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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜挿話

 カラカラとシャッターを閉める手は「しののめ書店」店長のそれだったりする。
 古書ばかりを扱う自店はその保存状態に細心の注意を払う。店長である東雲飛鳥は、一通り異常の無しを確認して、満月の今夜、10時にやっと職務を終えた。
 勿論、古書専門店(最近は割りと雑多になりつつある)だからといって、こんな夜遅くに閉店時間を迎える必要があるのかというと、それは、ない。企業系列のチェーン店のような店ならともかく、ここは個人経営。だからこそ好きな時間に店を閉められるというのも、それはそうなのではあるが。
「消灯良し、戸締り良し」
 東雲は口の中で呟いて、すっかり夜の街に溶け込んだその店を後に、歩き出した。
 少しわき道を反れて、路地に入り、そこを抜けると、河川沿いの並木道に出た。東雲は右に進路を決めて、夜の並木通りをずっと奥まで見渡した。
 左には不気味な音を立てて流れていく河川、その反対、左手側にはどんよりと、夜の風景に聳え立つ重たい木々が一直線に並んでいる。
 通る人がいないわけではなく、ゆっくり歩き始めた東雲の横を自転車が通過したり、逆方向に歩いていく人とすれ違ったりもする。
 東雲の進路からこちらに向かってくる人も、東雲を追い越した自転車も、皆一様にある地点でふっと木を見上げていた。
 明るい満月は河川の波を小刻みに照らし、東雲はその眩しさに少しめを眇めた。薄雲がかかる満月の光は、それでもなお強い光彩を放っていた。
 自転車に貼られた蛍光式の安全シールがそれに反射した。グィングィン、とペダルをこぐ音が次第に近づいてきて、東雲の横をすれ違った。
 運ぶ足は酷く穏やか。金糸の髪が夜風に靡いて弾けた。
 皆が見上げる木々の前に、東雲は立った。他の人のように通りすがりに見上げるのではなく、その木の真正面にじっと足をつく。
 並木はすべて桜の木であった。
「あら、しののめ書店の」
 不意に声をかけられて、東雲はその方向に振り返った。そこには昼間見た女性が小脇に冊子を抱えて立っていた。
「やあ、これはこれは、奇遇ですね。昼間は本探しのお手伝いが出来て光栄でしたよ。大学の研究論文には間に合いそうですか?」
 東雲は務めて穏やかに、問うた。
「はい、お陰さまで何とかなりそうです。店長さんがお手伝いしてくれて助かりました」
「そうですか、それは良かった。ところで今時分、どうしてこんなところに?」
「コンビニにレポート用紙を買いに行って来ました。いざ書こうと思ったら、手持ちのものが心もとなかったもので」
「そうですか」
 女は美しかった。日本人的な顔の作りではあるが、涼しげな目元は知的さを、整った眉は思慮の深さをうかがうことができる。頬は月光を浴びて白く浮かび上がった。夜風に舞う黒髪も同じく月の光にキラキラと反射する。
「狂い咲き、ですね…」
 女は東雲と同じ方向に立ち、大きな木を見上げた。
 上からはらはら舞い落ちる雪のようなそれは、実は桜の花弁であった。どっしりと、他の木よりも風格を漂わせるその木の枝には鈴生りの桜花が場所を争うように咲き誇っている。
 雲のかかった月の光でもそれは幻想的に浮かび上がった。
「さっきからここを通り過ぎる人、皆眺めていきますよ」
 東雲は隣の女性に言う。
「そうでしょうね。だって、本当に綺麗」
 女は降ってくる石化石膏のような花弁を、一枚掴んで、柔らかに微笑んだ。
 少し強い風が吹いたかと思うと、降る花は一気にその量を増した。それはまさしく桜吹雪に相応しい光景――。
 満月を覆っていた雲がその厚みを増して、はるか上空からも風の唸りが聞こえた。
「綺麗…」
 女は東雲からくるりと背を向けて、すっかり人並みの途切れた道の真ん中に立った。体を河川側に向けて。
「こっちを向けば月の光で波がキラキラ、そっちを向けば桜吹雪がハラハラ。素敵な夜です。研究論文なんてやってられなさそう」
「日本史を専攻してらっしゃるんですよね」
「ええ、だからこんな光景に出会えるなんて素敵。万葉集の中にいるみたい。平安の人たちはこんな景色をしょっちゅう見てたのかしら。桜狩とか、花月見とか、言いますものね」

――ああ、やはりとても知的な女性だ。

「少し冷えますね」
 女は黒髪を翻らせて、後ろに立つ東雲の方向に向き直った。しかし彼は女の言葉には答えず、唐突に言った。
「私は昔の着物の中でも市女笠にムシの垂れ衣が好きなんです」
「え?ムシの垂れ衣?」
「はい」
 東雲の突拍子のない言葉に、女は少々戸惑ったようだった。
「あれは中世の女性の装束ですよ?笠の周りに薄布を垂らすものですよね。どうしてそれがお好きなんですか?」
「…鬼が好きそうではないですか?」
「鬼…ですか」
「はい。角と牙隠しに」
 東雲はゆらと女に近づき、優しく笑った。青い瞳は曇った月光の金を交わらせ、細い髪はやはり風に靡いた。
「てん、ちょう…」
「飛鳥、とお呼び下さい」
「あす か…」
「そう」
 左腕を女の腰に回し、右手を頬に添える。
 ぱっと、その朱を散らしたように赤くなる女の顔はやはり綺麗だった。抱えていた冊子―レポート用紙が軽い音を立てて地面に落ちる。それを意に介した様子もなく、東雲は相変わらず綺麗に笑う。
「貴女は私の思い焦がれる方によく似ていらっしゃいます」
 言いながら頬に添えた右手の親指で、ゆっくり女の唇をなぞった。
「好きな…方、ですか」
 言葉の運びどおりに、親指の下の唇は動いた。
「大変お綺麗な方ですよ。あなたと同じで…この狂い咲きの桜のように」
 吹く風が作る桜の舞踏の中で、女はぼんやりと呟いた。
「ムシ…の、垂れ衣…」
 唇は言葉どおりに動いた。
 雲が晴れて、今までにないほどの明るい月光が、東雲を照らす。



 唇に這わせた親指はそのまま口腔を通り掌ごと咽奥へ
 
 女は言葉を紡げない

 月光が照らす 桜の吹雪の中で見た 綺麗な顔

 それに感嘆するための言葉も

 咽奥を抉る苦痛と恐怖の言葉も

 女は紡げない

 満月が照らす 桜の吹雪の中で見た ――




 東雲は左腕に重くのしかかる女の体を抱えなおし、残滓を掬うように右手の親指を一舐めした。
 そしてすっかり花弁の落ちたその桜の木の裏にまわった。月光も木の幹に遮られ、ここまでは届かない。
 再び月光の当たる側に出てきた時は既に東雲の元に女の体はなかった。
 河川は重たい波を、月光に任せて打っていた。桜の花弁はまるで炎に燃され、灰になったかのように、その波の上に落ちる。
 東雲はすっかり花弁の三分の一は散ったと思われる桜の木を振り返った。
「桜の木の下には死体が眠ると言いますね」
 誰にともなく呟いて、肩に落ちた薄桃色を払った。それは風に運ばれて、やはり灰のように、暗い河川へと落ちていった。
 乱れた金糸の髪を纏めなおし、東雲はもと来た道を歩き出した。
 再びぽつぽつと人が通るようになったその道は、もうさっきと何ら変わらない。自転車が行き交い、仕事帰りのサラリーマンたちがくたびれた背中で歩いていく。一体こんな時間まで何をしていたのか女子高生数人も携帯電話を片手に金切り声で騒いでいる。
 満開に狂い咲いていた時と違い、風が吹いて花の殆どが落ちてしまった今、その桜の木を見上げる通行人は誰もいなかった。
 皆、自分の足元に敷かれた花弁の絨毯を見下ろすばかりだ。
 東雲の姿はもうその並木道には見えない。
 再び柔らかな風が吹いて、花に埋もれたレポート用紙が、主無きままにそのページを遊ばせていた。