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『青い鳥』
青い鳥。
青い鳥を探す兄妹の家に青い鳥はいた。
じゃあ、家の無い子どもは・・・青い鳥を見つけられるの?
******
5月最初の連休の初日。
都内にある小さな教会の待合室。
純白のドレスに身を包んだ私はお母さんを上目遣いに見つめて、
「お母さん、私、似合っている?」
お母さんはふわりと笑うと、私の髪を触りながら言ってくれる。
「当たり前じゃない。お母さんの娘ですもの。綺麗よ、結珠」
「でも、少し胸元が開きすぎじゃない?」
「そう? それぐらいは今は普通なんじゃない」
ちょっと、胸元に注がれるお母さんの視線に私は照れてしまう。
「お母さん、見すぎ」
「あら、やだ、結珠ったら、照れちゃって」
けたけたと笑いながらぱしんと私の肩を叩いたお母さんを見る私の目はつい半目になってしまう。はぁー。やれやれ。
慎重な手つきで胸元を整えながら私はため息を吐くと、
「お母さん、喉が渇いちゃった」
「ああ、はいはい。注文の多い新婦さんね」
にこりと笑ったお母さんは備え付けの小さな冷蔵庫から紙パックジュースを取り出すと、フタを開けてストローをさして渡してくれた。
「口紅、気をつけなさいよ」
「うん」
ジュースを飲みながらそう言えば、前にお兄ちゃんに借りた推理小説にストローに毒を塗って、新婦を毒殺するトリックの奴があったな〜なんてこの格好にはぜんぜん似合わない事を考えてしまう。
「どうしたの、結珠。にこにこと笑って?」
「ううん、何でもない。口紅大丈夫、お母さん?」
「ええ」
こんこんと部屋の扉をノックする音。私と顔を見合わせたお母さんは悪戯っ子の表情。
「お父さんとお兄ちゃんよ。うふふ。お父さん、泣いちゃうかも」
なんだかとても嬉しそうな顔をしてお母さんは扉を開けた。
果たして部屋に入ってきたのは白のタキシードでばっちりと決めたお兄ちゃんと、そしてお母さんの期待を裏切らなかったお父さんだ。そんな二人にお母さんはいつもの調子ではきはきと感想を述べる。
「うん、さすがは蒼。白のタキシードもばっちりと着こなしているわね。それに比べてお父さんは! もう、泣かないでくださいよ。今からそんなんで本当の結珠の結婚式の時はどうするんですか?」
「うるっさい。目にゴミが入っただけだ」
「あー、はいはい、そういう事にしておきますね。ほら、はい、ハンカチ。涙、拭いてくださいな。まったく、もぉ〜う。蒼も結珠も呆れてますよ」
お母さんはものすごく楽しそうに涙ぐむお父さんにハンカチを渡しながらけたけたと笑って、お父さんはどこか幼い子どもみたいにぶすっとしている。お兄ちゃんは肩をすくめながら苦笑い(悪い意味ではなく良い意味で、まったくしょうがないな、っていう優しい感じの)。
そんな家族を見ながら私は軽く握った拳を口元にあててくすくすと笑うのだ。
いつもにこにこと笑っているひまわりみたいなお母さん。
最近ちょっと涙もろくなったお父さん。
そして優しい大好きなお兄ちゃん。
私の家族。大切で大好きな家族。
こんこんと部屋のドアがまたノックされる。
「はいはい」
ぱしんとお父さんの肩を叩いて軽い足取りでお母さんは部屋のドアを開けた。顔を覗かせたのはお父さんの友人だ。
そう、どうして私がウェディングドレスを着て、お兄ちゃんも白のタキシードで決めているかというと、そのお父さんのお友達はホテルの社長さんで、何でも今度のホテルのカタログに結婚式の写真を載せたいとの事で、それでそのモデルに私たち兄妹に白羽の矢がたったわけなのだ。
「それにしても結珠ちゃんも本当に大きくなったなー。こんなにお母さんそっくりの美人さんになって」と、そこでお友達はお父さんを意地悪く眺めて、「こりゃあ、すぐに結珠ちゃんも本当に結婚しちまうぞ」
そしてまた涙ぐむお父さん。お母さんはけらけら笑って、お兄ちゃんは片手を腰にあててため息混じりに肩をすくめて私と顔を見合わせあうとくすっと笑った。
「さてと、それじゃあ、二人とも頼むよ」
「「はい」」
私は椅子から立ち上がってウェディングドレスのスカートを少し持ち上げ、隣を私のスピードに合わせて歩いてくれるお兄ちゃんに優しく微笑みながら部屋を出た。
******
正直、最初、純白のドレスに身を包んだ結珠にとても綺麗な笑顔で出迎えられた時にはどう反応していいのか困った。幸いにも父が結珠のウェディングドレス姿に涙ぐんでくれたので俺のそのどう表現していいのかわからない表情という奴は結珠や両親に悟られる事は無かったので心底俺はほっとしたものだ。
「はぁー。本当にやれやれだな」
それにしても本当に今でも不思議に思える。九重の家に引き取られて家族を得たその事が。それは俺にとって本当に幸運な出会いであり、神様からのプレゼント。青い鳥なんて家族のいない俺には見つけられないと想っていた。だってそう、青い鳥は家にいるんだから。
………だけど俺は、家族を得た。九重の家族を。
父がいて、
母がいて、
結珠がいて、
とても幸せで、
嬉しくって、
温かい、
大切な俺の居場所。
もう、暗い闇の中で、
独りに、
嘆き哀しむ親とはぐれた迷子の子どもの俺は………、
いない。
だけど……、
そう、時折、気が狂いそうになるぐらいに怖くなる。
今が変わってしまう……事に。
冗談ではなく時が今で止まればいいと想う事もしばしばある。
そうすれば、皆は一緒にいられるから。
決して逃がしてしまわないように止まった時間という鳥篭に青い鳥を閉じ込めてしまいたいのかもしれない……俺は………
教会の庭に置かれたベンチに座り、俺は広げた右手手の平を、5月の太陽に向けた。
そう、俺の中にはそんな部分もあるのだ。気を抜くと持っていかれそうなそんな暗い闇の部分……不安や恐怖故の抱いてはいけない望みが。
ともすれば見上げる空とは正反対の色に塗り染められそうになった心に、
「蒼」
響いた母の声。
俺は立ち上がる。そしてこっちに向かってくる母の負担を減らすためにも自分から母の方へと走った。やっと母親に見つけてもらえた迷子の幼い子どものような表情は懸命に押し隠して。本当にどうしてこうもいつもこの人はタイミングばっちりに俺の名を呼んでくれるのだろう? それが母親というもの? うん、そうだと想う。そう、だから俺は……
「どうしたの、母さん?」
そう呼べる人がいる事がとても幸せで。
「うん、あのね、これからお父さんのお友達がホテルのレストランに招待してくれるって言ってるんだけど、蒼と結珠はどうする? あなたたちもぜひにお昼に招待させて欲しいって仰ってくださってるんだけど?」
とても嬉しそうに微笑む母。当たり前な事だけど、その笑みは結珠に似ている。ほっと心が温かくなるそんな大切に想える…守りたい笑み。
俺はそんな胸の温かみを感じながら母の肩についている糸くずを取りながら言う。
「父さんの友達は昼は一緒にしないんだろう?」
「ええ。この後に会議があるからって」
俺は苦笑しながら肩をすくめる。
「だったら俺も結珠もパス。二人で御呼ばれしてきなよ。あの人のホテルのレストランは三ツ星級らしいからさ。たまには夫婦水入らずで楽しんできて」
「そう?」
「うん。夕飯も二人で何か食べておくから、いいよ」
そう言うと母はセミロングの髪を掻きあげながら照れくさそうに笑った。
「じゃあ、今日は蒼の言葉に甘えてお父さんとデートしてこようかしら」
そうして母は嬉しそうに手をふりながら父たちの方へと行って、2,3父と言葉を交わすと、父と一緒に手を振りながら教会を楽しそうに後にした。
俺は居場所が無さそうに俺に頭を下げてから両親と一緒に教会を後にする父の友人に頭を下げてそうしてまた一人となってベンチに座る。
「あ〜あ」
なんとなく気だるくって投げやり気味な声を出しつつずるずると下にずれていきながら青い空を見上げる。
と、
「あ、ちょっと、そこのお兄ちゃん。暇?」
突然、幼い少女の声がした。そうして何気なくそちらに視線を向けると、こちらに9、10歳ぐらいの女の子が走ってくる。その母親と想える30代前半の女性を引きずるように引っ張って。
「お兄ちゃん、よかったらあたしと一緒にデートしない?」
なんとなく嫌な予感がした。
******
初めて口紅を塗った覚えがあるのは5歳の時。
七五三で紅を唇に塗った時は、なんとなく自分が大人になったみたいですごい嬉しくって恥ずかしくって…。
鏡に映る自分の顔を見つめながら私はくすりと笑うと、メイクの人にもらった淡いピンクの口紅を塗り直した。
今までに満足に化粧をした事なんてほとんどない。だからこうやって自分が今時の女の子みたいに化粧をするのは5歳の時のようにすごく嬉しくってそしてほんの少しくすぐったくって。
鏡に映る口紅を塗った私……
「お兄ちゃん、なんか言ってくれるかな……」
それは正直な気持ち。
・・・。
だけど・・・
「そう言えばお兄ちゃん、ウェディングドレス姿の私に優しく微笑んではくれたけど、何も言ってくれなかったな……」
何だろうか? ほんの一瞬にして胸にあった気持ちを塗り替えるこの哀しい感じは…。
私は、ティッシュ箱からティッシュを取り出すと、唇に塗った口紅を拭い落とした…。
そうして教会のお庭でベンチに座って私を待ってくれているお兄ちゃんの下に行った私は、わずか数十分の間に何やら困った事になっているらしいお兄ちゃんを見て、戸惑うのだった。
「………お兄ちゃん?」
******
「………お兄ちゃん?」
形のいい唇に軽く握った拳をあてて戸惑ったような表情を浮かべる結珠に俺は苦笑混じりに肩をすくめる。
「結珠、しばらくの間、この子を預かる事にした。いい?」
「いいも何も…お兄ちゃんがそうしたいって言うのなら…私もかまわないわ。だけど、どういう事?」
ちょこんと小首を傾げた結珠に、ベンチから立ち上がった俺は、彼女を少し女の子が座るベンチから離して、事の真相を語った。
「あの女の子のお母さん、本当は今日、ここで結婚式をするはずだったんだ。だけど新郎さんが…ここまでは来たそうなんだけど、いなくなったって…」
結珠は軽く開いた口を片手で隠して、ベンチに座る女の子を見る。
「哀しいよね、そういうの…。かわいそうに」
「そうだな。それにもう一つ、気になる事もあるし」
「もう一つ、気になる事?」
結珠はそう訊くが、俺はそれに笑みを浮かべるだけで答えない。
俺は思い出さずにはいられない。
自分を俺に預け、母親にいなくなってしまった新郎を探しに行くように明るくしっかりとした表情と声で…むしろ、母親よりも大人な態度で言っていた女の子。だけど今、ベンチに座る女の子にその面影は無い。今の彼女はほんの一瞬でも目を逸らしたらそのままこの空間に溶け込んで消えてしまうんじゃないのかと思えるほどに儚く哀しげな表情。まるで親とはぐれた幼い子ども。そうしてその彼女の姿は俺の胸を苦しめる…。
そう、だってそれは九重の家に引き取られる前の俺にとても似ているから……
「あの子の横顔……」
「ん、なにか言った、結珠?」
「ううん、なんでも。それよりもさ、お兄ちゃん」
「ん?」
「あの子の名前は?」
「知らない。教えてくれないんだ、あの娘」
「そっか…」
結珠は何やら一瞬、思案顔すると、とても良い悪戯を思いついた悪戯っ子のような顔をして、女の子の方へ行った。
「姫。これからどこか行きたい場所はありますか?」
俯いていた女の子は顔をあげる。そしてわずかに小首を傾げて、
「ひめ?」
自分を指差す。
「うん、姫。で、王子様」
そして結珠は俺を指差してそう言って、今度は自分を指差して笑う。
「そして私は魔法使いのお姉さん」
「魔法使えるの?」
「うん」
嬉しそうに微笑む結珠。そして彼女は、
「さあ、姫。王子様との最高のデートのためにこの魔法使いめが魔法をおかけしますので、瞼をお閉じくださいませ」
不思議そうに眼を瞬かせる姫ににこりと微笑み、「さあ」と促す。そして瞼を閉じた姫に、結珠はバッグから取り出した口紅で姫の唇を塗った。
「もういいよ」そう言いながら口紅と交代で取り出した鏡をそっと姫の顔の前に差し出す。
消え入りそうだった姫はその結珠の魔法で、その顔に硬いつぼみがほんの少し開いたような笑みを浮かべた。
「魔法、ご満足していただけましたか、姫?」
恥ずかしそうにそれでいて嬉しそうに自分の顔が映った鏡を覗き込む姫はこくりと頷く。
「なら、もう少し魔法をおかけしましょうね、お姫様」
そうして結珠はささっと手早く慣れた手つきで姫の肩下までの髪をくしで梳いて、ピン止めで髪を止めて自分と同じ髪型にした。
「私と一緒♪」
とても嬉しそうに結珠。そうして姫もふわりと…そう、花が咲いたような笑みを浮かべる。確かに結珠は魔法を使ったようだ。だったら物語の常で泣いている姫を助けた良い魔法使いの次に現れるのは王子様なわけで、
だから俺は銀幕の王子様のように恭しく一礼して言った。
「さて、それでは魔法がかかったところでどこへ行きますか、姫?」
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「はい、二人ともこれ」
バス停で日傘をさして二人一緒に手を繋いでバスを待っている二人は本当の姉妹のようだった。その二人に俺はすぐそこのコンビニで買ってきた麦藁帽子を渡した。
「今日は日差しが強いから、これかぶって。まさか人が込んでいる遊園地で日傘をさすわけにはいかないもんな」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「ありがとう、お兄ちゃん」
結珠に続いて…結珠の口真似をしてそう言った姫に、俺と結珠は顔を見合わせあってくすっと微笑んだ。
そうしてバスが来る。向かう先は姫のリクエストした遊園地。
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ダメだ。もう我慢できない…。
我慢の限界に達した私はくるりと振り返ると、
「かわいい〜」
姫を抱きしめた。
「わ、わわぁ」
私の後をまるでひよこみたいにちょこちょことついてくる姫の事がかわいくってしょうがなくって、それで私は姫をむぎゅっと抱きしめたのだ。耳のすぐ近くで漏らされた姫の驚いた声もまたなんともかわいらしくってつい姫を抱きしめる腕により力を入れてしまう。
最初こそはまったく感情を見せなかった姫も、この遊園地についてからお兄ちゃんと一緒に子ども用ジェットコースターに乗ったり、私と一緒にメリーゴーランドに乗ったり、三人一緒に観覧車やカートに乗ったりしているうちにだいぶ感情を見せてくれるようになった。しかも嬉しい事に姫は私に随分と懐いてくれてもいて、そういうのが本当に嬉しくって。
思えばお兄ちゃん大好きっ子の私はお兄ちゃんに甘える事はあっても、こうやって甘えられる事は無かった。だからこういうのは本当に新鮮で楽しくって、嬉しくって。
「ほら、姫。こっちを向いて」
私はたいしては崩れてはいないのだけど姫の髪型を直してあげる。あとは彼女の服の胸元を飾るリボンとか。姫はされるがまま。だけどそんな彼女が何よりもかわいらしくって、腕組みしたお兄ちゃんはにこにこと笑いながら、そんな私たちを見てくれている。
なんだろう?
この胸に広がる感覚は?
いつもとはまた違う温かな気持ち。
ふと、周りを眺めてみる。周りはとても幸せそうな子ども連れの家族。
………その、やっぱり、ひょっとして、周りから見れば…私と姫、そしてお兄ちゃんがいるこの光景も…………そう見えているのだろうか?
「どうした結珠?」
「え、あ、ううん、何でもないの。うん」
不思議そうに眉根を寄せるお兄ちゃんに私はごまかすように笑うと、同じく不思議そうに眼を瞬かせる姫の手を取って慌てて見もせずにすぐ近くにあったアトラクションを指差した。とにかく私は私が想像していた事をお兄ちゃんに悟られないようにする事で頭がいっぱいだったのだ。
「今度はあそこにしよう。ね、姫、お兄ちゃん。・・・ん?」
そうしてちょこんと首を傾げて私も不思議そうな顔をする。だってお兄ちゃんはとても変な顔で私を見てるんですもの。私、何か変な事を言った?
「……あ」
そして指差したままのアトラクションに視線を送った私はその表情の理由と言う奴と自分が犯してしまった痛恨の失敗と言う奴を悟る…。
・・・・・・・・・・うそぉ
えっと、その……前言撤回はできるのだろうか?
だけど事はそんな私の想いを無視して進んでいく。
「結珠はこう言ってるけど、姫は大丈夫?」
「うん」
こくりと頷いた姫にお兄ちゃんも頷いて、そうして私に微笑みかける。
「それじゃあ、結珠。行こうか、お化け屋敷」
「………うん」
ちょっと、ものすごく珍しい事に私は大好きなお兄ちゃんのその笑顔をひどく想った。お兄ちゃん、気づいてよ……くすん。
******
笑いを堪えようとしてもダメだ。顔が崩れる。そして涙に歪んだ視界に映るのはぷぅーっと頬を膨らませる結珠。
「お兄ちゃん、ひどい」
「ごめん。ごめん。ほら、ジュース。人形相手に悲鳴を上げすぎて喉が渇いただろう? 姫もはい」
俺は姫とふん、と顔を逸らした結珠に缶ジュースを渡した。
だけどそれを受け取った姫は上目遣いで俺を見るだけで、その缶ジュースの蓋を開けようとはしない。嫌いだった?
「ひょっとして嫌いな味だった?」
姫は両手で缶を持ちながらぶんぶんと顔を横に振るだけで、何も言おうとしない。
………それにしても前にもこんな事があったような気がするのは気のせいだろうか?
思考の糸を手繰り寄せていると、結珠が俺の服を引っ張った。
「お兄ちゃん、ごめん。ちょっとジュースを持ってて」
不思議そうな顔をする俺にくすりと笑った結珠。そうして俺に缶ジュースを渡した結珠は小走りに売店の方へ行って、そして戻ってきた。その手にストローを持って。
「はい、姫。ストローですよ。これで口紅を消してしまわないように飲めるから大丈夫だよ」
夕方の温かくやわらかな陽光を浴びながらそう言って微笑んだ結珠はとても優しい笑みを浮かべていた。まるでこの世のすべての優しさを集めて結晶化したようなそんな綺麗で優しい笑み。泣きたくなるようなほどにほっと安心できるそんな笑み。
そしてだからだと想う…
「うえぇぇぇぇぇん」
……姫が小さく握り締めた拳を顔にあてて泣いてしまったのは。どこにも行き場所が無い……その不安と恐怖、世界中の誰からも見放されてしまったようなそんな悲しみに押し潰された子どもにとって、そんなにも欲する表情は無いから。
そう、姫は俺なんだ。
だから俺は母親に行けと言った姫に…
娘にそこまで言わせてしまった母親に…
何も言わずに姫をあずかった。
彼女の気持ちは痛いほどにわかるから。
夕方の世界にただ姫の泣き声が流れた。いつまでも。いつまでも。いつまでも。そして俺は結珠にぎゅっと優しくしっかりと両腕で抱きしめられながら泣き続ける姫の頭を撫でた。
******
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ。結珠の方こそ、荷物重くない?」
「うん」
泣き疲れた姫は俺の背中で眠っている。だから荷物は必然的に結珠の手に。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「………姫、どうなっちゃうんだろうね?」
「さあな」
姫は結婚式を逃げた新郎を追えと母親に言った。とても怖くって不安なくせに、この世で一番大好きな母親の幸せを願って。だけどその母親は、まだその男を追いかけているのか………
……連絡はまだ無い。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
俺の服を引っ張った結珠に俺は顔を向ける。
「どうした?」
「……姫の家にも青い鳥はいる、よね…?」
青い鳥は家にいた。
じゃあ、家の無い子どもは青い鳥を見つけられないの?
いや、そもそもどこの家にも青い鳥はいるの?
「それは彼次第かな」
「え?」
俺は不思議そうな顔をする結珠から、この遊園地に着いてからずっと俺たちの後をこっそりと隠れてついてきていた(本人はばれてはいないと想っていたようだが、俺にはばればれだ)男に視線を転じる。
「まさか、この人が?」
結珠の声に、少し離れて人込みの中からこちらを見ていた彼はばっとそこから立ち去ろうとした。だけど……
「おじさん」
俺の背にいる姫が落ちそうになるのもかまわずに身を乗り出させてそう叫んだ。その声に彼は凍りついたように固まる。
俺は姫を背負ったまま人込みの中を逆方向に進んで、彼の後ろに立った。
・・・。
そのまま数分、家路につく家族たちの流れの中でだけど俺たちはそこで固まっていて……。
俺は何も言わない。言うべき場所ではないから。
そして姫はぎゅっと俺の肩を握り締めて…また、泣き出した。
その泣き声に彼は戸惑ったように振り返ってこちらを向いて、
俺の背から降りた姫は彼の前に立って、顔を俯かせたまま…嗚咽混じりに訴える。
「おじさん、お願い。お母さんを嫌いにならないで。お母さんを嫌いにならないで。あたしはいいから。あたしは他所の子になっていいから、だからお母さんを嫌いにならないで」
ただ何度も姫は、お母さんを嫌いにならないで、と繰り返した。声にならない声で。
彼は泣いている姫の頭に手を伸ばしかけて、だけどその手の指先は震える彼女の頭に触れる寸前のところで止められて、その手は辛そうに握り締められて……そしてその手は引かれ………
「待ってください」
俺は口を開いた。家族の顔を胸に思い浮かべながら。
「あなたは結婚式場までは行ったのですよね? だったらお母さんを、この娘を嫌いになってしまった訳ではないですよね。ただ、あなたは不安になってしまったのでしょう?」
数秒彼は躊躇ってからこくりと頷く。
「父親になれる自信がなかったんです……いつかこの娘に恨まれるのが怖かった」
「母親を取られたからって?」
彼は頷く。その彼に俺は語る。切々と想いを。
「俺には両親が二組います。本当の両親と育ての両親が。だけど俺は感謝してますよ。育ての両親に。とても大切な人たちです。彼らは愛情を持って俺に接してくれた。本当の子どものように愛し叱ってくれた。俺が迷惑をかけるのが嬉しいと言ってくれた。俺は断言できます。育ての親に自分は愛されていると。だからもしも俺が誰かの子どもを引き取る事になっても同じようにその誰かの子どもを愛せるって。自分の本当の子どもとして」
俺の傍らに立った結珠。俺の手を握ってくれる。ぎゅっと。
「私はある日突然に両親にお兄ちゃんができると言われました。それまでひとりっこだった私はそれがとても嬉しくって、だけど同時にそのお兄ちゃんと仲良くなれるのかとても不安でした」そこで結珠はくすりと笑って、そして今まで以上の力で俺の手を握って続けた。「最初はやっぱりお互いに遠慮とかしあっていたけど、だけどそのうちに雪が太陽の光によって溶けて春になるように本当の家族になれました。だからあなたと姫も大丈夫。時間が本当の家族にしてくれます」
そして俺も結珠の手を握り締めて言う。
「ここに来たいと言ったのは姫でした。彼女は別にここにあなたがいるとわかっていたわけではない。そしてあなたもここに姫がいると想って来たわけじゃないのでしょう。そう、二人がこの遊園地に来たのはここに大切な想い出があるからなのでしょう。ほら、あなたも姫ももうそんなにもお互いを大切に想いあえている。だから大丈夫ですよ。姫はね、俺たちに決して自分の名前を教えてはくれませんでした。それはなぜだかわかりますか?」
彼は顔を横に振った。
俺は視線をずっと俯いたままの姫に向けて、ぽんと肩を叩く。
「ほら、姫。その理由を言ってごらん」
そうして姫は恐る恐る顔をあげて、ぎゅっと両手でスカートを握り締めながら言った。許しを請うように。
「おじさんに…パパに呼んでもらいたかったの…あたしの名前を…」
その言葉にはたくさんの溢れる想いがあった。そう、だからこそ二人の間にあった見えない壁を打ち壊せたんだ。
彼は姫を抱きしめて、泣きながら何度も何度も何度も姫の名前を呼んだ。それはとても泣きたくなるような切なく純粋な綺麗で優しい光景だった。
******
駅のホームに電車が滑り込んでくる。
それをホームのベンチに座りながら見つめていた俺の隣に結珠が座った。
「はい、お兄ちゃん。コーヒー」
「ああ、ありがとう」
俺は缶の蓋を開けてそれを一口飲むと、くすっと笑う。
結珠は不思議そうな顔。
「なーに、お兄ちゃん?」
「いや、結珠も5歳の七五三の時に缶ジュースを飲んで、それで缶についた口紅を見て、泣いたんだよな。口紅が消えちゃったって」
「って、もう忘れてよ、お兄ちゃん、それは」
「まだまだあるぞ。結珠の七五三の時の話は」
「もう、お兄ちゃんのいじわる」
「ごめん。ごめん。悪かった。許せ、結珠」
「別にいいよ、そんな謝らなくっても」
しょうがないな、と、ため息を吐いた結珠。そして彼女はちょこんと俺の肩に頭を乗せる。
「ただしちょっと罰として…肩貸してお兄ちゃん」
「ん、いいよ。結珠、疲れた?」
「ううん。疲れてはいない。……だけど、ちょっと寂しいかな。姫が帰ちゃって。ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私、ちゃんと、お姉ちゃんできてた?」
「ああ、うん。できてたよ」
本当はお母さんみたいだった、と、言いたかったが、それは胸のうちにとどめておく。代わりに俺は違う事を言った。朝からずっと言いたかった言葉を、彼女のウェディングドレス姿を思い出しながら。
「結珠、ウェディングドレス似合っていたよ」
ホームを通過していく電車。
駅員のアナウンス。
それらが消え去った瞬間に結珠は顔を輝かせて、俺に訊いてくる。すごい勢いで。
「お兄ちゃん、今何て言ったの? もう一度、聞かせて。ねえ、お兄ちゃん。電車と駅員さんの声でよく聞こえなかったの」
そして俺は顔を綻ばせてこう言うのだ。
「もう言わない」
「お兄ちゃんの意地悪ぅー」
そうして俺と結珠は駅のホームのベンチに座りながらクスクスと笑いあった。
青い鳥は家にいる。
大切な人がいる場所に。
そう、大切な人がいる場所が家…家族なんだ。
だからそこに青い鳥はいる。
大切に想いあえる人がいる場所に。
**ライターより**
こんにちは、九重蒼さま。
こんにちは、九重結珠さま。
子守り、お疲れ様でした。
ライターの草摩一護です。
どうでしょうか? 後半泣いていただけましたでしょうか?
もしもじんわりと画面が涙で歪んでいたりしたら、とても嬉しかったりします。^^
今回もテーマは家族愛だったりします。
そして今回のノベルで僕が一番書きたかったのは誰か大切な人に自分の名前を呼んでもらいたいと切に願う子どもの気持ちと、蒼の『俺は断言できます。育ての親に自分は愛されていると。だからもしも俺が誰かの子どもを引き取る事になっても同じようにその誰かの子どもを愛せるって。自分の本当の子どもとして』っていう言葉です。
誰もが子どものこういう気持ちを理解でき、そして誰もが蒼のように人を無償に愛せる想いを抱く事が出来たのなら、そうしたら昨今の哀しい事件は消えるのでしょうね。本当に。
そして忘れてはいけないのは結珠さん。彼女の優しさも本当にすごいと想います。
僕の中に出来上がっているこの二人のイメージは本当にとても優しいという事です。
蒼は九重の両親に愛されて育ちましたよね。それは本当にとてもすごく大切な事で、だから彼はそれがわかり感謝してるから、誰にでも優しくできるのだと想います。
そして結珠さん。彼女の場合は家庭環境も確かに彼女をとても優しい女性に育てたと想いますが、病弱だったというのも彼女をとても優しい人にしたのだと想います。人は悲しみや苦しみを知るからこそ、誰かに優しくできると想いますから。^^
これも本当にこんなぴったりな九重兄妹さまに使っていただけて嬉しい限りです。ありがとうございました。
でも、やっぱり一番どこが書いていて楽しかったかというと、ウェディングドレス姿の結珠さんの描写と、口紅を落としているシーンですね。健気なヒロインは書いていて楽しいです。
ラストの爽やかなそれでいて適度にラブラブカップルな感じも楽しいですね。^^
今回も本当に満足していただけてましたら作者冥利に尽きます。
それではこれで失礼させていただきますね。
本当にありがとうございました。
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