視界が圧迫される。併せて外から空疎なくせして耳に籠もるサイレン音が不快で眉を顰めた。
「大丈夫ですか? 自分の名前は言えますかー?」
覗き込む、知らない顔の上に乗った白地に赤い線を引いたヘルメットと制服に、それは救急隊員だと知れる。
「今、救急車に乗ってますからねー。今から病院に向いますー」
反応の薄い笑也に、救急隊員は聞き取れるようにとの配慮からか、耳元に口を寄せて声量を上げた。
 寸前までの認識…地下鉄の駅で『虚無の境界』と呼ばれる組織と対峙していた時との落差から笑也は却って緊張感が抜けず、半ば本能的な警戒に肘をついて起こそうとする身を肩を押さえて止められる。
「もう大丈夫ですからねー。ご家族の連絡先が解る物何かお持ちですかー?」
患者に明確に伝える為か、語尾を伸ばして一文ずつをはっきりさせた救急隊員の言に、笑也は固定され、身体を預けるストレッチャーに頭を落とした。
 家族、の一言に冷静さが戻る。
 家に連絡が行けば、両親や兄妹に心配をかける…が、事件の現場に居たのは明白、身元引受人が居なければ解放されまい。
「私の……荷物は」
疲労に掠れた声に、救急隊員は足の方から荷物を取り出して掲げて見せた。
 笑也の鞄と…黒い、ロングコート。
「それは……」
見慣れた黒革のそれを凝視する笑也に、救急隊員は首を傾げる。
「君のだと思ったから……違った?」
マニュアル通りの呼び掛けでなく、多分、彼の平素の口調であろう言に笑也は苦い感情に口元を引き結ぶ。
 自分の、物ではない。だがそうと言えば、証拠品として没収されるだろう。
「いえ……鞄を、下さい」
請うて手渡された鞄から、携帯を取り出す。
 家族でなくとも身元を保証してくれる相手の電話番号を履歴から呼び出す為の操作、ただそれだけの事だが、必要以上、指に力が入る。
「……連絡は、こちらに」
画面に電話番号を表示させ、携帯電話を救急隊員に手渡すと、笑也は持ち上げるのも重い腕で目元を覆い、壁を向く形で顔を背けた。
 視界に入る、黒革のコートを見たくなかった。


「随分といい格好だな」
病室を見舞う事もせず、受付から笑也を呼び出した九条蒼也は開口一番、そう眉と顎とを上げた。
 看護士に肩を借りてエレベーターから降りた笑也は、古武術の師である、青年の振りをした老人のあまりにもあけすけな物言いに、眉を寄せた。
 蒼也の来訪を伝えられ、自分で歩こうとしたのだが、壁伝いに支点を分散させなければ膝が体重を支えられずに膝が崩れる…壁が切れた場所から先へ進めない笑也を見かねて、看護士が手を貸さなければ、未だその場に立ち往生して居ただろう。
 術の行使に失せた体力は未だ戻らない。
 疲弊しきった身体は、多少の眠りでは改善されず、動けるようになっただけマシ、な状態である。
「高価いぞ、それは」
だが、未熟を晒す笑也への揶揄、ではなくただ単、羽織るように肩に着せ掛けられた黒革のコートを指して言っただけのようだ。
 彼が所属する組織によっての圧力を加えた後なのか、willies症候群発生現場に居合わせた人々とは別、蒼也の指定する病院に搬送され、一応の検査の結果が出るまで帰宅を止められはしたが、それ以上の詮索も取り調べもなかった。
 蒼也は看護士から笑也を受け取って一旦、人の姿のない待合いのベンチに座らせる。
「ったく、セーブポイントまで長いってのに…ボス部屋を目の前に途中で放って来てやったんだ、有り難く崇敬して師匠と呼びやがれ。と、また派手にやったモンだな……風の匂いがぷんぷんしてるぞ」
恩着せに似たぼやきに、蒼也は気配を称して匂いと言い、嗅覚として感じるワケでもないのに鼻を鳴らす。
「お前のコートじゃないな、似合ってねぇし。持ち主は妖魔かなんかか」
 染みついた気配は、明確に人のそれでない……並ならぬ敵愾心を魑魅に向ける笑也が持つには、違和感がありすぎた。
「鬼……の物です」
笑也はその革と金具の重みに双肩にかかる、コートの前を合わせるように両手で生地を握り込む。
「腕の代わりに衣を残すなんざ、風流な鬼だな」
肩肘の張らない言に、笑也は蒼也の面差しを見上げた。
「九条さん」
極端に口数がなく、表情も動かさない笑也の意を量るには、観察力と洞察力を総動員して懸らねばならない。
 蒼也がそれとなく気を張るのに気付かぬまま、笑也は視線を落として赤い眼差しを蒼也から剥がした。
「私は、もっと強い力が欲しい」
揺らぐように上体が前に傾ぐ…肘を腿の上に置いて、体重を支える。
 倒れるかと差し出しかけた手を止め、蒼也は片眉を上げた。
「魔は滅ぼす存在、邪は滅する物、そう理解して……理解出来ていた筈なんです」
いつになく饒舌に、笑也は床の一点を見据えるように言を紡ぐ。
「人に害悪為すモノであれば退治する、それが、出来ませんでした」
「それがコートの主か?」
笑也は蒼也の確認俯いたまま、頷いた。
「会ったのは三度きりです。その度に機会はありました。初めて見た時に鬼だと感じ、その通り確かに魔道に堕ちた者でありました。けれど、彼の笑みや言葉に迷わされるばかりで……」
吐き出す息が重い。
「迷いが弱さなら、それを切り捨てなければ、強くなれない」
半ば、自らに言い聞かせるような笑也の言葉に、蒼也は無言で胸の前に拳を作った。
「迷いを生む、人の心を切り捨て、同じ位置に立てば」
言葉によって自分の内を探る、笑也を前に、蒼也は握った拳を広げる。
「彼を滅する事が出来るでしょうか……同じ、鬼になれば」
無我に掴んだその一言に、縋るように続ける笑也に、蒼也は広げた手の人差し指と親指とで輪を作ってひとつ、頷いた。
「神の顕現を待つ術よりも、鬼と化せばこの手でそのまま……」
ビシィッ!と、大きく音を立てそうな勢いの…俗に言われるデコピンを喰らわせて、蒼也は一言。
「バアァァァッカ!」
長い溜めを入れて吐き捨てた。
 その意味が脳に達するまでの間に、まさしく虚を突かれた表情で顔を上げた笑也を蒼也は見下ろす。
「ったく、普段まともな挨拶もしねぇくせして、たまに喋ったかと思ったらろくでもねぇ」
ふん、と鼻先でせせら笑い蒼也はその場にしゃがみ込んだ。
「いーか、耳の穴かっぽじってよく聞け」
言いながら、自分の耳に小指を入れて掻く。
「ガキ」
果たしてそれは、よく聞かなければならないような言か。
「調子に乗るなよテメェ。その鬼とやらにこてんぱんにやられて口惜しいんだってんならまだ話は解るが、なんだ。さっきから黙って聞いてりゃただガキが欲しいおもちゃが買って貰えねぇって泣きわめいてんのと一緒じゃねーか」
首を斜めに傾けて凄味、下の角度から見上げてつく悪態はまるでヤンキーのような当年とって六十五歳。
「いや、泣きわめくならまだいいか……欲しいモンをじーっと見てるだけで誰かがそれに気付いてくれるのを待ってるようじゃ余計にタチが悪い。それが手に入らないなら壊しちまえってのもな?」
ついでとばかりに、ぷはー、とありもしない煙草をふかす真似までサービスする。
「……魔に堕ちるってぇ言葉の意味が。本気で解ってねぇウチはたとえ冗談でも、口にするな」
最後の一言、僅かに眇められた瞳が浮かべた色は深く、笑也は反論を封じられる。
「確かに、舞は時間を食うからな、焦る気は解らなくもねぇ」
人差し指と中指の間に挟んだつもりの架空の煙草のフィルターを、親指で弾いて灰を落としたつもり、で蒼也はにやりと口元に笑みを浮かべた。
「丁度いい、お前の兄ちゃんに護符でも教えて貰え」
「そんな……ッ」
笑也が思いもよらなかったその手段に異論を唱える前に、蒼也は一人納得してうんうんと頷く。
「しかし、兄とは……ッ」
生母の死を境に、彼等兄弟の間に生じた亀裂は、荒立つ事はなくともただ密やかな形で確と、置いた距離を広めも縮めもしないままに横たわっている。
 が、蒼也は自分のその思いつきが気に入ったようだ。
「手軽なだけそりゃ効果は劣りはするが、術なら畑違いでもなんとかモノになるのも速いだろーが。俺が稽古つけてやってもいいが、最低一年は山籠もりしてもらうぞ?」
喩えその手段を選択したとしても、蒼也自身が新作ゲームの発売日に逃亡する可能性が高い。
「しかも頭丸めた上に、片眉を剃って人前に出られない身体になってもらうが」
そんな愉快な姿でも、きっと生活用品等の買い出しに行かされるのは自分。笑也は師の性格から正確に判じ、その下らないまでの脅迫に肩から力が抜ける。
「氷川の護符使いは技能派だってぇ噂だからな。安心して教えを請えるってワケだ。これが才能に胡座かいたヤツだと自分が出来る事が他人に出来るとかぎらねぇってあたりの理解に薄いから不親切になりがちだし。良かったな」
それはそれは爽やかな笑顔で、蒼也は笑也にぐっと親指を立てて見せた。
 時折、微妙に古さから抜け出せていない挙動に、如何に青年に見えようと彼が老人であるという事実を思い出させる。
 自分を見捨てた兄、母を助けられなかった自分…幼かった頃に比べ、身体は育ち知識は増えても、自分達兄弟の関係は、あの日から一歩も進んでいない。
 その場で足踏みを続けたまま、兄から目を逸らす事で自分はまだ、を失くした可哀想な子供としての扱いを望んでいるのか。
 手が髪に触れる…左の耳の後ろから、一房だけ長く彩紐に纏められた、彼自身の物ではない黒髪に。
 意識は、いつでも水の如く。
 その中に沈んでさえいれば、外界の刺激は光も闇もただ柔らかに透過して蒼い。
 だが、さざめく水面はいつでも、笑也を呼ぶ…その声で、言葉で、心で。
「……解りました」
肩から抜いた力に、そのまま椅子の背もたれに体重を預け、笑也は降参、とばかりに軽く両手を挙げる。
 それが、まるで誰かがするような動作だと、気付いて少し苦い表情で笑也は手を下ろす。
 背を向けていた最も身近な存在とと向き合う為の一歩を踏み出すため、まだふらつきの残る両足に力を込めた。