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<東京怪談ノベル(シングル)>


海底幻影



 あの場所への入り口は、人目につかない海底にある。
 ――海底に漂う、透明な泡へ触れること。
 それがあの場所へたどり着くための条件だった。
 群青色に混ざって、歪む、透明な球。
 あれだ――伸ばした手は、泡に触れる。シャボン玉の中に入るように柔らかな動きで、あたしは透明な景色に飲まれた。
 中の感触はゼリーに似ていた。溶けるように、意識が遠のく。あとはただ眠っていればいい。泡が導いてくれる。

 ――淡水人魚検定の試験会場は、人魚のためだけにつくられた青き空間。
 その地は人魚を柔らかく出迎え、他の者へは堅く扉を閉ざす。

 泡が破られ、あたしは目覚める。
 柔らかくも硬くもない床――微かに濡れた尾びれを除いて、海水を泳いできた筈の身体は乾いていた。
「人型に戻った方がいいですよ。それでは歩けませんから」
 声の主は、あたしより五つくらい上の女性だった。腿までの髪を垂らし、佇んでいる。さっきまで海を泳いでいたのかもしれない、濡れた髪先が太腿に絡み付き、海水が腿を伝っていた。
「は、はい」
 身体の力を抜いて、鱗をしまう。目の前の女性から目を逸らしてしまうのは、その人の服のせいだ。
 纏っているのは、淡い水色をした薄い布だけ。裾は波が打ったようにひらひらとしていて、右太腿から左膝上へ斜めに流れている。身体に張り付くような布だ。肌の色がほんの少し透けて見える。直視するのはためらわれた。
(あ、でも――)
 あたしの服はどうするんだろう。
 身体を人間へと戻しても、着るものがない。
 腕で身体を覆うようにし、戸惑っていると、女性が水色の布をくれた。この人が着ているものと同じだ。
「ここにいる人はみな、これを着てもらうことになっていますから」
「そうなんですか……」
 みんなが着ているとなると、反論は出来ない。
(このままでいるよりはいいものね)
 肌に身につけると、これは「布」ではないのがわかった。流れ、のようなものがある。
「これは水で出来ています。私たちが人魚であることを、認識してもらうためです」
 ――水。言われてみれば、これは水以外の何でもない気がする。あたしの肌に吸い寄せられるように寄り添っている感触――布には思えなかった。
「私は案内役の者です。淡水人魚検定の受験者ですね?」
「はい」
「証明してもらえますか。……指輪は忘れていませんよね?」
 あたしは頷くと、右手を相手に見えるように差し出した。小指には、銀色の指輪が嵌っている。
 ――これは、検定日前に送られてきた。中央に小さな真珠の入った指輪で、受験票の役割があるらしい。
 例えば、受験会場で名前を偽ると、白かった真珠はたちまち赤く染まる。替え玉受験を防げるという訳だ。
 ちなみに、一度検定に受かると指輪は必要なくなる。
 実習の場合は、既に受かっている人魚も抜き打ちで呼び出され、受けなければならない。その時に指輪はいらない、ということ。
「海原みなもです」
 ……真珠は白いまま、淡く光っている。
「はい、わかりました。では、ついてきてください」
 女性はあたしに背中を向けて、歩き始めた。

 ――淡水人魚検定。
 あたしが既に受かっているのは、海水人魚検定だけ。淡水人魚検定は、海水人魚検定よりも難しくて、持っているお姉様方も少ないくらいだ。
 だから「人魚といえば海」と言われているんだけど――。
 この検定に受かっているかどうかで、人魚としての立場が変わる。殆どの人魚はこの検定に合格したいと思っている。
 あたしだって、出来れば合格したい。これがあれば人魚としてやっていく時に、色々と便利なのだ。
(もっともお姉さまのおかげで、あたしの格は他に比べて高いのだけど――)
 お姉さまは「最上位の人魚」としての資格を持ち、その上最も格の高い深淵の巫女でもある。
(でもやっぱりあたしも試験に受からないと)
 人魚としての将来を期待することになったなら、きっと必要になる資格だ。
 あたしにはまだ決まった将来がないのだから、受かっておいた方がいい。
 ……あやふやな将来のためなのが、少し悲しいけれど。

 青い床。青い壁。これも水で出来ているような気さえする程に、海を象った建物だった。
 所々天井から太いガラスで出来た筒のようなものが床へと延びている。床から五十センチ程のところで筒は途切れていて、そこは泡の通り道になっていた。筒から降りてきた泡は、床に触れた瞬間破れ、中から人魚が姿を現す――そういう仕組みだ。
(あたしもあんな風に降りてきたのかな)
 お姉さまも、かつてはこうやって試験を受けたのだろうか。
「みなさんここで試験を受けるんですよね?」
「ええ。泡からここへ運ばれてきて、私のような係りの者が案内するんです」
 ――案内してくれている女性がここではじめて振り向いた。
「……私の担当がみなもさんになるとは思いませんでした」
「え? あたしを知っているんですか?」
「貴方のお姉さまと一度お会いしたことがあるんです。といっても、眺めただけですが」
 女性は再び歩き始めた。
「あの方は素晴らしい巫女です。ですからみなもさんにも、興味があります」
(それは、どういう……意味……?)
 聞くことは出来なかった。

 案内された部屋は、学校の教室よりも大きかった。
(広いんだぁ……)
 青い椅子に座る。机はそれぞれに用意してあった。青い机の上に、書物が置いてある。頁の端には氷が張り付いていて、めくると小さな破裂音がした。
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 ……淡水と海水の違いは塩分の種類とその量にある。約一キログラム中に三十五グラム程の塩類を含む海水に比べて、川の水は五十、多くても二百二十ミリグラム程。また海水にはマグネシウムやカルシウムなどが多く含まれているが、淡水には殆ど含まれていない。魚の血漿には当然これらのものが含まれているが、その濃度は海水よりも薄く淡水よりも濃い。物質というのは濃い方から薄いほうに濃度が均一になるまで広がっていく性質があるため、魚も鰓を隔ててその現象が起こることになる。水および電解質を殆ど透過しない皮膚に比べて、鰓は単層上皮で被われただけで表面積も広く、浸透が大きいからだ。淡水魚の場合、鰓からミネラルが外へ流れ、代わりに水が入ってくる。しかしこのままでは淡水魚はミネラルを失ってしまう。海水魚の場合は、鰓から水が出ていき、代わりに塩分が入ってきてしまう。そこで大切になってくるのが浸透調節である……
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(……うーん)
 なんか、わかるような、わからないような……。
(理解はしておいた方がいいんだろうけど……)
 検定試験内容は、筆記・実技・戦闘の三つ。今日受けるのは筆記。これが受からないと次へ進めない。
 山河湖海の相互関係や河川湖の水質・生態系――筆記試験の範囲は広く、今のあたしには難しい。
「試験が始まります」
 試験官が言った。
「資料を消します。いいですね?」
 試験官は手元の鈴を鳴らした。涼しい音が響いた瞬間、読んでいた書物が姿を消して――代わりに現れたのは、冷たく薄い絹のようなものだった。インクで問題が書かれている。布にもかかわらずインクは滲んでいなかった。
「では、試験を始めてください」
 ――問題は一見しただけで「難しい」と判断出来るものだった。
(でも頑張らなくちゃ……)
 小さな焦りと一緒に、ペンを握る。

 あたしは位の高い人魚になれる素質があるのかな――。
 ……あれば良いんだけど。

 案内役の女性は、試験が終わるのを待っていた。
「どうでした?」
「……今回はだめみたいです」
 仕方ないとは思っていても、声が重くなる。
 問題は難しくて、今のあたしではだめだと思った。受かりそうにない。
「……落ちる、かなぁ」
 女性は無言だった。あたしの声だけが小さく残った。
 ――何かがおかしい。
「あの、この道、ここへ来る時は通りませんでしたよね?」
 女性に案内された場所は広い踊り場だった。来る時には通らなかった道だ。
(こんな場所、一度通ったら忘れる筈がないもの)
 女性は振り向いた。その瞬間、手に持っていた小さな物を床に落とした。
 それはシー・グラスにも似たもので、床へぶつかった衝撃で粉々に割れた。

 ……パリン。

(何かが、おかしい)
 さっきまでと雰囲気が変わっている。部屋の、人の、気配。
 ……耳を澄ませた。
 ……複数の音、これは、水――?
(海だ!)
 あたしは海の中にいた。人魚の姿をして。群青色の空間に、鱗の生えた一人の人魚がいるのだ。
 音は他にもある。
 何かが、動く音――。
(いる)
 よくわからない、何かが。
 海水に漂う髪が、首元で揺れている。自分の心臓の音、震える手の振動――。
 手には、細く長い槍が握られていた。
(大丈夫、大丈夫……怖くない……)
 呼吸を沈めて、這う程に気配を殺して近寄る。
 そして、“何か”へ向けて槍を振り下ろした。

「……合格です」
 目の前で、女性が笑っていた。
 あたしの手に槍は握られていなかった。ただ握り締めた手を、振り下ろそうとしているだけ――その振り下ろそうとした対象は、この女性だった。
「す、すみませんっ」
「いえ。私がそう仕向けたのですから」
 そう言って、女性はさっき割ったものと同じようなものを見せてくれた。
「これは幻影を見せる石です。幻影石というらしいです。まんまですね」
「そうなんですか……」
 動く“何か”はこの人で、槍も海も幻影だったのだ。
「でも、どうしてこんなこと……」
「素質を見るためですよ」
 女性は石を一つだけ取り出し、あとは掌にしまった。
「みなもさんは合格です。大抵の人魚は正体不明のものには怖気づくんですよ。今回の戦闘――巨大鰐を倒すことよりも難しいことです。あとは、筆記と実技ですね」
(励ましてくれてるのかな)
 踊り場に連れてきたのも、狭い通路で幻影を見せるのは危ないと踏んでのことだろう。
 あたしが弱気なことを言っていたからだろうか。それとも――興味がある、から?
(聞けないよね……)
 女性は取り出した石をあたしの掌に落とした。
「記念に一つあげます」
 それは親指程の大きさで、虹色に輝いていた。
「綺麗ですね」
「私が割ったのは黒。黒は恐怖の幻影。青は悲しみ、赤は怒り。虹色はどんな幻影でも見る事が出来る珍しい石です」
「ありがとうございます」
「――また会える日を」
 女性はあたしが泡に包まれて意識がなくなるまでの間、手を振ってくれていた。

 陸へあがり、二日程経つと試験結果が送られてきた。
 結果は、やっぱり落ちていたけど――。
 ショックは少なかった。
(もう少し頑張ってみようかな)
 机の上に置いた幻影石を見ては、思う。



終。