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<東京怪談ノベル(シングル)>


破滅に至る病〜白の闇〜
 あれほど待ち望んでいた太陽の眩しさに、男は目を細めて大きく伸びをした。
 こうして日に透かしてみれば、なんと柔らかな白であることか。これが、数日間男達の命を奪おうとしていたモノと同じとはとても思えない。
 寝不足の目をしょぼつかせながら、積もりたての雪を手ですくい、顔をこすって洗う。思わず含み笑いが洩れて、気付けば朗らかな笑い声が山の中に響き渡っていた。
 ――相棒が起き出して来ない、その不自然さに気付かないまま。

「大丈夫か?」
「良くないな」
 表の雪と同じく真っ白な顔をした相棒が、寝袋の中から目を上げる。冗談めいてはいるが、ひっきりなしに身震いする様子を見れば、それが冗談などではないことが分かる。
「1日寝ていれば治るさ。…あと、少しなんだろう?」
 ああ、と頷いた男が、テントの中から見えぬ頂上に向って顔を上げた。ふと見れば、相棒も目線を同じくして…そして、ふ、っと笑う。
 何度も山登りをした仲だった。パーティを組んだことも、今回のようにコンビを組んだことも一度や二度ではない。
 よりによってこんな時に。
 この山を登らないか、と持ちかけてきたのはこの男だった、と相棒を気遣いながらその時のことに思いを馳せる。
 ――誰も踏破したことのないルート。
 険しさでは群を抜き、登頂した者は過去にいるがそれとて自力ではない。自らの足を使ってナンボ、と2人でそのニュースを見ながら嘲笑ったものだ。
 綿密に計画し、死に物狂いでバイトして金を貯めここまで来た。それなのに。
 ――お前が寝込んでどうするんだよ。
 もう一度、此処からは見えない頂上へと視線を向け…そして、下からじっと自分を見上げている相棒に気付いた。

 さくさく、と雪を集めて持参した燃料で溶かす。多めに持って来てはいるものの、この所の天候悪化でかなり消費した為まだ十分にあるとは言い難い。出来ればすぐにでも出発したい所だが…。
 この高度で体力の回復を待つのか?――そんなのは、無理だ。あの様子だと熱発だろうが、只の風邪だとしても簡単に治るような環境ではない。
 後1日、早く天気が収まっていれば。
 今更思っても仕方ないこと――だが、どうする?

 あと少し。
 あと少しで、手に届く。――それなのに。

 男はもう、山を見上げない。
 しゅんしゅんと沸くポットを見つめ続けるだけ。
 いつの間にか、手の平がじっとりと汗を含んでいた。

     * * * * * *

「歩けるか」
 2人で寄り添いながら、細い道を渡っていく。滑落したら何処まで落ちるか分からない、そのくらい切り立ったその崖の脇を、そろそろと。
「――いいのかよ。俺を…」
「言うな」
 ―――頼むから。
 相棒が、また、あの目で見る。それを振り捨てるように、男は目を逸らし、そしてまた強引な足取りで歩き出す。
 薬で一時的に抑えてあるとは言え、相棒の足取りは頼りなかった。それでも、今の2人の荷なら無事に降りられる。多少急いでも――入院沙汰は覚悟の上だろうが、今すぐ降りれば。
「すまんな。登りたかったんだろ」
 相棒が、また。
 ――やめろ。
 ぎり、と歯軋りしたその音に自分が驚いてしまう。噛み締めた瞬間に切ったか、じわりと口に忍び込んできた鉄の味にも。
「言い出したのは俺だったのにな」
 っ。
「言うなっつってんだろ!!」
 振り返り、叫び様苛立ち紛れに振り下ろした腕は、雪の壁にぶち当たり。
 ――だが、それで十分だった。少なくとも、薬で鈍っていた相棒の体のバランスを崩す程度には。

 あっという間だった。
 急な雪のスロープに飲み込まれ、消えていった相棒を呆然と眺めることしか出来ずにいた。
 頼みの綱のザイルは、何度も点検しておいたにも関わらず、ひと1人分の体重を支えきれずに、ぷち、ぷちと嫌な音を立てながら千切れていった。
 相棒の悲鳴が止んだ時――酷く軽いザイルだけが残っていた。

     * * * * * *

 ――はあ。はあ。
 さくさくと言う雪を踏みしめ、掻き分ける音だけが耳の奥に響いている。

 あいつが、悪いんだ。
 俺を誘っておいて。
 勝手に熱を出して。
 言うなってのに思い出させて。

 もう少し。
 もう少しで、たどり着く。

 この日を、
 相棒と話題にしたあの日からずっと、
 夢に見て、

 く、と思わず喉から声が洩れる。それは、小さな含み笑いで。

 ――わざと、崖際の道を選んだ。
 あいつが勝手に足を踏み外してくれればいいと思った。
 そうすれば、あらかじめ切っておいたザイルが千切れるだろうから。
 降り積もった雪が、ポットの中で溶け出すように。
 沸き出す湯を見つめながら、あいつさえいなくなれば、と。

 あと、僅か。

「――」
 聞きなれた声が、男の名を呼ぶ声が、厳重に防寒を施した耳へと届いた。思わず、顔を上げて――そして、凍りつく。

「どうしたんだ?来いよ。――それとも、こっちから、行こうか」
 さく、さく、と、互いにあれだけ話して、夢を見た頂上から、相棒がゆっくりと降りてくる。
「勝手に熱出して悪かった。今はもうすっかり良くなったよ…お前の、お陰で」
 何でお前が、という言葉は何故か思い浮かばなかった。
 それよりもなによりも。
 どうして、先に登ったんだ、と、悔しさが込み上げてくる。…が。
 その腰にぶら下っている千切れたザイル――自分の罪の証を目にし、はっと我に返る。
「そうだろうな…俺だって、同じ事したと思うぜ」
 未だ男を見ながら此方に近寄ってくる相棒の顔から目を離せず、後ずさりした。それが、拙かったのか。

「う、わ」
 雪に足を取られ、滑る――自分ではどうしようもない力に引きずられるように。そして。
 がし、っと。
 夢中で何かを掴み、ほっとして見上げた。其処に。
「残念だったな、登りきれなくて」
 にこやかに言いながら男を掴んだ、相棒の腕があった。
「お前…」
 助けてくれるのか?
 そう言おうとした矢先、がくん、と体が衝撃と共に下にずり下がる。慌てて見上げると、楽しそうな――見慣れたその笑顔の相棒の腕が、ロープか何かのように不自然に伸びて…そして。
 ぴりぴり…と、嫌な音と共に、相棒の防寒服が裂けた。その中から、筋肉も腱も伸びきっているのだろう、ゴムのように歪んだ細い腕があらわになる。
「…ああ。切れて行くよ」
 ぷち、ぷち、音を立てながら、相棒の腕が中途から千切れ、細くなっていく。――自分がやった、ザイルのように。
「や――やめ――」
 悲鳴は。
 ぶつん、と衝撃と共に切れた相棒の腕と共に。
 日の光を浴びてきらきらと輝く雪の中に飲み込まれた。

     * * * * * *

 ――ふん。
 一面の銀世界の中、赤という異様に映える色が、そこに佇んでいる。
「浅ましきは人の業よな」
 幼い顔に浮かぶのは、冷たい侮蔑の表情。
 その顔も、さら、と流れる髪をそっと掻き揚げる指先も、雪より遥かに白く。
 男が落ちていった跡を、眺めるとも無く立ち尽くし。

 やがて、再び天候が急変したその場は白く凝って行く。
 塗り込められる、白。白。しろ。
 気付けば。
 赤い少女は何処にも居らず。

 山は、静けさを取り戻した。

-終-