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春告草
風が過ぎる。
さらりと手の甲を撫で、抜けゆくそれに、ふと名を呼ばれたような心地がして、丘星斗子は振り返った。
無論、何も無い。
ただ己が歩いてきた道が、遠く、角で遮られるまで続いているのが見えるだけで、人の姿も無い通りは妙にからりと乾いているようでもある。近くの小学校の児童が登下校に使う道だが、時刻は正午を過ぎたばかりで、居たとして、昼食に出る会社員ぐらいのものだろうか。この時間、此処に誰か在る方が珍しいのである。――否、人の姿が在ることが。
不意に傍の塀の上を、そろそろと此方へ渡り来る猫を目にして、斗子は思い直す。
三毛猫は斗子の視線に気付くと、つと歩みを止め丸い茶色の瞳で以て斗子をじっと覗き込み、斗子も目を逸らさざるべきかと応えて見詰め合う形。それもほんの数秒、猫は興味を失くしたとみえて、すっと頭を戻すと一呼吸あって塀の向こうへタンッと飛び降りた。
僅かな間の猫との交流だが、お散歩の邪魔をしてしまったかしらと、斗子は些か申し訳なく思って、猫の消えた塀のざらりとした表面を、そっと叩いて、ごめんなさいねと心の裡に小さく詫びた。
そして自身も目的を思い出し、向き直って歩き出す。
本日の講義は午前と午後に一つずつ。昼を挟むので弁当を持って出たが、午前の講義を終え休講掲示板を確認してみれば、午後は休講とある。しかし斗子は折角作った弁当が無駄になったとは思わずに、早々に大学を出ると、真直ぐに家には戻らず、夕飯の買い物がてらこうして帰路を少し違えて歩いている次第である。
風は然程強くは無いが、そっと素肌に触れる冷たさが、その存在を誇示している。吹く度に、ああ風があるのかと気付かせるのだ。
長き黒のスカートの端をはためかせ、心地好い風を肌で感じながら、偶にだが訪れる道筋を、ゆっくりと往く。雲の無い空は一面蒼く、陽射しは優しげに降り注いで、斗子は自然目許を和らげた。
と、暫く陽の光が落ちる上を歩いてゆくと、唐突に見知らぬ風景に出会って、斗子は立ち止まった。再び振り向くが、続く塀もその向こうから覗く家屋の屋根も記憶に無く、やはり見覚えの無い道である。
(道を間違ったかしら……?)
猫に出会った場所の先、五つ目の角を左に曲がる筈。それを斗子は何故か直進して来てしまったのだ。初めて来る道ではない。特に考え事を巡らせていた訳でもあるまいに。
仕方無く、斗子はひとつ溜息を落とすと、来た道を引き返そうとして――止めた。
左手に、小さな空き地を見つけたのである。
裏通りの外れ、古い住宅の傍らに、その場所は在った。雑草が繁る中、奥に立木が数本並んで、ぽっかりと空いた空き地の中央は土が剥き出しになっている。有刺鉄線が敷地の区切りに張られているが、入口は大きく取られていて、そしてその地面にタイヤの跡が無数に刻まれているところを見ると、普段は駐車場代わりにでも使われているのかもしれない。
斗子は何気なくそうして空き地を見渡して、右の奥まった所に、頼り無く立つ一本の木に視線が留まる。今の時間は中天に太陽が在るが、隣家が逼った場所の隅。陽の当たりは悪そうである。
空き地へ入る。
風が行き交うところなのか、黒髪を遊ばせる風は冷たく、少しばかり強い。切り揃えられた漆黒は、さらさらと斗子の纏うコートの上を滑りゆく。
奥まで進めば、やはり其処だけ塀も、足下で踏み締めた草も湿り気を帯びて、つんと微かに強い水の香。斗子は空き地へ入る切っ掛けとなった木を前にして、僅かに乱れた髪を、首を傾いで耳に掛け直した。澄み切った黒の瞳が自分より低い位置の枝を見遣って伏せられる。宵を思わせる瞳の色は、穏やかな眠りを抱く夜の予感である。
そっと差し出した指で、枝先の膨らみに触れた。
小さく丸く、薄紅に守られた白。
連なる枝と、幹は黒褐色の樹皮を持つ。
梅だ。
斗子は綻び掛けた蕾を優しく一撫ですると、感触を確かめるように其の儘幹へ向かって枝に指を這わせ、辿った。
節が皮膚に掛かり、僅かな痛みを齎す。細い枝はその都度ゆら、と撓った。
指は幹に到達して、ごつごつとした触り心地が強く。伝わる温度もひやりと底冷えするように、深く潔い。
と。
――よかったな。
「!」
突然聞こえた声に、思わず斗子は木から手を離す。
驚きに速くなる鼓動を呼吸の繰り返しで以て落ち着けて、辺りを見回し、人の姿が無いことを確かめた。耳を澄ますが先程と変わらぬ生活音、近くの家から漏れ聞こえた声とも思えない。……それほどに声は明瞭と届いたのである。
つまりは。
「……あなたね?」
呟きを、柔らかに呼気に乗せた。
問い掛けの言葉は、梅の木へ向けられたものだ。
斗子は、物に宿る、人の残留思念を声と云う形で聞くことが出来る。対象を想う人々の真実の念は強く刻まれて、それに触れた斗子に囁き伝えるのだ。
(私には、ただ聞くことしか出来ないけれど)
小さく苦笑して、斗子は一度離してしまった手を、今度は指先だけでなく、掌全体で包み込むようにして、幹に触れた。
心做しか、樹木はほんのりと熱を持ったようであった。
――よかったなあ。
やがて聞こえてきた声は、男性のもののようだった。
聞き逃さぬよう、斗子は集中すると、伏せていた瞳を完全に閉じて、視界を遮断する。声は大きくも小さくもなく、まるで斗子を気遣うかのように優しい声音が、意識に響き渡った。
――伐り倒さないって、約束してもらえたよ。
――土地を手放すことになった時は、お前をどうしようかと思ったものだが。
――俺の新しい家には、お前を植えてやれる庭がないもんでなあ。
次々に浮かんでは消えゆく声は、どれもこの木を心底慈しむものである。内容からして、嘗てこの空き地を所有していた人物のものだろうか。
――これからも、咲けるんだぞ。
――よかったなあ。
最後に強くそう聞いて、続く声が無いと知ると、斗子は木からゆるりと離れた。そしてついと視線を上げ、陽射しを遮る両の建物を見上げた。片方は古い。しかしもう一方、ちょうど光をこの場所へ運んでくるであろう方向に、新しい住宅が建てられている。
きっと以前は、燦々と陽光がこの場所にも降っていたのだろう。
そして本来なら、この梅の木は既に咲いていたのかもしれない。
やっと蕾を付けたばかりで、枝にぽつりぽつりと白が見て取れるだけの木を、斗子は改めて見遣った。重ねて想うのは、あの梅の木を労わる男の声。伐られずには済んだ。済んだがしかし、今のこの木を見て、男はきっと悲しむに違いない。
けれど。
(それでも、花は咲くのね)
蕾のひとつ、一番大きく膨らんだそれの、白の花弁の先に微かな隙間を見付ける。斗子は形の良い真赭の唇からふっと吐息を漏らすと、木の全体をもう一度だけ眺めてから、踵を返した。
馥郁たるその香りが放たれるのも、あと僅か。
やがて、花開く。
<了>
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