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Phantom Limb Pain
SCENE-[0] 君が呉れた物語の始まり
幻肢
という症状がある。
Phantom Limb、幽霊肢と言われることもある。
事故などで手脚を離切断した後もなお、そこに今までと変わらずそれが存在するかのように感じる症状のことである。
幻肢の原因としては、手脚を取り戻したい患者の願望がそのまま反映されているのだとも、切断された末端部の神経が伸びて神経腫が形成されるからだとも、脳神経内の再配置現象に起因するとも説明される。
ここに、すでに半年ほど、幻肢そして幻肢痛に心身を苛まれている少年がいる。
名を、八剱嶺(やつるぎ・たかね)。年齢、十五歳。
落石事故に巻き込まれ、利き腕である右腕を肩関節離断した。その結果、離断後ほどなく烈しい幻肢痛に襲われ、日常生活もままならず雲切病院への長期入院を余儀なくされた。
無い筈の右腕が痛い。痛くてたまらない。
指一本一本までまだそこにあるかのような感覚。
触れられぬ腕に走る電撃のような鋭い幻肢痛。
喪われた腕の記憶。鮮烈な痛み。二重の苦しみに耐えきれず、やがて嶺の体が出した答えは――――
パンッ
特別室に、軽やかに乾いた音が響いた。
「どう? 千駿先生。なかなか巧くなっただろ」
にやりと笑って、嶺は左頬にうっすらと朱を載せた雲切千駿の顔を見上げた。
「……逢うなり平手打ちか」
千駿は小さく溜息吐き、叩かれた頬をそのままに嶺の右腕を――――右腕があった筈の、痛覚が走るその虚ろを見遣った。
室のドアを開けて迎え入れた途端に、千駿の左頬を打ったのは、嶺の右掌。幻掌、である。
「幻肢使いの八剱って呼んでよ、先生」
嶺は愉しげに言うと、千駿の脇をすり抜けて奥へ進み、ラタンフレームのソファに腰を下ろした。手触りの良いファブリックシートの上で慣れた風にくつろぎ乍ら、テーブルに置かれていた手籠の中のスコーンを一つ、ひょいと左手で抓み上げ、口へ運ぶ。
その様子を苦笑交じりに眺め、千駿はゆっくりソファに歩み寄って嶺の隣に腰掛けた。
「それで? 今日はその幻肢使いの上達振りをお披露目しに来た?」
「そういうコト。……あんまりさぁ、他の人の前で見せると、怖がられるから」
「……まあ、そうだろうな。幻肢の症状自体は受け容れられても、幻肢が『使える』なんて、簡単には納得してもらえないだろう」
「うん。けど、……使わないと痛いしさ」
嶺は伏し眼がちに微かに笑い、スコーンを大袈裟なまでに音を立てて咀嚼した。
「……ああ。分かってる」
応えて、千駿は脳裡に初めて八剱嶺と逢った日のことを思い浮かべた。
「どうにもならなくて」
困惑至極の看護師の隣で、嶺は泣きじゃくり乍ら「痛い、痛い」を繰り返していた。
その時、すでに嶺の体に右腕は付いておらず、彼はひたすらに日々幻肢痛に苦しめられていた。腕の喪失に呆然とする余裕もなく、どんな薬にも和らげられぬ痛みを抱えた少年は、匙を投げた担当医の許から千駿の室へと送られて来た。
数日間、特別室内で苦悶の表情の嶺と寝食を共にした千駿は、ふと、
「……幻肢痛だと諦めるから余計つらい。同じ痛むなら、いっそ使ってみるか、その幻の右腕」
唇を噛んで痛みを堪えている嶺に向かってそう言った。
千駿自身、どこまで本気でそんなことを言ったのか、今となっては分からない。だが実際、その一言がきっかけになった。
もともとその類の素養が嶺に備わっていたのか、それとも千駿の言葉が能力を導いたのか。「幻肢を使う」という一点に意識を拘束された嶺は、暫しの錬成の後、それを実現させてしまった。そして、幻肢を使っている間は痛みが消えることを知ったのだった。
「……あのさ」
スコーンを食べ終えた嶺は、ちらりと隣の千駿に視線を向けた。
「ん?」
「幻肢使い、巧くなっては来てるんだけど、……ちょっと問題があって」
「問題って?」
問い返した千駿の左耳朶を何かが掠めた。
「……え?」
何気なく耳に手を遣ると、指先に濡れた感触があった。
(……血か)
何が起こったのかを確かめるべく、千駿は先ず嶺を見、それから振り返って自分の背後を見た。
壁に、ペーパーナイフが突き立っていた。
さっきまで、手紙の束と一緒にテーブルの上にあったものである。
「……幻肢が、暴走するんだ」
嶺が僅かに震える声で言った。
「ようやく右腕を扱い慣れて、痛みも薄れて来たと思ったら、今度は少し気を抜くと勝手に腕が……動くんだ。……先生、俺、どうしたらいい?」
縋るような眼差しが、千駿をとらえた。
SCENE-[1] 不吉な男
「……雲切病院……」
鳴沢弓雫は、手にした簡易地図に記された病院名と、病院中央玄関脇の石碑に刻まれている名を照らし合わせて、ゆっくり肯いた。
確かにここは、雲切病院だ。
入院したから見舞いに来るべしと、弓雫の起居する寺宛てにわざわざ地図を同封した手紙を送りつけて来た友人の、現在の居場処。幾ら寺とは言え、今時ファックスの一つもないのはどうかと思うが、このご時世に電話でもメールでもなく封書でこんな連絡を寄越す友人も生活意識として同程度の人物ではある。
が、悪くない。
手紙を読み終えたときの弓雫の第一声は、
「……なかなか乙」
だった。
友人の入院を知ったのが一昨日で、見舞いに来たのが今日。昨日は、師の許で、一応は弓雫の本業である占師見習い業に精を出していた。社会的立場としてはいわゆる「アルバイト」の身の上である。
週二日しか営業せず、人前に姿を現さない師のスケジュールに合わせるのは、弟子の務め。いや、その弟子というのも実際にはかなり曖昧で、弓雫自身が勝手に弟子入りしているつもりになっているだけなのだが――――もう来るなと言われないところをみると、とりあえずこれでいいのだろう。
そんな理由で、入院するほどの怪我と知り乍ら、見舞いは後回しになった。
一見それなりに暮らしているように見えて、その実かなり危ないことに首を突っ込んでいる友人知人が多い弓雫には、今更多少の刺傷裂傷咬傷で驚き駆け付けるだけの熱意はない。
(病院か……)
弓雫は玄関を出入りする人の動きを気怠げに眺め乍ら、ポケットに手を突っ込み、中から飴玉を一つ、取り出した。
はちみつレモン味。
それを口に抛り込み、長く垂れて眼許を蔽い隠している前髪を、右手指でざっと掻き上げた。その小指に、守護霊「朔」を封じた指輪が煌めいている。指の隙間を紅髪がさらりひとすじ流れ落ち、弓雫の金の双眸と周囲の風景の間を過ぎった。
病院は、少々疲れる。
別段嫌な思い出があるわけではないが、中途半端に霊感を有しているせいで何かにつけ憑かれやすい質の弓雫にとっては、面倒の多い場処なのである。病院とは、日々濃厚に人の生死に接する空間。今もすでに、幼い少女の霊魂がまとわりついている気配を感じる。
もともと弓雫は言霊繰りの血を受け継いでおり、対象に名を与えることによって意のままに支配することが出来る能力者ゆえに、憑かれたとてさほど困ることはないのだが――――院内を闊歩した場合、一体どれくらいの生霊死霊に名を付し「子分」にすれば済むだろう?
(……まあ、いいか)
弓雫は、ここまで来て引き返すのも詮ないことと、とりあえず病院玄関をくぐった。
と。
眼前に拡がる外来待合室の、ちょうど中央あたりの椅子に、ひょろりと不吉な物体を見た。物体、否、恐らくは人間である。
そうあるべく整えたのか乱したのか分からない外ハネスタイルの銀髪に、片眼を眼帯で蔽い、やたらと硬質且つ機械的な義手を右腕に嵌めた長身の男。坐高が高いせいで、待合室に坐っていても周囲から頭一つ飛び出、異様にめだっている。
どう見ても生気の欠片も感じられない土気色のかさついた肌。傲然と周囲を見遣る吊り上がり気味の細眼。黒蛇が巻き付いた柄の苔生色のシャツ。
「……怪しい」
弓雫は思わずぽつりと呟き、奥歯で飴の表面をカリリと削った。
生気はないがあまりにもなさすぎて、逆に病人にすら見えない。だが死人というには、口許にうっすら浮かべた愉悦の色が明るすぎる。
(誰だ……?)
そう思いつつ、数歩、その不吉な存在に近寄りかけたとき、
「ひゃはは」
天井に向かって突然狂的な嗤い声を投げ上げ、男が立ち上がった。
眼窩の奥でするりと移動した小さな黒眸が、弓雫を射抜く。
男は、ひょい、ひょい、と細長い脚で跳ねるように歩き来、弓雫と対峙して止まった。
「なァんっか甘いニオイがすると思ったら。アンタのせいかよ」
乾いた声で言われ、弓雫は軽く頸を傾げた。
甘い匂い。
ああ――――はちみつレモンかな。
よくあんなに離れたところから嗅ぎ分けられたものだと感心しつつ、男に向かって肯いてみせると、弓雫はポケットを探り、飴を一粒差し出した。
イチゴ味。
「あ? 俺にくれるって?」
男はその外貌に似合わず妙に嬉しそうな調子でそう言い、弓雫の手から飴を受け取った。
「どォも」
ポイ、と口内に飴を抛り込む男を見、弓雫がゆっくり口を開いた。
「……誰? 名前はなんて言う」
「ヒトに名前訊くときは、先ず自分から名告るのが礼儀じゃねーの」
男がガリンと飴を真っ二つに割る音が弓雫にも聞こえた。
飴は口に入れた途端咀嚼するものではなくて、時間の経過とともに舐め融かすものだ。
そう主張したい気持ちを抑え、弓雫は男を見据えた。
礼儀などという単語の似合わぬ不穏な男に、真名を教えるほど莫迦ではない。
弓雫が黙っていると、男は興醒めしたようにくるりと背を向けた。
そのままスタスタと待合室を抜けて行く。
弓雫はその後をついて歩いた。
突き当たりの廊下を、左へ。
緩やかに続く回廊沿いを進み、外来棟を抜けようかというその位置で、男はぴたりと足を止めた。
(…………?)
停止の理由を推し量りかねて、弓雫が男の背中越しに前方を確認すると、そこに車椅子の麗人がいた。
長い長い、銀の髪。月光下、潔浄の滝を思わせるその流れ。
透けそうに白い肌。
光の加減で色を変える透明なブルーの眸。
性別が男であることは分かるが、何かそういった俗世の区別から離れたところに生きているような存在感がある。
その人が、男の進路を阻んでいるようだった。
「邪魔!」
男は一言そう言い、ちらりと弓雫を振り返った。
「アンタもジャマ。ついてくンじゃねーよ。何か愉しー仕事でも持って来てくれるなら話は別だけど?」
「……仕事?」
「そ。俺サマの腕が鳴っちゃうような仕事」
男は右腕に嵌めた義手を高々と挙げて見せ、また「ひゃはは」と嗤った。
弓雫は暫しの沈黙の後、
「名前を教えてくれたら、もうついて行かない」
淡々と告げた。
「名前ぇ? ……しょーがねェな、飴もらった代わりに、トクベツに教えてやる。俺はギルフォード。アンタがこの病院によく来るンだったら、またどっかで逢うかもな?」
土気色の「ギルフォード」はそう言ってニイッと口の端を上げるなり、もう車椅子の麗人には見向きもせず、廊下を跳ねるように駆けて行った。
弓雫はギルフォードの背を何となく眼で追い、それから自分をみつめるブルーの双眸に向き直り、
「……どうも。はじめまして」
とりあえず、そう言ってみた。
SCENE-[2] 傷と痛みとペーパーナイフ
ギルフォードとかいう男が去り、銀髪碧眼の年齢不詳な人とその場に残された。
何となく手持ち無沙汰に眼を遣ったところに偶然あったのが、特別室。
病室かと思ったけど、どうやらそれらしい空気でもない。
……ドアが開いてたから、中を覗いてみた。
特別室に順に集った向坂愁、高遠弓弦、香坂蓮、セレスティ・カーニンガム、鳴沢弓雫――――そして雲切千駿と八剱嶺、黒薙ユリの総勢八名は、各々微かに困惑の色を表情に忍ばせつつ、この奇縁を結ぶに際し、互いに簡単な自己紹介を済ませた。
ともにヴァイオリニストであるという双子の兄弟、愁と蓮。カトリック系の高校に通う清浄な少女、弓弦。アイルランドに本拠を置くリンスター財閥の総帥にして水霊使いの占い師、セレスティ。占師見習いをしている弱冠の青年、弓雫。
彼らの視線は、右腕を持たぬ少年とその隣に立つ医師に向けられていた。
「あーあ、怪我しちゃって。大丈夫? 雲切センセ?」
軽く肩を竦めて笑って見せ乍ら、愁が、壁に突き立ったペーパーナイフをスコンと抜いた。
「ああ、大丈夫。そんなに深く切ったわけじゃない」
千駿は苦笑し、裂創を負った耳朶をガーゼで押さえた。
嶺は千駿の白衣の肩先に落ちた朱の点を見上げ、何か言いかけて結局言葉に出来ず、俯いた。
「……幻肢痛、ですか」
セレスティが嶺の方へ、車椅子ごと体を向けた。
「確か、ペインクリニック、という痛み治療専門の施設が、あったかと思うのですが」
「ええ、あります。ペインクリニックでの治療も、当初試みてみました」
千駿が、セレスティの言葉に肯首した。
「そうですか。それで……効果のほどは」
「残念乍ら、薬物療法も神経ブロックも功を奏しませんでした」
「それはお気の毒に。……痛みというのは、脳内の記憶としてのみならず、遺伝子の階層に於いても蓄積されるほど根深いと聞きます。八剱君の幻肢痛と幻肢の暴走……どうにかして双方を切り離し、いずれも安んずることができればよいのですが」
セレスティは顎に軽く指先を触れ、何か考え込むように長い睫を伏せた。
愁が、幻肢か、と呟き、
「幻肢って……確か、患者さん自身の意識だけじゃなくて、脳の神経の働きも関わってることがあるんですよね?」
セレスティに同意を求めるように訊いた。
「ええ。そのようですね」
セレスティが愁に流眄を送った。
「だとしたら、今回の場合、腕が切断されたことによって脳の神経が組み換えられるときに、何か別の……特殊な能力に覚醒して、幻肢が使えるようになったとか。暴走も、その能力を扱いきれず起こった現象だということで」
「……それならば、切断直後から幻肢が動かせる状態にあった筈ではないですか? コントロールは利かないまでも、何らかの変化や予兆は感じられたと思いますし。……実際には、痛みから解放されたい八剱君の願いと雲切医師の言葉が作用し合い、『幻肢使い』が誕生したように思えますが」
言われて、愁は「あ、それもそうか」と素直に納得した。
「……幻肢使い……」
ぽつりと、弓雫が言った。
弓雫と並んで立っていたユリが、頸を傾げて「はい?」と彼の次の言葉を促した。弓雫は無表情のまま二度頸を縦に振り、
「……二つ名としては、悪くない」
独自の理解に基づいてそう言ったきり、口を噤んだ。
ユリは暫くそんな弓雫をみつめていたが、こちらも独特の感性の持ち主であるらしく、
「そうですね」
と話を受け、別段不審そうな顔もせず肯いた。
それまで静かに皆の話を聞いていた弓弦は、
「……八剱さん、腕が……、幻肢が暴走するということですけれど」
どう言葉を選んでいいのか分からぬままに、何とかこの状況を良い方向へ導こうと、嶺本人との話し合いの糸口を作った。そこへ、
「……暴走して人を傷つけるのなら、いっそのこと幻肢の存在など認めて『使おう』などと思うな。傷を負わされる周囲にとってはただの迷惑だ」
室に入って来てから今までずっと何かを堪えるように唇を引き結んでいた蓮が、嶺を見据え、低い声で言った。
「あ、あの、香坂さん……?」
弓弦は蓮の青い眸に怒の気配が漂っているのに少し驚き、口許に手を当て眼を伏せた。
千駿の横で床に視線を落としていた嶺は、蓮の言葉にキッと顔を上げるや、
「あんたに何が分かる」
吐き棄てるように言い放った。
「俺だって別に、人を……先生を傷付けたかったわけじゃない!」
「お前の意思を歯牙にもかけず幻肢が勝手に動くことを『暴走』と言うんだ。自分の力で制御出来ないようなものを使おうとするからそういうことになる」
強い口調で断言し、蓮はふっと嶺から視線を逸らした。
その様子を見、ペーパーナイフを手にした愁が蓮に歩み寄り、ぽんぽん、と背を叩いた。
「あー……、あのさ、蓮? 気持ちは分かるけど、ちょっと落ち着いて。皆でこの件を解決しようとしてるのに、君が嶺くんを刺激してどうするの」
兄の懐柔に躊躇いがちに肯きかけた蓮はしかし、眼の前で嶺を宥めている千駿を視界の端に捉えるなり、再び口を開いた。
「……大体。痛みからの解放のためとは言え、ない腕をあるものとして認めさせてしまった医者も、一体どうなんだろうな」
そのセリフを聞いた瞬間、嶺が蓮に向かって勢いよく左腕を振り上げた。
「だからッ、あんたなんかに、何が分かる!? 何にも……何にも知らないくせにッ! 俺のことも、先生のことも! 利き腕を失くして、幻肢が使えるようになるまで俺がどんなに痛かったか、あんたには――――」
「嶺」
千駿は冷静に嶺の名を呼び、振り上げられた腕を掴んだ。
「……現状を見る限り、彼の言うとおりだ。きみに幻肢を使うなんていう選択肢を与えた僕に責任がある。このまま放っておいたら、きみは……いつか無関係の人間を傷付けることになるかもしれない」
「だ……だけどっ」
腕を取られた嶺が悔しそうに地団駄を踏み、改めて蓮を睨み付けた、
刹那。
「あっ」
愁が短い声を上げた。
――――腕。
愁の眼に、嶺の右肩から生える幻肢が、視えた。
嶺の体躯にはどう考えても不釣り合いな長さを有した上肢。いや、上肢の霊、か。
愁は、霊的なものを感じ取ることに関して、非常に優れた力を備えている。だからもし、嶺の幻肢使いの在り方が、「喪った腕の霊体がもと在った場処に還った」ことに拠るそれであるならば、視える、だろうと思っていた。
だが現実には、嶺の右肩にそれらしい気配を覚えなかった。だからこそ、超常能力の介在を考えた。
だと言うのに。
今、「それ」は唐突に出現し、嶺の肩に付いて――――憑いて、いた。
「……向坂さん? あの、どうか……しましたか?」
弓弦が、愁と蓮、それから嶺を順に見遣り乍ら不安そうに問いかけた。
「……何か、いる」
弓雫が言い、嶺を凝視した。
「あ、貴方にも分かります?」
愁が嶺に視線を向けたまま、弓雫に声を投げた。
「中途半端に分かる」
「中途半端?」
「……何となく。この感じ……ついさっき、出逢った気がする」
「は? 出逢った?」
愁は弓雫の導く話の方向へうまく付いてゆけず、つい苦笑した。
そのとき、
「……そういうこと、でしたか」
セレスティが溜息交じりに言った。
「実はこの室へ入るとき、ある男に似通った不穏さを微かに感じたのですが……、どこにその原因があるのか、よく分からなかったのです」
弓雫はセレスティの言に同意を示し、右手人差し指で嶺を指した。
「嶺ちゃんの幻肢……、きっと、暴走しかけると現形化する。霊が視えない人には、視えないけど。……その、腕の霊……ギルフォードのものだと思う」
「ギルフォード?」
蓮と愁、弓弦の三声が和した。
「ギルフォードさんって、どなたですか?」
弓弦が訊ねた。
直後。
キィン、と金属質な音を響かせて、愁の持っていたペーパーナイフが弾き飛んだ。
「あ……ッ」
嶺が小さく叫んだ。
幻肢の、仕業だ。
この一撃を機に、いったん「ギルフォード」への興味は据え置きとなった。
「愁さん」
ユリが思わず一歩近付こうとするのを、愁が手で制し、
「来ないで。……大丈夫、これでも僕、結構便利な能力持ってるんですよ?」
一度パッと明るく笑って見せ、すぐにその笑みをおさめると、嶺に真顔を向けた。
「暴走中に注文つけて悪いんだけど、出来れば僕を狙ってみてもらえないかな」
「え……」
僅かに嶺が狼狽の表情を見せた。
「どうせ暴走して傷付けるなら、今君に対して挑発めいたこと言った蓮を相手にしたいところだろうけど、ま、僕も同じ顔だし、狙いやすいよね」
「兄さん、何言って……」
「いいから蓮は向こうに避難してて。ほら」
愁は蓮の背を押して嶺から遠ざけると、冴えた光を宿した眸で嶺を見た。
「幻肢の暴走とは言っても、その腕の霊、君にくっついてるには変わりないんだから。ある程度、意識できそうなものでしょ? 攻撃を上手に僕に向けられたら、一時的に暴走止めてあげるよ。幻肢から受けた力を奪ってそのままそっくりお返しす――――」
愁が言い終わるのを待たず、幻肢が動いた。
バツッと奇妙な破裂音を鳴らして空を斬り、続けて、パァン、パァンと甲高い壊音が響いた。
天井の蛍光灯が立て続けに割れた音だった。
「きゃ……っ」
「高遠さん、そこは危険です、こちらへ」
セレスティが、蛍光灯の破片を被りそうになった弓弦の手を引き、車椅子ごとすっと後退した。
「……あれ? やっぱりコントロールは難しいか。わー、ちーちゃん、ゴメン」
天井を見上げ、愁は千駿に向かって両の掌をぱんと合わせた。
「何言ってる、物損はどうでもいいから、愁君も無茶は」
言いかけた千駿の胸許がぐいと下方に荒々しく引かれ、シャツの釦が数個飛んだ。
「……っ、嶺」
「ち、違……、幻肢が、勝手に」
「……いい加減にしろ!」
蓮はツカツカと嶺に歩み寄ると、幻肢を千駿から引き剥がそうとして幻肢自身には触れられず、仕方なく千駿の体をぐいと力任せに嶺から引き離した。
引き離される一瞬、
白衣の胸ポケットに差してあったペンが、スッと宙に浮いた。否、幻肢が手にし、それを蓮の眼めがけて振りかぶった。
「……!」
「――――ッ、止せ!」
千駿が反射的に蓮の肩に手をかけその身を自分の背後へ庇ったとき、
カラン、と室の窓際で何かが倒れる音がし、脇から飛び入ってきた流線形の塊がペンを薙ぎ払った。
暫しの、無音の後。
ぱしゃん、
その塊は、床に落ちて水の飛沫となった。
「……とりあえず、ご無事ですね、どなたも」
セレスティの穏やかな声音が、場に息巻いていた熱を消した。
幻肢の暴走ですら、息を潜めた。
窓際では、かすみ草の活けてあった花瓶が倒れて、中にあった筈の水が消えていた。
水。
幻肢の握ったペンを払ったのは、勢いを得て空を飛ぶ塊と化した水。
「花瓶の水、少々お借りしましたよ」
水に関することならば何なりと自由に扱うことの出来る、水霊使い。
セレスティが、微笑を浮かべた。
SCENE-[3] ギルフォードの右腕
「……つまり、八剱さんの幻肢が使えるようになったのは、腕の霊が憑いたから、だと……?」
弓弦が、大人しくソファに腰を下ろした嶺を一度見遣り、それから愁に視線を向けた。
「はい、そうみたいです。腕のオバケ、かな」
少し笑って応え、愁は肩を竦めた。
「最初は僕も、切断される前の彼の腕が還ってきたのかと思ったんですけど……、視たところ、どう考えても彼自身の腕には思えないんですよね。異様に長いというか。まあ、オバケですから、多少の伸縮は自在なのかもしれませんけど。それにしても、バランス悪くて」
「あ……、じゃあ、やっぱり」
弓弦は両手を胸の前で合わせ、
「さっき、鳴沢さんが仰っていた、ギルフォードさんという方の腕なのでしょうか。暴走するとき顕れて視えるという霊」
名を呼ばれて、弓雫が弓弦を一瞥した。
蓮は、床に落ちたシャツの釦を拾いつつ、小さく溜息を吐いた。
「……一体誰なんだ、そのギルフォードというのは。それに、そいつ自身の右腕は今どうなっているんだ?」
「……なかった」
弓雫が言った。
「なかった?」
蓮が眼を瞬かせて訊き返すのへ、弓雫は肯き、胸中に先刻出逢った土気色の男の姿を思い描いた。「ひゃはは」と狂的な愉悦を帯びた嗤いが印象的な、不吉な義手の男。
「義手を嵌めてた。やたらと……兇悪そうな」
「義手……。それなら、ギルフォードさんの右腕もすでに喪われているということですよね」
弓弦は伏し眼がちに呟いてから、おもむろに視線を上げた。
「……先程セレスティさんの言葉にもありましたけれど……今回のことは、痛みから解放されたい願いが、幻肢を使ってみないかという一つの発案に導かれた結果起こった問題だと思います。八剱さんが、ない腕を使おうと強く意識したそのときに、彷徨えるギルフォードさんの右腕の霊を喚んでしまったのではないかと、思うのです」
「そして、霊とは言え一応は右腕を得、それを動かすことによって現存がはっきりと脳に意識され、八剱君の幻肢痛は消えたのでしょうね」
セレスティが補足した。
蓮は、
「……よりによって、こいつは自分の腕でなく他人の腕を喚んでしまったということか? それは……、ギルフォードの腕の方にも、誰かに憑きたい念があったからかもしれないが」
そう言い、ふと頸を傾げた。
「なら、幻肢の暴走というのは……ギルフォードの腕を動かせるようになって脳と腕との連絡が緻密になり、腕そのものに宿っていた意思がこいつの脳に影響したせいか。……自他の意識のぶつかり合いが脳に混乱をもたらしたことに原因がある、と言えそうだな」
「……さっきから聞いてれば、こいつこいつって、うるさいな」
嶺が苛立った声を上げた。
「あんたに妙な講釈垂れてもらっても嬉しくない」
「八剱君」
窘めるように、セレスティが呼びかけた。
「キミの幻肢の暴走を何とかしようと、香坂君も考えてくれているのですから」
「……けど。その……香坂って人。最初っから、俺のすることが迷惑だの、千駿先生の判断がマズかっただの、……言いたいこと言ってるだけじゃないか。……確かに暴走なんて迷惑だろうし、幻肢が使えてよかったかどうかなんて、今となっては分かんないけど。でも、あのとき痛みが消えてなかったら、俺、今きっとこんな風にまともに生きてられなかった」
「八剱さん……」
嶺の当時の苦しみを察した弓弦が、戸惑いがちに同情の表情を見せた。
「私に何か出来ることがあれば……、その苦しさを癒すことが出来るなら、何でもしたいと思うのですけれど……」
嶺は自分のために胸を痛めている弓弦を見、言葉を躊躇った。
「別に……俺は。癒しとか、そういう……、そういうのは別に……。もう自分の腕が戻らないのは分かってるし。今は痛みもあんまりないし。……ただ、ちょっと、分かってほしかったっていうか……それだけで」
「……んー、まあ、蓮が君にああいうこと言ったのは、ちーちゃんが怪我なんかしてたから仕方ないっていうか」
愁が、ねえ、と蓮の肩に手をかけた。蓮は黙したまま、ほんの少し顔を背けた。
「……『ちーちゃん』?」
弓雫が、愁に訊き返した。
「え? ……あ、うん、ちーちゃん。雲切さんのこと。名前が千駿だから、ちーちゃんって。……鳴沢さんも、そう呼んでみます?」
愁の笑顔に肯いた弓雫は、千駿に向き直り、唐突に「ちーちゃん」と呼んだ。
「え。あ、……はい」
千駿は少し苦笑し、弓雫に軽く会釈した。
その遣り取りを見ていたセレスティは僅かに口許を綻ばせた後、
「微笑ましい光景ですが、問題はここからだということをお忘れなく」
そう言って、場を仕切り直した。
弓弦はセレスティの言葉に肯き、蓮と嶺を見た。
「あの。……先ずは、お互いに蟠りを持たずお話を進めた方がいいのではないかと……」
「……いや、……蟠りというか」
蓮が困ったように俯いた。
「私見ですけれど、私は……幻肢を使うよう導いた雲切さんの言葉は、間違っていたとも言えないと思うのです。実際にそれで八剱さんの痛みは消えたのですし……、一時的にしろ痛みを除去することが病気の治療に繋がるというのは、私もよくお医者様から聞くお話です」
幼い頃から体が弱く、病院通いを繰り返している弓弦ならではの言葉だった。
「……それに、幻肢を使うなどという苦肉の策に打って出たのも、それ以外に痛みを和らげる方法が残されていなかったからでしょうし……、結果として幻肢が暴走することにはなってしまいましたが、それについてはここで私達が解決して、八剱さんの心身を楽にして差し上げられたらと」
「ああ、うん、僕もそう思います。とりあえず暴走を何とかしないと」
愁が相槌を打った。
「……暴走を何とか、と言いますが」
セレスティが車椅子のアームレストをトントンと指先で叩き、注意を喚起した。
「ギルフォードの腕の霊が憑いている限り、脳の混乱はおさまらないでしょう。当然、暴走もおさまらない。解決策としては、霊を切り離してしまうことが考えられますが……」
嶺の反応を伺うようなセレスティの声に、
「……腕……、……失くすの?」
嶺が不安げな声で応じ、唇を噛んだ。
「お前は、このまま使っていたいのか?」
蓮が訊いた。
嶺は自分の右肩に左手を当て、ギュッと眼を瞑った。
「……暴走するのは困る。けど、幻肢が使えなくなったら、またあのときみたいな痛みに襲われるかと思うと、……怖い」
「痛みが、怖いだけか?」
「え? ……どういう意味?」
嶺が瞼を上げ、蓮を見た。
「一度手に入れ、今までそれ相応に使えたものを喪うのは怖くないのか、という意味だ。自分の右腕を失くし、ギルフォードの腕を得、今度またそれを喪うことになるから」
「ああ、それは、……それは別に。どうせ俺の腕じゃないんだし。それに、その腕の霊がくっついてると暴走するっていうなら、ない方がいいだろ。……さっきも言ったけど、俺だって先生傷付けたかったわけじゃないし。この先、また誰かに怪我させるのも嫌だし……」
「そうだね」
愁が横合いから声をかけた。
「暴走を抑えて幻肢と共存できるならともかく、そうでなければ、いつか君は、自分のそばにいる大切な誰かをその力で傷付けるかもしれない。その痛みは、きっと腕を喪ったときよりも、幻肢痛そのものよりも苦しい筈だから」
「……分かってる……」
嶺は掠れた声を足許に落とした。
SCENE-[4] 痛み
「痛みというものは、気、血、水の乱れによって生じることがあると聞きます」
セレスティが言った。
「気、血、水……?」
問い返した弓雫に、千駿が「ああ」と注釈を請け合った。
「多分その分類だと、気は神経作用、血はそのまま血液、もしくはホルモンもその範疇かな。水は、水分関係の代謝のことだ」
セレスティは肯き、
「先程お見せしましたように、私は水を自在に操ることが出来ます。そしてそれは血液に関しても同様」
言ってから、嶺に顔を向けた。
「幻肢を使えなくなることによって再開されるだろう幻肢痛、私がキミの体内の血液や水を操って、緩和させられると思いますよ」
「え……っ」
嶺が眼を大きく見開き、ソファから身を乗り出した。
と、弓弦が「あ」と何か良いことでも思い付いたのか、表情に明るさを見せた。
「セレスティさんが血と水を請け負ってくださるのでしたら、私は八剱さんの気を宥めようと思います。私の持つ癒しの力……、もしお役に立てるのならこれ以上嬉しいことはありませんから」
「血と水と気か……、あ」
弓弦に続いて、愁も何か良いことを思い付いたらしく、ポンと手を拍った。
「癒しとまでは言わないけど、僕と蓮も浄化の力なら持ってるから、その力を血や水に乗せて体内を循環するようにしたら、痛みも消えないかな?」
「それはいいアイディアですね」
セレスティが愁の意見に賛同した。
蓮は明るい予感に少し頬を上気させた嶺を見、
「……よかったな」
呟くように、言った。
室内が何となく穏やかなムードになってきたそのとき、
「――――でも」
ユリが大きく頸を傾げた。
「その前に、どうやって、ギルフォードさんの腕のオバケを切り離すんですか?」
暫時。
場が静まりかえった。
そうだ、先ずはそのハードルがあった。
「……それは、霊を浄化させてしまうとか」
蓮が応えた。
そこへ、
「あー……」
弓雫が軽く手を挙げ、一歩、前へ進み出た。
「……僕が名前付けて、嶺ちゃんから離れるようにと言う。離れるのを嫌がって、腕が暴れるようなら、暴れないでと言えばいいし……」
暫時。
またしても沈黙が空間に差し挟まれた。
誰も何も言わないのを見て取ると、ユリは弓雫の顔を覗き込み、
「鳴沢さん、そういう能力、お持ちなんですか?」
真正直に問いを投げかけた。
弓雫が肯く。
「分かり易く言うと、言霊とか。そういうの、扱えるから」
「言霊……。えぇと、今ひとつ、私には分かり易くないんですけど」
「……名付けることで、相手を支配する……と言えば、分かるかな」
「じゃあ、八剱さんに憑いている腕のオバケに名前を付けて、鳴沢さんが離れろと言ったら、オバケが命令に随うということですか?」
「……そうなる」
ユリは、すごいですね、と心から感心したように微笑み、二人の遣り取りを黙って眺めている六人を振り返った。
「……あの、皆さん? どうかしましたか? 今、大きな一歩を踏み出した気がするんですけど」
「ああ、いやいや、何だか独特の雰囲気のある会話だったから、途中で口を挟めなかっただけで」
愁が苦笑しつつ周囲に同意を促すと、各々ばらばらと頸を縦に振った。
「そう……ですか?」
不思議そうな顔をするユリに、
「お蔭でどうやって霊を離そうとしているのか、よく分かったから」
蓮が眼許に微かな笑みを過ぎらせて言った。
弓雫は皆の間を縫って嶺に近付いて行くと、ソファに坐っている彼を立ち上がらせた。
「……幻肢痛は、戻るかもしれないけど。霊を離すこと自体は、痛くない」
「う、うん……」
嶺は眼の前に立った弓雫を見上げて曖昧に返辞をし、左手を千駿に向かって差し出した。
「先生、手……繋いでてよ」
「……ああ、分かった」
千駿は嶺の手を取ると、弓雫を見た。
「じゃ、よろしく」
一度ゆっくり瞬きして、弓雫は嶺の右肩に眼を据えた。
SCENE-[5] 乖離
名前。
恐らく、どう名付けるべきか考えているのだろう。
嶺をみつめたまま、弓雫はたっぷり一分ほど、黙していた。
そして、少しだけ開いた両唇の隙間からすうっと細く息を吸い込み、僅かな揺動さえ消し去った金色の三白眼で、嶺の右肩からなだらかに続く腕のあるべき虚を射抜いた。
「……嶺ちゃん、幻肢、動かしてみて」
言われるままに、嶺は意識を集中し、いつものように幻肢を操りかけた。
暴走しない限りは現形化しないギルフォードの腕の霊は、今は視えない。
視えはしないが、憑いてはいる。
ただ、霊を感知することに優れた愁にも暴走時以外は視えないとすると、通常時は一個の霊体としてはっきり確立されてはいないのかもしれない。右腕切断による一般的な幻肢感覚と、その上さらに喚んでしまったギルフォードの腕。両者相俟って、融け合うように嶺に作用しているせいだろうか。もしくは、腕の持ち主「ギルフォード」自身に何か特殊な要因でもあるか。
ゆらり、
弓雫の手前、何となく、空気が揺れたような気がした。
そこに、嶺の、ギルフォードの、腕が――――、
「あッ!」
嶺が鋭く叫んだ。
瞬間。
今にも弓雫の前頭部を大きな掌で掴み上げようとしている、霊の姿が顕わになった。
朧に乾いた指先が、前髪に触れるか触れないか。
弓雫は瞬きすらしないまま、平らかに、深い声調で、
「我が言は事として成る。……『朽縄』」
名を、呼んだ。
間を措かず、
びたり、
腕の動きが止まった。
「朽縄。……八剱嶺なる不適合な場より離れて在れ。我が方へ」
弓雫が弧を描くように緩やかに手を振り上げると、その指先を追うように、ギルフォードの腕は嶺の肩を離れた。
SCENE-[6] 輪になって
「あ、あ、あ……っ!」
ギルフォードの腕が去った直後から、堰を切ったように幻肢痛が再開したようだった。
「八剱さん……!」
弓弦が駆け寄り、嶺の右肩にそっと手を置いた。
「どうか……どうか、気を安らかに。痛みを眠らせ、心穏やかになりますように」
弓弦は静かに眼を閉じると、体深く呼吸した。
セレスティは車椅子から立ち上がると、ステッキを突いて嶺に歩み寄り、
「気、血、水の乱れを抑えます。……皆さん、手を」
その声に導かれ、嶺と右手を繋いだままの千駿が、左手を差し伸ばした。
「……蓮」
「あ、……ああ」
蓮はその手を取り、同じように左手を愁に差し出した。
「兄さん」
「うん、分かってる。……はい、黒薙さん」
「え? 私もですか?」
言い乍らユリは愁の手を握り、空いた片手を弓雫と繋いだ。
弓雫はステッキを握るセレスティの手の甲に掌を置き、
「……高遠さん」
最後にセレスティと弓弦が手を繋いだとき、室内に八人で結び合う一つの輪が出来た。
「では」
セレスティが事の開始を告げ、やがて繋ぎ合った手から手へと、慈愛の色濃い清らかな流れが巡り始めた。
その循環しゆく想いの中で、
床にこぼれ落ちた嶺の涙は、
痛みゆえだったのか、
――――それとも。
SCENE-[7] 予震
幻肢痛を癒された嶺が、迎えに来た看護師と伴に検査のために室を出て行こうとするのへ、
「……飴、食べる?」
弓雫が、持っていた飴を片掌に載るだけ載せ、嶺に手渡した。飴が大好物である弓雫は、様々な種類の飴玉をいつも大量に所持している。
「あ……、ありがとう。こんなにたくさん」
嶺は笑い、飴を受け取った。
それが、今日ここに皆が集ってから初めて、嶺が見せた笑顔だった。
嶺が去って行った後、弓雫は全員に一つずつ飴を配って歩き、少し満足したように室の隅に身を落ち着けた。
「……よかった、八剱さんが痛みから解放されて……」
嬉しそうに微笑んだ弓弦は、覚束ない足取りで、ふらり、壁に手を付いた。ただでさえ真白い肌が一層色を喪い、冷えた蒼を孕んでいる。
己の手に触れるものに癒しを与える力を持つ弓弦は、けれど自身にだけはその力を向けることが出来ず、能力行使の後には決まって体調を崩す。
「高遠さん、大丈夫ですか?」
ユリが弓弦に歩み寄った。
「ええ……、大丈夫。少し休めば、回復すると思います」
「じゃ、こちらへ」
ユリは弓弦に手を貸し、ソファに導いて、そこに軽く身を横たえさせた。
蓮は千駿と手分けして、割れ落ちた蛍光灯の破片を掃除し乍ら、ふと弓雫に眼を向け、
「……そういえば、ギルフォードの腕の霊に名付けた『クチナワ』というのは、何か意味のある言葉なのか?」
そう訊ねた。
弓雫は、直接返辞をする代わりに、
「……朽縄。……瞭かに顕わにて在れ」
言霊に因り命じた。
途端、誰の眼にも明らかに、細長い一本の腕が宙に浮遊して視えた。
「……朽ちる縄と書いて、クチナワ。蛇の、古名。……あの人、すごく蛇っぽかったから」
「あの人って、その、『ギルフォード』?」
愁が脳裡に蛇を想起しつつ言った。
「そう。……くーちゃん」
「くーちゃん?」
愁はぽかんと弓雫をみつめ、どう言葉を継いでいいのか分からないという顔をした。
弓雫は表情らしい表情を宿さぬ眼で愁を見、
「この腕の霊が『くちなわ』だから……、お揃いで、腕の持ち主のあの不吉な人は『くーちゃん』。ちーちゃんともお揃い」
「え……、ああまあ、お揃いの呼び方ですね」
愁は千駿を見遣り、笑った。
セレスティは「くーちゃん」の愛称に静かに苦笑を洩らし、朽縄の気配に眉を曇らせた。
「随分と愛らしい命名で結構ですが、あのギルフォードという男、一筋縄ではいかなさそうな……不穏な人物に感じました」
その言葉に、蓮は破片を集める手を止めた。
「結局聞きそびれていた気がするが……何者なんだ、あんた達二人が出逢ったというその男」
「さあ、私にも分かりません」
セレスティは溜息交じりに言い、弓雫を見た。
「キミは、どう思います、『くーちゃん』を」
「……放っておいたら、危険だと思う。この病院に来るなら、また逢うこともあるとか……言ってたし。そのうち、何か起こるかもしれない」
「何か起こるって、この病院で?」
蓮が眉間に皺を寄せた。
愁は少し考えた後、弓雫に向かって、
「その朽縄の力、取り込ませてもらってもいいですか?」
と、訊いた。
「……取り込む?」
「ええ。さっき、幻肢が暴走してたときに試してみるつもりで、上手くいかなかったんですけど。僕、相手の能力を自分に取り込んで無効化したり使ったりすることが出来るので。朽縄の霊力を取り込んでみたら、『ギルフォード』のことも何か分かるかと思って」
「それは、私も興味があります」
セレスティが愁の提案に乗った。
弓雫は数秒、愁を品定めするように眺めてから、「じゃあ」と空中の朽縄に眼を遣った。
「朽縄に命ず。霊留と謂うは向坂愁。……往け」
朽縄は弓雫の言を体現する如く、指先から真っ直ぐ愁に突進した。
ギルフォードの右腕が、まるで蛇がくわっと顎を開くように、愁の顔の前で大きく掌を拡げた。その骨張った指一本一本に宿る、禍々しい気配。靄めいた愉悦の色彩。それが、突如、視覚に捉えられぬ微粒子に分解されるように、掻き消えた。
代わりに、愁の裡に拡がったのは、荒涼たる闇に響く哀叫の声。
「……へえ……」
愁は無表情に呟くと、
「いいよ、分かった。――――還れ」
凜と言い放った。
と同時、うわん、と不明瞭に谺する非楽音と伴に、虚空に再び姿を現した朽縄が、弓雫に還った。
「……それで?」
セレスティが、愁に感想を求めた。
「そうですね。……そのギルフォードって男、自分の望みを達するためには手段を選ばない輩みたいです。この右腕のことにしても……多分、何らかの目的のために、自分で切り落としたんだと思います。腕にとってみれば、特に不具合もなかったのに突然切り落とされるなんて、それこそ青天の霹靂で。そのせいで、現世への強い執着が残ってて……今回きっかけを得て嶺くんに憑いたのも、行き場のない腕の無念の為せる業っていうか」
そこでいったん言葉を切り、愁は朽縄を操る弓雫へ向かって、
「鳴沢さん、今後、その腕の霊を随えるつもりなら、気を付けた方がいいかもしれません」
忠告めいた言い方をした。
弓雫はじっと愁を見返し、こくりと肯いた。
朽縄は――――ギルフォードの右腕は、八剱嶺という宿主を喪って、新たな何かを求めるように、宙を掻いた。
[Phantom Limb Pain/了]
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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+ PC名 [整理番号|性別|年齢|職業]
+ セレスティ・カーニンガム
[1883|男|725歳|財閥総帥・占い師・水霊使い]
+ 向坂・愁
[2193|男|24歳|ヴァイオリニスト]
+ 香坂・蓮
[1532|男|24歳|ヴァイオリニスト]
+ 高遠・弓弦
[0322|女|17歳|高校生]
+ 鳴沢・弓雫
[2019|男|20歳|占師見習い]
※ 上記、受注順に掲載いたしました。
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、ライターの杳野と申します。
今回は、異界依頼「Phantom Limb Pain」にご協力くださいまして、ありがとうございました。
SCENE-[1]では、みなさんと雲切病院との接点、もしくはNPCとの交流を個別に書かせていただきました。
作中に突然登場する「ギルフォード」は、界鏡現象に於ける公式NPCです。詳細については、当異界登場人物欄のNPCデータをご覧ください。成る程、蛇、と思っていただければ幸いです(笑)。
依頼内で実際にギルフォードに出逢っているのは鳴沢弓雫さんとセレスティ・カーニンガムさんのお二方になりますので、お二人のSCENE-[1]を読まれると、理解が深まるかと思います。
なお、切り落とされた「ギルフォードの右腕」に関しては、公式設定にはありませんので、当異界内独自視点となります。鳴沢さんにお持ち帰りいただいて、以後ご自由に使役していただければと思います。
※註: 霊留(ひと)……霊(ひ)の留まる場処。霊留=人。
最後に、雲切千駿と黒薙ユリより、皆様にご挨拶があるようです。
それでは、またお逢いできることを祈って。
・黒薙ユリ
「鳴沢さん、今日はいろいろとありがとうございました。言霊の能力、しっかり拝見させていただきました。八剱さんに憑いていた腕のオバケ……『朽縄』、これから鳴沢さんの子分になるんでしょうか。気を付けてお付き合いくださいね。……あ、飴、ありがとうございました。美味しかったです、薄荷味」
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