|
『 円環の轍 』
夜明けの夢は、思い出さなくてもいい過去までも思い出させる。
影踏が目を醒ましたとき、その頬は涙でぬれていた。
「………え」
こぼれたのは誰の名前だったか。
失くしたものは何だったのか。
ただ、痛みだけが残る苦しさの中で、影踏はもういちど呟いた。
その言葉の意味にも気付かぬままに。
はるか昔、影踏が影踏である前に失くしたものの名前を。
□ ■ □
――私は籠の鳥。
自由に飛ぶことは許されず。羽ばたこうと思ったこともなく。
歌うことで生きるのを許されるカナリヤのように。
私は、来たるべき日に神器の贄として捧げられるためにのみ、生きることを許されている。
□ ■ □
――人は誰しもが人として生まれ、人として生き、人として死ぬ――。
そんな言葉が存在しない、遠い昔に。
宿儺(すくな)は、生きていた。
巫女として生まれたのか、生まれながらの巫女だったのか、都合よく巫女にされたのか。
真相はわからない。
だが、その頃――里は戦いをくりかえしていた。
人に敵対する人よりも強いもの――『鬼』と呼ばれるものと。
里は鬼を滅することを願ったが、戦力がたりなかった。絶望に近いほどに。鬼の全てが人を害し殺すものではなかったにせよ――人は臆病ないきもので、自分たちよりも力の強い鬼に恐怖せずにはいられなかった。
矮小な意識は恐れ、慄き――決断を下す。
神と交わり、神を降ろす、神の娘――巫女を贄として、『神器』を創造することを。
宿儺は、ゆっくりと草の上を歩いた。
裸足に感じる草のやわらかさ。そよぐ風が髪をゆらし、蜜をあつめに蜂がとびまわる。
籠の鳥でしかない宿儺の、それは殆ど、唯一の楽しみだった。
宿儺が暮らすのは、天井の高い土壁の暗い部屋。ひとつしかない窓は宿儺が背伸びをしても届かないほどに高く、空しか見えない。土壁は毎年のように綺麗にぬりなおされていたが、飾りのひとつもない。
色彩のかけた、淋しい部屋だった――宿儺が、その光景の淋しさに気付いたことがなかったとしても。
いつか、『神器の巫女』として部屋を出るときにも、何の感慨もわかないだろう。
(私の悪い癖だ)
こうして外に出ていても、部屋の中のことを思ってしまう。
あの部屋に不満があるわけではない。あるはずがない。
(鬼に攻めこまれるのを考慮して、このあたりの里は、どこもあのような部屋のつくりになっているのだと長老たちも言っていたはずだ。私が不満に思う理由などは、どこにも……)
むしろ、恵まれていると思うべきだ。
巫女であるがゆえ、戦に出ることも農作業をすることも免除され、こうして草の上を歩くことができる。
(所詮、巫女とは言っても、私は『神器』を作るための贄でしかないが……それが、里のものを護ることに繋がるのなら)
何を憂えることがあろうか。
深く考えかけた思考を、もぞもぞした感覚がさえぎった。
目をしばたかせて見下ろせば、まるまると太った芋虫が右足という丘を――きっと芋虫にとっては丘くらいに大きいだろうと宿儺は思った――懸命に登ろうとしている。
「ほら。そっちの草を食べてくるといい」
宿儺は、芋虫を指でつまむと、別の草の上へと移動させてやった。驚いたように丸くなった芋虫が、大きくのびて草を食み始めるのを見ると安心する。
「うまいだろう?」
「ほう。おまえ、虫は平気か」
不意に背後で聞こえた声に、宿儺はとっさに身をひるがえした。
「何者だ」
「怖い顔をするな。鬼じゃない」
呵々として笑った男は、身構える宿儺に無造作に近付いてくる。
背の高い男だった。宿儺も少女としては背が高かったが、男は宿儺よりも頭ひとつ以上、高かった。逆光のせいで表情がよく見えない。そのことを宿儺は残念に思った。そして、残念に思い続けた。
「琥珀の髪に、菫の瞳か。母親に似たな」
するりと頬をなでた男の指はざらついていた。固く、ごつごつとしていた。
帯剣された獲物は大太刀と言ってもいい。この男なら、大太刀も軽々と振り回すのだろうと思った。
「――さまっ」
どうして名前を聞き逃してしまったのだろう。
5年以上も自分に仕えていた護衛の青年が初めて発した声を気にかけるより、宿儺はそのことを後悔した。
「困ります。このようなところに来られては……」
「はて。俺は俺の娘に会いに来ただけなんだが。父が娘に会いに来るのが不都合とでも言うか」
何を言われているのか理解できず、宿儺は男を見上げる。
『巫女様には里を深く知る必要はございません。御身を清くたもたれて、来たるべき刻限にそなえられますよう』
物心つく前から、そう言い含められて育った。
巫女とはいえ、人の子である以上、親のいないはずはない。
いないはずはないものの――18年間、会ったことのなかった父親に、宿儺は困惑した。
『巫女様には里を深く知る必要はございません』
だから、二親のことも知らなかった。
会ったことはなかったし、名前もきいたことがない。
『御身を清くたもたれて』
そのせいか、誰も彼も、壊れ物のように宿儺を扱った。
ざらついた手で頬をさわられたことなど、今まで一度もない。
『来たるべき刻限にそなえられますよう』
いつか、神器の贄となる日まで――情も未練も残さず生きろと。
(この人が私の父親……)
宿儺は、ぼんやりと男を見上げた。
琥珀の髪も紫の瞳も母親譲りだったのかと思えば、胸の奥のほうに、じんと熱いものが生まれた。
「しかしながら、巫女様は……」
「俺は、その巫女の父親だ」
食い下がる『巫女の護衛』に言い放ち、男は『娘』の手首をひいた。
「明日は、死体が残るかも判らぬ戦に出る身だ。18年ぶりの娘との逢瀬くらい許せ」
――数日がたった。
いつもどおりに暗い部屋の中、宿儺は里長を前にしていた。
「長様、父上は……」
答えは聞くまでもなく想像がついた。
生きて戻ったら会いに来ると、父は言った。あの言葉が嘘ではないのなら。
「亡くなられたのですか」
悲しくはない。実感がわかないだけかもしれない。
ただ、言いようがない痛みと苦しさにとらわれながら、宿儺は口を開いた。
「……武器の取り方を教えなさい。私が、その鬼を討ちます」
「いけません」
里長は首を振る。断られることは予想していた。
「私は『神器の巫女』を降りるとは言っておりません。その前に父上を殺した鬼を討つと言っているだけです」
苦い顔をした里長の唇が、会わせなければ良かったと、そう形作ったのを宿儺は見逃さなかった。
「忘れなさい」
「……長様。私の父上のことです。私が決めます」
里長は絶望的な目で宿儺を見た。
18年が無駄になったと、そう言いたげに。顔を顰めて。
「私に武器の取り方を……」
疲れ果てた顔をした里長は、だが宿儺にそれ以上を言わせなかった。
「忘れなさい、巫女よ」
老いた背中を宿儺に向け、里長は部屋を出て行った。
暗い部屋にひとり残された宿儺は、高い窓の向こうの空を見上げた。
(――あの空の下に父上を殺したものがいるのか。私と同じ大地の上に――今も)
何かを振り切るように目をきつく閉じた宿儺は――結局、何も振り切れず、目を開いた。
目を閉じても、世界は何も変わらない。
暗闇の中にいても、里のものが望むように『神器の巫女』となっても。
(父上が死んだことは変わらぬ――鬼が生きのびて、この地より逃げたことも)
視線の先、手を握り締めて、開く。
やわらかな手。水仕事も農作業もしたことのない手。武器の重さを知らない手。
父のざらついた固い手は、剣を握る男の手だったのだと今更に気付く。
(この手で為せることはあるだろうか――)
あの窓の向こうに。あの空の下に。
貴い『神器の巫女』としてではなく、ひとりの『父を失った娘』として。
□ ■ □
――私は籠の鳥。
自由に飛ぶことは許されず。羽ばたこうと思ったこともなく。
歌うことで生きるのを許されるカナリヤのように。
私は、来たるべき日に神器の贄として捧げられるためにのみ、生きることを許されている。
けれど。
願うことはできる。
誰にも許されない願いだとしても。
戒めのように纏わりつく巫女服が、するりと肩から滑り落ちた。
私は腕を広げ、そして――。
その日、小鳥が一羽、大空へとはばたいた。
まだ覚束ないはばたきで。けれど力強く。蒼穹へ向かって。
□ ■ □
数年後、風の便りに噂を聞いた。
消えた巫女の代わりとして新しい巫女が――新たな贄が据えられたと。
私は、自分の運命を掴むために、自由を選んだ。
空を願い、翼を広げたことを、私は後悔しない。
でも。
だからこそ。
私は願い、希む。
今は籠の鳥であろう、贄の少女へ。
いつか、己の空を見つけてくれることを。
押し付けの運命に生きるのではなく。自分の運命を、自分の手で切り開いてくれることを。
あの時、私がそうしたように。
足枷を外し、その背の翼で空を飛べるのだと気付いてくれることを。
心地のよい風がふく。
頬にやさしく、おだやかな風だ―― そこに混じる鬼の臭いさえなければ。
風になびいた髪が、鬣へと変化する。
籠の鳥であることをやめたあの日。目覚めたのは変幻の力。
人から鳥へ。鳥から獣へ。獣から魚へ。魚から人へ。
自分の中にそんな力が眠っているとも知らなかった、あの籠の中の日々。
手の届くはずもない高い格子窓は、いつも見上げるだけ。
納得していると思っていた。
神器の巫女となるのは名誉であり、他に私の選ぶべき道はないのだと。
そのはずだったのに……あの時。初めて小鳥へと変幻した私は、籠から飛びたつことをためらわなかった。
そして、今。
私は獣の足で野を蹴り、駈ける。
消えない鬼のにおいを追って。父の仇を果たすために。ただ、その為に。
― 了 ―
那季 契
|
|
|