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闇風草紙 〜休日編〜
□オープニング□
僕はどうしてここにいるんだ……。
逃げ出せばいい。
自分だけ傷つけばいい。
そう思っていたのに――。
関わってしまった相手に心を許すことが、どんな結果を招くのか僕は知っている。
なのに、胸に流れる穏やかな気配。
僕は、僕はどうすればいいんだろうか?
今はただ、目を閉じて声を聞く。
耳に心地よい、あんたの声を――。
□春霖の晴れ間 ――綾和泉匡乃
「未刀君、この際ですから逃げますか?」
突然の問い。ボクはすぐに答えられない。それを見越していたように、彼が噴き出した。
「くくっ、僕の戯言ですよ。あなたはもう逃げない方がいい。そう思ったからこそ、ここに来たのでしょうから」
「……もう、逃げたくない」
「本体を叩くのが一番なんですけどね……あなたはまだ力不足です。力と言っても戦いにおける駆け引きにね。これから、もう少し人に対する戦術も学んだ方がいいですよ」
台詞の中にもっと深い意味がありそうな笑みを浮かべて、彼はボクの方へと白い紙を戻してきた。彼の名は綾和泉匡乃。人に学問を教える立場にあるのだと知ったのは、ここにきてすぐのことだった。現に今、ボクは彼の生徒のひとりになっているのだから。
「教育だけはしっかり受けさせてもらっているようですね。ですが、ここ違っていますよ」
「どこ?」
見入る答案。見返したが理解できない。
「あなたは理数系は強いが、情緒を必要とする文系に弱いようです。集中的にしましょう」
彼はボクの書いた答案を引っ込めると、自分が教えている塾という場所から持ってきたらしい仮問題の山をボクに渡した。
「ここに僕の作った問題があります。誤字脱字、文章に意味が通らない部分などないかチェックして下さい」
「は、はい」
思わず、素直な返事をしてしまう。ボクには勉強をする意味と理由があるのだろうか?
あるとすれば、恩返し。2度も助けてもらったお返しに、彼が望むものがあるならばした方がいいと思う。けれど、これが本当に彼のためになっているのかは分からなかった。
時間が経過して、窓から見える景色がぼんやりと柑色を帯る。夕暮れだ。
「ずいぶん頑張りましたね。お茶にしましょう。あなたは何がいいですか?」
「ボク……? 水があればいい」
発した答えに呆れたらしく肩を竦められた。
「今までどんなものを食べたり、飲んだりしてきたんですか? 好きな飲み物はないんですか? コーヒーとか紅茶とか」
「ない――。口に入ればなんでもよかった。食事の時間なんて、あってないようなものだ」
ますます肩を竦められた。大きなため息を零し、匡乃はボクを台所へと連れて行った。
「全部入れてみましょう。責任持って飲んで下さいよ。それから、淹れ方を覚えること! いいですね」
「は……あ、ああ」
またしても素直に返事をしてしまいそうになって、自分を律した。
それから数日間は、彼が仕事に行っている間ノルマを課せられた。きっちりとリスト化された料理や掃除。やること全てが初めてで、ボクは正直とても戸惑った。実家では、修行だけに集中るように言い付けられ、整えられた部屋に戻り疲れた体を横たえるだけの日々。
普通の人々がどんな風に暮らし、生きているのか――ボクは知らなかった。
それを了承していても、彼は基本的な操作や手順だけしか手ほどきしてくれず、後はメモとしてテーブルに残してあったのだった。
閉まったドアの前で、困惑する。
「これ……どうやるんだ?」
目の前には、ゴミを吸い込む掃除機という名の電化製品。コードを出したのはいいが、収め方が分からない。強引に押し込んでみたがすぐに限界になってしまった。仕方なく、本体にグルグル巻きにして片付けた。
零れるのは独り言。
――どうして、ボクはここにいるんだ?
制約を忘れたわけではあるまいに。
あの、友人を封じたあの時に誓った制約を……。
ここにいては迷惑がかかると知っていても、動くことができない。なぜだろう、こんなにも大変なノルマを課し、ホッと息つく暇さえ与えてくれない彼なのに、いないと分かった瞬間胸が音を立てる。
それがどんな感情なのか、繰り返す度に少しづつ知った。
ようやく巡ってきた春の空は、今日一日晴れ間を見せることなく地上に雨を降らす。掃除の終わりと同時に降り始めたそれは、匡乃が帰宅する時間になっても降り続けた。
玄関の鍵穴に鍵の刺さる音。弾けるように飛び出してゲタ箱の前で見守る。
――ボク、は…嬉しい……のか?
彼が帰宅することがこんなにも待ち遠しくなっている自分に気づく。知らないフリをするには、心の器からはみ出してしまう想い。辛うじて押さえ込み食事ができていると告げた。
「なかなか、美味く出来ていますね。もう少し塩味が強い方がいいかな」
匡乃はボクの作った夕食に箸をつけて、ボクにも座るように言った。
「明日は休みです。どうです? 服を買いたいと思うのですが、荷物を持ってくれますか?」
「……あの、夕飯はどうすれば…いい? ――その、結構大変で……」
「もちろん、食事は外でしましょう。なんなら、僕が作ってもいい。一緒に買い物に行ってくれますか?」
「あ…ああ」
笑顔の奥にある何が読めない。それが自分に対する疑念や嫌悪の心でないと、それだけははっきりと分かるのだけれど。
+
翌日も春の霧のような雨が降り続けていた。
賑わう街角。雨に濡れて光るアスファルトに、人々が持つ傘の色彩が映り込む。雨はもっと寂しげで冷たいものだと思っていた。けれど、すれ違うどの人の顔もどこか楽しげで、一歩屋根のある道路に入ると驚くほど暖く、そこ一体が建物の中であるかのような錯覚を起こす。
匡乃は僅かに先を歩き、ボクの手にはたくさんの紙袋。
スーツばかり着ているから、そんな店に行くのかと思うとそうでもない。人はこんなにも一度に買い物するモノなんだろうか?
「買い物も一通り終わりました。少し疲れましたね……そうだ、あそこで休みましょう」
傘をたたみ、白い壁と突き出したオレンジ色の屋根の下。
「ここは……?」
「ケーキ屋のようですね。甘いモノは好きですか?」
「う……あの、好き……かな」
ケーキと聞いて心が踊る。逃亡中、食べたことのあるたった一度の甘味。忘れられない満たされる気持ち。
視線が釘漬けになる。自分に好きなモノがあるとすれば、甘い食べ物。己の趣向を尋ねてくれる人などいなかった。だから、知らなかった。与えられるものだけを義務的に食し、食事という時間に楽しさや癒しを感じることなどなかったのだから。
もしかしたら、彼は知っているのかもしれない。
ボクが甘いモノが好きだと。
そんな……はずはない?
カラン。
「いらっしゃいませ……あ」
低いベルの音と共にドアを開けた。そして届けられる店主の言葉。
前を歩く彼の腕が僅かに上がり、顔の前で一瞬止まった。真後ろにいて、傘を仕舞っていたボクには正確な彼の指の動きは見えなかった。
「おすすめは何ですか?」
「今日はラフランスなどどうでしょう?」
店主自ら、メニューを持って頭を下げる。指差された文字に匡乃が頷き、
「じゃ、それにしましょう。紅茶はクリーンメリーで」
と言った。その言葉をメモしながら、店主はボクをチラリと見た。
――?
何かボクの顔についているのだろうか?
「お連れ様も同じでよろしいでしょうか?」
「いや、そうですね。このストロベリー・ムースにしましょう。紅茶はオレンジ・ペコをよろしく」
匡乃がボクを見て、口の端を上げた。どうやら子供扱いされたらしい。紅茶の名前からして幼い感じがする。
窓際の席に対面で座る。視線を合わせるのに戸惑い、ボクは窓から見える街の風景を見つめていた。雨はまだ降り続いている。通り過ぎる人が羨ましそうな目でボクの方を見る。気恥ずかしくなり、視線を店内に戻した。
彼はそんなボクの様子に気を使うでもなく、手帳を取り出して見入っている。
「どうしました? ケーキが待ち遠しいかな?」
「そ、そんなことない!」
「ほら、店の中で大きな声を出すものじゃありませんよ」
その言葉に慌てて見回すと、隣の席の女性に笑われた。照れ臭くてグラスの水を煽った。
「ケーキでございます。コチラ、失礼致します」
女性店員がケーキと紅茶を運んできた。甘い香りが包む。立ち昇る湯気。
ボクの前にあるのは、やけに可愛くデコレーションされた桃色のケーキ。彼の前にはシックで上品な白色のクリームと洋ナシ。比べるまでもなく、明らかに子供っぽく、女性が好みそうなボクのケーキ。
「どうしたんです? 食べないんですか?」
「――た、食べるよ」
フォークを手に取り口に運ぶ。恥ずかしくて急いで食べようと思っていたのに、その甘味に魅了されてしまった。目が細くなり、ボクは自分が微笑んでいることを、彼に指摘されるまで気づかなかった。
帰り際、彼が言った。
「春霖も今はお休みらしいですね」
見上げると、空は青い色を取り戻し明るさを街中に与えていた。
ボクは帰宅して、持っていた荷物の半分がボクのモノであると、初めて知ったのだった。
――後悔したくない。ちゃんと話そう。
ボクがボク自身であるために。
□END□
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
+ 1537 / 綾和泉・匡乃 (あやいずみ・きょうの) / 男 / 27 / 予備校講師
+ NPC / 衣蒼・未刀(いそう・みたち) / 男 / 17 / 封魔屋(逃亡中)
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■ ライター通信 ■
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依頼ありがとうございますvv ライターの杜野天音です。
休日編は如何でしたでしょうか?
匡乃さんの気まぐれについていくのがやっとな未刀ですが、きっとその奥にある真意をいつか必ず知ることでしょう。
戦闘のない平凡な時間ほど、未刀に必要なものなのかもしれません。
次回は「戦闘編」。4月中旬まで受注はお休みさせて頂きます。詳しい予定については「東京怪談〜異界〜 闇風草紙」にてご確認下さい。
3度目のご依頼、ありがとうございました!
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