コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


―寒稽古―

<オープニング>


「つ、疲れたぁー……、」

起き上がることさえままならず、朱鳳・小弥太(すおう・こやた)は板張りの上に倒れていた。
他の門下生も皆似たり寄ったりでぐったりしている。
皆頑健な体格ではあるが、その彼らが動けないほど疲弊しきっている。

ここ東昭舘道場では、恒例の寒稽古が行われていた。
冬の寒さは心身を鍛えるに絶好の季節。
唯でさえ普通の稽古も厳しいというに、寒稽古中は朝夜連日十日間通しという日程になる。
かてて加えて懸かり稽古中心の猛稽古。
師範代の蒼眞は容赦なく、また他の特殊面子も手心は一切加えない。

「小弥太起きろ、明日の最終日さえ乗り切れば後にあるのは……、」
「!!そうだったな!」

がば、と起きて目を輝かす。
寒稽古も明日で最後。
長く辛かった日々ももう終るのだ。

「それに毎日懸かり稽古ばかりだったが、明日は互角稽古もあるしな。」
「そうそう、それに出稽古にくる人もいるらしいぞ。」
「いつもと違う人ともやってみたかったんだよな、楽しみだ。」

そんな門下生の微かな希望を知ってか知らずか
月光に負けじと輝く源氏星が、凛と瞬いた。








―寒稽古―





暦は如月も半ばとなりこの身に触れる春もそろそろと近づいてこようとする頃。
然しながら朝夕の寒さは未だ衰えず、それは東京は片隅の此処東昭舘も例外ではなかった。

その中連日行われてきた朝夕十日間に及ぶ寒稽古も今日が最終日。
夕の稽古に来訪者が数多参加の模様――。






東昭舘道場への石畳を歩きながら背中の防具袋を背負い直す。
皮の防具袋に竹刀二本を入れた竹刀袋は
もう慣れたとはいえ重い。
今は周囲の翠の様子に目を奪われる事もなく、心の中で先程から幾度となく繰り返される問答を再びしている。
大丈夫だろうか、と。

「ふぅ、」

硝月・倉菜(しょうづき・くらな)は小さく溜息をもらす。
此れも幾度もらしたことか。
神聖都学園剣道部に在籍している彼女にとって出稽古は初めての経験である。
道場へは通った事はある、が、それはニューヨークの道場であり
剣道の発祥の地、日本での、それも団体ではなく個人の道場は未開の地だ。
剣道部の顧問より此の道場の話を聞かされ、参加する事になったのだった。
学生剣道の枠を超え、個人道場の稽古を体験してくるように、と。
然し今どきの高校生とはいえ、未だ若干十七歳の少女。
一人で未知の場所へ参加するのが怖くないと云えば嘘になる。

暫く行くと総瓦屋根のこじんまりとした木造の道場が姿を現した。
想像していたよりも随分と小さい建物に驚く。
中や窓からは既に踏み込む音や人のざわめきが聞こえている。
聞いていた開始時間よりかなり早いが、門下生達が準備をしているのだろう。
自分も早く用意をしなくては、と入り口を探すがどこから入ってよいのかわからない。
少々焦りだした時、ふいに道場の窓から門下生から誰何の声がかけられた。
出稽古に来た旨を伝えると、嬉しそうに破顔する。

「君は高校生?若いお嬢さんが来るなんて嬉しいな。」
「……女性の方は、いないんですか?」
「うーん……、居ると云うか居ないと云うか……、」

途端に彼は周囲の門下生と歯切れの悪い事を云っている。
不安になりどうしようか迷った時だった。
ふ、と視界の端に白い姿が映る。
見やると白の稽古着に白の袴の背の高い剣士の姿だった。
背筋の伸びた姿に何か冷たさを感じたような気がした、が何故だろうか。

「あの人は?」

門下生に聞くとげんなりした顔で項垂れている。
まただよ、だの何故だー、だの何だろうか。

「あの人は由依・玄之丞(ゆい・げんのじょう)さんと云って、女性ですよ、あれでも。」
「……女性、いたのね。」

倉菜は安堵しその門下生に一礼すると、由依の方へと向かう。
近づくにつれ相手が自分よりかなり背の高い事に気づく。
此方の足音が聞こえたのだろう、相手の方が先に声をかけてきた。

「何か?」

一瞬、怖いと思ったが、それを表情には出さず防具を下ろして一礼する。
出稽古に来た事、着替える場所等を尋ねると、彼女は少し表情を和らげた。

「ああ、それはよく来たね、歓迎するよ。あたしぁ……、」
「お名前は先程門下生の方から伺いました。私は硝月倉菜と云います。由依さん、今日は宜しくお願いします。」
「そうかい、それなら話は早い。脱衣場なら中になる、ついて来るといい。」

伝法な口調だが話してみると其れほど怖さは感じなかった。
それより女性剣士が居た事が心強い。
こういう時ほど同性の存在は、精神的にも助けられるのである。
倉菜は防具袋を再び背負うと不安と好奇心に満ちた道場内へと足を運ぶのであった。





東昭舘の敷地内に、腹に響く大太鼓の音が轟く。
一同の表情が一気に引き締まり、剣士の其れに変わっていく。

轟。

轟。

轟。

神棚を上手とし、先生方と門下生と相対して段位順に並び座する。
今回出稽古に赴いた者達は暗黙の了解で門下生側の末席になる。
先生方―七、八段所有者―だけで元立ち側は埋め尽くされており、この道場の層が並々ではない事を示している。
撥を置く蒼眞が続いて声を上げる。

「神前に向かって、礼!」

座したまま一斉に神棚へ膝を開き、両手をついて深く礼。
直にまた元に戻る。

「先生方に向かって、礼!」

今度は先生方と門下生とが相対し、両手をついて深く礼。
顔を上げ、今度は其々声を出して、お願いします、と再び深く礼をする。

既に道場内は無言で、気が満ち満ちてきている。
誰もが手早く頭に手ぬぐいを巻き、面をきつく締める。
彼方此方から紐を締める張とした音が聞こえ、跳躍の音もそれに続く。
先生方も支度を整え、稽古場の定位置につくかどうかの一瞬。

「お願いします!」

八段の橋本先生への一番乗りは朱鳳・小弥太(すおう・こやた)だった。
まずはその場にて小さく礼。
数歩相近づき蹲踞。
面金を通し、お互いの様子を量る。
静かな攻防戦が其処から既に始まっている。
気が一気に高まった刹那――

東昭舘、寒稽古最終日の第一声が全ての合図になった。





防具はつけたものの、倉菜は面はつけずにそのまま脱衣場にて見学の体勢をとっていた。
やはり未だ不慣れな出稽古である為、どの様にしたらいいのかわからなかった。
稽古場では元立ちにずらりと並ぶ七、八段の先生方の前に
此れもまたずらりと門下生が順番に列を作っている。
部活の稽古でも見られる光景に他ならないが、初めての場所、と臆するのは仕方のない事か。

稽古の風景は想像以上に苛烈なものであった。
やはり懸かり稽古が中心に行われているようであったが、
中には投げ飛ばされて倒れている者も出てきている。

(!!)

この様な稽古は今迄見たことがない。
ニューヨークでも学校でも袴や相手の足に躓いての転倒はあったが、
敢えて相手を投げ飛ばす、という状況が剣道にはあるのだろうか。
在る。
此れを“組手”と云う。
実際、海外や学校ではまず目にする事は滅多な事では無いだろう。
本来、剣道とは剣だけを用いるものでは非ず己の肉体をも用いるのである。
倉菜ははじめて見る稽古にいつしか真剣に魅入ってしまっていた。

すると集中している為か、音楽に携わっている為か判らないが
竹刀の打ち合う音、気合いの発声音、踏み込む足の音、
それらが倉菜の耳にひとつ、ひとつ入ってきていた。
小気味のいい音は腹の底にまで響き、身体中を激しく駆け巡る。
理由は道場にある。
此れまで倉菜のいた所はニューヨークの道場にしろ、学校にしろ建物が大きい。
従って音は拡散してしまうのである。
日本の、それも個人の私的道場ではないと、床板にも拘り在るものは出来ないのである。
此れは公的施設と私的施設の大きな、そして重要な違いだ。

見ているうちに身体もだんだんと落ち着きがなくなり、面を付け始めた。
折角稽古に来ているのに参加しないのは勿体無い。
用意が整うと、まずは一番列の短い先生の所へと並んだ。

一礼して数歩前へ、そして蹲踞。
倉菜は先生―垂れには“矢藤”とある―に切り替えしから懸かり稽古をお願いする。
矢藤は頷き、稽古が始まった。
若い女性特有の高い気合い声を発し、此れまでやってきた様に気負いなく打ち込む。
周囲の様子は気にせず、自分の打突に集中するのだ。
暫く連続打突を繰り返していると、数本に一本、先生の竹刀で押えられるようになっていた。

(……何故?)

押えられてしまうなら、それ以上に打突をするまで。
手数を増やしていくと更に押えられる回数が多くなる。
理由が判らず混乱していくと突然矢藤が激しい面を打ち、そのまま体当りをしてきた。
なんとか体勢を保ち転倒を免れると、その矢藤が近づいてきた。

「硝月さん、今何故押えられたか判りますか?」
「……すみません、判りません、」

すると矢藤が面金の向うでにっこりと微笑む。

「あなたは学生さんですね、学生さんは手数が多いのですぐ分りますよ。」
「手数が多い、ですか?」

外国の剣道及び学生の剣道は、まず殆どが手数が多く激しい打ち合いになる。
若いし、瞬発力も高く、力も強いのでこの傾向が顕著に現れる。
然しそれ故打突にバラつきが多いのも否めない。
打突自体が浅くなり、一本に繋がりにくいのである。

「打突の一本一本を丁寧に打つ事が大切ですよ。」
「そうすると連続技は……、」
「必ずしも必要ではありません。」
「……分りました、やってみます。」

倉菜にとり新しい視点での指導は此れまでの稽古の否定にも繋がるものであったが
其処は現代の高校生、柔軟な感覚で取り込んでみる事にした。
師が違えば教えも変わる。
そのジレンマを越えられるかが今後の稽古を左右していくだろう。


最初の難関を突破してからは、倉菜の動きは良くなってきていた。
緊張による硬さも取れてきたのだろう、普段の全国大会出場級の動きが見えてきている。
ふと白い剣士の姿が目に入ってきた。

(あ、由依さん……)

同じ女性としても、また一人の剣士としても気になっていた。
このせっかくの機会を有効に使おう、倉菜は由依の元へ近づき一礼した。

「お願い、できますか。」

暫く倉菜を見つめていた由依だが、目を細めると頷き、元立ち側へと立った。
近くにいた順番待ちの門下生達が、皆一様に息を飲んでいたが昂っている倉菜にはわからなかった。
位置につき一礼、数歩前へ進み蹲踞。
二人の女性剣士による高音域の気合いが道場に響く。

今度は倉菜は懸かり稽古を、とは云わなかった。
従って気合い発声と同時に打突を繰出す。
有効打突とはいかなかったが、伸びの在るよい打突だったと云えよう。
明らかに稽古の成果があったようだ。
由依も時折打ち、引き立て稽古となっていた。

倉菜が面打ちを仕掛けようとした時だった、由依がそれに応じ小手を打つ。
すると思わずそれに反応してしまった。
それはとても小さな反応だったが、由依はそれを逃さなかった、連続して小手を狙ってくる。
此れはあくまで引き立て稽古であるので、小手を狙われた時の対処をするべきであった。
だが執拗に狙われる右小手への打突に無意識に下がってしまう。
相手は前へ出る、自分は下がる。
周囲の人にぶつかるのが分りながらも、どうしようもなかった。
その勢いが止まった時、それは稽古場と脱衣場との境界の木枠にぶつかった時だった。
倉菜にとり由依は鬼の様に思えた。

悔し涙が滲みそうになるのを倉菜は必死に堪えていた――。





轟。

轟。

轟。

轟。

轟。

白峰が大太鼓を叩き、稽古をしていた者達はその場で蹲踞し、終了させる。
そして再び先生と門下生と相対して並ぶ。
竹刀と小手は右脇に置き、面はまだ着けたままである。
全員が並び終わったのを確認すると、蒼眞が号令する。

「面取れぃ!」

汗による水分を含みきつくなった紐を解いて面を外す。
頭に巻いた日本手ぬぐいが湯気をあげている。
床に置いた小手の上に面と手ぬぐいを置き、再び正座。

「神前に向かって、礼!」

座したまま一斉に神棚へ膝を開き、両手をついて深く礼。
直にまた元に戻る。

「先生方に向かって、礼!」

今度は先生方と門下生とが相対し、両手をついて深く礼。
顔を上げ、今度は其々声を出して、有り難う御座いました、と再び深く礼をする。
その後まず師範代の所へ皆行き、その前で有り難う御座いましたと座礼。
次に今日稽古をつけてもらった先生方全てに座礼をしていくのだ。
またその際、先生の防具や袴を片付けるのも忘れない。
本来ならばお礼に伺う際、先生より一言が頂ける。
気をつけるべき点、良かった点、次への課題等を貰い、次の稽古の目標とするのだ。





「直に打上げの用意に入るのでさっさと片付けるように。」

蒼眞の指示により稽古場の掃除が箒と雑巾で手早く進められ、
一部の門下生により折りたたみ式のテーブルが並べられていく。
出稽古の参加組も勿論此れに参加する。
寒稽古の打上げは恒例の行事でもあるのだ。
遊那と既に制服に着替え終わった倉菜がお盆に沢山のおにぎりや豚汁を持ってくると歓声が上がる。

「今日は更に遊那さんがご馳走を差し入れてくれましたー!」

お鈴が重箱を掲げて見せると更に大歓声となった。
余りの歓声に戸惑いながらも、作ってきてよかったと遊那はつくづく思うのだった。
続いて矢文が一升瓶を十数本軽々と抱え、先生方の席から順次配置していく。
綾と一樹がコップを配り、亮一は未成年用に甘酒の茶碗を配っていく。
皆で一斉に協力し、準備は整った。
全ての人が着席し、蒼眞が挨拶に立つ。

「本日無事に東昭舘寒稽古が終了しました。
 皆脱落者もなく終えられたのは先生方のご指導と精進の賜物と云えよう。
 また今日は出稽古や見学にも参加された方々がいます。
 如何でしたでしょう、当道場の寒稽古は。」

参加者の代表として一樹が立つ。

「突然の参加でありながらこの場に参列させて頂き、真に有り難う御座います。
 此方の稽古は厳しいと伺っておりましたが、噂に違えぬ激しい稽古内容でした。
 然し大変楽しい稽古であり、色々とご指導頂き感謝致します。」

深々と礼をし、それに習い他の皆も座礼する。
それを見る先生方の目は一様に優しい。
次に八段の橋本先生が乾杯の音頭をとる。

「其れでは、東昭舘寒稽古の無事なる終了と剣道を愛する皆さんの更なる精進を祈って……乾杯!」
「「「「「乾杯!」」」」」

日本酒と甘酒の器が掲げられ皆一気に飲み干す。
拍手がどこからともなく起き、それからは皆酒に、料理に舌鼓を打ちながら座談会となっていった。

重箱料理にがっついている小弥太に、周囲の剣士達がそれを剥がそうと揉めている。
あれだけの激しい稽古をしながらも元気なその姿に驚く遊那。

「お鈴さんから聞いたけど、普通稽古の直後は食べれないんじゃないの?」
「えー、だって俺、育ち盛りだぞ?こんなに美味しそうな料理が目の前にあって食わない筈ないじゃん!」
「あ、キミ、なんか可愛いぞ。これも自信あるんだけど、食べる?」

食う、食うー、と本当に幸せそうな小弥太に、遊那は嬉しくなってしまう。
此れだけ美味しそうに食べてくれると作ってきた甲斐があったというものだ。
其処へ綾も料理を取りにやってきた。

「凄い勢いで料理がなくなっていきますね、僕にも少し頂けますか。」
「槻島さんお疲れ様。どう、身体は大丈夫ですか?」

遊那が数種料理を取り分け渡すと、綾は苦笑する。

「普段使わない筋肉が、嫌と云うほど悲鳴をあげています。駄目ですね、適度に動かしておかないと。」

遊那に会釈をして、綾は料理を由依の所へと持っていく。
稽古のお礼を云う為だ。
すると既に先客がおり、話をしている……倉菜である。

「あたしが小手を集中してた理由か……引き立て稽古だからねぇ、非を悟らせ打突の機会を引き出す稽古だが?」
「私の小手が“非”と云うんですか。」
「硝月さん、お前さん何か剣道の他にやっちゃあいないかい?」
「……え、何故それを、」

祖父の下につき、楽器造りをしている事を云うと、やっぱり、と由依が日本酒を飲み干す。
綾が日本酒の瓶を持ち上げると、すみませんね、と杯を差し出した。

「楽器を造るのに右手は大事だ、だから無意識に庇ったんじゃないのかい。」
「…………、」
「戦いに於いて弱みを見せたら其処を狙うのは定石、違うかい?」
「そう、です。」
「精密さを要求される楽器を造る匠の道と、その剣を握る手を狙われる剣の道は相反するのさ。
 祖父殿も此れまでさぞや気を揉まれているんじゃあ、ないのかねぇ。」

指先の感覚一つが非常に大事な楽器職人。
その様な繊細な職を持つ彼女が剣道をやっていたとは……その名の通り硝子の諸刃を持つ少女だと綾は思った。
一礼して辞する少女の後姿に、綾は可哀想に、と呟く。

「此れも“剣の道”故、なのですか?」

違う、と由依が綾に杯を注ぐ。

「二足の草鞋は出来ない事はない、ただ“匠”だけは無理でしょう。楽を愉しみで奏するのなら出来てもね。」
「確かにそうですね……攻撃の部位として小手がある以上、その恐怖からは逃げられませんよね。
 少しでも利き腕を傷つけたら、繊細な感覚はもう難しいでしょう。」
「まぁこれは彼女の問題ですがね、此方はこれ以上口出しは出来ません。
 いや、既におせっかいが過ぎたかもしれませんがね。」

槻島さんはどうでしたか、と今度は彼に一杯注ぎながら由依が聞く。

「僕は今日が初めてでしたので全てが新鮮でした、出来たかどうかは別としてですがとても楽しかったです。
 この機会を作ってくれた友人に感謝しなくては。」

そう云って頭を掻きながら綾は笑う。 
育ちの良い家柄のせいか教わる事を素直に吸収するので由依も教え易かったという。
突っ込みどころがないのが物足りなかったので次回は……、と
後で彼女が云っていたのは彼には黙っていた方がいいのかもしれない。
由依が蒼眞に云う事があるというので綾もお礼を云いに、一緒に移動する。


「あ、ちょうどいい所へ。」

亮一が、綾と由依が近づくとにっこりと微笑む。
その場には亮一の他に一樹と蒼眞、そして白峰の姿も在った。

「槻島さんは稽古の時に、眼鏡はどうされてましたか?」
「はい?」

今回の出稽古参加者の三人が眼鏡をかけていた。
一樹、亮一、綾である。

「俺は特に視力がそれほど低くないので今回は外してたんです。
 然し武神さんはかけていた、と云うのでね。槻島さんはどうだったのかと思いまして。」
「俺は眼鏡用のバンドを使ってたんだ。」

武神が杯を干しながら答える。

「僕もです、と云っても貸して頂いたのですが。」
「すると知らなかったのは俺だけですか、勿体無い事をしました。」
「このバンドをしていれば面を打たれてもずれないからな、少し鬱陶しいのも否めないが。」

あなたが面を打たれるなんてまずないでしょう、と亮一が云うと
一樹は嫌って程打たれたよ、と苦笑しその場からは少し離れた場所で矢文を掴まえて上機嫌の加藤を見る。
成る程、と亮一。

「岐阜橋さんはかなり先生に気に入られてしまったようですね。」


その矢文は先程からずっとこの加藤の傍に居た。
とりあえず加藤に礼を伝えに行くと、まぁ飲め、儂の言葉は指導の内だ、と付き合わせているのだった。
矢文は大好物の酒とおにぎりがあるので、いつまでも続く加藤の話しに黙々と食しながら聞いていた。

「儂の稽古に最後まで立ってられたのはお前さんくらいだ、えばっていいぞ。」
「……いや、いい。」
「なかなか奥ゆかしい男じゃのぅ、まるで儂の若い頃にそっくりじゃ。」

そう云って矢文に次々と酒を注いでいく。
そっくりなのは嫌だなぁ、と思いながらも口にしないのは矢文故だろう。
先程から蒼眞達が哀れみのこもった目で此方を見ているが……仕方がなかった。
それにこの豪放な加藤が嫌いにはなれない。

「儂が矢文を日本一の剣士にするのだ!」

……やはり助けてもらった方がいいのかもしれない、と思いながら
それでも料理に舌鼓を打ちながら酒を干していくのだった。


遊那と倉菜が男性陣と合流し、剣道談義に花を咲かせていた。
先生方が高齢であるのに稽古になると誰よりも強い事に誰もが驚いている。
するとそこへひょいと小弥太が顔を出す。

「だからな、俺達は先生達の事“スーパージジイ”って云ってるんだ。」
「小弥太!」

蒼眞の恫喝にさっさと小弥太は逃亡、然し皆その云い得て妙な総称に大笑いしていた。
身をもって体験している一樹が頷き、体験していない綾は亮一に幸運ですよ、と云われている。
倉菜は甘酒をむせてしまい、遊那に苦笑されながら背中をさすってもらっている。

年を経る毎に技も冴え、礼を知り、己を知り、人として為っていく。
それが剣道。

「どうです、いい記事が書けそうですか。」

蒼眞の問いに遊那も綾も大きく頷く。
漠然とした剣道というものに直に触れた事により、一般的な文章とは違ったものになるだろう。
それまで掛け軸の黒馬に魅入っていた亮一も席に戻り、一樹と話している。
お互い自らの精進の為の参加だったが得る物もあったようだ。
ようやく矢文も合流し、綾から酒を注いでもらい、倉菜からは料理を渡された。
倉菜にとっては厳しい稽古になったが、矢文にとってもある意味大変な体験だった事だろう。
此れまでの皆の様子を撮っていた遊那の写真が雑誌に掲載されるのはいつ頃か楽しみである。
参加した人其々の目的が達せられたかどうかは、あとは個人の判断に任せよう。



こうして東昭舘道場の寒稽古は終わりを告げる。
だが打上げはまだ続き、北斗七星が中天にかかる頃まで道場の灯りは消えなかった。

この寒稽古が終ると、ようやく春の足音が聞こえてくる。
道場敷地内の桜の木に、蕾が膨らみ始めてくるのも
もう、間もなくである――。





□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【 0173 / 武神・一樹 / 男性 / 30歳 / 骨董屋『櫻月堂』店長 】
【 0931 / 田沼・亮一 / 男性 / 24歳 / 探偵所所長 】
【 1253 / 羽柴・遊那 / 女性 / 35歳 / フォトアーティスト 】
【 1571 / 岐阜橋・矢文 / 男性 / 103歳 / 日雇労働者 】
【 2194 / 硝月・倉菜 / 女性 / 17歳 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒) 】
【 2226 / 槻島・綾 / 男性 / 27歳 / エッセイスト 】

NPC

【 蒼眞・辰之助 / 男性 / 34歳 / 東昭舘師範代、四天王 】
【 白峰・寅太郎 / 男性 / 28歳 / 東昭舘門下生、四天王 】
【 朱鳳・小弥太 / 男性 / 16歳 / 東昭舘門下生、四天王 】
【 由依・玄之丞 / 女性 / 21歳 / 東昭舘門下生、四天王 】

その他、お鈴、“スーパージジイ”の皆さん


□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□


お初にお目にかかります、伊織です。
此の度は東昭舘寒稽古にご参加頂き、真に有り難う御座いました。
剣道の稽古、と云う東京怪談的には派手さのない地味な依頼ではありましたが
其の稽古内容のリアルさにいささか驚かれた方も多いかと思います。

ええ、大好きです、剣道が。

今回のプレイングを拝見し非常に驚き且つ嬉しく思った事があります。
其れは皆さんのプレイングに“礼”の心を発見した事です。
試合ではなく稽古、と在った為そう書かれたのかもしれませんが
剣道を出来る方も出来ない方も謙虚にその旨を書かれておりました。
此れは中々出来る事ではありません。
剣道をはじめ日本の武道は礼に始まり礼に終わります。
日本人の美徳を垣間見た思いをし、つくづく皆さんにご参加頂いた事を感謝致す所です。

今回は其々の稽古中心とした描写となり、中々一緒の情景が描写できませんでしたが
其の分どのように稽古したいかは充分字数を割いたつもりです。
少しでも稽古の様子を楽しんで下さいませ。
次にもしお目にかかれる時が御座いましたら、また宜しくお願い致します。


>硝月倉菜様

初めまして、倉菜様。
此度は東昭舘への寒稽古へようこそご参加下さいました。
女子高校生と云う若いお嬢さんの身で在りながらこの様なむさ苦しい場所へよくぞいらっしゃいました。
可憐なお嬢さんの大変勇気の在る参加に驚きつつも、其の経歴を読み納得致しました。

今回参加者の中で一番難解でした、稽古内容についての記入が無い為「学生」「外国」を主題としました。
プレイングは全て活かす書き方をしておりますが、勘と音と器用さについては確かに必要としません。
それ故敢えて描写から外す事にしましたのでご容赦下さいませ。


随所に剣道について語っておりますので、もしご興味がありましたら
他の方の稽古風景も見て頂ければ、と思います。
見た目の凛々しさや激しさだけでなく、本当の“剣の道”を楽しんで頂けましたら幸いです。

此度はご参加、真に有り難う御座いました。