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<東京怪談・PCゲームノベル>


春、音楽都市からのエスケープ ─港の見える公園へ─

【1】

 楽器の裏板の接続部を軽く指の関節で叩いて不具合の無い事を確かめてから、慎重に膝の上に固定してストリングを張って行く。
 この楽器の持ち主が元々張っていたストリングはガット弦だった。が、彼女が今現在、ケースから出して来たのはナイロン弦の方である。
 ナイロン弦の中ではハイクラスのブランドだが、ガット弦よりは廉価だ。だが、それを選んだのは値段の問題では無い。
 ヴァイオリンの調整に於て何よりも重要なのは、相性の問題だ。ニス、魂柱、駒、テールピースにペグにエンドピンのセット、顎当て、ストリング、ボウに使用する松脂、それに大きな意味ではネックやボウ。数多いヴァイオリンの部品にはそれぞれ、ピンからキリまで様々な材料と加工のレベルの幅がある。全て最上級の物を使用すれば、それだけでそこそこの楽器が一艇購入出来る程の値段になる。
 だが、全て最上級の物を使えば良いという訳では無い。バイヤーならばともかく、職人が最も神経を使うのはその楽器の個性を最大限に生かせる部品を見極める事だ。
 持ち主のヴァイオリン奏者は彼女の友人でもあるが、楽器を預かった以上はシビアな目で、仕事として調整を行う。
 フランス産の、特に生産性を重視したファクトリーメイドのヴァイオリンは彼女の目から見て決して誉められた造りでは無い。だが、この楽器は彼がフルサイズの楽器を使用し始めてから10年以上も弾き込んで来た大切な楽器だと云う。ヴァイオリニストにとって、愛器は親友でもあり最も信頼すべき相棒だ。
 彼女が能力を使用すれば、この楽器をマイスターメイドのオールド楽器同然に変身させる事も可能だった。だが、それは許される事では無い。あくまで、その作りの粗悪さも欠点も含めて一つの楽器の個性だ。──人間と同じように。
 だからそこには手を加えない。が、職人としての見地から部品を変更する事で改良される点には全て手を尽くしてみた。
 そしてストリングだ。彼は「そんなに良い楽器じゃ無いから、せめて弦くらい良いヤツ張ろうかなって」と極まり悪そうに云っていたが、彼女は、無駄に値が張るだけのストリングよりはこのヴァイオリン特有の低周波数の鳴りの悪さを改善する為にはこのナイロン弦がベストだと判断した。
 今回楽器を預かった経緯は、摩耗した糸倉のペグ穴埋めを依頼された事が切っ掛けだったが、この際だから全体に調整して貰えないかと頼まれ、彼女は快く了承した。

──硝月さんだと、何か安心して預けられるよな。全部任せるから、好きに弄ってくれよ。

 そう、屈託無い笑顔で笑った彼に彼女は何故、祖父よりも私に任せて貰えるんですか、と訊ねた。

 楽器に愛情を持って接してる感じがするんだ、と彼は真面目に答えた。

 ──駒の位置を慎重に調整しながらペグを巻き上げて行く。最後に軽く弦を弾いて音程を合わせて、調整は終了した。
 が、未だだ。師匠、──祖父に見せる前に、実際に自分で試奏してテストしなければならない。
 硝月・倉菜(しょうつき・くらな)は肩当てを付けたヴァイオリンを肩に挟んで、ボウを取り上げた。

 一先ず問題は無いが、どうだろう、もっと良いバランスがあるのでは無いだろうか。魂柱をもう少し低弦寄りにしてみようか?
 実際に曲を弾いてみよう、それも難しいものでは無くて、各音域の美しさが最大限に引き出された旋律の繊細な曲を。
 何にしようか、と考えて、倉菜はカンツォーネを弾き始めた。チャイコフスキー、ロシアのロマン派作曲家の名曲を少し弾き始めた所で、彼女は初めて彼の視線に気付いた。
 
「磔也君」

「──、」
 彼は、──結城・磔也は手近な椅子に後ろ向けに腰掛け、背持たれに腕を乗せて黙ったまま続けろ、というように笑った。
「良いの、後でも。──いつ来たの?」
「ちょっと前に」
 ──良いか悪いかは別にして、述べ2カ月程の期間をここで居候していた磔也は既に倉菜の祖父や工房の人間にも顔パスで入って来るらしい。……顔パス、というよりは放置されていると云うべきか。祖父にしてみれば、倉菜も結局彼女の母と同じような恋人を連れて来た程度にしか思っていないのだろう。一度、音質のチェックをしている最中に喧しいピアノを弾いていた時には一喝したが、その時には素直に黙ったから後は何も云わない。
 ヴァイオリンを仕舞おうとした倉菜に、更に「続けろよ」と彼にしては大分穏やかな調子で声が掛かった。
「珈琲でも入れるわ、」
「聴きたいんだ」
 視線を真っ直ぐに合わせて促されては、倉菜は照れが先行して顔を俯けてしまう。
「下手よ、」
「良いから」

──窓際で、真剣に楽器の音に耳を済ませている彼女の姿が、その銀髪に降り注ぐ外からの陽光を受けてとてもきれいだと思った。

 その情景だけ、時間の流れが穏やかに見えた。

 もう少し、その時間の中に身を委ねていたかった。

【2】

「──ごめんなさい、結局、凄く待たせちゃって、」
 彼の好みに合わせて大分濃く抽出した珈琲のカップを差し出しながら、倉菜はあの後結局1時間近くも磔也を放置してしまった事を侘びた。同じ部屋に居て忘れてしまう事は無い相手だったが、構わないと云うから最後の微調整を繰り返している内、満足が行った頃にはそれだけの時間が掛かってしまった。
「お前のヴァイオリンが聴けたから良い。相殺してやる」
 どこか楽しそうな笑みを浮かべながらカップを取り上げた磔也は、相変わらず云う事云う事偉そうだ。──それに気付かない倉菜も倉菜で、結局甘いのだろうが。
 彼女が今考えた事と云えば、珈琲の事だ。
 磔也は絶対に珈琲をブラックで飲む。──胃に悪い、と彼女はいつも思う、せめてミルク位入れたほうが体には優しいのに。或いは濃さをアメリカン程度に薄くするか。だが、そうは思いつつもなまじ、彼の好みを知ってしまい、更に「お前の入れた珈琲が好きだ」と云われてしまうと、駄目だとは思いつつもそれを黙認してしまう。
 ──少し、煙草の匂いがする、と思う。が、一応倉菜の前では吸わないし、それは服に移った太巻の煙草の匂いかも知れない。大人しく禁煙しているとも思えなかったが、煙草に比べれば未だ良い、と自らに云い訳をして倉菜は黙っている事にした。──結局、そうして譲歩した濃い珈琲、……彼女が入れた珈琲を、「美味い」と云ってくれる事が嬉しいのだ、と思う。
「チャイコフスキー、好き?」
「好きだ」
「……、そう」
 何? と磔也は、意外そうな視線を向けている倉菜に目で訊き返した。
「うーん、ちょっと意外かも、って。磔也君、実はロマン派辺り、好きなの?」
「つーか、ハンスリックに叩かれた奴が好き」
 磔也は平然とした笑顔で捻くれた事を嘯く。今では美しい旋律の代名詞のようなチャイコフスキーのヴァイオリン曲も、当時の大批評家、ハンスリックには「悪臭を放つ音楽」と貶されたそうだ。彼の批評家が他に散々な批評を下した作曲家にはベートーヴェンを始め、ベルリオーズやリストなどが居る。
「……結局、リスト(不協和音が当たり前になってから)以降なのね」
「感性の革命大いに結構だ」
 ふふん、と気分良さそうに笑って磔也は再び、珈琲に口を付けた。
「メンデルスゾーンはもう良いの?」
「好きっつったらお前がメンコン弾いてくれる?」
「無茶云うのね」
「2楽章だけでも良いよ。伴奏付けてやるから」
「……うーん、」
 考えるわ、と答えながら既に、倉菜は今日から譜読みしてみようと思っていた。甘いとは思う。が、無邪気な我儘だから構わないだろう、と自らに云い聞かせて。
「お前、楽器触ってると凄い真剣な目になるよな」
「……修行だもの」
「自分じゃ気付いて無いだろう? そういう時のお前の目、ちょっと色合いが変わるんだよ」
「……そう?」
 どんな風に? と倉菜は、自分の珈琲カップには適量のミルクと砂糖を掻き混ぜながら磔也の目を覗き込んだ。
 磔也の目は漆黒に近い。その目に映った自分の姿から、彼が見ている物が見えないだろうか、と思ってみたりもする。
「──海、」
「海?」
「夜が明ける前の、一瞬だけやけに明るくなるような感じ? ……イメージとして」
 イメージ、俺はそんなに海を見た事が無いから、と磔也が笑う。──笑ったが、少し寂しそうな本音も倉菜には感じられた。
 少年期には虚弱体質で、花や雪に触る事が出来なかったという彼、──倉菜は遺伝だが、磔也も大分色が白い。色素異常の気があるのかも知れなかった。恐らく紫外線にも弱いのだろう。海など、確かにあまり見る機会が無かったのは倉菜にも頷けた。
「……そう、」
 倉菜が軽く首を傾いだ所で、確信犯めいた微笑を浮かべながら彼が口唇を開いた。
「きれいだよ」
「……、」
 急に、何を? ──と、倉菜は思わずカップを咄嗟に置いて甲高い音を立ててしまい、──普段なら音には過敏な程の彼女がそれに気付く余裕さえ無く頬を赤らめて呆然と肩を強張らせた。
「嫌いじゃない、そういう時のお前は」
「……、」
「久し振りに見たな」
「──え?」
「初めて会った時は、ずっとそんな目をしてた。──ほら、巣鴨で」
 ……ああ、と倉菜は大分平静を取り戻し、気を落ち着けようと、そのついでに乾いた喉を潤そうと一口、珈琲を啜ってから頷いた。
「だって、あの時は楽器の調整のアルバイトに、修行を兼ねて行ってたんだもの」
「何つー取っ付きの悪そうな女だと思った。きれいな女が澄ましてると思ったら無性に、プライドをズタズタに引き裂いてやりたくなった」
「そんな事考えてたの?」
「考えてたよ」
「……、」
 倉菜が黙った所で、磔也は、でも、と何か含む所のある笑みを浮かべた。
「失敗したな」
「……何が?」
「お嬢さんのプライドを崩してやる前に、俺が負けたらしい」
「……、」
 彼は、たまに意味の読めない事を云う。倉菜が瞬きを繰り返している内に、磔也が何度も云わせるなよ、と軽い笑い声を上げた。
 その言葉で、何を云わんとしているかに思い当たった倉菜の頬が再び、熱っぽく火照ってしまう。
「……本当、計算が狂った。俺、今までは女なんかどうでも良かったんだぜ。人の好い女が居たら居たで、適当に利用してやるつもりだったのに、駄目だった。──お前、本当に反則だらけだよ、俺には」
 倉菜は席を立って、窓を開けた。──本当に、駄目だ。顔が熱くて仕方ない。
「──……、」
 同時に吹き込んで来た春先の暖かい、瑞々しさを内包した風が彼女の頬を撫で、その心地良さに倉菜はほっと息を吐いた。──ああ、何て素敵な季節かしら、と思いながら、陶然と目蓋を閉じて柔らかい銀髪が靡くのに任せる。

──花の匂い、

 外の景色を見渡した限りでは、花の咲いている姿は見えない。だが、この春風はきっと、ここへ到達するまでに幾度と無く花開き出した木々の枝を通り抜け、その残り香を運んで来たのだろう、と思う。
 
──梅はもう咲いてるわよね、……植物園の温室には薔薇、

 日本へ来てから初めて感じた、満開の梅の花酔いしそうな程甘い香りを思い出してみた。……また観たいな……。

「……、」
 ──が、折角顔の火照りを治めたばかりの倉菜は直後、再三鼓動を速くせざるを得なくなった。──いつの間にか後ろに立っていた磔也が、風に煽られた倉菜の銀髪を撫でるように梳きながらその乱れを直していたのだ。
「……磔也君?」
 狼狽えさせようと悪戯を企んで、彼女の反応を楽しんでいる事は明白な癖に、彼は殊更何気ない口調でそれに応えた。
「髪、伸びたよな」
「……そう?」
 ああ、髪の事ね、と倉菜は自ら髪を耳に掛けて落ち着く時間を自分に与え、振り返って磔也を見詰め返す事が出来た。
「最初に見た時は、確かこれ位だった」
 磔也は自らの肩辺りに手を翳して、頷く。
「結構、良く覚えてるのね」
「まあな」
「……変、かしら」
 似合わない? とまた少し緊張を振り返して倉菜は怖ず怖ずと訊ねてみた。──もし、短い方が好きだ、切れ、と云われたら従ってしまいそうな気持さえ頭の片隅で自覚しつつ。
「いや?」
 然し磔也はそうは云わなかった。その代わり、肩越しに両腕を伸ばして倉菜の髪を掬い上げ、頭の後ろに軽く固定して確かめるように首を引いて眺めた。
「上げても似合うんじゃないか。──あ」
 突然、真顔に戻って磔也が声を上げたので、倉菜は「何?」と目を瞬いた。同時に彼が手を離したので、倉菜の髪もふわりと肩に広がって零れ落ちた。
「そう云えばさ、──借りがあったよな、お前に」
「え?」
 ──借り、……何の事だろう?
「忘れてるだろう」
 倉菜は記憶を辿る。──借り。
 ? 疑問符が脳裏を飛び交った。
 心当たりが無い……、と、云うよりは在り過ぎて何の事か分からなかった。
 バレンタインのプレゼントだからと拒絶出来ない理由のくっ付いたケーキを食べさせた事か、あるいはその他にも彼が呆然自失の間、食事にこっそりと嫌いな物まで混ぜていた事か(栄養バランスを考えれば仕方なかったのである……)、──ええと、それとも耳の事? ……でも、それは「嬉しかった」と云ってくれたし……。
 倉菜は普段、磔也が良く彼の(倉菜からはそう見える)男友達に対して「借りを返す」だの何だのと喚いている場面を見ているもので、自然と何か、怨恨の事のような気がしていた。
 が、苦笑して「矢っ張りな、」と呟いた磔也の表情は意外にも穏やかだった。
「ピアノだよ」
「ピアノ?」
「お前と初めて合った時さ、俺が音程を歪めた調律を頼んだだろう。あの時お前、はっきり『貸す』って云ったんだぜ。覚えて無いのかよ」
「──あ」
 ようやく、倉菜はその時の事を思い出して頷いた。
 巣鴨のホールに、それとは知らず修行の為と称してアルバイトに行った時の事だ。まさか、それがあんな事件に繋がるとは予想もしなかったし、初対面の時には何て性格も柄も悪そうな(実際に口も悪ければ行動も大分乱暴だった)人だろうと思った磔也とこうして向かい合って話す事になるとは思ってもみなかった。それだけに、そんな中での些細な出来事などすっかり忘れてしまっていた。
 何を企んでいるのか、倉菜の反応を見てニヤニヤと含み笑いを浮かべている磔也に視線を戻した倉菜は苦笑いを返した。
「……そうだったわね。すっかり忘れてた」
 態とらしい溜息を吐きながら、磔也が「寂しいな」などと嘯く。
「未だ返して無いだろう。──……どうやって返そうか」
「気にしないで良いわ。……寧ろ、私の方こそあの後で酷い事を云った。……ごめんなさい」
 ──今度は、磔也が「は?」と疑問符を浮かべる番だった。
「何を?」
「……『最低』って。……つい。本心じゃ無かったの、でも……、未だ謝ってなかった」
「忘れてた。……つーか云ったか? そんな事」
「云った……、」
 倉菜はやや緊張して上目遣いに彼を見ながら、肩を竦めた。──一瞬を置いて後、磔也がああ、と声を上げた。
「分かったよ、──聴こえてなかったんだ」
「じゃあ余計に悪いわ、でも、私そんな事云ってしまったの」
「構うな。悪口なんてのは相手に聴こえなきゃ何云ったって良いんだよ」
 あながち冗談でも無さそうに、平然とした顔で磔也が述べたとんでもない真理を、倉菜は呆気に取られて聞いていた。
「……本気?」
「当然」
「……、優しいんだ、磔也君」
「──は?」
 相手に聞こえなければ、──つまり、相手を傷付けなければ良い、って事ね。……矢っ張り、優しい。
 ──と、倉菜は本気で感慨さえ覚えていた。第三者どころか、当の磔也までが呆れたように生暖かい視線を空中にうろうろと彷徨わせている。自分でも理解している汚点を、あまりに純粋に勘違いされると悪党はやる気を無くすものだ。
「──お前、本当お嬢さんなのな、」
 そして、窓の外の陽光に少し眩しそうに目を細めながら春風を浴びた前髪を掻き上げる。そんな彼の一連の動作を見詰めていた倉菜はふと、ある考えに思い当たって笑顔を浮かべた。

──でも、折角だし……。

「もし、何でも良いって云うんだったら私、一つだけお願いがあるんだけど」
「──……、」
 彼女へ視線を落とした磔也が目を細めたまま芝居掛かった口調で問う。
「お望みは、お嬢さん?」
「──……私ね、──」

【3】

 待ち合わせの東京駅へ向かう倉菜の足取りは軽快だ。それに従う、ヒールの低い靴の音は高く通りに響く。今日は大分歩くかも知れない。だから服装も動き易いパンツルックにした。──それでも恋人との外出なので、然りげ無いディティールには少女らしい可愛いさを持った物を選びつつ。
 ──いけない、とついつい、軽い足取りが駆け足に変わった所で倉菜は肩に下げた白いトートバッグを確りと腕に抱え込んだ。

──中身がぐちゃぐちゃになってしまったら、とてもじゃ無いけど磔也君には食べさせられないわ。

 ──磔也君と外に遊びに行きたいの、と倉菜は彼の云う所の「借りの返礼」に提案した。
「……欲の無い奴」
 彼の返答は、つまりは了承と取れた。呆れたように「どこが良い?」と。
「動物園」
 きっかり3秒の間、全ての動きを停止させた磔也の反応には元々駄目だろうな、と予測していたので構わなかった。「動物も嫌いだし動物園も嫌い」なタイプの人間だ、アレルギー云々を別にして。
 冗談よ、と倉菜は苦笑した。
「どこでも良いの。空と、緑のある所なら。磔也君、海は見たくない? ……横浜、とかは」
「……」
 東京の外、という事で未だに快諾出来ない蟠りがあったようだが、暫し逡巡していた磔也も、上目遣いにじっ、と自分を見詰めている倉菜を見ては仕方なく首を縦に振った。
「……分かったよ」
 要は、その気になれば出られるという事だ。未だ東京コンセルヴァトワールでの認識を引き擦っていた彼も、大事なお嬢さん、基い恋人の願い事でようやく自分から一つはトラウマを克服する気になったらしい。
「嬉しい、」
 お弁当作るわね、と無邪気にはしゃぐ倉菜を前に、彼の苦笑いが「完敗だ」と云っていた。

「──また煙草吸ってる」
「……、」
 待ち合わせの時間までには未だ間があった。が、軽快な気分に合わせて早めに到着した倉菜よりも先に来ていた──時間には几帳面な性格からか、彼の大事な『お嬢さん』を待たせてはいけないと思うからか──磔也は然し、咥え煙草で気懈そうに壁に凭れていた。
 あれほど注意したのに、と倉菜は軽く眉を吊り上げた。この人混みの中でも、私服の所為か彼の喫煙態度はあまりにも堂々とし過ぎていた。
 ──尤も、注意を向けながらも、どうしてか口許には笑みを浮かべてしまう理由が倉菜本人にも分からなかった。
「──煩ェな、放っとけよ」
 ここで、倉菜は言葉よりも物云う視線でじーっ、と彼の顔を見詰めた。
「……分かった、捨てるって、お前の前では吸わ無ェよ。──たださ、落ち着かないんだ、こういう、人間の多い場所」
 吸い殻を灰皿に投げ入れながら、最後の一言をやや低声で呟いた磔也に倉菜は目を瞬いた。
「……そう、人の多い所、苦手なのね」
「余計な音が多過ぎるんだ。──お前も、そうじゃないのか?」
「……分かるわ、──、」
 でも、と倉菜は先日からの穏やかな陽光に良く似合う、明るい笑顔を浮かべた。安心させるように、と。
「……でも、大丈夫よ。──私が居る」
 教えてあげる、……全ての音とは友達になれるの。
「──お早う、」
 言葉に詰った彼に気分を切り替えて貰おうと、倉菜は本来ならば最初に口にする筈だった挨拶を述べた。
 それに対して返って来たのが、無愛想な低い相槌だけでも良い。

【4】

 人目が気恥ずかしいのだろうが、車内では磔也は腕を組んでドアに凭れたまま、黙って窓の外を眺めている切りで倉菜が話し掛けてもああ、だのそう、だのと素っ気無い相槌を打つしかしない。倉菜も時間を持て余してしまい、窓に目を向けて磔也の視線の先を追ってみたりとするのが精々である。
 ──ふと、自らの指先に目が止まった。
 今日は、普段には無い事をしている。爪を、マニキュアで淡いパールピンクに染めているのだ。彼女の爪はきれいな形に整っているが、それでも楽器を扱う為、短く切らなければならない所為でマニキュアなどを施すのは似合わない気がして来る。
 倉菜は咄嗟にハンカチを取り出し、口許を押さえていた。
 ちら、とそんな彼女の動作を磔也が横目で一瞥した。
「……気分悪いのか」
「ううん、違うの。大丈夫」
 顔色が悪かった訳では無いから、磔也もそれ以上は追求せずにまた視線を窓の外へやった。
「……、」
 口許から離し、そっと確認したハンカチにも薄くピンク色の色素が付着していた。口紅だ。
 案外、男の子はそうした変化に鈍感だと云う事の証明かも知れない。磔也は気付いていなかっただろうが、倉菜は今日、──あくまで口紅とマニキュアだけだったが、普段はしない化粧を軽く施して来たのだ。
 だが、今になってそんな事しなければ良かった、と思う。

──矢っ張り私には似合わないわ、……太巻さんは、奥様も女性らしくてきれいな人だし、色々恋人も居るみたいだから、……ついでだったんだわ。

 倉菜はあまり、自分の容姿に執着していない。服装は好みもあるし、きちんとしていたいからそれなりに気を使う。が、彼女は自分できれいな顔をしている自覚が無いので、化粧品など持った事も無かった。
 それを彼女に寄越したのは、他でも無い、磔也が飼主か父親かのように(表面上は過激な闘争を繰り広げつつ)懐いている──倉菜から見れば何やら怪し気な──情報屋、太巻・大介である。彼は、倉菜の父と面識があるらしい。倉菜も太巻の構えた喫茶店へ何度か顔を見せたり、彼から仕事を請け合ったりして一応の顔見知りではあった。
 磔也本人が不在だった時だが、喫茶店で会った倉菜に太巻が何の気も無しに「やるよ」と投げて寄越したのがその口紅とマニキュアだった。
 え、と戸惑う彼女に太巻は大きな笑顔を見せ、「アンタ、アレに口説かれて落ちたんだろう? 身嗜みは覚えとかなきゃな」と意味深長な事を云って片目を閉じて見せた。
 当初はどうしたものかと悩んで磔也にも何も云わなかったが、折角だから今日、付けてみようと思ったのだ。マニキュアは昨夜の修行を終えた時点で塗ってみて、その時は、何か自分が恋人を持った女の子らしい事をしているようで無意識に心が浮き浮きとしていた。きれいな色だと思って、今朝になって同じ色の口紅も、──このくらい控え目なら大丈夫よね、と自らに云い聞かせながら付けてみた。 
 だが、実際に彼を前にして見ると途端に、自分が全く相応しく無い事をしているようで厭になってしまうのは何故だろう。──そう思うと、直ぐにでも落としたくなった。口紅は軽く押さえて取れたが、爪はどうにもならない。……何か発覚するのが憂鬱で、倉菜は然りげ無く、指先が磔也の目に付かないように後ろ手に組んでいた。──が、突然に。
「……?」
 その手を、無言のまま磔也が強い力で掴んだ。
「磔也君?」
 視線を向けた彼は、倉菜を見ていない。磔也の目は、相変わらず窓の外を見ているばかりだ。が、強張った肩や殆ど瞬きをしない目、──無言の内に、彼の内心の不安が不自然な程強い力の籠った指先から倉菜に伝わって来た。

──……あ、

 ──電車は、ほぼ県境へ差し掛かった所だった。
 以前の騒動の中で、磔也と彼の姉のレイには「東京を出てはならない」という強迫観念が刷り込まれていたという事を、倉菜は聞き知っていた。磔也は殆どの種明かしを知っていたらしいが、依存心の強い性質から、暗示に掛かり易いだろう事は予測が付いた。実を云えば今日、わざわざ横浜、と指定した事も、もしかしたらその暗示を未だ克服していないのでは無いか、と気掛かりだったからだ。
 可愛い恋人の頼みで克服する決心はしたようだが、実際に他府県を前にしてみると果たして不安が沸き上がったのだろう。
 その不安を前にして、(何となく本気で逃げようと思えば走行中の電車からの脱走さえ可能っぽい……)磔也が逃げる事無く、──そして、その際の頼りとして自分の手を取ってくれた事が嬉しかった。

──大丈夫。

 私、ここに居るから。
 倉菜はその手をそっと握り返した。但し、不安な精神状態の中でもその指先の存在を忘れ得ないような強い力で。
「……、」
 その事には、流石に今の彼も気付いたらしい。脈、皮膚を通した彼の鼓動が、僅かずつだが落ち着きを取り戻して行くのが克明に分かった。

──……ね? 暗示なんて何でも無い事よ。……一度、平気だって分かってしまえば、何も怖い事は無いでしょう?
 ……でも、それでもまた不安になったら、私があなたの手を取っていてあげる。

 電車は、目的の駅へ、──東京の外へと到着した。
 途端に素っ気無く、速い足取りで改札を通過しようとする磔也に倉菜は「待って、」と呼び掛けた。
「……何だよ、」
「ちょっとだけ待ってて。直ぐ戻るから」
 それと、これ、持ってて。
 倉菜は中から小さなポーチだけを取り出して手に持ち、トートバッグを磔也に預けた。そのまま急ぎ足で駅構内の化粧室へ駆け込み、鏡の前でポーチを開く。口紅のケースを開けた時に目に付いた、淡いピンク色の爪先が今はどことなく嬉しい。
 同じ色の口紅を丁寧に口唇に塗って、仕上げにグロスを被せる。

──……案外、効果があるのかも。

「お待たせ、」
 ちょっとした身嗜みで、一段と彼女の白い顔色が映えた笑顔で戻って来た倉菜の変化にも、相変わらず彼は気付いた様子が無い。ああ、と無愛想な返事を返したきり、バッグを押し付けるように返して踵を返した。──その手は、今度は倉菜の手を掴んで引いていた。
 それで良い。その程度の、何気無いおまじないのような物だ。

【5】

 海が好きだ、と云う。
 磔也の希望を優先して、海岸沿いの山下公園へ行ってみれば(デートスポットだけにカップルが多過ぎたのだ)人が多いのが嫌だと云うし、じゃあお昼は中華街にしましょう、と云えば油気の多い中華料理は嫌いだと云う。
 「借りの返礼」の筈が、結局譲歩するのは倉菜の方だ。

「──ねえ、磔也君大丈夫?」
 坂の上から、大分頼り無い足取りで後に続く彼へ倉菜は声を掛けた。
「……、」
 港の見える公園を目指すには坂道を上らなければならない。──瞬発力はともかく(と、倉菜は先日来身を以て知っていた)、あまり持久力は無さそうだと思っていたが、果たしてその通りだった。
「……、」
 膝に両手を付いて項垂れている彼には既にこれ以上登坂を歩く気力が無いらしい。倉菜は身軽な動作で引き返し、再度「大丈夫?」と眉を潜めてその顔を覗き込んだ。
「……お前、なんでそんなに元気なんだ」
「一応、運動部員だもの」
 ニューヨークに居た子供の頃から、護身の為にも(然し肝心な場面でああ思考が停止してしまっては有用なのかどうか……)嗜んでいる彼女の剣道の腕前は全国大会レベルだ。華奢な見た目に反してそこそこの体力もある。
「ねえ、もう少しよ。ほら、海が見えてる。──水面がきれい」
 倉菜はややはしゃぎ気味に、磔也の腕を引いて更に坂を登り出した。
「……いや、海とかもう良いから……、」
「駄目。──細い腕ね。磔也君、もうちょっと体力付けた方が良いと思うわ」
「病み上がりなんだぜ、俺」
「何カ月前の話? ピアノだったら弾くじゃない。演奏も結構体力が要ると思うけど?」
 ──ピアノは良くても私とのデートじゃ駄目なの?
「……、」
 喘ぎながら、磔也の顔色はそこまで悪い訳では無い。要は、気力が無いだけだ。そこは、倉菜としても自分に関係無くもう少し彼には養って欲しい所だった。
 ──歩けば良いんだろう、と投げ遣りな声で磔也は溜息を吐き、倉菜に引摺られるような感じで歩き出した。

「……、」
 散々、我儘な子供が駄々を捏ねるかのような磔也に手を焼きながら、倉菜はようやく港の見える公園に到着した。
 坂を登り切った途端、目の前に広がった光景には流石の彼も大きく息を吐いてから、──陽が眩しいのだろう、額に手を翳し、目を細めて前方を真直ぐに見ていた。
「……きれいね、」
「──……、」
 磔也は呆然と言葉を失っている。その視線の先を追おうと、傍らの彼の顔を見上げた倉菜は苦笑した。額には薄らと汗さえ滲んでいる。──全く、この程度の運動で。
 倉菜は暫し海に意識を奪われているだろう彼の側を離れて駆け出した。戻って来た時には、手に冷たいスポーツドリンクの缶を持っていた。それを、不意を付いて磔也の首筋にそっと押し付けた。
「──倉菜、」
「お疲れさま。──ほら、冷たいスポーツドリンク。水分補給して」
 明るい笑顔の倉菜からドリンクの缶を受け取った磔也は、溜息を付いて苦笑いを浮かべた。
「……お前、アクエリアスとか何つー健康的な物を俺に飲ませる気なんだよ」
「運動の後は水かスポーツドリンクが一番良いのよ。煙草で一服するのは感心しないわ」
「……、」
 ひょい、と片方の眉を持ち上げながら、爽快な音と軽い飛沫を跳ね上げてプルトップを空けた音があながち迷惑でも無かったらしい事を証明していた。
「──どう、気持良いでしょう?」
 スポーツドリンクに口を付けてから、肩を竦めた彼が「まあな」と応えた。──その間に大分、精神的にも肉体疲労度的にも余裕が出来たらしい。再び倉菜に視線を戻した時には、磔也は既に常からの余裕を取り戻していた。──やや、瞳に享楽的な光がある。
 冷や、と倉菜の頬に麻痺しそうな冷たさのアルミ缶が押し付けられた。
「──、」
「……こうやって、どんどん俺は改造されて行くのかな、お前に?」
「……だから、そんな積もりじゃ無くて……、」
 笑い声が上がった。──と思えば、次ぎの瞬間には何だか計算されたように甘ったるい声が耳許でこう囁いて、直ぐに離れて行った。
「分かってるよ」
「……、」
 登り坂くらい、倉菜には大した運動では無かった筈なのに。……今になって、何故か心臓がドクドクと速く、高く打ち始めた。

──落ち着いて、……落ち着いて。

 胸に手を当てて心の中で呟きながら、顔の火照りを見せたくなくて倉菜は俯いた。未だ、彼が押し当ててくれているままの冷たいドリンク缶の感触が大分熱さを和らげてくれる気がした。

 もう少し落ち着いたら、お昼にしましょう、と提案してみよう。
 彼が好きだと云ってくれる、熱い珈琲も魔法瓶に入れて持って来ている。それに合わせて、2人分にしてはやや大きいディスポーザブルのランチボックスに作って詰めて来たのはサンドイッチだ。量がやたらと多くなってしまったのは、好き嫌いの多い彼の事を考えてバリエーションを作り過ぎた所為もある。──卵は克服してくれたようだから、ハムエッグサンドは大丈夫だろう。だが、それだけでは偏ってしまう。
 磔也の好き嫌いは、本当に多い。まともに聞いていれば、何も作れなくなってしまう。この際なので料理「研究」会所属者らしい性分を発揮して、アボガドや小海老といった変わり種も作ってみた。甘い物は嫌いだと云うが、折角だから、と春らしい苺のフルーツサンドも作った。

──好き嫌いがはっきり分かれば、この先色々な料理を作ってあげられるし……。

「磔也君、」

 倉菜は顔を上げた。

【6】

 倉菜がランチボックスを開けて差し出した時の反応は、大体、予測範囲内だった。
 何とか無難な物で済ませたそうな磔也に(無意識の)上目遣いで訴えた結果、どうしても駄目だと云う海老(ヴィジュアルが駄目だそうだ)以外は一通り、最低一口は食べさせる事に成功した。心無し、ようやく同年代の少年にしては大分少ない昼食を終えて珈琲を啜った時にはまるで命拾いしたかのような安堵の表情が浮かんでいたが。
「……美味しかった?」
 何故、彼に対しては自信のある筈の料理の評価さえ緊張しながらで無いと訊ねられないのだろう。甲斐々々しく後を片したり持参した紙コップに珈琲を注ぎ足してやったりとしながら、出来得る限り然りげ無さを装って訊ねてみた。
「──美味かったよ」
「……本当?」
 ただ、と未だ苦笑いしながら磔也は補足した。
「あんまり凝り過ぎて無いものの方が良いと思うぜ、……元々の腕が良いんだからさ」
 要は、あまり変わり種を試食させるなと云いたいのだろうが、相変わらず口が巧い。更に、そう云いながら手を軽く掴まれた事で倉菜は一気に動揺してしまい、思わず視線を反らしてしまった。

「この後はどうする? 磔也君、どこか行きたい所がある?」
「無い」
 何とまあ遣る気の無い返答だろう。仮にも恋人の質問なのだから、在り来りでも「映画でも見ようか」くらい云えば良いものを、彼の認識にはそうしたチョイスが無いらしい。
 最も、映画館のような音の籠る閉じられた空間は倉菜も苦手だ。そこでがっかりする事は無く、彼女は更に明るい調子で言葉を継いだ。
「でも、未だお昼だし帰るのは勿体ないわよね。──だったら、私の希望を云って良い?」
「……、」
 彼女を見詰め返した磔也の口唇には笑みが浮かんでいた。
「──Faites comme vous voulez, Mademoiselle.(あなたのお望みのままに、お嬢さん)」
「……外人墓地に行きたいの」
「はァ?」
 気障な台詞を云った後で、あっさりと彼は態度を崩して呆れた声を上げた。
「誰の墓があるんだよ」
「お墓参りじゃ無いわ、──庭園があって、きっと、花がきれいだと思うの」
 良いよ、と応えた声は心無しか優しかった気がする。今度は先に立ち上がった彼が、倉菜の腕を取って助け起こした。──別に、大丈夫なんだけど。……でも、たまには彼にこうして支えられた気分になるのも悪くない。

 ──少し曇って来たな、と磔也が呟いた。
「降るかも知れ無ェぞ。……まあ、夕方までは持つかな」

【xxx】

──別に、行き先なんかどこでも良かっただけなんだ、倉菜さえ居れば。

 きれいな物の側にいると、自分は間違っていないと思える。
 そう、云った奴がいる。
 何を仕様も無い事を云うんだろうと思ってた。
 ただ、今は少しその意味だけは感覚で理解出来る気がする。

 問題があるとすれば、何が俺にとって「きれいな物」かって事だ。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

【NPC / 結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】

【NPC / 太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】

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■         ライター通信          ■
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続くも良し、このまま帰るも良しです。
そこは御自由に。

勝手に住居スペースに上がり込んで良いものかとは思いましたが、要は彼、楽器職人の卵としての倉菜ちゃんの勉強を邪魔する気だけは無いという事らしいです。

デートのお誘い……基い、本形式のゲームノベルでは初めての御参加、有難うございました。

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