|
霧里学院怪奇談
【openning】
「……、」
──古流武術部の武張った和造りの部室は、外の陽差しを受けた明るい時間の流れからそこだけが取り残されたように、──ずっと昔に時間を止められたまま動き出す事を忘れてしまったように感じられた。
要は、黴臭くて湿気ているのだ。
「……、」
目の前でぼんやりと黙り込んだまま、トリップでもしているのでは無いかと疑いたくなる一人の男子生徒の沈黙にも、普段の東京の街中では十人中八人までは確実に痺れを切らしている所だったが、周囲の光景がこれでは何となく気力も削がれる。──最も、今現在彼に向かい合っている人間はたまたま、その十人の内待つ事の出来る二人であったので、大して影響が無かったが。
何故、彼らは沈黙に耐える事が出来るのであろう。
「──ゆっくりで結構です。……思い出してみて下さい。私達はいつまでも待ちましょう」
一人は、長き時を生き、世界を見通し、そこに在る物事の流れを感じる事の出来る、秒刻みの時間的制約を超越した人間だったからだ。
そしてもう一人は……。
「あぁあ〜、分かりますぅ、急に思い出せって云われたって、思い出せない事ってありますよねぇ〜、」
──単に、そのスローモーションな少年と同類の人間だっただけの事である。
【0】
穏やかな陽気。
窓から差し込む陽光が、美しい言葉を白い紙面に散りばめたハイネの詩集を傍らに薔薇の香り漂う午後の紅茶を楽しむセレスティ・カーニンガムの銀髪に降り注いでは光の欠片を煌めかせた。
この世界に、時には太陽のように君臨し、時には月のように陰より守り支えて来たリンスター財閥総帥私邸の昼下がりは今日も穏やかだった。
──そうした情緒をお構い無しに掻き乱す、客人の来訪までは。
「だからですねっ、僕は、僕は怪しい者じゃ無いんですぅ〜、信じて下さいよぉ〜、」
「総帥、」
「お入りなさい」
丁重なノックには、重厚な木の扉も端正な音でそれに応える。セレスティは荘厳な声で入室を許可した。
失礼致します、と姿を現わしたのは彼も気の置けない、忠実且つ優秀な秘書の青年だ。
「総帥、月刊アトラスの三下(さんした)様と仰る方がお見えですが、──」
「……、」
そう云って秘書が差し出した名刺を一目見たセレスティは、忍び笑いを禁じ得無かった。
「──お通しして下さい」
「は」
未だ怪訝そうな表情で、然し主の命であるので従う訳にも行かずに一旦退室しようとした秘書を、セレスティは間際に呼び止めた。
「はい?」
「……彼、三下(みのした)さんと仰るのですよ」
秘書は慌てて(本人では無く)セレスティに侘びたが、常から生真面目な彼のその微笑ましい失態を咎める気にはならなかった。
この場合、責任は読み誤った方にも、その誤解を招き得る本人の風体にも五分であると思う。
……ただ、と部屋を出る間際、秘書がこう言葉を継いだ。
「──彼、どうも中学生にしか見えないんですが……」
「──で、その格好は一体どう為さったのです?」
確かにその風体では秘書が訝りもしよう、とセレスティは端正な貌に苦笑を滲ませて目の前の──、……少年……、に、訊ねた。
色々な意味合いに於いて、であるが一部の人間には有名な私立神聖都学園の制服、──それもボトムが膝丈である。彼が両手に下げているのは学園指定のランドセルには収まり切らなかったと思しい荷物が不格好に詰め込まれた手提げ鞄、端からはリコーダーの容れ物がはみ出していた。
散切りのおかっぱにした髪はやや野暮ったいが、彼の容姿には中々似合って可愛らしく見えた。彼は目が円らで大きく、そのキュロットパンツの制服が男物だと知らなければ少女かと見紛いそうな美少年だった。
「良くお似合いですが、──然し何故また、選りに選って中等部の制服を?」
莞爾と微笑んで首を軽く傾いだセレスティにその少年が投げ返したのは、「似合わなくて良いですよ〜、」という涙混じりの甲高い声だ。
「それに、僕が通ってるのは中等部じゃなくて高等部なんですぅ、見て下さい、……ねっ? 学生証にも、17歳って書いてあるじゃ無いですかぁ〜、」
「……、」
セレスティは彼が差し出した生徒手帳を──小振りなのに合わせて文字も小さいので、視力の弱い彼には字面を追うのがやや困難な為手を翳して読み取る方法で──確認した。
神聖都学園校歌、校則、行事予定兼スケジュール欄、『バカ』『さんした』と落書きされてしまった自由欄などは適当に読み飛ばし、最後に添付されている学生証を読む。
『三下・忠(みのした・ただし) 学年/高等部2 年齢/17』
──確かに。
「忠? ──失礼、忠雄さんではありませんでしたか?」
「それは偽名ですぅ、」
「ああ、成る程。……それで、何故アトラスの三下さんとも在ろうお方が、もう一度高等教育をやり直していらっしゃるのです?」
──可哀相に、その問いに答えようと口を開きかけた三下少年は既に愛らしい目に涙を浮かべていた。
「潜入調査なんですぅ、いか、碇編集長が、編集長が怪奇事件の山の神聖都学園を内部から調査して来いって、制服もなんでか中等部のしか貰えなくてですね、そんな、自費で新調出来る余裕なんかある訳無いじゃないですかぁ、」
「……それは、お疲れ様な事です」
「僕にも何で自分の身体がこんなことになってしまったのか分からないんですぅ〜、へんしゅぅちょぉは最近多い異界現象の所為だって云うんですけどぉ〜、だったら早く元に戻る方法を教えて欲しいですぅ、選りに選って神聖都学園で、怪奇探検クラブに入部させるなんてあんまりですぅ〜、」
──やれやれ。
実に「らしい」出来事だ。東京らしい、月間アトラス編集長の碇女史らしい、三下らしい。
然し、そこは碇の云うように最近多発している異界現象の悪戯であろう。三下本人は説明している内に泣けて来て、当初の予定をすっかり失念しているようだが、彼が態々自分を訪ねて来た理由は他にあるのだろう、とセレスティは即座に理解した。
「御愁傷な事です。ですが、そう悲嘆なさらないように。とても可愛らしく、却って元に戻るのは惜しい気も致しますよ」
「何気に酷いですよぉ、セレスティさん〜、」
「して、本日の御用向きは?」
【1】
助けて下さい、また学校で事件が起きたんです、その取材調査に行けって、編集長と副部長の命令なんですぅ、と三下は泣き出さんばかりの勢いでセレスティに訴えた。
アトラスの編集長、碇女史は未だ分かるが、……副部長とは?
「──あ、怪奇探検クラブの副部長です、神聖都学園の」
どうやら彼、潜入捜査と称して送り込まれた先の、高校生のクラブ活動の中でさえ、下っ端扱いで良いように使われていると思しい。
穏やかに頷きながら、セレスティは質問を続けた。──あまり多くを語る事は好まないが、この際に於いてはセレスティの方で質問を与えて要点を絞り込んで行かないと、泣き言ばかりで会話の進行したものでは無い。
「では、神聖都学園で何か怪奇事件が起きたのですね?」
「ちがいますぅ、」
「──違う。神聖都学園内では無いのですね、では、学校とはどちらの?」
「ええとですね、……あ、手帳、手帳……、」
三下は大袈裟な程の(然し恐らく彼本人は大真面目に)狼狽振りで手提げ鞄の中身を美しい光沢のフローリングの上へぶち撒け、手帳を探している。──こちらですよ、とセレスティはテーブルの上の生徒手帳を示した。
「ああ〜、ありがとうございますぅ〜、」
──全く、自分から預けた癖に。
生徒手帳を受け取った三下はページを繰り、自由欄を開いた。……どうやら、『バカ』『さんした』等々のあまりにも可哀相な落書きに惑わされて流石のセレスティさえ読み飛ばしてしまったメモページに、キーワードがメモしてあったらしい。
「──霧里学院、です。そうでしたぁ、」
「……──、」
──霧里学院。
都内にある、全寮制の私立高等学校である。マンモス校である神聖都学園に比べて知名度は低いが、偏差値の高さでも、……怪奇事件の多発する学校施設としても実質は引けを取らない。その割りに名前が知れないのは、全寮制というある種閉鎖的な学校の性質の為かも知れなかった。
「少し前、霧里学院に変質者が大量の死体を隠してたって騒ぎがあったじゃないですかぁ、」
「──ええ、」
そのニュースの事はセレスティも聞き知っていた。広大な敷地を持ち、中には旧校舎を囲む霧里森さえ存在する霧里学院。──その、森に囲まれた旧校舎の中で大量の遺体が発見された。長期間放置されていた遺体は何れも身元が知れず、警察の操作でも大した手掛かりが掴めずに公式の発表では「変質者に拠る犯行と見て、現在行方不明者のリスト等から遺体の身元と、犯人の行方を継続捜査中」という事であるが、実質、現在ではまともな捜査など打ち切られている事は暗黙の了解である。学院としても、延々と警察の立ち入りを受けて生徒の学習に支障が出たり、親元から生徒の身元を預かる全寮制という性質から、出来ればそんな不名誉な風評はさっさと世間の記憶から消滅して欲しいに違い無かった。
然し少年少女とは噂好きなものだ。曖昧な物事の真相と称して、何かと噂を立てたがる。そしてそうした噂話とは、眉唾であればある程面白くて良いのだ。
──事件の真相は、変質者の犯行では無く人喰い大蜘蛛の仕業だた、などという他愛の無い噂が学院内を流れるようになった。
そう、他愛ない、──ただの噂の筈だったというのに!
火の無い所に煙は立たない。──或いは、そうした噂が言魂となって意志を持ち、本当に「火事」を引き寄せてしまったのか。
先日、新たに事件が勃発したのだ。
人斬りが出たと云う。
年号が明治どころか大正どころか昭和どころか平成に設定されて早15年と云う現代の日本に、人斬りとはまた古風な。
──と、普通ならば「出るんだって……江戸時代の侍の幽霊が……」と顎の下から懐中電灯に光を浴びながらで無ければ話せたものでも無い怪談話の一つで終わる筈の噂だ。
が、今回の「噂」は少々広まり方が異色だった。
『刀、あれ本当の刀だよ、刀持った誰かに追い掛けられたんだ』
そんな話を、大真面目に打ち明ける生徒が現れたのだ。勿論最初は友人も冗談か、噂に便乗した怪談話かと思う。然し、そうした「体験談」を訴える生徒は後から後から増殖して来たのだ。最早、模倣犯と一笑に伏す事も出来ない程。
そして、事態は本当に笑えない事件に発展してしまった。
死人が出た。
寮へ帰ろうとしていた数人の生徒達の前に刀を持った男が現れ、斬り付けたのだ。警官が十名掛りで駆け付けたが、拳銃さえ装備していた筈の彼等さえ犠牲になってしまった。本当に、一瞬の出来事だったのだろう。
無論事件は調査されたが、身許不明の異体の件と同じく手掛かりは一切掴めなかった。──警察が匙を投げた頃に何故か調査に乗り出すのが月刊アトラス編集部というものである。
「編集長は本当に人斬りの幽霊なのか調べて来いって云うし、クラブで云ったら何故か皆僕が先に行って下調べして来いって云うんですぅ〜、僕だって本当に人斬りの幽霊だったら怖いですよぉ、でも誰も付いて来てくれなくてぇ〜、」
「それで、私の所へ?」
「そうなんですぅ、お願いしますぅ(懇願)」
「……、」
セレスティの無言に、どうした感情を読み取ったものかは分からないが、三下は既に取り縋るような素振りで苦し紛れの事を云う。
「手掛かりが全く無い訳じゃ無いんですぅ、その、生徒斬殺事件ですけど、全滅だったんじゃ無いんですよぉ、」
「……成る程、生存者が居らっしゃった訳ですね」
セレスティは特に表情の変化も何も見せず、先を促した。一先ずは云うだけ云わせてやるが良い。──それに、もしもこうして涙ながらに取り縋って来たのが三下・忠雄であれば哀れな事この上無いが、……今の彼、三下・忠はなかなかに可愛らしかった。
鑑賞する分には結構な興味対象である。
「ギリギリ助かった女の子が居るんです、その子の証言で、刀を持った男を追い払った男子生徒が居るって、名前も分かってます」
「ほう」
セレスティはようやく、(……と云うよりは直前まで返事を引き延ばして気を揉ませていたと云うべきか)首を縦に振った。
「それは手掛かりですね。──良いでしょう、あなたの潜入捜査に、私も同行させていただくとしましょうか」
「ありがとうございますぅぅぅぅぅ!!」
ひし、と三下少年が大きな瞳に涙を滲ませてセレスティの手を握り締めたのは云うまでも無い。
「所で、何故私の所へお見えになられたのです?」
運転手に車を回すように命じ、心配性の秘書を云い包めたりとして外出の準備をしていた時、セレスティはふと疑問を三下へ発した。
──流石の彼にも、思考の流れが今一つ読み難い人間というのは居るものだ。大人物よりは、寧ろ彼のように忙しの無い人間であるとか。
「あ、副部長がですね、霧里学院の事ならセレスティさんが詳しいって仰ったので」
「──副部長、」
「SHIZUKUさんです、オカルトアイドルの」
【2】
事前の情報収集は大切ですからね、とセレスティは三下を伴ってリムジンへ乗り込み、実際に霧里学院へと乗り込む前に警視庁へと向かっていた。
「──元々、霧里学院の所在地というのは、地盤が不安定な場所なのですよ」
セレスティの囁くような声に、広く、ゆったりとし過ぎた慣れない皮張りのシートにs所在無げに収まっていた三下が「地震でも起きるんですかぁ?」と突拍子の無い台詞を甲高い声で返した。
──いえ、と口許に笑みを滲ませながらセレスティはやんわりと首を振った。
「そういう事では無く、空間が不安定なのですね。時限と時限の間のパラドックス、切れ目が生じ易い土地があるのは仕方のない事なのです。……田舎のように土地のある場所や、幾らか昔にはそうした場所には社や鳥居を配して結界を張っていた物ですが。最近の東京の土地事情ではそうも行きませんからね。……東京のように、意思を持つ者の密集した場所にこそ、そうした不安定な空間は生じ易い者なのに、」
「……と云うと?」
「──必然とは云え、それでも命が奪われてしまうのは哀しい事ですね。……未だ、寿命を全うしていない方も居られた事でしょうに……、」
──はあ、と三下の返事は間が抜けているが、窓の外を見るとも無しに憂いに眉を顰めたセレスティの表情は何時に無く沈鬱だった。
警視庁で霧里学院での生徒及び警察官斬殺事件について、と訊ねてみれば、捜査本部すら既に取り払われて2人は強行犯捜査二係、──所謂「継続」係の刑事の許へ案内された。
「どういった御用件で──、」
刑事の質問に、「実は」とセレスティは如何にも痛々しい表情で労るように肩を抱きながら、ずい、と三下少年を前へと突き出した。
「事件と直接関わりがあるかどうかは分からないのですが、霧里学院では以前にも身許不明の遺体が発見された事がありましたでしょう? ──ああ、彼は私の知り合いなのですが、可哀想に、少し前からお兄さんが行方不明になって、今は独り切りなのです」
──はい!?
──と、三下が折角の完璧な演技を打ち壊しそうな声を上げ掛けたので、セレスティは真っ白なリネンのハンカチを手に再度「可哀想に、」と労る振りをして彼の口を有無を云わさず塞いでしまった。
「はあ……?」
──それで、もしかしたら身許不明の被害者の中にお兄さんが居はしないか、って事ですか、と半ば呆れたような表情で刑事が云う。
「そうです」
「然し、遺体はどれも本当に身許が割れないんですよ。それに、行方不明なら捜索願いが出ているんじゃ無いですか」
「取り敢えず調べて頂けないでしょうか。彼は三下・忠君というのですが、彼のお兄さんは忠雄さんと仰います。(!? ……と、ここで三下が信じられないような目で自由にならない口で呻き声を上げた)──月刊アトラス、オカルト誌の編集者であられて、色々な場所を取材で回る事が多かったようです。霧里学院は昔から怪談、ええ、勿論他愛の無い噂である事は分かっておりますが、お仕事柄、ですから。当時、霧里学院の旧校舎へ立ち寄り、事件に巻込まれた可能性が無いとは云えないのです──」
リアリティがありすぎて、自分の未来を予言されているような(相手が相手だけに……)気分に陥ったと思しい三下がとうとう泣き出した。
「ああ、可哀想に。御安心なさい、きっと警察の方が忠雄さんを見付けて下さいますよ……、」
何故、セレスティは財閥総帥直々に刑事を前にして斯様な茶番を演じているのだろうか。
一つには、単に三下を揶揄かう絶好の機会であった事も確かだった。
もう一つには、時間稼ぎであった。──この刑事から話を引き出す為に魅了するまでの……。
「──怖かったんです。その場所に近づくこと自体が、恐ろしくて仕方無かったんです」
仮にも刑事とは思えない。機密どころか自分でも無意識の本音をぺらぺらと暴露する刑事のセレスティを見詰める目は、恍惚としていた。
美人の特権である。セレスティは、収拾すべき事柄に関しての質問を隅から隅まで繰り返し、その一言を聞いた所で莞爾と笑って三下を促した。
「では、そろそろ失礼致しましょう。有難うございました。御協力に感謝致します」
──身許不明の遺体は、結局分からず仕舞いである。人喰い蜘蛛の仕業だなどと、警察の理解の範囲では無いし、矢張りただの噂話なのか、或いは本当に「出た」のかも知れない。
ただ、人斬り騒動に関しては思わぬ情報が得られた。
セレスティは、警察官までが被害者となった事件に関しては警察の捜査が隅々まで行き届いているだろうと、──無論、本来ならばそうした機密を一般人が知る事など不可能だが、彼は一般人では無いので。事前に情報として得て置こうと考えた。
「被害者の傷跡ですが、本当に刀に拠るものだったのですか? 類似した他の刃物では無く?」
「刀です」
確固とした口調だった。現在の鑑識技術を以てして、日本刀と、他の刃物に拠る傷を間違う事は無いだろう。
「傷口に関して、他に犯人──人斬りに関する事が分かりそうな情報はありませんか?」
「……、」
この沈黙は、黙秘を狙った物では無い。既に彼の心はセレスティの物である。別に要りはしないので、情報さえ聞き出せばさっさとお返しするつもりの心だが。
「──現場の状況と被害者の傷跡から、事件当初の刀の軌道シュミレーションが割り出されたんですが」
刀の扱いに慣れた人間の物なのか、或いは、剣道の嗜みの無い人間が矢鱈と刀を振り回しただけなのか。もし、慣れた人間による物だと判断されれば、更にその「癖」から流派が割れはしないか。
「現在は放置されているものの(とうとう彼はそうした警察内部の怠慢事情まで暴露してしまった……)、当初、犯人特定の手掛かりとしてある剣道の流派の『手癖』だと判断されていました」
「それは?」
「天然理心流」
「……、」
セレスティは思わぬ情報に言葉を切って暫し思考した。──古風な言葉だ。
剣道にさほど詳しい人間で無くとも、どこか聞き覚えのある単語である気がするのは何故だろうか。……有名だからだ。歴史上の高名な剣豪がその使い手であったとか。
確か、幕末期に活躍したとして有名な新撰組など、その流派寄りでは無かったか?
「人斬りの霊……、」
呟いてから、セレスティは更に現場の状況を訊ねた。どこまでもセレスティの気を引きたいと見える。魅了された刑事は御丁寧に学院敷地内の見取り図まで出して来て、懇切丁寧に説明してくれた。
「ここが旧校舎の位置する森です。──ここが、」
ここが、と彼の指先は見取り図に赤のサインペンで記された×印を指していた。セレスティは基より、三下もじっ、と覗き込んでいる。
「事件発生場所です。現場検証の結果なのですが、その時には勿論犯人の姿は消えていました。が、その後の足取りが掴めないのです」
「──と云うと?」
「足跡が無い」
「……、」
恐る恐る、と云った感じでセレスティと視線を合わせた三下が、「……矢張り幽霊でしょぉかぁ〜、」と泣き事を洩した。
「然し、周辺の潜伏が可能と思われる場所は徹底的に捜査為さったのでしょう?」
「勿論です」
刑事の指先は、赤い×印の上から更に周囲をぐるりと辿った。
「旧校舎内、森周辺、あと森の中にはプレハブ造りで、幾つかのクラブ活動専用に部室が点在していますが、ここは古流武術部、ここは運動器具置き場として使われていた倉庫、……全て、痕跡はありません」
「こちらは?」
セレスティは目敏く、建物が描かれているのにも関わらず刑事の指先と言葉が触れなかった一点を彼の華奢な白い指先で指した。
「……旧美術部部室です」
「ここは捜査されたのですか?」
「──していません。必要が無かったので」
刑事の言葉は、セレスティに魅了されていながらも云い難そうに口籠っていた。
「必要が無い筈は無いでしょう? 確かに他の建物と同じく何の手掛かりも得られないかも知れませんが、こうした際にはどんな些細な可能性でも捜査対象とするべきではありませんか?」
セレスティはここで、更に刑事の目を真直ぐに見据えた。彼の青い瞳、水を称えたような透徹した光が、ぼんやりと色合いの変化を見せて行く。
──そして、無意識下の心の奥底までをセレスティに魅了された彼は、先のように述べたのである。
何とまあ、捜査に当たった人間が全員が全員、無意識の内に旧美術部部室に関しては恐怖が働いて近寄る事が出来ず、「必要無し」とする事で捜査対象から外したと云うのだ。
これでは手掛かりが掴めず継続入り、セレスティさえ訪れなければ今後は迷宮入りしたであろう筈だ。
「──あのぉ、」
「はい?」
警視庁を後に彼の車椅子を押しながら、何か訊きたそうな事を非常に遠慮勝ちに切り出した三下に、セレスティは涼しい顔で顔を上げた。
「あのぉ〜、さっきの刑事さん、……男性でしたよね?」
「少なくとも婦人ではありませんでしたね」
それが何か?
「……あ、あの、セレスティさん、……誘惑してませんでしたか」
「まさか? お訊ねしたい事がありましたので、彼の心に訴えてはみましたが」
聞こえは良いが、要は、「魅了」したという事では無いか。
「だっ、男性ですよぉ〜!?」
「驚きました、三下さんとも在ろうお方が、今更性別に拘られるとは」
常日頃、女性からは(碇女子を始めとして)「三下(さんした)」呼ばわりされ、一部の男性からは「ペット」として良いように玩ばれている癖に。
「ヒッ……、ひぃぃぃいぃ〜っ、──」
「どう為さいました?」
麗人は澄ました顔で微笑む。
御愁傷様、三下・忠(雄)。
【3】
「人斬りを撃退したという男子生徒の人となりを教えて頂けますか?」
実際に霧里学院へ向かう車中、セレスティはそう、三下に促した。
「美刀・夢路(みと・ゆめじ)、18歳で現在二年生です。学校内では学院屈指の変人って評判でぇ、」
「──……、」
何か、三下にもそうした人間の視線の微妙な変化に対する勘というものが存在するのだろう。変人、とあなたが仰いますか。……とでも云いた気なセレスティに、三下は「酷いですぅ〜、」と更に変人振りを露呈する。
「失礼、そんな積もりでは無かったのですが。先を続けて下さい。どう、変わっておられるのでしょう?」
「とにかく意思の疎通が出来ないってぇ、」
「はい」
だから、何故そこで真直ぐ三下を見詰めているのかと云う事が問題である、カーニンガム総帥。
「でも、別に虐められているとか、そういうのは無いみたいです。一線引かれてはいるみたいですけどぉ」
「羨ましい事ですね」
「羨ましいですぅ〜、」
セレスティは寛容な笑顔で大きく頷く。……あなたも苦労為さっていますね、最も、私自身ついつい楽しいと思ってしまうもので、(あなたを弄る人間の気持も)分からなくは無いのですが、と。
「彼は一体、どうした手段で人斬りを撃退なさったのでしょう? 何か、退魔術にでも興味がお在りだったのでしょうか?」
「あ、そっちじゃ無いみたいです」
「そっち?」
そっち、と云うのはどうもオカルト流の事を云うらしかった。
「古流武術部所属だそうです」
「ああ、『そっち』と云う事ですね、──」
そこで、先ずは彼に会いに行こうと、2人は学院内の森を古流武術部の部室へと向かった訳である。
「……、」
そこで、場面は冒頭へ戻る。
手近な部員を呼び止めて「失礼、美刀君は居らっしゃいますか」と訊ねてみれば、彼はセレスティと三下、という組み合わせに加え、「美刀」と云う単語に非常に胡散臭そうな顔をした。
──が、直ぐに彼は「美刀、」と一人の男子生徒を呼び付け、自分は──セレスティ達から、と云うよりは寧ろその男子生徒と関わるのが億劫であるように──そそくさと場を離れて行った。
──武術を嗜んでいて、やや安直で血の気の多そうな彼が美刀少年を避けた理由は、何となく分かった。
「……、」
現れた少年は、先ず目の焦点が合っていなかった。……と云うよりは、起きてますか? といった寝惚けた目だ。「突然お伺いする失礼をお許し下さい、初めまして」とセレスティが挨拶をしても、たった一言の答えさえ無い。──かと云って、無愛想と云うのでも無いらしかった。……1、2、3、4、5秒、5秒の間を置いてから、ようやく彼は「はあ」とだけ応えた。
──変人、と云うのはこの異様なまでのスローモーション具合にして武術部なんぞに所属している矛盾を指すのであろう。
ま、多少の変人奇人に対してはセレスティも耐性があるので、そこは構わず彼は「失礼、先の人斬り事件に付いて伺いたいのですが」と切り出した。
「美刀君、あなたは現場に居合わせたそうですね?」
「……(1)、……(2)、……(3)、……(4)、……(5)、……(6)、……(7)、……(8)、ひときり……?」
「8秒……、」
余りの手持ち無沙汰に人間ストップウォッチ(と云って1秒単位の計測が限度だが)と化す事にしたらしい三下がぽつりと呟いた。
こちらの変人は放って置こう。セレスティは莞爾と笑顔を美刀少年に向けたままで頷いた。
「そうです。生き延びた女生徒のお話では、あなたが人斬りを退けられたと。その時の状況をお聞かせ願えれば倖いなのですが」
「……(中略、11秒経過)、うん……?」
「お願いします」
「……(略)……うん、」
「……美刀君?」
「……? ……???」
「あのぉ、」
人間ストップウォッチにも飽きたと思しい三下が流石に口を挟んだ。
「……分かってますぅ? ……って云うかぁ、……忘れてません?」
「……(ry)……うん、」
「……、」
──待つしかあるまい。
「──ゆっくりで結構です。……思い出してみて下さい。私達はいつまでも待ちましょう」
「……、」
「あぁあ〜、分かりますぅ、急に思い出せって云われたって、思い出せない事ってありますよねぇ〜、」
「……、」
──いつの間にか日は落ち、暗闇の中を寮へと、部員達は引き揚げて行った。後に残されたのはセレスティと三下、恐ろしい事に被害者述べ十数人にも登る人斬り事件を「忘れている」らしい夢路だけである。
【4】
如何に秒刻みの時間の枠を超越したセレスティとは云え、これでは埒が空かない。
毒を以て毒を制す。
「三下さん、少し、彼の相手をお願い致します」
「……、」
頷いた三下はと云えば、あまりの退屈さに手提げ鞄からリコーダーを取り出して音楽のテストに向けてか、非常に音感の悪いお手並みで練習を先程から続けていた。
そのあまり好ましいとは思えない音楽をバックグランドに古流武術部部室のプレハブを出たセレスティは、車椅子を先ず森を抜けた新校舎へと向けた。
過去にも彼は、SHIZUKU──瀬名・雫に伴われてここを訪れているが、その時に感じた不安定な空間を、再確認する為だった。
大体、その不安定な地盤、空間の不安定さ故に過去の事件の舞台に選ばれたかのような学院だ。書物魔女、……彼女のような存在が付け込み易い場所であるに違い無い。
今回、彼女が関与の可能性は低いと思われる。然し、恐らくは彼女がそこへ現れたような、この霧里学院という土地の不安定さ自体に何か原因があると思える。
「……以前は、ただの結界だと思って放置していましたが」
──現在地、図書館の蔵書室。
その一角で、──部屋は暗かったが、元々の視力が弱く、物事を見る、よりは感じて行動するセレティには差し障りが無かった──セレスティは『封印』を前にそう、独り呟いていた。
「強固な封印が施されているようなので安心して居りましたが……、……裏目に出たようですね」
そう、そこには『封印』が施されていたのだ。
それも、その一角だけで述べ十二の封印処置。
くるり、とセレスティは車椅子の向きを変え、今度は閲覧室の隅へ移動した。──そこにも同じく十二個の封印。
あまりにも地盤の不安定な霧里学院には、ここ図書館や学院資料室、他にも敷地内の各要所要所にダース単位での封印が施されていたのである。知識のある人間が見れば笑うだろう。「この封印が全て解かれるような事があれば、学院どころか、日本が、アジア地区が魔界になるぞ」と。
大体、どの箇所に封印処置が施されているかは分かっていたのだが、一応の確認である。
「──ここは問題無いようですね」
問題、とは。
強固過ぎる封印が裏目に出るという事だ。……つまり、封印がそれだけ頑丈であれば頑丈である程、多少の綻びでも大惨事を引き起こし兼ねない。今まで確認した限りでは殆どの封印は健在であったので、魔界地帯アジア地区が誕生する事は無いのだろうが。──一つの封印にでも綻びがあれば、その空間の隙間の時間軸が歪み、江戸時代末期から剣の達人の思念体が迷い出て人間を斬殺する程度の惨事は……。
「……、」
遠く、森の方角からは未だ三下の練習(間違ってもあれば演奏とは云えない)する『(多分)威風堂々』が聴こえていた。未だ、夢路は何も思い出していないのだろうが一旦部室に戻ろう。
セレスティは学校施設特有のバリアフリー構造の恩恵を享受して車椅子を、校舎から森へと向けた。
「お疲れ様です」
部室へ戻ったセレスティの労いの言葉は、呆れた事に未だぼんやりと押し黙っている夢路に根気良く付き合った事へか、或いは苦労しているらしいリコーダーの練習へ対する物へかは判断し兼ねた。──ただ、三下の演奏レベルでは、響・カスミが専任の神聖都学園の音楽の授業は大変に苦労しているだろう事だけは明白になった。
然し今現在問題なのは音楽の授業では無く人斬りだ。三下にはリコーダーの演奏を中断して貰う事にして、セレスティは一旦、古流武術部部室を出る事にした。
「え、美刀さんはどうするんですかぁ?」
「取り敢えず、先に確認したい事がありますので」
慌ただしく音楽の教科書とリコーダーを仕舞い、車椅子を押すべく、セレスティに続いて部室を後にした三下はとっぷりと闇に暮れた森の空を見上げて泣き出しそうな声を上げた。
「厭だなぁ、……もう夜じゃ無いですかぁ……、」
「ですから、夜中になる前には退散しませんと」
「また明日の昼に来ましょうよぉ……、」
──にこ。
セレスティは彼の碇女史宜しく「却下」と一蹴する事は無かったが、この上無く優美な微笑で以て同義語を物云う人である。(頑張れ三下)
「……どこに行くんですか?」
それでも大人しく従って車椅子を押しながら、三下が不安そうに問う。
「旧美術部部室です。……警察で聞いたでしょう? ……警察官が本能的な恐怖から避けてしまう程の空間の歪み……、……亀裂。封印が解かれたとすれば、恐らくは」
「封印……?」
「おや」
不意に、セレスティは小首を傾いで声の調子を一転させた。車椅子と、三下の足が止まる。
「セレスティさん?」
「後ろを御覧なさい」
「──……、……イヤです」
振り向くまでも無かった。
──轟々々々々……、
【5】
周囲はにはただ木の影があるだけの森の中、彼等は既に包囲されていた。
誰に? ──怨霊に。何人(体)くらい? ──ざっと見積もって1ダース程。
「ぅわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
どぉするんですかぁぁぁぁぁ、と三下の絶叫が夜の霧里森に響き渡り、然しそれは人の耳に届く筈も無くただ木霊して返って来るばかりだった。
「どうしましょうか。……困りましたねえ」
私は戦闘には向きませんし、とセレスティは溜息を吐いた。
「困りますよぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「まあ、予想はして居りましたが」
「ヒィィィイイイィィイ!!」
既に、何か、──未だこの空間へ迷い出して間も無いらしい、実体のはっきりしない1ダースの怨霊は着実に包囲網を狭めて来ていた。
「三下さん」
「はい!」
「もしもあなたが何か、水をお持ちでしたら何とか凌げるとは思うのですが」
「そう都合良く持ってませんよぉぉぉ! 先に云ってくださいよぉぉぉ!!」
「……、」
──失敗した。
セレスティが総帥の地位に在るリンスター財閥は、優秀な人材の宝庫である。彼付きの秘書の青年もまた非常に優秀であり、最近では彼が指示を与え無くとも事前に、セレスティの望む事を察知して行動してくれるようにまでなった。
つい、それに慣れ過ぎていたらしい。元々の性質に輪を掛けて物云わぬ態度が、今回ばかりは──三下に対しては不利にしか働きようが無かった。まさか、準備良く水を持ち込んでくれている筈が無い。
「失礼しました。……何でも結構ですが。例えば、ペットボトルの飲み物であるとか」
少し苦しいですが。
「あああっ、それならありますぅ、」
手提げ鞄を探ろうとした三下はそこで、何故かセレスティは無視して真直ぐ彼に向かって来た一体の怨霊からの襲撃を受けて絶叫を木霊させながらバランスを崩し、彼の側を離れた。
「三下さん」
「はい!」
それでも、セレスティが呼び掛けると律儀にも(怨霊から逃げ惑いつつ)、飲み残しの「がぶ飲みミルクコーヒー」のペットボトルを投げて寄越した。
「……、」
矢張り大分苦しい。不透明な(そのまんま)カフェオレ色の調整牛乳飲料を眺めながらセレスティは再度溜息を吐いた。
然し贅沢は云えまい。
「──……、」
セレスティが意識を一点に集中させると、ペットボトルの中身は意思を持った武器と変化した。──するするする、とプラスチックの口から溢れ出した糸状のミルクコーヒーは軈て網目の形状へと変化し、怨霊目掛けて一瞬で広がった。
一瞬間だけ、煌、と光輝いた青い瞳は爛々として美しい。如何せん、その青い水面のような虹彩に映っているやや間の抜けた光景だけが、惜しい。
「伏せて下さい」
三下がその一言に咄嗟に身を屈めた時、──がぶ飲みミルクコーヒー製の網は1ダースの怨霊を適格に捉え、絡めとってしまう。
「……お戻りなさい」
──あなた方の運命は、そうではありませんよ。
真実を告げる水霊使いの言葉に、彼等は姿を消滅させた。
【6】
あぁりがとぉおぅございますぅぅぅううぅ、と縋付き泣きじゃくりたそうな三下を、「時間がありません」と車椅子を押すよう促して彼には珍しくやや先を急ぎ、セレスティは旧美術部部室へ向かった。
「これで終わりではありませんよ、──未だです」
未だだった。1ダースの怨霊達に御成仏頂いた所で、既に背後には更に数ダースの気配が感じられた。
「相手をしていてはキリがありません、大本の封印を修復しなくては」
──木々の影の向こうに、寂れた一軒の小屋が見えた。旧美術部部室だ。
「速く!」
急いでますぅぅぅぅ、と三下が叫びながら腕を伸ばし、その重い扉を押し開けた。
──ばたん。
「……、……、……、」
ぜいぜい、と三下の苦しい呼吸が響いた。旧美術部部室へ飛び込んで扉を閉めてしまえば、安全──でも無いのだが。
一先ず、どこからともなく湧き出して来たらしい怨霊が完全に実体を得てしまうまでは物質的に閉じられた空間へは侵入出来まい。
「私は封印の綻びを探します、三下さん、水を探して下さい。恐らく、水道は未だ通っているでしょう」
「はいぃい!」
暗闇の中、狭いプレハブ内では車椅子での移動が逆に不便である。セレスティは立ち上がり、──ステッキが無いので、壁沿いに体を凭せ掛けて移動した。……それにしても。
──……何という不安定な歪みの渦中に在る事でしょう……、
これでは、鍛えられた筈の警察官さえ本能的に回避してしまうのも分かる。賢明だ。
セレスティと三下が今現在居る旧美術部部室、──そこは、あまりにも空間が歪められ過ぎていた。──何に依って? ……霊力、それも、ある一点から沸き上がるように激しく迸るあまりにも強力な霊的な力。
矢張り、人斬り事件の原因は封印の綻びにあった。人斬りだの、ダース単位だのの怨霊は副産物に過ぎない。封印の綻びから溢れだした霊力が空間を歪め、結果的に発生した亀裂から、400年も前の思念体が時間軸の矛盾の許、迷い出てしまったのだ。
──こっちだ、
セレスティはようやくその細腕を壁に付いて支えている体を、感覚に従って霊力の発生場所へと向け、覚束無い足取りながらに階段を登り進める。
部室として使用されていた1階とは別に、2階には絵画室があった。ちょっとした画家の手に拠る絵やオブジェなどと一緒に何やら書であるとか、学院の保管する歴史的資料までが便乗して展示されていた。
誰が盗むでも無いのだろう、既に使用されていない部室、忘れ去られた展示室なのだから。展示ケースのガラス扉の鍵は錆びて壊れたまま、扉は開け放されていた。
「……、これですね……、」
セレスティは手を差し入れ、中から一つの箱を取り上げた。
中には鏡が、──古い物だ、豪奢な細工を施した、磨き上げた銀製の鏡が収まっていた。ちらりと視線を遣った説明書きには、幕末期の物である旨が記されている。
「……、」
箱の中には、鏡の他にも一つ、一枚の古い和紙が仕舞われていた。変色し、毛筆の文字は隅が滲んで殆ど読めた物では無い。──が、辛うじて読み取れる一文と云えば……。
「……『この余とあの世を完全に繋ぐ法』……、」
他は読めないどころか、千切れて失われている。が、要は、この鏡こそが時空と時空、──現在と、幕末期になる400年も昔の時間と繋ぐ力を内法しており、和紙にはその封印を解く方法が記されていたのだ。
それを、誰かが解読して封印を破ったのだ。だから、そこから時代遅れの亡霊が迷い出して来た……。
「セレスティさん!」
三下が駆け上がって来た。──水を汲んで来たらしい。が、階段を中程まで登った所で彼の姿は再び、ひょっこりと消えてしまった。「ヒィィィィィイィッ!!」という絶叫と共に。
「……、」
──とうとう、実体化までしてしまいましたね。
先程の数ダースの怨霊だ。一旦扉を閉めて閉め出してしまったと思えたが、時間の経過と共にこちらの時空の中でも実体を得、壁を通り抜けて侵入して来たのだろう。それは、既に三下の足を掴んで引っ張れるまでにはっきりして来た。
時間が無い。急がなければ、とセレスティは自ら階段へ引き返し、階下へ引き摺り降ろされた三下の遺産……失礼、未だ存命だったので手土産、である、やや錆びの浮いた水道水を組んだ筆洗を取り上げた。
──水は彼の領域。操るは自在。水霊使いなれば、一旦解放された封印を再び結ぶのも訳は無い事。
「……この封印は、そう簡単には解けませんよ」
掬い上げた水に鏡を浸す。霊力を称えた青い光が水霊使いの瞳に輝いた。
──AQUARIUS RULER。
たまには、こんな遣い方も在りだろう。
【7】
「……これは、」
鏡の封印修復を終え、さて三下は無事だろうかと階下へ降りてみれば、そこは丁度、薙ぎ倒された怨霊数ダースが山と積み上げられ、少しずつ在るべき時間軸へと帰依して輪郭を失いつつあった。
壮観である。
「……三下さん?」
自然、口許に笑みが浮かんだ。……やれば、出来るのでは無いですか、と。
然し、……ま──さ──か──、三下がそんな事出来る訳ありませんって。
もぞもぞ、と物陰に隠れていたらしい三下が身じろぎした。
「おや」
意外な方向からの三下の登場に、セレスティは小首を傾いだ。──となれば……。
「これは……あなただったのですね」
「……、」
「美刀君、──夢路君?」
積み上げられた怨霊の中心に立っていたのが、あんまりにも記憶力が悪い為に一旦放置して来てしまった美刀・夢路だった。
今、彼の纏っている気迫は先程のスローモーション極まりない彼とは全く異質なものである。古流武術? と訝りたくもなる所属であるが、伊達では無いらしい。──先日、人斬りの亡霊を撃退して女生徒の命を救ったという証言も、頷ける訳だ。実際、今は三下が助けられたのである。
「……あなた、古流武術の恐るべき使い手だったのですね……」
「……、」
──1、2、3、4、5、6、7、8、9、10秒。
「……うん?」
セレスティを振り返った夢路は既に、目蓋が眠たそうに座っていた。
「……何……?」
「……いいえ、」
お忘れのようだが、結構である。セレスティは夢路に歩み寄ると、軽くその肩に手を置いて労いの意を込めた微笑を浮かべた。
「有難うございます。……助けて頂いたのですよ、私と、彼が……」
武術の達人の癖に、そしてたった今は数ダースの怨霊を(多分)当て身で撃退した癖に、セレスティがそうして軽く肩に手を載せただけで夢路はがくり、とバランスを失って妙な姿勢になった。──しかし、その中途半端な体勢のまま静止出来る辺り、体の扱いが上手いに違いは無いのだろうが……。
「……でぇ、封印とかはどうなったんですかぁ……?」
未だ恐怖で腰が引けている、三下が床に座り込んだまま訊ねた。
「……ええ、」
──少しずつ、霊力に依って極端に歪められていた空間も安定して行っている。
「封印は戻りました。……少々、風変わりな封印ですからね。恐らくもう解ける事は無いようですが……」
セレスティは今降りて来た階段の上へ視線を遣り、目を細めた。
「……お一人、帰り損なった方が居らっしゃるようです」
階段が軋む音が、やけに高く部室全体に響いた。こうした効果音を伴って登場するのは十中八九、不穏な存在である。まあ、この際にはその正体は自ずと知れていた。
人斬りの亡霊、ようやくのお出ましである。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
その手に収まっている刀の抜き身がきらり、と光ったと同時に三下が悲鳴を上げた。
喧しい。が、セレスティは既に今日一日で慣れていたので平然と聞き流し、心の中では人斬り幽霊への対策を思案していた。
そして結論は直ぐに出た。
セレスティは身軽な動作で後ろへ引く。腰が立たないらしい三下を残したまま。
振り被った人斬りの刀は、真直ぐに三下目掛けて光の軌跡を伸ばした。
「酷いですよぉぉぉぉおおおおぉ、」
「大丈夫です」
セレスティの落ち着きある言葉ははったりでは無い。──同時に、それまで未だ不自然な体勢のまま静止していた夢路が一瞬で姿勢を立て直し、亡霊の刀の一閃きよりも速い足で駆け寄った。古流武術式の、剣術にも対抗し得る当て身が繰り出されて三下から亡霊を何と生身で弾き飛ばしてしまった。
「──……、」
セレスティは後ろ手に伸ばした手で、蛇口を捻った。──ただ単に三下を盾に逃げた訳では無く、そこに水道がある事も彼には分かっていたのだ。
水が、迸る。夢路に吹き飛ばされた亡霊は立ち直る前に、水霊使いの意思を持った水飛沫に絡め取られて行った。
「──お帰り頂いても良かったのですが。……今は、平成です。武士と云え人間の殺傷は罪に問われるのですよ、こちらの空間では」
あなたはこちらの世界の人命を奪ってしまわれたのですからね。
「──消滅なさい」
【8】
セレスティのロールトップデスクの上には、一冊の雑誌が乗っている。
月刊アトラスの最新号だ。
中程の特集ページには、先日の霧里学院人斬り幽霊騒動の顛末が掲載されている。が、マスメディアの中でこの事件に触れたのはアトラスだけである。
表沙汰になれば、色々と不都合も生じる事件だった。詳細は内密に。そういう事だ。
まさか、中堅オカルト誌に書かれた詳細が事件の真相だとは誰も思わない。
然し……、
「……封印を解いたのは一体……、」
──まあ、構いませんけどね。
新たに彼が鏡に施した封印は、オリジナルとは異なる方法で為されているのだから。最初に封印を解いた人間が誰かは知れずとも、そうそう簡単に戻せはしない。
──だからと云って……、
セレスティはアトラスのページを開いた。一通りの記事に目を通した後、最後の一文に止まった所で彼の目は少し、細められた。
「……終わった訳では無い」
────────────────────
・
・
・
以上が、今回の悲劇の真相である。
然し、封印を解いたのは一体誰だろうか。
再び、この封印が解かれる事はあるのだろうか?
最後であるが、最近、取材に訪れたこの学院で耳にした噂を掲載しておこう。
「この間、人斬り幽霊が出た森。──見た人がいるんだって。旧美術部部室を笑いながら眺めて、『素晴らしい』って呟いた男が居るって……」
これは、封印を解いた人間に関する手掛かりであろうか。それとも、連鎖する闇の悲劇への幕間、あるいは新たな闇の幕開けなのだろうか……。
(文:三下・忠雄)
────────────────────
※NPC三下・忠(雄)に関して、「東京怪談 SECOND REVOLUTION」での設定を使用致しました。彼の年齢退行現象はシナリオノベルの本質には一切関係がありません。御了承下さい。
|
|
|