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<東京怪談ノベル(シングル)>


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 暗く影に沈んだ天井裏に、夜は来ない。
 否、懐に入れた忍び時計はその振動で確かに時の流れを…子の刻を告げている。
 丹下虎蔵は、身を屈めてそっと……一枚だけ、外せるように細工した羽目板をずらし、その隙間に左眼をあてた。
 彼の起居するあやかし荘、天井裏の真下は『薔薇の間』である。
 幼いながらもおでん屋台の経営者である少女が算盤を弾く音も途絶えてすっかり更けきった夜、健やかな寝息に眠りの内にある事を確認し、殊更音を立てぬよう丁寧に、虎蔵は板を元の位置に戻す。
 彼の主である少女が眠りについて漸く、虎蔵が自分の身の回りをする時間が出来る……彼女の影、その身辺を護る忍びの者として、安全を確認してからでなければ目を離すワケに行かず、眠りを見届けて初めて身辺にかまけられるというものだ。
 六歳という幼きにも関わらず、まさしく影となっての警護の任は生半可な責務ではないが、虎蔵はそれを当然とし、誇りと同等……否、より勝るかも知れない主への想いに今日も精勤する。
 虎蔵の中で変わらず、雇い主こそ彼女の祖父だが、心の主は彼女である。
 部屋…というには少し抵抗を覚えてだだっ広い天井裏、虎蔵の生活用品は『薔薇の間』の区画だけに律儀に置かれた家具の間を抜け、虎蔵は足音なく天井裏を進む。
 目指す場所を難なく見つけ、ここもまた細工した板を外すと、虎蔵は四角く光を漏らすその穴から飛び降りた。
 壁際に対称に、朝顔と個室が整然と並ぶ其処は男性用の厠である。
 其処で為すべき用事はただ一つ、前をくつろげた虎蔵は、大事な所を包む布に触れてふと、視線を落とした。
「……母上様」
虎蔵は瞠目するように目を閉じた…新しい布が持つ独特の質感、それは虎蔵の母の手に因って丹誠込めて縫われた褌、である。
 

 真昼の明るさが春の朧に包まれて、空気が奇妙に白い。
 右の視界に欠けるというのに、その後の修行に怠りなかった為か、同年代の子等の中でも頭角を見せる虎蔵が、主を守る任を得て里を離れる前日。
 身の回りを整え、主たる少女に決して正体を悟られるなという厳命が任の難度を示す…護られている自覚のない者の警備は、こちらと相手の意思の疎通に欠く為、まま不測の事態を呼ぶ。
 その難解さも、虎蔵は雇い主がいつぞや、その片目を失ってまでも護った少女の祖父であり、警備対象が少女本人であるという事実に、受ける決意を固める要素でしかない。
「母上様……」
正面に端座した母へ叩頭して呼び掛けるが、続けようと用意していした言葉は胸に詰って出てこない。
 虎蔵の内心の焦りを察してか、静かに座すのみであった母の気配がふと和らいだ。
「虎蔵、よく励みましたね」
開け放たれた障子に、庭から梅の香が漂って来る。
 成人した者が選抜されるべき任に、虎蔵が着いた事は確かに誇らしいだろう……が、子を持つ母が年端も行かぬ我が子を手放すのに躊躇せぬ筈はない。
 だが、虎蔵の母はゆったりとした笑みで、旅立つ息子の姿を見つめる。
「適う限り、母もお前の任に力を貸したいと思います」
この場合の力とは、米や味噌などの生活への救援物資の事を言う。
「母上様」
優しい労いと励ましに感極まり、任を得れば最早一人前、別れの涙は見せまいと思っていた虎蔵の視界が不覚にも揺らぐ。
 母は、懸命に涙を堪える息子の姿を微笑ましく見守ってそれでも、きちんと暇の辞を告げられるよう待つ。
「お名残おしゅうございますが……わたくしめも一人の影として、帝都へ参ります」
乾く唇を舐めて湿し、虎蔵は叩頭したまま続ける。
「慈しみ、育てて下さったご恩を満足にお返し出来ぬまま、お傍を離れる事だけが無念で御座いますが、どうぞ恙無くお過ごし下さいませ……」
虎蔵に軽く頷き、母は穏やかにそれを受けた。
「虎蔵も、くれぐれも身体には気をつけて……お前が任を立派に成し遂げる事を心から願っております」
言って、母はその背後に隠すように置いた風呂敷包みを片手で掴み、腕の力だけで息子と自分の間にドンと据えた。
「母からの餞別です、お持ちなさい」
それは正座した虎蔵の首の高さまである。
 虎蔵はいざり寄ると、幅としては身より少し狭い程度で高さばかりに柱のような風呂敷包みを解いた。
 中には、みっしりと褌が詰まっていた……しかも黒。
 一度履いた物を処分してもきっと一年分はある。
「それは一枚、一枚……お前の任が決まった折から、母が縫い溜めた物です」
この量をか。
「護衛の任は忙しく、身なりに構う暇がないかも知れませんが、影として、男として、下着にだけは気を使わねばなりません。勝って兜の緒を締めよ、と言いますが、男なら常に緊褌一番、有事への用心こさ、おさ怠りなく為さねばなりません」
常に褌に気を使っていなければならないとは、ヤな有事だ。
「ですが母上様……わたくしめの下着は……」
今まで与えられた褌はどれも清潔感溢れる白で、いきなり黒を渡されても違和感しきりで虎蔵は難色を示す。
「虎蔵、何を言うのです。任を得たという事は一人前の大人、成人と同じ扱いです。白は清涼感に溢れて良い色だと思いますが、身の回りに手をかけられない事が想定される以上、汚れが目立って不潔さが強調されるのは避けようという母心が判りませんか?だからと言って赤は品がなくていけません。男気は見せる為の物であって、隠しておくべきものでないとそう思うのです母は。故に黒、実用によし、気を引き締めるにもよし、何よりも下着の黒は得も言われぬ色気を醸すのものなのです、父上様のを初めて拝見致しました折の感動は……」
何やら、褌の選択に関して並々ならぬ情熱を注いでいるのは伺える母の主張は、その夜が更けるまで続いた。


「母上様……ありがとうございます」
胸の内に、今も溢れる感謝を声にする。
 話の半分以上解らなかったが、それでもその気持ちが虎蔵に向けられていた事だけは判り、以降、虎蔵は黒い褌を愛用している。
「母上様の期待に背かぬよう、わたくしめの命に代えましても、お守りいたします」
最も、何から守るべきなのかは誰も知りはしないが。
 虎蔵はやるべき事を済まして今度は洗濯室へと向う為、洗い物を取りに天井裏へと潜り込んだ。
 こうやって、虎蔵の一日は終わって行く。