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VD&WD攻防戦2004
●早朝の侵入者〜先手:シュライン・エマ
今から1ヶ月ほど遡る2月14日早朝――草間興信所。いわゆるバレンタインデー当日。
静かに玄関の鍵を開け、影が1つ忍び込もうとしていた。が、別に泥棒だとか怪しい人物が忍び込んでいる訳ではない。影の正体は、この草間興信所の事務員であるシュライン・エマだったのだから。
シュラインは事務所の合鍵も持ってるし、鍵を開けて入ってくるのは何もおかしな行動ではない。ただ、何故今日に限って怪しい行動を取っているのか、ということだ。
(うん、ちゃんと部屋で眠ってるようね)
事務所内をぐるりと見回しシュラインが確認したのは、ここの主たる草間武彦の姿であった。草間の姿もなければ、草間零の姿もない。
部屋に戻るのが面倒になった草間が、ソファで毛布被って眠っていることも多々あるのだが、今日はそのようなことはなかった。もっともソファには畳まれた毛布が置かれ、草間の机の上には作業の後らしく書類が広げて置かれていたけれども。
(零ちゃんにやいやい言われたみたい)
状況からシュラインはそう推測した。草間も零には弱いようだから、言われれば従うのだろう。
「さて、と」
シュラインは軽く息を吸うと、部屋へ続く奥の階段へと向かった。こんな所でぐずぐずはしていられない。草間が目を覚ます前に、作戦を完了しなければならないのだから。そう、警戒態勢を取られる前にだ。
音を立てぬようゆっくりと階段を昇り、3階の部屋へと足を踏み入れるシュライン。勝手知ったる他人の家、とはこのことである。
(えーっと、洗面所、洗面所と)
一目散に洗面所へ向かうシュライン。しかし、洗面所で思いがけないことが起こった。零が起きていて、そこに居たのである。
手には洗濯籠を抱えている。どうやらこれから洗濯をしようとしていた所らしい。
(あー……そうだわ、洗濯機のある場所と洗面所は隣同士だったわ)
「あ、シュラインさん? おは……もがっ」
朝の挨拶をしようとした零の口を、シュラインの手が慌てて塞いだ。
「はい、おはよう、零ちゃん」
にっこり優しく話しかけるシュライン。でも手は離さない。
「零ちゃんはここで何も見なかった。武彦さんに何か聞かれても、零ちゃんは何も知らないの。いいわね?」
シュラインは念を押し、自らの唇の前で人指し指を1本立てた。こくこくと頷く零。
「はい、いい子いい子」
ようやく零の口に当てた手を離し、その手で頭を撫でてあげた。そして、シュラインは作戦を開始した。
約1時間後――草間起床。寝ぼけ眼で洗面所へ向かう。少しふらついている様子から、まだはっきり目覚めていないことは明白だった。その時シュラインは別の部屋に隠れ、こっそり草間の様子を窺っていた。
シュラインが後を追うと、洗面所から草間と零の会話が聞こえてきた。
「……うん、零? 歯磨き粉、残り少なくなってたから新しいのに変えてくれたんだな……」
「あ。そう……ですね、変わってます」
「気が効くな……。これならいつ嫁に出ても大丈夫だろ……」
(武彦さん、話が飛躍しすぎ)
そんなことを思いながら、シュラインが洗面所をこそっと覗き込んだ。ちょうど草間がチューブから歯ブラシに歯磨き粉を搾り出した所であった。
そして草間は歯ブラシを口の中へ突っ込んだ。直後――草間が激しく吹き出した。
「@*&%$#+¥!?」
事態が把握出来ないのか、日本語になっちゃいない草間の言葉。先程までの眠気はどこかへ吹き飛んでしまったようだ。
「ああっ、草間さん! 大丈夫ですかっ!」
心配顔の零が、すぐさま新しいタオルを草間に持っていった。
(今年も大成功)
慌てふためく草間の姿を見ながら、シュラインはほくそ笑んでいた。というのも、恐らく草間が吹き出す原因となった歯磨き粉のチューブを取り替えたのはシュラインであるからだ。それも、柔らかいホワイトチョコを詰めた物に。
毎年この時期恒例の行事というか、バトルというか。ともかくアイディアに詰まりながらも、今回のこの作戦を考え出したシュライン。よい固さにするのも難しかったが、その努力は報われたようだ。
だが当然ながら、草間もやられっぱなしで黙っているはずがない。1ヶ月後、ホワイトデーには草間の反撃が待っているのだった……。
●真昼のリベンジャー〜後手:草間武彦
そして現在、3月14日午後――草間興信所。いわゆるホワイトデー当日。
事務所に居るのは草間にシュライン、そして零の3人だけだった。草間は自分の机で、シュラインはソファの所で各々書類整理をしている最中。事務所内はペンの走る音と、書類が擦れる音が聞こえるだけで、しんと静まり返っていた。
「あの……今日は静かですね……」
やや困惑したように零が口を開いた。静けさに耐えられなくなったと言うよりは、事務所内に漂う妙な緊張感に耐えられなくなったと言うべきか。
それはそうだろう。シュラインにしてみれば、草間がいつ仕掛けてくるか分からないのだから。草間にしても、シュラインの隙を突こうと様子を窺っているに違いない。
ある意味この空気は、名人同士が戦う将棋やチェスの時の空気に通ずる物があるだろう。互いに相手の先の先を読もうとする高度な心理戦、あの独特の空気だ。
が、間に挟まれる零としてはたまったものじゃない訳で。
「……今日は静かですよね……」
再度つぶやく零。
「そうか? こんなもんだろ」
「こんなものでしょ」
けれども、草間もシュラインも素っ気無く答えるだけ。そこで会話が終わってしまい、またしんと静まり返る。
そんな張り詰めた緊張感が緩むのは、午後3時を迎えた時であった。
「……と、煙草がなくなった。ちょっと出てくる」
そう言って草間が事務所を出ていった。
「ふう……」
シュラインは大きく息を吐き出した。それと同時に、事務所内に漂っていた緊張感も一気に緩んだ。
「ねえ、零ちゃん。質問」
書類から顔を上げ、シュラインが零に尋ねた。
「はい?」
「武彦さん、何か変なことやってなかった? 例えば何か用意してたとか」
「いいえ。何も……」
「本当に?」
念を押すシュライン。零はこくんと頷いた。
(変ねえ。武彦さんのことだから、何か仕込んでると思ったんだけど。それとも、これからなのかしら)
ちょうどいいタイミングで草間が外へ出ていったのもおかしな話だ。ひょっとしたら、何か仕込んだ物を持って帰ってくるのかもしれない。油断は禁物である。
「そうだ。シュラインさん、おやつ食べますか?」
不意に思い出したように零が言った。
「おやつ?」
ぴくっとシュラインの眉が動いた。
「シュークリームですよ。昨日買ってきたんです」
「えーっとぉ……1つ確認。零ちゃんが買ったのよね」
「そうですよ」
「自分で買おうと思ったの?」
「はい。ふっくら美味しそうだったので」
「……封は空いてないわよね?」
「見てきますね」
そう言い、とことこと台所へ向かう零。少しして、答えが返ってくる。
「空いてませんー。シュラインさん、食べますか?」
「あ、うん。じゃあ、いただくわね」
零の問いかけに、シュラインが答えた。
(あー、疑心暗鬼になってる。でもまあ零ちゃんが自分で買ったんなら、大丈夫かな)
書類を揃えながら苦笑するシュライン。間もなく零が、珈琲とともにシュークリームを持ってきた。
「はい、おやつです」
「ありがと、零ちゃん」
シュラインはシュークリームを1個手に取ると、それを真っ二つに割ってみた。中身は普通のカスタードクリームだ。香りもごく一般的なカスタードクリームのそれである。
(普通のシュークリームよね)
確認を済ませ、シュラインは割ったシュークリームを口の中へ放り込んだ。刹那――テーブルに突っ伏すシュライン。
「……うあ……」
まさに絶句といった様子。驚いたのは零である。
「シュラインさんっ!?」
「零ちゃん……甘い……歯に染みるほど甘い……これ……」
シュラインが泣きそうな声で言った。
「え?」
それを聞いた零もすぐに、シュークリームの残っていた片割れを口にした。
「あ」
目を丸くする零。シュラインの勘違いではなく、明らかに甘いらしい。
「カスタードだけじゃないの……皮も甘いのよ……お砂糖の分量が尋常じゃない……」
ふるふると頭を振り、シュラインはがぶがぶと珈琲を飲んだ。
「変ですね。いつものパン屋さんで買ったのに」
首を傾げる零。いつも買う店で買ったのに、どうしてこんなに甘いのか。
「……零ちゃん。本当に零ちゃんが自分で選んで買ったのよ……ね?」
もう1度確認するシュライン。こくこくと零が頷く。
「そうですよ。昨日、草間さんがぽつりと『シュークリーム食べたくなった』と言ってましたし、ちょうどいいかなと思ったんです」
「ええっ!?」
それを聞き、びっくりするシュライン。この瞬間、全てが把握出来た。
「誘導発言……!」
シュラインが『やられたっ!』といった表情を浮かべ、天井を仰いだ。
恐らく草間は自分がそれとなくつぶやけば、零がシュークリームを買ってくると見越したのだろう。そして草間はパン屋とグルになり、特別製の極めて甘いシュークリームを用意させたに違いない。支払いの時、上手くすり替えて――。
「ハッピーホワイトデー」
いつの間にか帰ってきた草間が、玄関の扉から覗き込んでニヤリと笑っていた。してやったりといった表情である。
「く……悔しいーっ!!」
シュラインはテーブルをドンドンと激しく叩いた。
今年のバトルも1勝1敗。数字の上では引き分けだが、激しく負けたような気分なのは気のせいだったろうか……。
【了】
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