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<東京怪談ノベル(シングル)>


深き迷いの森
春のうららかな日も落ちて、夜はまだ少し冬将軍の残り香を漂わせている。
「はぁ」
型の良い唇からこぼれたため息は、対象者の苦悩を表すかのように深い。
店じまいも終わった日本人形専門店・蓮夢の真ん中に座り、蓮巳零樹はため息をついては柱に掛かった時計の秒針と、一体の人形に視線を送るという行為を繰り返していた。それは一週間ほど前、骨董店を営む友人が持ち込んだものだった。
『面白いぞ』
そう言って渡されたのは何の変哲もない普通の人形のようだったが、そらさず視線を合わせてくる彼女の表情は、厄介ごとの予感を多分に含んだものだった。
『……で、どんな”理由”があるんですか』
少し強調して追求するが、彼女はひらりとした笑いを浮かべて「さぁて」と店を出ていこうとした。長いスカートの裾が、感覚を持っているかのように跳ねる。
『ああそう……夜になるとね、動くんだ』
店先の戸に手をかけると彼女は、思い出したように振り返って言った。その表情は戸口から射し込む夕陽で影になって読みとれない。
足元まで伸びた彼女の影が零樹の足元をかすめたと思った次の瞬間には、その姿はなんの気配も残さず消えていた。店内は何事も無かったかのように橙色の光で満たされている。
長い付き合いで彼女の言動には慣れているが、今回は少しそっけない感じが零樹にはした。なにか伝えるべき事をわざと隠しているような、後味の悪さがじわりと広がる。
視線を落とすと持ち込まれた人形は、置かれた状況を納得したように沈黙を守っていた。
『まぁいいか……そうだね。じゃ、君はここ』
収まりの悪い気分に蓋をして、零樹は普段の調子を取り戻すことに努めた。
静かに人形を抱き上げ棚の空いた部分に置くと、ふっと詰めていた息を吐き出すようなささやかな音が零樹の耳に届いた。
手を離れた人形は棚の上で、元からそこに在ったかのように馴染んでいた。

あれから一日たりと開けることなく、人形は現身を持って零樹の眠りを邪魔し続けている。ゆっくりと差し伸べられる手、かき乱される空気に目を覚ますと、いつ店の棚から抜け出したのか、その人形は必ず零樹の眠る部屋の片隅に居た。
空気から元素を抽出し、物体として在るということ。また、物質を移動させるという行為は霊力を酷く消耗させるはずだ。つまりそれを続けてもなお、成し遂げたい未練が人形にあるという証明に他ならない。
店のあちらこちらでは疲れた零樹の様子を面白がっているのか、人形たちの絹が擦れ合うような密かな囁きが交されていた。
「……うるさいよ」
いくら小声とはいえ、店内の人形全てがこんな様子では神経に障る。
鼓膜を通さず脳を直接刺激する思念のざわめきは、雑踏の中にいる何倍も零樹を疲れさせた。
ものごころついた頃から、人形の思念が声として聞こえていた零樹にとって、この程度の事は日常でしかないが、眠りの足りない肉体は休息を求め、些細な事柄にも過敏に反応してしまう。
零樹の言葉に囁きは一瞬止まったが、また波のように静かに広がっていく。
”寝ないの”
零樹が何度目か判らなくなったため息をつこうとした瞬間、見計らったかのようにはっきりとした声が頭に響いた。
「……君まで面白がるのかい。薄情もの」
その名が示すとおり、顔に大きな痣を持つ人形が零樹に語り掛けた。彼女は零樹の祖父が作り上げた一体で、紆余曲折あったが今は平和にここで暮らしている。
判りきった質問に零樹は、切れ長の瞳を刃のように細くして答えたが、永い時を重ねた彼女にはにきくはずもない。
”夜もふけてきた。人間の時間は過ぎてる”
「わかったよ」
言葉の裏にある真意を汲み取って、零樹は彼女を腕に抱くと芝居かがった口調でつぶやいた。
「……何かあったら君とあの人のせいって事にしておくさ」
零樹の子供っぽいもの言いに、人形の気配がふわりと微笑んだ。



全ての隙間が埋められ、どんな細い光も届かない原始のような夜。真の闇というものがあるなら、これがそうだと思わせるような夜だった。
霊的なものが混ざり込んだ空気は凝縮され、重く澱んで何かを待っているように冷気を放っている。目を閉じているのと変わらない闇の中心で、零樹は睡魔に飲み込まれそうな意識をかろうじて保っていた。
掛け布団がいつもより重く感じられるのは気のせいではないだろう。予想が当たっていれば、気配は今夜辺り零樹に触れることができるのだ。時間的にはそろそろだと零樹が微かに頭を動かした時、黒く濃い闇の中に青白い女の手が出現した。
それ自体が発光しているように鈍く光る指先は踊るように揺れ、徐々に闇の中にその全体を現わしはじめた。
細くしなやかな指、華奢な手首、それを包む絹のような光沢をたたえた白い着物。濡れたような艶を持った黒く長い髪は腰あたりまで覆い、前髪は額の真ん中切り揃えられている。しかし目の辺りはすりガラスを通したようにぼやけてはっきり見えない。
漂白したような白と闇のような黒、その中で唇にさした紅だけが、彼女が唯一持っている華やかな色だった。
「女性が、たしなみを持たないのは……ちょっと、感心しないね」
女が姿を現わしきると、零樹の上半身にかけて明確な重みが生じた。霊体とはいえ馬乗りになられてはやはり圧迫感がある。
「で、面倒だから。そろそろ、こんなことも止めて欲しいんだけどね……お嬢ちゃん」
零樹の上に覆い被さるようにして、首の辺りに指を伸ばし薄く笑っていた女の動きが止まった。彼女の目をぼんやりと覆っていたもやのようなものが四散し、黒目の大きな瞳が驚愕の色に染まっているのが見て取れた。
「早く本当の姿に戻ったら? ……この子もそう言ってるよ」
零樹が現身の手首を掴み上半身を起こすと、いままで気配を殺していた零樹の人形が背後から姿を現わした。
二対の強い眼光に観念したのか、その姿は見る間にしぼんで、たちまち幼い小学生くらいの女の子の姿になった。白の着物はそのままで、帯のところに小柄が挟み込まれているのが見える。
「で、なに?」
あえてその事に気がつかないふりをして、零樹はそっけなく言った。言葉にならない不安定な波のような悲しみが、小さな身体から発せられて部屋を満たす。
”彼女を抱きしめて、助けて”
今まで沈黙を守っていた零樹の人形が、彼の心に語りかけてきた。
「……君が食べた方が早くない?」
”それじゃダメ!”
零樹の言葉に掴んでいた少女の手首が脅えたように痙攣し、人形からは厳しい一喝が飛んできた。
「まぁ、しょうがないか。って霊体に効果あるのかな?」
ぶつぶつと文句を言いながら少女に向き直ると、零樹は胸元から一枚の札を取りだし唇に寄せた。短く呪文を唱えると、少女の透けた背中にすばやく貼りつける。
印を結んだ指を唇に添え零樹が鋭い息を放つと、術に反応した少女の身体が苦しげに崩れ落ちた。口は酸素を求めるように大きく開き、薄い胸がふいごのように大きく何度も膨らむ。
零樹には祖父のように、実際の人形作りの才は与えられなかったが、その血によってある能力を持ってこの世に生を受けた。
それは、物質の中にある精神のようなものに人の形を与えられる力。「無から有を産み出す能力を持っている」という点では、零樹は人形職人の祖父に優るとも劣らない職人だといえた。
”パパ”
少女が荒い呼吸の下で小さくつぶやいた言葉は、術に集中していた零樹には届かなかった。かろうじてそれを聞き届けた人形は、表情こそ変えなかったが少しだけその気配を悲しみの色に染めた。
貼り付けられた札を中心に光の帯が縦に走り、蝶が羽化をする時のように何かが姿を現わしはじめた。それは初めはしぼんだ花びらのようだったが、数分も立たないうちに一つの形を取り少女の背からぽろりと外れた。
それは少女の身体に比べると、たぶんに大きな人形だった。少女は術の余韻か、まだ動けないでいる。
「さぁ語れ。魂の記憶、呪縛の根幹を……」
零樹の言葉に現身を与えられた魂は起き上がると、少女をあやすように抱き起こし、耳元で何かを囁いた。
その声に反応したのか、苦しげだった少女の表情が穏やかなものに変化していく。周囲に放出していた悲しみの気配が掻き消え、少女はゆっくりと瞼を開けた。
”……パ、パ”
大輪の花が咲くように喜びに溢れ、満たされ微笑む少女の顔は、恋をする女の表情そのものだった。
”どこに行ってたの? 私、ずっと待ってたんだよ”
”そうかい……ごめんな。でもこれからはずっと一緒だよ”
”うん。パパ”
暗闇の中に灯された炎のような遠い暖かな光景を、感慨もなく見つめる零樹の腕を人形が引いた。
”ありがとう”
「君の”お願い”だからね」
零樹は人形の小さな手を取ると、壊れ物を扱うように撫でた。
「判ってたんだね、君もあの人も」
あの人が言葉を濁した理由、零樹の人形が助けてと言った訳。
「同情、一番嫌いな言葉だよ」
撫でていた人形の手を強く握ると、零樹は吐き捨てるように言い、遠く何かを思い出すような表情を浮かべた。術を掛けるためには対象物の魂に同調しなければならない、そこで見た情景は零樹にとって予定調和以外の何物でもない物語だった。
子供のない夫婦に大切にされ、血の通った子供のように暮らす人形。世の中の不平は存在しない、守られた静かで穏やかな世界。隣り合わせにある恐怖や悲しみは、夫婦が盾になって人形までは届かない。そんなぬるま湯にたゆたうような、永遠思わせる緩やかな時間。
しかし、そんな人工的な幸せがいつまでも続くはずはない。高所から落とされたガラスが原形を留めてはいられないように、それは完璧な悲劇だった。
人形を残して夫婦だけで外出した日に、偶然事故に会う。その確率がどの程度かは知らないが、今までの幸せの代償だと言えばそれは綺麗ごと過ぎるだろうか? 他人にとっては三面記事にもならないような小さな運命の一つ。
ある日を境に安全だった場所が荒野にとって代わる、それを理解するには少女の精神は未発達すぎた。永遠に繰り返される、出て行ったまま決して戻らない二人の背中を、少女は毎晩のように探し続ける。失った世界、暖かな記憶を求めては涙を流し続ける。少女の声が聞こえる人に出会うまで、ずっと。
そこまで思い出して、零樹はふと視線を戻した。果たして少女は真実に気づいているのだろうか、あの人も零樹の人形でさえも気づかなかっただろう本当の答えに。
”ねぇパパ。ママはどこ?”
”ママは……”
そこで言葉を切った。零樹の作り出した人形は、対象物の心を反射して映し出す鏡のようなものだ。彼らが語る言葉は人形自身の言葉であり、同時に対象物の奥底に蓋をされた魂の言葉だった。
零樹の作り出した人形を見つめる少女の表情は、恋をする女性の顔をしていて、彼女が”パパ”と呼ばれる存在を娘以上に思っていたことは明らかだ。
それならば”ママ”と呼ばれる存在は、邪魔以外の何者でもないはずだ。繋がれた人形の手から戸惑いの気配が伝わってきて、零樹は安心させるように優しく握り返してやった。
本当の悲劇の物語は心の中に、決してこの人形には伝わらないように、零樹は決して口外できない物語をを記憶の底に沈めた。
”……ママは向こうで待っているよ”
父親が少女に答え。彼女の表情は少し憂いを含んだ微笑みに替わった。人形の手から緊張の気配がぬけ、零樹の手から引き抜かれた。
少女は最後の瞬間に女であることより、娘であることを選んだのだ。
”私の番ね”
人形は二人に近づくと抱きとめるように両手を広げた。抱き合ったまま、親子の姿は次第にその影を薄くしていった。
人形の内に取り込まれた親子は浄化され、跡形もなく消える。記憶も感情も現世で負ったものはすべて捨て、真っ白な何も描かれていない存在になる。
浄化に集中している後ろ姿を見ながら、彼女の心を作ったのが祖父ではなく、他ならぬ人形である彼女自身であればいいと零樹は思った。自分のものと信じていた感情が自分のものでなく、他者によって植え付けられたものだなんていう悲しみは、消えていく少女だけで十分だ。
「人形が心を映す鏡だなんて、よく言ったものだよ」
薄くなって、もうほとんど塵の集合体のようになった二人は、なんだか迎え火の上に漂うかげろうのように零樹には見えた。