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<東京怪談ノベル(シングル)>


embroidery yarn

 光差し込まぬ天井裏に、朝は訪れない。
 否、懐に入れた忍び時計はその振動で確かに時の流れを…卯の刻を告げている。
 丹下虎蔵は、身を起こすとそっと……一枚だけ、外せるように細工した羽目板をずらし、その隙間に左眼をあてた。
 彼の起居するあやかし荘、天井裏の真下は『薔薇の間』である。
 カーテン越しに差し込む朝の光に、少女らしい調度が静かに色を落ち着ける中、部屋の主が未だ健やかな寝息に眠りの内にある事を確認し、殊更音を立てぬよう丁寧に、虎蔵は板を元の位置に戻す。
 彼の主である少女が目覚めるまで、まだ時間はたっぷりとある。が、虎蔵は彼女の影……その身辺を護る忍びの者として、いつ如何なる時に主を襲うか知れない危難に対応出来るよう、一部を除いて主の行動に先んじねばならない。
 六歳という幼きにも関わらず、まさしく影となっての警護の任は生半可な責務ではないが、虎蔵はそれを当然とし、誇りと同等……否、より勝るかも知れない主への想いに今日も精勤する。
 ちなみに虎蔵の中では、雇い主は彼女の祖父であるのだが、主は彼女である。
 瞬く間、単衣から忍び装束に衣を替え、虎蔵は仕上げに閉じられたままの右の瞼を覆う眼帯を取り上げた。
 厚い黒革の楕円、その両側に鞣して柔らかくした同素材を編み、紐状にした物を繋げて強度を持たせた実用を重視した品である。
「……母上様」
その黒革の表面に施された刺繍は、彼の母の手に因る。
 細い金糸に精緻に、一針ずつが形作る紋に似た模様は虎蔵を護る願いを込めて。
 虎蔵は、片手に載せた眼帯の表、刺繍の作る軌跡を指で辿るように撫ぜ、瞳を閉じた。
 情景は、見えぬ右の眼…その瞼の裏側に映るようにして、思い出される。
 その時には、虎蔵の右眼は見る力を失っていたというのに。


 障子の白に薄く光を透かして、少し、背を曲げた母の姿が墨色の影となる。
 延べられた床の上で、虎蔵はぼんやりとその横顔を眺めていた。
 顔に巻かれた包帯の下、右の眼窩に籠もった熱が血を巡って全身を侵している感覚に、伏せるようになって幾日が過ぎたのか、時間の感覚を無くした虎蔵に判じる術はない。
 里で不測の事態に見舞われ、見知らぬ少女の命を助けた代価のように、潰れてしまった眼球。それが内で腐る前に摘出した、という説明は、ぼんやりと熱に浮かされたまま受けたように思う。
 それよりも、虎蔵はその後少女が泣いていないか、それだけが気がかりだったが、手元に目を落とした母の姿が泣いているようで、自然、目の前のそちらに心の比重は傾く。
「……」
呼び掛けようとしたが、乾いた空気が喉に張り付いて言葉が出ない。
 ふ、と母が顔を上げた。
「虎蔵、目が覚めましたか?」
均一な白を背景に表情が伺い知れない。
 声が出ない、かわりに目に障らぬようゆっくりと頷けば、和服の裾を捌いて立ち上がり、虎蔵の脇に膝をつき、額にあてた手の冷たさが心地よかった。
「大分、熱が下がりましたね……水を飲みますか?」
虎蔵がもう一度頷くと、母は枕元に用意されていた吸い口でゆっくりと、唇を湿らせるように白湯を含ませた。
「母上様」
もういい、と呼び掛けたそれに吸い口が口元から離れ、虎蔵は随分と久しぶりに飲んだ気がする水が、全身に染み渡るに任せるよう、しばし黙して身体の中の水の流れに集中する。
 その最奥。
 念に形を与えて刃と為す、力が確かに息づいているのを感じ取る。
「よく為しました」
まるで虎蔵の心の内を読んだかのように、母がそう呼び掛け、虎蔵は視線をその白い面に向けた。
「お前が護った娘は、主筋の血の流れを汲む方だそうです……喩えそうでなくとも、力無き者に命を賭した心を、母は誇りに思います」
 未熟を叱られると、内心に思っていた虎蔵は安堵に知らず、強張っていた肩の力を抜いた。
 すると、先と違う不安が去来する。
 虎蔵の里は、光画流を修める者達の、影の里だ。
 武を旨とする者ならば、片目の欠落……視界の狭さが致命的な欠陥となるのは、容易に知れよう。
 これから自分は、どうなるのか……どう、すればいいのか。
 幼いながらも、日々、修行に明け暮れていた虎蔵である。それが今後望まれる事の決してない無為の物となってしまうのは、耐え難い。
 光の、主の傍らに在って初めて影は影と成り得る。闇に沈んだままでは物の怪と何ら変わる事はない…誇りを説く教えが、虎蔵を人として認めないと拒絶するようで、虎蔵は泣きそうになる。
 それに先んじて母は、手元を明るく見る為に座って障子脇から裁縫箱を引き寄せた。
「虎蔵、ご覧なさい」
言われて首を動かせば、母が掌の内側に黒い楕円の板のような物を示した。
 角度を傾ければ、その半分が綺羅と光を金色に弾く。
「母の着物を解いた金糸を使って刺しているのですよ……お前は動けるようになればまた、修行に行くと思って。少しでも護りになればと」
言葉に柔らかな微笑みが添えられる。
「お前が自分の強さを、途絶えさせてしまうような子でないのは、母がよく知っています……人より不利だからと誰が諦めても、お前自身で諦めてしまったりはしませんよね、虎蔵」
言いながら、母はまた針を手にした。
 皮は厚く固く、一差し毎、針の尻を押し込む力に、指ぬきを填めた指が反る程…見れば、その親指には固く布が巻かれ、赤が滲んでいる。
「起きられるようになるまでに、仕上げておきますからね」
ゆっくり、おやすみなさい。
 母の言葉に、虎蔵は頷いて目を閉じる…熱に満たされた右の眼が、溢れる涙に冷やされるようだった。


「母上様……ありがとうございます」
胸の内に、今も溢れる感謝を声にする。
 案じる心と寄せられた思い…縫い取られた金糸の刺繍は、目に見えぬ想いを見える形にして、虎蔵の手の中に在る。
「母上様の誇りに背かぬよう、わたくしめの命に代えましても、お守りいたします」
最も、誰から守るべきなのかは誰も知らないが。
 足下で、ごそごそと何かが動く気配がする……主が目を覚ましたようだ。
 虎蔵は仕上げの眼帯を着けると、主の動向を探る為に、全神経を集中した。
 そうしてまた、虎蔵の一日が始まる。