|
『薄紅の嵐の中で』
ひらひら、と、
ひらひら、と、
ひらひら、と、
虚空を舞う薄紅色の舞姫たち。
それは春の風の意のままに虚空という舞台で、幽玄美溢れる舞いを踊る。
そこは東京のとある場にある一本の樹齢がいくつかもわからぬ満開のしだれ桜の前。
風はいよいよ強く吹き、
数の概念など考えられぬほどの無限とも思える薄紅の舞姫たちは、
強く吹いた風に、
激しく激しく激しく、
虚空を舞う。
それは薄紅の嵐。
息もできぬほどのその薄紅の嵐の中で、
まだ幼い俺は、
無限の薄紅色に包み込まれている。
『蒼。桜はね、心の鏡なんだよ。
桜を怖いと想うのなら、
それは蒼の中に、
桜への恐怖があるから』
一緒にそれを見ている父が言った言葉。
『蒼。蒼にはこの桜がどんな風に見える?』
息もできぬような薄紅色の嵐の中で、俺は狂ったように咲き乱れる桜の樹を見つめながら、正直にこの老齢のしだれ桜を怖いと感じる気持ちを父に告げた。
ほんの少し前に読んだ本。
昔の人にとって、桜は恐怖の対象だった。
狂ったように鮮やかに咲き乱れる桜の下には、
死体があるから。
桜は死体を養分にして育つ・・・。
だから夜の桜なんて、もってのほか。
夜桜の園を通り抜けた親友同士で旅をしていた者たちが、その時には絶縁していたなんてのはそんな事が信じられていた昔ではざらな話、と。
視界一面に広がる薄紅。
「お兄ちゃーん」
その薄紅の嵐の中から聞こえてきた声。
かわいらしくって、
喜びに満ち溢れていて、
とても大切で、
心の奥底から守りたいと、思える、
そんな声。
逸らしていた瞳を、俺はそこに向ける。
そこにいた、キミが。
俺の大切な小さな妹。
とくん、と心臓が小さく脈打つ。
胸にふわりと広がっていく温かみ。
優しい感じに包まれていくような感覚。
先ほどまで怖いと想えていたその老齢のしだれ桜も、
キミがそこにいればもう怖くは無い。
どこか冷たい美に溢れていた薄紅の舞いも、
淡い薄紅の嵐も、
なぜかキミを優しく包み込む慈愛の手に想えて・・・
桜は心の鏡だと父は言った。
たぶんそうなのだろう。
そして、俺はその時に想ったんだ。
ああ、俺の大切な妹・・・結珠は、俺の心のパレットなんだって。
彼女は俺の心をとても優しい…その時に望む色に塗り替えてくれるから・・・
だから切に想う。
願いが溢れ出る。
結珠を心の奥底から守りたいって。
結珠には幸せになってもらいたいって。
そして父は俺にもう一度、同じ質問をした。
『蒼。蒼にはこの桜がどんな風に見える?』
そして俺は父のその質問に今度は・・・・
******
視界に広がる淡い薄紅色の花霞み。
私の心には届いていた。
透明で温かな春を喜ぶその桜の樹の歌が。
だから私はとても嬉しくって、楽しくって、お母さんが心配して、あまり飛び回っちゃダメ! なんて怒るんだけど、春の歌を謳う桜の樹の歌に耳を傾けながら、3分の1の拍子でワルツを踊るように、薄紅の花びらたちと一緒に踊ったの。
すごく楽しくって、体が軽くって、まるでこのまま私は桜の世界に溶け込んでしまいそうで。
そう、私の小さな体をふわりと包み込んでくれる淡い薄紅色の花びらはそんな風に神秘的で幻想的な想いを私に抱かせてくれるんだ。
そして私はそんな想いをこの世の誰よりも一緒に共感したい人の名前を勇気を持って、呼ぶの。
「お兄ちゃん」
お兄ちゃんは淡い薄紅の花霞みの向こうで私に微笑んでくれて。
それがいつの頃の思い出なのかなんて事は絶対に忘れられない。だってそれはお兄ちゃんが私のお兄ちゃんになって、一番最初に一緒に迎えた春の思い出だから。
そう、私はそれも嬉しくって、だからあんなにも嬉しくって仔犬のように淡い薄紅色の花霞みの中を踊ったのだ。
「お嬢様、どうしたんですか、そんな嬉しそうに笑って」
人懐っこい笑みを浮かべながら私にそう訊いてきたお手伝いさんに、私は唇の前で人差し指を一本立てて、内緒♪ってやった。彼女は微苦笑を漏らしながら、肩をすくめると、風呂敷に包んであった四重箱をテーブルの上に置いてくれる。
「だけど、お嬢様、本当に御一人で大丈夫ですか? 私も手伝いますよ」
「え、あ、うん、ごめんなさい。だけど大丈夫。私、ひとりでがんばりたいから」
私はにこりと心配そうな顔をするお手伝いさんに微笑む。
そう、大好きなお兄ちゃんと一緒に桜を見ながら食べるお弁当だもの。私ひとりで作って、美味しそうに食べながら喜ぶお兄ちゃんの笑顔を見たい。
「そうですか? なら、私はお庭の花に水をやってきますから、もしも何かありましたら、なんなりとお呼びくださいね」
「はい」
さてと、それじゃあ、作るぞ。
時刻は朝の6時半。いくら料理に不慣れで、作るのに時間がかかる私でも、この時間からやればお昼までには間に合うはず。今度こそ、ちゃんとした見栄えの美味しい料理を作るんだから!
思い返すはバレンタインの時。
お料理本を開きながら一生懸命に作るも、どうしても本のような綺麗な見栄えにはできなくって、紙袋いっぱいにチョコレートをもらってきた(しかもすごく綺麗にラッピングされた手作りチョコ)お兄ちゃんにはとてもじゃないが恥ずかしくって出せないってしゅんとしてたのに、だけどお兄ちゃんは私の作ったチョコレートを美味しいよって食べてくれて。しかもホワイトデーには大好きな詩人さんの詩集もくれたし、何でもない日にプチブーケを片手に会いにも来てくれた。やっぱり、そんなお兄ちゃんには美味しい料理を作って、食べさせてあげたい。それで、美味しいよって言ってくれたら、それはとても嬉しくって。
「うん、私、がんばる」
私は両拳を握って気合をいれると、キッチンの出入り口から何やら不安そうにこちらを覗きこむお父さんとお母さんには気づかないふりをしてあげて、お弁当作りを始めた。
******
時刻はAM11時23分。
結珠はお弁当が入った鞄を大事そうに両腕で抱えながら、一足先に周りの桜の樹よりも早く咲いて、吹く風に乗って虚空をひらひらと舞う薄紅の舞姫たちが漂うなかを走っていた。
「あー、もう」
あんなにも早くから始めたのに、結局はお弁当が出来上がったのは兄との待ち合わせ時間の10分前だった。結珠としては兄の蒼と自分の大好物とをちゃんと作りたかったのだが、しかし時間との競争になってしまったので、蒼の大好物(と、言っても彼の大好物は彼女の大好物なのだが)だけを作る作戦に切り替えたのだが、しかしやっぱり不慣れで時間がかかるし、だけど蒼の大好物は全部お弁当箱に入れたいしで・・・・・。
蒼との待ち合わせ場所は、家のすぐ近くにある市民公園。そこは数百本もの様々な桜の樹が植えられている事で有名な公園で、公園の中を走るハイキングコースに沿って桜は植えられている。
公園に入ってすぐの所にある澄みきった空のように青い…兄の名前と同じ色のベンチで、蒼は座りながら眠っていた。
それを視界に映した結珠はゆっくりと足取りを緩めて、蒼を起こしてしまわないように近づく。
まるで悪戯っ子のようににこにこと微笑みながら結珠は眠っている蒼の隣にちょこんと座ると、頬にかかる髪を掻きあげながら小首を傾げて、蒼の顔を覗きこむ。
「待ち合わせの時間に遅れてごめんね、お兄ちゃん」
そっと囁いて、くすりと微笑む。
すぐ間近にある蒼の・・・顔。
穏やかな寝息をたてる彼の唇に・・・結珠の視線は吸い寄せられて・・・・
足の上に乗せられたお弁当箱は左手でちゃんと押さえながら右手は自然と・・・・自分の唇に持っていかれた。
ふわりと胸に広がる温かな気持ち。
心臓はこの季節に吹く風と同じように軽やかなワルツを踊るようにとくんとくんと脈打つ。
(お兄ちゃんってまつげ長いなー)
などと、想っていると、突然に蒼の口から「ううん」などと声が漏れるので、結珠はどきりとして慌てて彼の顔を覗き込んでいた身を後ろに引かせた。
それを待っていたように蒼はタイミングよく、瞼を開く。
「おはよう、お兄ちゃん」
「結珠。って、あ、俺・・・」
蒼はしまったというような表情を浮かべながら、片手で口を押さえると、結珠に頭を下げた。
「ごめん、結珠。俺、いつの間にか眠ってしまっていて」
どうやら、蒼は自分がずっと結珠を目覚めるまで待たせていたと勘違いしているようだ。きょとんと鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をした結珠はその後に薄く形のいい唇に軽く握った拳をあてて、くすくすと笑ってしまった。
「あ、えっと、結珠?」
「ううん、なんでもないの、お兄ちゃん。さあ、行こ」
立ち上がって蒼に手を伸ばす結珠。
蒼もにこりと優しく包み込むようにふわりと微笑むと、伸ばされた結珠の手を握った。もちろん、もう片方の手で、お弁当と水筒が入った鞄を受け取って。
そうして二人一緒に手を繋いで気の早い桜の樹が咲かせて風に舞わした薄紅色の花霞みのなかをあの頃と少しもかわらないまま温かい想いを胸に並んで歩いていく。
「綺麗だね、お兄ちゃん」
「ああ、やっぱり、桜は咲き始めの方が好きだな」
そして二人でくるりと公園を一周すると、咲き始めの桜の樹の下で、ビニールシートを敷いて、二人で向かい合って座った。
結珠はなんだか緊張した面持ちで、風呂敷を開いて、四重箱を広げていく。果たして大好きな兄の反応は・・・
「へー、美味そうだな、これは」
「ほんとに、お兄ちゃん!!!」
「ああ」
胸の前で両手を合わせて咲いた花のように嬉しそうな表情を浮かべて訊く結珠に、蒼はにこりと微笑むと、おにぎりを一個手にとって、口に頬張る。
「あ、シーチキンだ」
「うん、お兄ちゃん、シーチキン好きでしょう。だからね、おにぎりはお兄ちゃんの好きなシーチキンにたらこ、それにうめぼし。それでおかずはお兄ちゃんの大好きなからあげに、お兄ちゃんがいつも作ってた砂糖としょうゆで味付けした卵焼き、それにスパサラダにお兄ちゃんの大好きなハムを入れて、後はお兄ちゃんの大好きな・・・」
指でおかずを指し示しながらお兄ちゃんの大好きなを連発する結珠に蒼はちょっと慌てた感じで訊く。
「ちょっと待って。じゃあ、結珠の好きなおかずは?」
だけどこれに結珠はにこりと・・・そう、ひらひらと淡い薄桃色の花びら舞う空間から浮き現れるようにして出てきた桜の精とはきっとこんな風に春を喜ぶ微笑みを浮かべているに違いないと確信できるような、とてもとても嬉しそうな笑みを浮かべて、言った。
「だって私が好きな物はお兄ちゃんの好きな物とほとんど一緒だもの。それにね、自分が作った大好物を食べて喜ぶよりも、私の作ったお弁当を食べて喜んでくれるお兄ちゃんの顔を見る方がいいな、って」
「え、あ、うん、ありがとう、結珠。嬉しいし、美味しいよ」
二人見合わせた顔を真っ赤にして俯かせる。そして上目遣いでお互いに眼を見合せあってやっぱり二人同時にくすくすと笑いあうと、こつんとおでことおでことを合わせて、そのまま二人くすくすと笑いあう。
そんな二人仲の良い兄妹・・・?を包み込む桜の花びらは、二人の幸せを祝福するようにひらひらと包み込む。
もちろん、結珠には周りの自分たちを見守ってくれている桜の樹たちの声が聞こえていて、その言葉にくすぐったそうな笑みを浮かべながら頬をほんのりと周りの花びらと同じ薄桃色に染めた。
風に舞って首筋をくすぐる髪を、結珠はくすぐったそうに掻きあげながら、まだ咲き始めの桜の花を見上げる。
まだ咲き始めの桜の花………
………だけどそれをとても結珠は愛おしく感じた。
満開の他の桜の花よりも。
それはなぜだろう?
………
それはきっと、この私の胸の中にあるまだ形の成さない・・・もう内容も思い出せぬだけど見た事だけは覚えている今朝見た夢への涙流すような淡い憧れにも似たおにいちゃんへの大切な想いのせいなのだろう・・・
結珠は左胸に・・・そこにあるほんのりと灯った温かみを消してしまわないようにそっとそっと丁寧に労わりながら片手を当てた。
その彼女のいつもよりも数倍綺麗に見える横顔を見つめながら蒼は口に運ぼうとしていた少し形のおかしいおにぎりを持つ手を止めると、結珠に訊いた。
「結珠」
「ん、なに、お兄ちゃん?」
「結珠には、この桜がどんな風に見える?」
「どんな風に、って・・・・・とても綺麗に思えるわ、お兄ちゃん。うん、とてもとても綺麗に」
そう、初めて二人で一緒に迎えたあの春に見たしだれ桜のように・・・。
それを口に出さなかったのは、きっと蒼もそう感じてくれているとわかっていたから。
「そうか。結珠には桜が綺麗に見えているんだね。ねえ、結珠。桜はね、心の鏡なんだよ。だから桜が綺麗に想えるという事は、それは結珠がとてもいい春を迎えられているということ。だから嬉しいよ、俺は。結珠が桜が綺麗に想えて」
そっと蒼は結珠の頭を優しく撫で、結珠は瞼を閉じて母親にそうされている幼い子どものように嬉しそうな顔をする。
そして蒼と結珠は二人仲良くお弁当を食べながら、桜の淡い薄紅色の花を愛でるのだった。優しく吹き舞う風と桜の花びらにふわりと包み込まれながら。
**ライターより**
こんにちは、九重・蒼さま。
はじめまして、九重・結珠さま。
今回担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回は本当にありがとうございました。
ご依頼していただけてものすごく嬉しかったです。
やっぱり、九重兄妹さまは書き手として物語を紡ぎたいPCさまなので。^^
しかもシチュエーションは僕もよく好んで書いている桜で。
桜の描写は蒼さんを薄紅の嵐、結珠さんのを薄紅の花霞みにさせていただいたのですが、なんとなく二人の雰囲気を出せる描写かなーと満足しております。
桜の花は心の鏡。だから桜がとても綺麗に想えているのなら、それはとても良い春を迎えられているという証拠、これは僕の中学校時代の恩師に頂いた言葉なのですが、この言葉は本当に結珠さんに贈りたい言葉だと想います。病気がちだった彼女がこうやって蒼さんと一緒に外で桜の花を見られているわけですからね。^^
プレイングに書かれていたイメージ通りの出来となっていれば幸いでございます。自分としては、なんとなくラブラブカップルのような感じになってしまったように想えるのですが。^^; というか、実は本心ではいつかこの二人をそうさせてあげたいなーと想い、それが書けたらなーと想っております。^^;
ちなみにバレンタインのエピソードは、PCツイン4コマ「バレンタイン」とPCシングルピンナップ「美味しくできますように!」を拝見しイメージを膨らまさせていただきました。^^
満足していただけてましたら、本当に作者冥利に尽きます。
それでは本当に今回もご依頼ありがとうございました。
もしもまたよろしければ書かせてください。
失礼します。
|
|
|