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命の詩− 第一話 朝露 −
0.序話
「ねぇ、お爺様?本当に、こんな事があるの?」
「ああ、本当だとも。信じていれば、ちゃぁんとあるんだよ?」
「うん、私信じるよ!絶対あるんだって!」
シュコー……シュコー……
規則正しい人工呼吸器の音、ピッピッと心拍を数える音も規則正しい。しかし、それ以上の音は存在しない……脳神経外科の個室……草間は今此処に居た。
目の前のベットには、まだ年端も行かない少女が様々なチューブを取り付けられ横たわっている。その姿は痛々しく哀れとすら思えてくる。
「孫です……あの事故から、もう丸一年……ずっとこのままです……」
目尻に光る涙が頬を伝う。
「外傷と呼べるのは一箇所だけ……脳へのダメージは無いのに……なのに……なのに!!!」
草間は掛ける声も見付からず、ただ黙って老人を見詰めた。その脳裏には、老人の言う事故が思い出される。
394名……乗客乗員合わせそれだけの命が失われた墜落事故……その唯一の生き残りが少女、高浜静香である事は、日本中が知っている。外傷は左手の甲のみで、現在もその痣が残っている事さえも報道で知っている。実際に見たのは今日が始めてだが、焔の様な痣があるだけ……報道されていたのより、多少大きいとも思えるが、問題はそこでは無いと草間は思う。問題なのは、ずっと昏睡状態のままと言う現状……
「医者も分からないと言います……もう助ける手立ては、それに頼るしか……」
震える声で老人が言う、手立て……それは奇跡に他ならない。
手渡された本の付箋のあるページ、そこに書かれた内容――朝露の奇跡――作者自らが体験したと書かれた内容は御伽噺の様に雲を掴む如き話……それでも、信じずには居られない、それだけの絶望を味わって来たのだろう。
「お願いします……どうかどうか……」
深々と頭を下げる老人に、草間は一言だけ告げた……
「お引き受けします」
1.想い
AM9:00〜9:40 脳神経外科個室 高浜 静香の部屋
ピッ……ピッ……
シュコー……シュコー……
規則正しい機械音、この部屋の主の生を繋ぎ止める為だけの装置……その音を聞き、その姿を見てシュライン・エマと柚品 弧月は少女から目を逸らす事しか出来なかった。
可憐な少女だと思う、肌は白く面立ちもすっきりとして居り、爽やかな笑みを髣髴とさせる物だ。ただ、その体には生気が感じられず、今の白い肌も病的な物としか思えない。こけた四肢に刺さる、生命線とも言える点滴のチューブは、規則正しくその滴りを少女へと送り、辛うじてその体の機能を留めるだけの物に過ぎない。
『早く何とかしてあげないと……』
『もう少しだけ、待っていて下さいね……』
シュラインと弧月は心の中でそれぞれ想い、依頼人へと向く。
「朝露の奇跡、拝見させて貰って良いでしょうか?内容を知らなければ、探し様も有りませんので」
柔らかなシュラインの申し出に、依頼人の老人は頷くと二人にスッと一冊の本を差し出す。
著者名は長澤 雄哉、タイトルは『幻想探訪譚』。初版発行は、8年前の秋である。
本の内容は、様々な神話や逸話を訪ね歩き、実際に起こるかどうか等の検証記録等を纏めた物である。その本に貼り付けられた付箋のページを、シュラインは開いた。
『朝露の奇跡
そも、神と密接する物に、樹木がある。
伝承・神話に多く見られる樹木の中で、楡の木は命を宿した樹木として伝えられる物が多い。海外の神話や逸話の中にも登場するが、日本ではアイヌ民族の伝承に登場するものでも有る。
大別して、春楡と秋楡に分類される様では有るが、一般の人が見た限りでは判別は難しいと思われる。
さて、これから語る話しは読み手によって、真実であるか非真実であるか判別が分かれる所では有るが、著者が実際に体験した物である。
単独の調査と言う物は、骨が折れるばかりか得てしてアクシデントに見舞われる物である。
そう、その日確かに私は単独にてとある調査へと向かった。(内容と一致する物では無いので調査内容は割愛させて頂く)
天候は快晴、雲ひとつ無い空の元、山道を徒歩にて登り始めてから数時間、目的の場所に着いた私は、夢中になって調べていた。
どれ位そうしていたのか、ふと気が付くと日が陰り怪しい雲行き。山には良くある事なので、一旦調査を打ち切り早々に山を下りる事にしたのだが、少しばかり遅かった。急に下がった気温により、辺りに霧が立ち込め始め視界は真っ白に染まったのだ。
こう言う時、下手に動かないのが鉄則であろうが、私は自分の記憶力を過信していたのだろう、霧の中を歩を進める事にした。だが、暫くも行かない内に、私は道を踏み外し崖下へと転落してしまった。
気が付き辺りを見渡せば深い崖底の森の中。右腕と右足が折れているのが分かったし、したたか打った体は重度の打撲を私に伝えていた。
しかし、このまま居てもどうしようもないと思った私は、何とか骨折箇所の固定をし少しでも麓を目指そうと木々に体を預けながら移動をした。自分でも愚かしい行為だろうとは想って居たが、恐怖が私を駆り立てていた様に思う。何度も転げ、何度も意識を失いかけながらも少しずつ進んでは居たが、私は遂に力尽き、一本の木に背中を預け意識を失った。
どれ位意識を失っていたのか?次に眼を開けた時、幻想的なまでに大きな月が空に見えた。丁度、木々の合間を縫って姿を見せたその大きな月に見惚れながら、私の意識はまたしても深い闇に包まれて行った。
不意に、冷たい物が私の額を濡らした。その冷たさに眼を開き上を見上げれば、薄明かりの中木の葉に付いた朝露がキラキラと輝き、その滴りを注がせていた。
喉も乾いていた私は、何とかその滴りを受け止めようと大きく口を開きその滴りを待った。
ピチャ!
私の口の中に入って来た、朝露を私はしっかりと受け止め飲み干す。たったそれだけで、体に生気が満ち溢れる様な気がした。一粒、二粒……私は必死に成ってその滴りを受け止め続けた。するとどうだろう、今まで確かに痛んでいた腕から痛みが薄れて来たのだ。
錯覚だろう?私もそう思った。だが、骨折した腕を押さえて私は驚きを隠せなかった。治っていたのだ。あんなにはっきり折れていた腕が、今では多少の痛みが有る位で、しっかりとした感覚を持っていた。
私は、また夢中になって落ちてくる滴りを受け止め続けた。
それを奇跡と呼ばずして、何を奇跡と言えば良いのか?
私の体は、最早多少の痛みを残す程度で骨折等は綺麗さっぱり治ってしまっていたのである。私は、体を預けていた木を見上げ、その形その葉をしっかりと記憶し、感謝を述べその場を後にした。
無事帰還した私は、植物図鑑等を調べその木が何であったかを知り、改めてこの世界の奥深さを痛感するに至ったのである』
シュラインは、食い入る様にその箇所を読み続けた。背後から見詰める弧月もまた同じく、何度も何度も読み返している。
暫くそうしていてから、シュラインは眼で弧月に合図する。弧月は頷き、スッとシュラインの背後から離れた。
「分かりました。何とか探してみます」
「お願いします……」
深々と頭を下げる老人に、シュラインは笑顔で本を差し出した。
AM9:45〜10:00 院内待合所
病院の待合所、総合病院でも有るこの病院は診察待ちの患者でごった返していた。そんな中、草間とシュライン、そして弧月の姿が在った。
「本当に奇跡ですね……その話しが本当だとしたらの話ですけれど……」
待合室の椅子に腰掛けた弧月の呟きは、シュライン・草間共に同じ想いだ。本の内容が嘘で有るなら、徒労所か少女を救う手立てが無くなるのだ。それに、本当に効くかどうかもわかったものでは無い、正に奇跡としか言い様が無いのである。
「兎に角こうしていても始まらないわ、色んな角度から当たって見ましょう。余り時間も使ってられないでしょうしね」
腰掛けていた椅子からシュラインは立ち上がると、弧月と草間を促した。
「そうですね。じゃあ、俺は出版社から著者の方に直接話しを聞いて来る事にします。それに、他の方がそう言った体験をされてないかどうかも」
「分かったわ。私は、事故の情報を集めてみるわ。ひょっとしたらって可能性もあるでしょうしね」
「二人とも頼む、俺も色んな角度で調査してみる」
三人は頷くと、それぞれの調べるべき場所へと向かって行った……
2.憂い
AM10:15〜10:45 院内中庭
依頼人で有る老人が、顔を下に向け項垂れている。その想いは、途方もない依頼をしてしまった後悔の念であった。
確定的な事は何一つないこの依頼を、何故してしまったのか?ただただその想いがある。だが、そんな物にでも縋らないと、老人はこの辛さから逃れる事が出来なかった。弱い人間だと、情けない人間だと自分を卑下し、自分の愚かさを呪っていた。
「キュ〜ン……クゥ〜ン……」
聞こえて来た切なげなその声に、視線を上げた老人の目の前に、一匹の柴犬が居た。何処から入り込んで来たのか分からないが、その首には首輪と、唐草模様の風呂敷があった。
「ワン!ワンワン!」
尻尾をばたつかせて老人を見詰めながら、吼える柴犬を見詰めていた老人は訝しげな表情を見せている。その理由はただ一つ。
『ボクは、ゴンスケだワン!女の子可哀想だから、ボクも朝露探すワン!お話教えて欲しいワン!』
目の前の柴犬が吼えたと同時に、頭の中に響いて来たその声に、老人は戸惑っていた。だが、フッと表情を緩めると、徐に柴犬の頭を撫でる。
「ゴンスケか……有難うよ。じゃあ、話だけでも聞いて行くかい?」
「ワン!ワン!」
『うん、聞くんだワン!きっと見付けてくるワン!』
再び頭の中に響いて来た声に微笑みながら、老人は静かに口を開き、朝露の奇跡の話しを、尻尾をばたつかせながら座っている柴犬 ゴンスケに話して聞かせた……
AM10:30〜10:55 路上
「はい、はい、ええ、お願いします」
電話を切るシュラインの顔が、少しだけ微笑んでいる。どうやら、美味く話が纏まったようだ。
「さてっと、余り時間も無いわね。直ぐに行かなきゃ」
シュラインは、丁度通りかかったタクシーを拾うと、行き先を告げて乗り込む。行き先は、港区にある喫茶店、そこであの事件を報道し、今尚独自に調査して居る人物と会う事になったのだ。多少の時間ロスはあったが、これくらいの時間で手掛かりが掴める物なら、まだ安いものだとシュラインは想っていた。
「忙しい一日になりそうね……」
窓の外を流れる景色を見詰めながら、シュラインは呟いていた……
同時刻 車内
弧月を乗せたタクシーが、目的地に向かってひた走っている。場所は、新宿の小さな出版社。その会社が、あの本を発行した会社で有るからだ。
「何とか、話は伺える事になりましたね……」
タクシーに乗る前に、出版社に連絡し、事情を話し著者に会いたい旨伝えると、出版社は快く承諾してくれたのだ。ただ、著者が来るまで多少の時間が掛かるだろうと返事を貰っている。
急な事なので、その事情は仕方ないとは思うが、弧月の心は焦燥に駆られていた。横たわった少女と、嘗て失った妹の姿がダブって見える。
「絶対、助けてみせる……」
弧月は、静かに呟いた……
AM10:45〜11:00 院内中庭
「ワンワン!!ワンワンワン!!」
『なるほどだワン。ちょっと難しいけど、頑張ってみるワン!』
話し終えた老人に、そう伝えるとゴンスケは首の後ろにある唐草模様の風呂敷を器用に前に持ってくる。
「ワン!ワン!」
『この中に、小さな瓶が有るんだワン!それを首輪に下げて欲しいワン!』
老人は戸惑いながらも風呂敷を開けて、中を見た。様々な旅道具がその中には詰め込まれており、確かに小さな小瓶がそこには有った。その口元に、同じく風呂敷の中にあった小さな紐を結わえ付け反対側は首輪に結わえ付ける。
「ワンワン!ワン!」
『有り難うだワン!きっと見付けて、この瓶に朝露集めてくるワン!』
そう伝え、再び風呂敷を元に戻し、老人の足に頭をこすり付けるとゴンスケは駆け出した。老人の笑顔の為に、そして、女の子の元気な姿を見る為に……
3.当て
PM12:00〜13:00 都内喫茶店
シュラインの目の前の男は、尽きる事無く話しを聞かせてくれていた。
「これは警察の方から入手した情報ですけれど、彼女が発見された時、彼女は白と黒の光の幕に覆われていたそうですよ」
「白と黒?それはどんな物だったんですか?」
「さぁ?そこまでは流石に……俺が見た訳じゃないですからね」
苦笑と共に言う男は、確かにそれ以上の事は知らないようで、シュラインは少しがっかりした。だが、かなりの収穫が有った事は事実だ。
事故の原因から、事故現場の仔細な調査内容、果ては静香の両親の経歴、交友関係に至るまで、事細かに調べ上げられていた。資料写真も膨大なものに及び、この男がこの事件に対して真剣に取り組んでいる事がありありと分かる。
『やっぱり、行って見るしかなさそうね……』
シュラインは、或る考えに至っていた。それは、静香の意識がまだ事故現場に残されており、朝露と共に抽出出来るのでは無いかと言う事だった。事故の規模、そして発見のされ方、どれをとっても生存の可能性が無いこの事故で、ほぼ無傷と言う状態、その謎は解けはしないが、きっと静香の意識はそこに有る、そう睨んでいた。
「ああ、そうそう」
そんな思考を途切れさせる様に男の声が聞こえて来た。
「静香ちゃんの両親もだけど、交友関係の奴等結構な魔道マニアだったみたいですよ?そう言う団体にも入ってる見たいですしね。まぁ、この件とは関係ないでしょうけどね」
言って苦笑いを浮かべる男に、シュラインもまた苦笑いで応える。白と黒の光……それがどうにも気になってきた……
PM12:30〜13:15 出版社内応接室
「あれは、本が出るよりも二年前の話ですね」
そう切り出したのは、著者である長澤 雄哉その人である。初老の域に達しようかと言う顔付きでは有るのだが、まだまだ精悍な様がありありと分かる人物だ。現在でも、多くの現地調査や探検を行っている様で、多くの著書を出版して居る。
「場所はどの辺りになるんですか?その木で無いと、それは有り得ないのですか?」
弧月の問いに長澤は、静かに口を開く。
「場所は、四国霊峰剣山。他にも色々試して見ましたが、目に見えて起こったと言うならば、その場所のその木だけでしょう。他にも数例聞き及んでいますが、私が体験したのはそこだけでしたね」
長澤の言葉を、弧月は持って来たメモ帳に書き込む。
「その木の正確な場所はお分かりになりませんか?」
「流石に、正確な場所までは……何せ遭難中の出来事ですからね。自分の位置さえ、殆ど把握できませんでしたから」
苦笑いを浮かべながら言う長澤の言葉には、過去の過ちを恥じる想いが込められている様に感じた。
「すいません、心中をお察し出来ませんで……」
流石に失礼と感じ、弧月は謝意を述べた。
「いえ、正確な場所さえ分かれば良かったのですが、お力に成れずに申し訳有りません」
微笑む長澤に、弧月は一礼すると立ち上がる。
「これだけ分かれば、後は何とか自力で探して見ます。本当に有り難う御座いました」
「頑張って下さい。その少女の為にも……」
「はい」
弧月は再び一礼すると、応接室を後にし、携帯で草間へと連絡を取った……
AM11:05〜AM11:25 都内某所公園
その公園に、ゴンスケは居た。
『取り合えず、色々聞いてみるんだワン!』
そう決めて、この公園の鳩達に話しを聞く事に決めたのだ。
『ちょっと良いかワン?不思議な朝露を探してるワン、何か知らないかワン?』
直ぐ傍に居た、数羽の鳩達に語り掛けるゴンスケに鳩達が集まって来る。
『朝露なんて一杯有るホォ〜不思議なのなんて言われても分からないホォ〜』
『どんな朝露何だホォ〜?それが分からないと、答え様がないホォ〜』
口々に分からないと言う、鳩達にゴンスケも困惑した様に答える。
『山の中に有る木から取れるって話しだワン。誰か知ってる人知らないかワン?』
その問いに、一羽の鳩が答える。
『だったら、椚のおんじが良いホォ〜そんなに遠くないホォ〜案内してやるホォ〜』
『助かるんだワン!お願いするんだワン!』
鳩がゴンスケの頭の上に留まり、ゴンスケは再び駆け出した。
AM11:50〜PM12:20 都内某所椚の古木
立派な椚が天に向かって伸びている。都内に有る神社の境内の一角に植えられたその木は樹齢何年か分からないがかなりの年月を経ている様だ。
『おんじ〜おんじ〜お客さんだホォ〜』
鳩の声に、低くしゃがれた声が答えた。
『何じゃ?ほぉ?ゴンスケか?話は聞いて居るよ。御主人は見付かったかね?』
自分が知らない人(?)が、自分を知っている事に多少驚いたゴンスケだが、御主人の事を聞かれるとちょっと寂しそうに俯く。
『まだだワン……でも、きっと見付けて見せるんだワン!それに、今日は御主人の事じゃないんだワン!女の子助ける為に、不思議な朝露が要るんだワン!何処の木から取れるか知らないかワン?』
ゴンスケの問いに、『う〜む』と悩む声が聞こえた。少しの間を開けて、椚のおんじは答える。
『沢山の木が有るが、そうじゃの……命の木としてなら三つかの。北の地と南の地と北と南の中間くらいの所に有るのぉ』
『本になったお話だワン!どれが成ったか知らないかワン?』
『それならば、四国は剣山の楡の聖木じゃろうのぉ。何度か人を救うたと言う話しを聞いて居るからのぉ。他は人目に付く所に有るから滅多にないが、あ奴は見つかる事が稀じゃから、本にもなるやも知れぬしのぉ』
ゴンスケは、尻尾を振って喜んだ。
『四国だワン!行って見るんだワン!助かったんだワン!今度また来るワン!』
『おお、気を付けて行って来るがええ。あちらには連絡を入れておくわい』
『有り難うだワン!』
そう言うと、ゴンスケは一目散に駆け出した。目的地は四国、剣山。交通手段は……ヒッチハイクに決まった……
4.手探り
PM23:00〜 飛行機墜落事故現場付近の森
パチパチと火が爆ぜる音が聞こえる焚き火を前に、草間とシュラインはその手に持ったコーヒーを口へと運ぶ。
嘗て、飛行機が落ちた現場は、今でもその惨事を物語るかの様に存在していた。
薙ぎ倒された木々、爆発により四散した機体の細かな残骸、炎上したであろう木々の炭が彼方此方に点在している。その範囲、周十キロにも及ぶ爪痕が、静香の生存を奇跡と言わしめている理由の一つに他ならない事は、此処に来たシュラインと草間に改めて分からせた。
「良く……生きていたわね。本当に……」
「ああ……」
呟きに、草間が答えた。
シュラインから事故現場付近の朝露を採取すると言われた草間は、その交通手段や移動経路などを割り出し、シュラインに同行する事にした。弧月は独自のルートで今は四国剣山山中に居る筈である。
電車とバスを乗り継ぎ、付近の町へ。そこから先は徒歩にて山へと分け入った。道らしい道もない山を登り続ける事数時間、到着した事故現場は二人の想像を超えていた。だが、日も暮れ始めた山中でテントの準備や食事の用意、辺りの木々の調査等に追われ、結局落ち着けたのはこの時間になってしまった。
空には満ち月が在り、その光を柔らかに地上に下ろしている。
「大丈夫……かしら……」
「ん?何がだ?」
「もし、違ったら静香ちゃんは……いいえ、それ以前にこんな奇跡な話が本当に有るのか……」
言葉を濁すシュライン、不安がその表情を彩っている。そんなシュラインの肩にそっと草間が手を掛ける。
「分からん。だが、やれるだけの事はやってみよう。可能性が無い訳じゃない」
その肩に頭を預けシュラインは小さく呟き目を閉じた。
「ええ……」
PM22:00〜 四国徳島県剣山山中
「はぁ……はぁ……まだなのか……」
「ワン!!ワンワンワン!」
『もう少しだワン!頑張るんだワン!!』
ぼやいた弧月の言葉に、ゴンスケが吼える、と同時に頭の中にゴンスケの声が響く。この不思議な犬と出会えなければ、明確な位置を割り出せなかっただろうと、弧月は思う。
長澤の話しを聞いた後、弧月は草間に連絡し、四国行きの飛行機を取って貰い、四国は徳島へとやって来た。土地勘の無い場所だけに、入念に下調べが必要と感じ、剣山麓の町で聞き込みを行っていたのだが、生憎とその木の話は聞けず終い。結局、単身剣山へと分け入る事になった。
道なき道をひたすら登り続けて行く内に日はとうに暮れ、懐中電灯を灯しながら何とか進んでいる矢先、その声が聞こえてきたのだ。いや、正確には頭の中に響いてきたと言う。
『この匂い、おじいさんに付いてたのと同じ匂いだワン!そこに居る人も朝露の木探してるワン?』
不意の事に、弧月は辺りを見回した。人の姿は見えないのだが、確かに声が頭の中で響いていた。
『今からそっちに行くワン!ボクが案内してあげるワン!』
ガサガサと下葉を揺らしながらやってくる者に、弧月は緊張し身構えていた。だが、現れたのは一匹の柴犬だった。
『大丈夫だワン!ボクは何もしないんだワン。ボクはゴンスケだワン。女の子助ける為に、不思議な朝露を探してるんだワン!』
首輪の下に、小さな小瓶をぶら下げて、弧月を見詰めるゴンスケに、流石の弧月も唖然とする。
「犬?言葉が喋れるんですか?」
「ワン!ワンワン!」
『喋れるんじゃなくて、思ったと事を伝えられるんだワン!それよりも、朝露集める人だワン?それだったらこっちだワン!木が教えてくれてるワン!』
ゴンスケはそう言うと、踵を返して先行する。些か驚いていた弧月だったが、見失わない様にと後を付いて行く。そうこうして、2時間余り、弧月とゴンスケは目当ての木を求めて移動していたのだ。
不意に、先行するゴンスケが、足を止める。その目の前には、一本の木……
『これだワン!この木なんだワン!』
「これが……」
呟く弧月の目の前に、確かにその木は有る。一見したらただの木であるのだが、この不思議な犬、ゴンスケが言うのだから何となく信じる事が出来た。
「後は、此処で朝を待つだけですね。じゃあ、ゆっくりしますか」
「ワン!ワン!」
『そうするんだワン!おなか空いたんだワン!』
その声に、弧月は微笑み背中のリュックから寝袋と共に、パンをゴンスケに与える。嬉しそうにぱくつくゴンスケと微笑み見詰める弧月を、満月の月明かりが照らしていた……
5.朝露
AM10:00〜 脳神経外科個室 高浜 静香の部屋
静香の個室に、シュライン・弧月・草間が来たのは、午前10時を少し回った位だった。
場所さえ分かってしまえば、後は朝滴る朝露を採集してくるだけなのだから、容易だった。シュライン・弧月共に、小瓶一杯の朝露を集め依頼人に渡す。弧月の渡した瓶のその数が一本多い事に、依頼人とシュライン・草間が不思議がる。
「ゴンスケの分です。ほら、途中でお話した……」
ゴンスケは今、院内の中庭で待っているのだ。流石に病院の中に動物を入れる訳には行かないからである。
「そうか、じゃあ後で美味い物でも御馳走しないとな」
「ええ、そうね」
草間の言葉に、シュラインと弧月も微笑み頷く。依頼人もまた、目尻に涙を浮かべ微笑んでいた。
「さぁ、やって見ましょう」
弧月が差し出した、コップを受け取り、老人は不安げな表情で頷いた。
綿に朝露を含ませ、静香の口元に静かに当て、少しずつ少しずつ口の中へと入れてやる。その間、弧月と草間は祈るような眼差しで見詰めていた。
「静香?静香?起きて」
静香の手を握り、声を掛けるシュラインの声は、静香の母親と同じ声。シュラインの能力ボイスコントロールによる音声変換である。
当然、聞いて居ない音は再現不能なのだが、幸い依頼人に頼んでいたホームビデオを数回見る事でその音を記憶させた。
呼び掛ける声以外は静かに運ぶ、まるで儀式の様な行為に皆が集中する中、4時間と言う時間が流れた。
再び綿に朝露を含ませ、静香の口に運んだその時、確かに静香の口が動いた。
「草間さん!」
「ああ、もしかして!」
弧月と草間が、期待した様に見詰める中、シュラインも必死に呼び掛ける。
「静香!起きて!」
震える老人の手、そっと綿を口元から外す。
「静香……お願いだ、眼を開けておくれ!」
懇願する様に、搾り出した老人の言葉、その眼からは涙がとめどなく流れている。そして……
「お……い……し……い……」
小さな、本当に小さな蚊の鳴く様な声が聞こえて来た。
老人は喜びに打ち震え、シュラインもまた涙を流し、弧月と草間は互いに手を打ち鳴らす。
そう、うっすらと少女、高浜 静香の眼が開かれていた。
「静香!静香ぁぁぁ!!」
少女のベットに縋りつき、老人は泣いた。誰はばかる事無く……
「お……じい……さま……?」
弱々しい声が、老人を心配して掛けられているその部屋を、草間とシュライン・弧月は静かに後にした。
「ゴンスケー!治りましたよ!女の子は、眼を覚ましましたよ!」
院内の中庭に有る木陰で、寝ていたゴンスケに不意に声が掛けられた。その声に、耳をピンと張り、ゴンスケはガバッと起き上がる。
「ワン!ワンワン!ワンワンワンワン!!」
『本当だワン!?良かったんだワン!!女の子起きたんだワン!!』
はしゃいで駆け出し、弧月の周りをぐるぐる回るゴンスケを見ながら、シュラインと草間が近付いてくる。
「これが、ゴンスケ君?初めまして、貴方にも感謝ね。どう?これから美味しい物でも食べに行かない?」
ゴンスケは、シュラインに向かって吼える。
「ワンワウゥ〜ン!」
『行くんだワン!!嬉しいんだワン!!』
その声に、弧月・シュライン・草間の三人は笑い合う。
喜びが満ちる昼下がり、暖かな日差しが春の訪れを告げていた……
第一話−朝露− 了
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
1582 / 柚品 弧月 / 男 / 22歳 / 大学生
0086 / シュライン・エマ / 女 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
2705 / 柴犬 ゴンスケ / 雄 / 305歳 / 旅柴犬
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■ ライター通信 ■
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どうも、遅くなりまして申し訳ありません。凪 蒼真です。
まずは第一話、朝露をお送りいたしました。
さて、この結果が如何なる様に二話へと転じて行くのか、次回OPをお待ち下さいませ。
現在凪は、北欧神話に凝っております。いや、決してロードオブザリングの影響では無いですよ?
基本的に神話等は大好きでして、今後もそういった説話を題材にしたものが出て来るかも知れません。伝えられ、消える事無く在り続ける神々の話、楽しいですね♪
色んなサイトも有る昨今、ちょっと息抜きに調べてみては如何でしょうか?(微笑)
それでは、また−第二話 黄昏−にてお会いしましょう。
今回は有り難う御座いました。(深礼)
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