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<東京怪談・PCゲームノベル>


オールアバウト・ジャーマン・マイスタークラス

【w-0】

「──お母様!」
「ウィン、──それにトオル、」
「お母さァん、久し振りです〜〜!!」
 彼女は、明るく、然しそこにどこか陰のある──それは、陰鬱では無い、大人の女性の色香と云えた──笑顔で2人の出迎えを受けた。
「まあ、話には聞いていたけれど、ここのホテルもすっかりコンサート仕様になっているじゃない?」
「ええ、」
 旅の装いの外套をホテルの従業員に慣れた、洗練された動作で預ける彼女はぐるりとホテルのロビーを見回して満足そうな笑みを浮かべた。対するウィンも、今回の改装の結果には自信があるし、また満足している。それを彼女が認めてくれた事は心から誇らしかった。
「──『EOLH』、……あなたの今回の決心を、わたくしも心から祝福してよ、」
「……有難う、お母様」

 珈琲が入った所で、ベヒシュタインの存在だけで美しい姿を横目に、ウィンと彼女は向かい合って話を始めた。雑談から、今回の彼女の滞在中の予定、──そうした話がある程度済んでしまうと、ウィンは最後の日の予定を切り出した。
「──ええ、勿論承知していてよ。……所で、その小さなピアニストは?」
「実は、本人には内緒なんです。一度、軽く予告はして置いたのだけれど、多分本気にはしていないわ。信じた時点で逃げてしまうでしょうし。本当、逃げ足の早い子なんです。ですから、お母様さえ良ろしければ最後の日に、その子の『パパ』の店へ直接迎えに行って下さると嬉しいのですけど──」
「構わないわよ」
 にっこりと、彼女は微笑んだ。──その瞳に一条、きらりと妖艶な輝きを見せると更に言葉を次ぐ。
「……結局、シドニーは来る事になったの?」
「……」
 まさか、とウィンは苦笑した。
「ちょっと、お誘いしてみただけ。あっさりと辞退されてしまいました」
「──そう、残念ね」
 ……そうは云ったものの、何故だろう。ウィンは溜息を吐いた。
 シドニーの事はあっさり諦めたようだが、彼女の美しい横顔を見ていると不安な気がして来るのは……。

【1】

「オゥ、お前か」
「やあ。相変わらずだな、君達親子は」
 悪友とは親しい挨拶を交わし、何やら肩で息をしている不良学生、結城・磔也へは大人の余裕を向ける。
「親子じゃ無ェ!」
 ──と喚く磔也は放っておいて、ケーナズはドア越しに誰かを招き入れた。
「良いぞ、収まった」
「……矢っ張りやってたのね」
 苦笑しながら入って来たのはウィン・ルクセンブルク、──以前、何の心構えも無しに同じような現場へ足を踏み入れてしまい、すんでの所でその美しい顔に熱したフライパンを受ける目に遭い掛けた女性である。
 そうした経験があるので、今回はこの喫茶店へは通い慣れた兄へ先に入って貰った訳だった。
「──お、どうしたよ。今日はお揃いで」
 ケーナズへ質問を向けたのは太巻の方だった。磔也はと云えば、既に都合が悪いと悟ったか素早く出口へ向かい掛けている。──その背中を鋭く見咎めたウィンは、その場に留まったまま明るい声を掛けた。
「未だ居るわよ。──磔也、」
「──え?」
「あなたへのお客様が」
「……、」
 ──不良学生の脱出は叶わなかった。既に通行が出来るだろうと予測していた喫茶店の出入り口には、未だ一人の人影があって彼の通過を阻んでいたのである。
「……、」
 逆光に目を細めて彼が見上げたその人物は、すらりとした長身の女性らしかった。──咄嗟に、彼は背筋に冷たい物を感じて後ずさった。
 その女性はそんな小心者に構わず真直ぐ店内へと入って来る。──長い艶やかな銀髪、婉然とした笑みを浮かべた、然し冷たさを含んだアイスブルーの瞳、──誰かと同じ……。
「随分と賑やかだこと」
 笑顔のまま店内を見回した彼女は、太巻が目に入った所であら、と声を上げた。

──良い男。

 ──彼女の異変に気付いたらしいウィンが慌てて女性に取り縋った。その間、磔也は既にケーナズが首根っ子を掴んで取り押さえている。
「今日は磔也を迎えに来たのでしょう?」
「──分かっているわよ、」

──仕方無いわね、また今度。

「……、」
 魅力的なその女性の笑みに、太巻も何か含む所のある笑いを口唇の端に浮かべて応えた。
「では、そういう事で。磔也は回収させて貰うぞ、太巻」
「オウ、御苦労さん☆」
 ──ゴミの回収!? と独り混乱を来す磔也の意思は御構い無しで、(彼にも詳しい事情など分かっていないだろうが、それはそれで)太巻はうむ、と大きく頷いた。
「何なんだよ、一体俺が何を、──」
 あらあら、何云ってるの、とウィンは明るく笑った。
「あなたが云ったのじゃない。向こうから来るなら応じるって。──本当に来てくれたわよ、……母が」
「──!?」

──この際、太巻から蝶々呼ばわりされている磔也に取っての虫籠は、ケーナズの紺青の4WD車アウディA8だった。

【2】

「……ドイツ、」

 古城ホテル東京営業所のロビーで、ケーナズの監視があるので逃げ出す事も出来ないままウィン・ルクセンブルクを前にそう呟いた磔也の表情は愕然として顔色が蒼白だった。ウィンの傍らには、どちらかと云えばより一層苦手な兄の方に似た(……の前に、どう見ても40代を越えているとは見えない事が問題の)彼女たちの母親の笑顔。完璧な四面楚歌である。
「そうよ、前に約束したじゃない。私の実家へ連れて行ってあげるって。ドイツ南西部なのだけど、バーデン・ヴュルテンベルク州、大体の場所は分かるでしょう? 磔也、今まで日本どころか東京に籠り切りだった訳じゃない。きっと、新鮮だと思うわ。旅行って、楽しいものよ」
 ──普通ならばドイツ、と聞けば無邪気に喜んで良い所だろう。だが、この際の磔也は云い逃れられなければ死刑宣告も同然のような顔色をしていた。
「行きたくない」
 先ずは素直に拒絶してみるつもりらしい。が、ウィンは鷹揚な笑顔でさっくりとそれを退けた。
「遠慮しなくて良いわ、あなたの性格は分かっているもの。もう、素直じゃないんだから☆」
「違う、俺、東京の外は──、」
「克服したんでしょう? この間は横浜へデートしたんですってね」
「……、」
 舌打ちした磔也を背を屈めて覗き込み、微笑み掛けると彼は更に顔を伏せて視線を逸らす。──本当、子供みたい。……駄目だわ、つい甘やかしたくなってしまう。
 矢張り、ここは強引にでも実家へ送り込んで「母達」に厳しくして貰わないと、とウィンは自戒を込めて気を取り直した。
「ねぇ、実家には私の義母も居るの。名前くらいは聞いた事があるでしょう? 彼女がね、あなたのピアノにとても興味を示しているのよ。忍さんは古典派が専門でしょう。義母なら、ロマン派も得意だわ。春期の限定マスタークラスを受講する気で行けば良いじゃない。音楽の勉強だと思って」
「パスポートが無い」
 ──どうだ。ようやく、磔也は余裕を挽回してニヤリ、とウィンを見上げた(本当に見上げた)。パスポートの取得には時間が掛かる。例えば太巻ならば偽造パスポートでも物の数分で発行してくれそうだが、まさかドイツ貴族の末裔たるルクセンブルクが偽造パスポートで不法出国しろとは云えまい。
 然し、ウィンは流石に上手だった。莞爾と明るい笑みを浮かべ、「大丈夫よ」と云う。
「……は?」
 ──大丈夫……、……一体、何が大丈夫なんだ、と磔也は既に混乱でまともな思考をキープ出来なかった。
「そろそろかしらね」
 ウィンは時計を見遣り、次いでその視線をホテルのエントランスへ向けてそんな言葉を独白した。
 吊られて視線を向けた磔也の視界に、丁度ホテルの前で停車した一台のロードバイクが映った。──降りてきたのは、当然……。

「はい、パスポートとビザ」
「……、」
 入り口で鉢合わせたケーナズにつん、と冷たい身振りを示すのも忘れず、軽やかな足取りで入って来たレイは珍しく上機嫌で弟に向かい合い、どう見ても偽造では無さそうなパスポートを差し出した。
「……あ、矢っ張りこれはウィンさんに預かって貰うかな。もー、仕方無いわねぇ、パスポートの管理まで人に任せなきゃいけないなんて、ほーんと幼稚園児レベル」
 そして、すい、とパスポートを引っ込めてウィンにパスする。
「ごめんねー、ウィンさん、任せて良い?」
「勿論よ、責任持ってお預かりするわ」
「──ちょっと待て!」
 俺がいつパスポートを取得した、有り得無ェ、覚えてないぞ、と磔也は必死で姉に追い縋った。
「このガキ。未成年」
 そしてぴん、と磔也の額を──咄嗟に彼が身を引いたので前髪を擦ったに留まったが──を弾く。
「あんたねえ、未成年のパスポートなんか保護者がどうにでも出来るのよ。因みに、パパは大賛成みたい」
「巫山戯んじゃ無ェッ、レイ、お前が行けよ!」
「ん──? ドイツは行きたいけど今回のはあんたじゃ無きゃ意味無いし。それに、ドイツだったらパパが何時でも連れて行ってくれるって。それに、春休みは私ウィンさん達と一緒に福島のスパリゾートに行くの。だから駄目だわ。良いじゃない、あんたドイツよ。羨しいけど私は福島で我慢してあげるから、精々大人しく云うこと聞いて連れて行って頂きなさい、」
「……冗談じゃ無ェ、俺の意思は!?」
「あんたの意思でしょうが。ピアノ続けるって宣言したの、誰。放っとくとあんた、春休みなんかデートにかまけて練習しやしないから、駄目」
「やるよ! つーか、何でそこで──、」
「はいはいはい、ストップ! ともかく時間切れよ、飛行機は3時ですって。はい、あんたの着替えは持って来てあげたから、大人しくこれ持って付いて行きなさい」
「厭だ」
「──仕方ないわね、」
 そこで、レイは珍しく彼女のライバルであるケーナズに目配せした。
「私は荷物を車に積むから、あなたはそいつをお願い」
「了解した」
 元々、妹のアイデアに便乗する心積もりでいたケーナズはこの際、レイの指図だろうが快く請け合って磔也の頼りない身体をひょい、と抱え上げた。ぁああっ、と上ずった悲鳴が上品なホテル内部の静寂を乱す。
「駄々を捏ねるんじゃ無い。──そうだな、大人しく良い子にしていれば、現地でとびきり可愛いテディベアを買ってやるから、我慢しろ」
「要らね────!」

【3】

 ウィンは、手にした4枚の航空券と電光表示板を見比べていた。
 その後ろでは未だ、ケーナズとの間にレイが持って来たスポーツバッグを間に置いた磔也が何とか逃れられないかと頑張っていた。彼女は、そんな2人の『子供』の様子を目を細めて見守っている。
「いい加減にしないか、自分の荷物くらい自分で持て」
「持つよ。……持つから、帰らせてくれ」
「往生際の悪い」
 ──往生、……往生が大前提の旅行と云うのも、何か。
「……太巻の所に帰りたい」
「……、」
 ──ちらり、と(思いきり)見上げたドイツ人青年は、──まあ、駄目で元々だったが──まさかその程度の訴えで情に絆される筈も無かった。
「そうか。……全く、パパにべったりな事だな。太巻もこれでは息抜きも出来まい。尚更だ、春休みくらい、奴に楽をさせてやれ」
 どうせ、元々自分は妹の計画に便乗しただけだ。何とでも云える。
 不意に、2人が境界線のように間に挟んでいたスポーツバッグがひょい、と軽く持ち上げられた。ウィンだ。
「そろそろ、手続きが始まるようだわ」
 ウィンとケーナズは、実家へ一泊するだけだ。故に荷物は、機内へ持ち込める程度に収まっている。預けるとすれば磔也と、母親の荷物だけだ。
「私が行って来てあげるから、あなたはそこでお兄様とお喋りしてて良いわよ☆」
「厭だって云ってんじゃないか、本気で洒落になって無ェよ、……宿題とか、」
「あら。春休みには宿題は無いのじゃない?」
「……、」
「『成績はそこそこ良いらしいから、春休みにはピアノに重点を置くのは多いに賛成、あなた方の義母になら安心して任せられる』って、忍さんのお墨付きよ」
「……、(そんなお墨付き要らない)」
「磔也、──いい加減に観念しない? あんまりうろうろしていると、迷子センターに連れて行かれちゃうわよ」
 明るい声を残し、ウィンは荷物預かり専用のカウンターへと向かった。──ヒールの踵が小気味良い音を立てる、軽快な足取りで。
 磔也はようやく観念した、というよりは既に疲れ切ったらしい。
 ドイツも厭というよりは怖いが、迷子の子供と間違えられてアナウンスで「フランクフルト行きのXX-XX便へ御搭乗予定のルクセンブルク様」を呼び出されてケーナズに無理矢理職員向けて頭を下げさせられ、「妹の義弟が迷惑を掛けて」と詫びられるのも恐らく彼の自尊心には耐えられない。
 ケーナズと母親はそんな、これからファーストクラスでの空の旅を楽しむとはとても見えない高校生はそっち退けで彼等の「義母」や透の事をにこやかに雑談していた。
 ややしてそこへ戻って来たウィンは、「搭乗手続きが始まるわよー☆」と最期の号令を掛けた。

「あ」
 今から各自へチケットを渡そうと、封筒に一纏めになった中身を覗いていたウィンの手元から、連番になった2枚のチケットがと掠め取られた。
「これは私と磔也の分だ。異論は無いだろう?」
 ひらひら、とそれを弄びながら微笑しているのはケーナズだ。──構わないけれど、とウィンは肩を竦めた。
「機内では手加減してあげてね、飛行機なんて初めてなのだから」
 ──甘い、と分かっていてもついつい、不安な声で忠告してしまう。分かっているさ、と兄の声は全く愉快そうだ。
「だからこそ、私が面倒を見てやろうと云うのさ」
 そして、だからあまり機内でこちらの様子にまで気を遣うんじゃ無いぞ、と付け加える。
「万一気分でも悪くなったら、今の奴には女性から介抱されるなんて不本意だろうからな」

 ──手続きが始まった。

【5】

 ──飛行機がフランクフルト国際空港へ着陸した時、磔也の顔色が蒼白だったのは云うまでも無い。然し、何か揶揄かっているようだとは思ってもまさか斯様な会話があった事までは思い当たらないだろうウィンは、しきりと飛行機酔いを思って心配していた。
 空港には既に銀色のベンツが、彼等を古城ホテルへと導くべく待機していた。その傍らに立つ運転手は未だ30代程の歳若い、典型的なドイツ系の美青年だった。妙にかっちりとした古めかしく端正なその服装から、何か彼がホテル関係の人間だろう事は何となく想像が付いた。
 ケーナズは既に、何故か異様なまでの上機嫌さを見せて先に母を連れてそちらへ歩き出している。
 ウィンも磔也の様子を見ながらそれに続くつもりだった、──と。
「……ルクセンブルク、」
 遠慮勝ちにウィンの腕を引いていたのは磔也だった。珍しい、何か気不味そうに。
 何? とウィンは優しく微笑みかけた。磔也はしきりに周囲を見回し、声の届く範囲に人間が居ない事を確認してからそっとウィンに囁いた。
「……まさかと思うけど、……アレ、あんたらの父親?」
「えぇ!?」
 磔也が目で示しているのは、そのベンツの横に立つ青年だ。彼は今、彼女達の母親へと恭しい態度で挨拶を交わしている。
「何云ってるの。失礼ねえ、彼、そんな年齢に見える?」
「だって」
 うろうろ、と口籠る磔也の視線は、彼と母親を交互に行き交っていた。
「同じ歳くらい。──に、見える」
 まあ、とウィンは明るい笑い声を上げた。
「母に云ってあげて頂戴、喜ぶわ(まあ誰でも云う事なのだが)。残念、彼は実家のホテルの執事よ。未だ若いでしょう? 彼のお父様が、以前は執事を務めていてくれていたの。そちらが10年程前に引退してね、彼が跡を継いでくれているのよ」
「……そう」
 ──良かった、……疑問が一つ減った。
 元々、磔也は情報には敏感だった筈だ。音楽界にも名を轟かせる、ドイツの名門貴族ルクセンブルク家の名前にもその家庭事情にも、元々は幾らかの感心も知識もあった筈だ。──その彼が、何故こうした些細な事に惑わされて動揺しているかと云えば全てケーナズと太巻の悪戯である。彼等、時空の狭間で顔を合わせた際に、素面の磔也を前にワインで良い気分になった勢いで何やら有る事無い事、多感な(……)高校生の気を大分動転させ得る嘘を吹き込んだらしい。
 然し、そんな事は知る由も無いウィンは少し寂しそうな陰を微笑みの中に滲ませて磔也の頭を軽く撫でた。──素直な所は、なかなか可愛い。
「私とお兄様はね、父を知らないの」
「……あ、」
 僅かに表情を曇らせた磔也を前に、ウィンはだからね、と諭すように言葉を継いだ。
「私達を育ててくれたのは、母のパートナーである義母なの。母は、どちらかと云えば厳格な父親なような存在だったわね。あなたには想像も付かない家庭かも知れないわね。でも、私もお兄様も、2人の母にはとても感謝しているの。別に、そうした環境を受け入れろとは云わないわ。でも、良い子にしていれば本当に良い親なのよ。きっと、あなたにも同じように接してくれるわ。──ねえ、家庭環境って、色々あるわね。でも、結局は人と人の関わりなのよ。本当にお互いを思い遣れば、何が正しくて何が誤っているなんて、決定出来ないわ。……だから、あなたには是非うちへ来て欲しかったの」
「……別に、家庭になんかこだわって無い。どうだって良いよ、……辛気臭い」
 ふい、と磔也はウィンの手を──出来るだけ乱暴にならないように、といった気持が彼女にも分かるような動作で──払い除けた。良いわ、とウィンは頷く。
「でも、折角だから是非義母にピアノを聴かせてあげて。きっと色々な批評もあるかも知れないわ。但し、先に云っておくわね。あなたには鬱陶しい、御節介な事に思えるかも知れない。でも、人間、どうでも良い生徒には文句も付けないし何も教える気にはならないものよ。口煩く云うのは、その人の事を認めているからなの」
「──どうだかなぁ……、」
「?」
 その磔也の言葉は、反発と云うよりは何か思う所があっての溜息のようにウィンには聴こえた。──そう云う彼の視線がケーナズの後ろ姿を捉えていたが、……彼女には一生、解けない謎だろう。

 流石にドイツまで来てしまっては、逃げ出そうにも逃げ込む先が無い。大人しくなった磔也と、ウィン、ケーナズ、そして母親を乗せたベンツは、噂の歳若いハンサムな執事の運転でアウトバーンを飛ばし、古城ホテルへと辿り着いた。
 道中、古い壮麗な城の並ぶ窓からの景色に磔也が呆然と「農村じゃ無ェだろ……これ」と呟いた事にケーナズがにやりと笑みを浮かべた事も、ウィンの疑問の一つとして残った。

【6】

 晩餐の席で、ウィンは磔也を義母に紹介した。明るく、穏やかで優しい義母は磔也を「ようこそ、小さなピアニスト」と歓迎した。磔也には実は世界的なピアニストという事で既に知った人間だ。今の所は大人しくしているつもりか、発音だけは割合流暢なドイツ語で(片言の相手の言語の方が、無愛想さを誤魔化せるという辺りも計算しているかも知れないが)「Guten Abend」、とややぎこちない会釈をした。
 その事も余計に義母は喜んでくれた。ウィンの通訳で二、三言言葉を交わしたが、その時にも義母は「結城忍」の名前は出さず、あくまでウィンとケーナズの「友人(……)」として彼に向き合った。──そこには、同じくピアニストの父を持つコンプレックスやプレッシャーを持つ者としての配慮が行き届いていた。
 年末にウィンが透を伴って帰省した時には、クリスマスという事もあって晩餐じは贅沢なものだった。が、今回は何があるでも無いし、豪勢な食事には付き物の肉料理は磔也も苦手らしい。普段通りの質素な食事に半分程手を付けた所で、磔也はフォークを(食事用のナイフは何故か使えない、と云うことは既に連絡済みで黙認されていた)置いた。
「もう良いの?」
 ウィンの言葉に、母親も残念そうに眉を顰めた。
「遠慮はしないで頂戴ね。わたくし達には、御客様に御馳走するのは喜びなのよ。途中で投げ出されてしまうと、口に合わなかったかしら、と不安なの」
 ──今日の所は、初めてでもあるし、穏やかに。
「本当に駄目なんだ、──不味い訳じゃ無い、……でも、」
 良いわよ、とウィンはさっと彼を遮った。
「ごめんなさい、お母様、ほら、彼、小柄でしょう? それに日本人はあまり食べないもの、シェフにはそう伝えて、今後は量を考えて貰いましょう」
「──ウィン、」
 また甘やかす、とケーナズが眉を顰めた。然し、本人も大分居心地が悪そうであるし、あくまで礼儀を弁えている内は何から何まで強制するのも酷だと思う。
「──Verzeihung、」
 母国語でないだけに謝罪の言葉もさらりと云えるのだろう、小生意気にもそんな言葉を残して席を立とうとした磔也を、ウィンは「ちょっと、」と呼び止めた。
「待っていてくれない? ──食事が終わったら、ピアノ室へ案内するわ。私達は少し食後のワインを楽しむから、その間に指慣らししていれば良いわ。それが終わったら、義母にピアノを聴かせてくれる?」
「……、」
 義母への打診も兼ねたウィンの言葉に、磔也は沈黙を、義母は微笑みと共に「Bitte」と快い返事を返した。
「忙し無くて申し訳無いけど、時間が無いのよ。明日には私とお兄様は日本へ帰らなければならないから。義母は母ほど日本語が堪能では無いし、磔也もある程度はドイツ語が分かるでしょうけど矢っ張り音楽のレッスンともなれば信用出来る通訳が要るでしょう? 明日からの予定は返上出来ないから今日だけだけど、紹介する以上は一回目のレッスンではちゃんと意志の疎通をして欲しいもの」
「ウィン、」
 ケーナズが二度目の釘を刺した。が、今度もウィンは悪戯っぽい笑みでそれを躱した。
「お兄様は飛行機で磔也を取ったでしょう。今からは私と義母が貰うわ」
「……、」

──まあ、良いさ。

 ケーナズは磔也の所在無げな横顔を眺めながら目を細めた。

──今は駄目でも、夜がある。

【w-7】

「指慣らしはもう良い?」
「……良いけど、」
 ──本当に、彼女の前で弾いて批評を受けなければならないのか、……厭というよりは、流石に相手が相手だけに気後れする、といった表情だ。
「良いのよ、私が興味があるのだから」
 ウィンは義母の言葉を、意思もそのままに訳して伝える。
「何でも良いわ、今暗譜しているものでも、楽譜が必要なら持って来る。一番、あなたが今得意だと思える曲を先ずは弾いて聴かせて」
「協奏曲でも良い、」
「良いわよ、伴奏無しになってしまうけれど、それであなたが良いなら」
「……じゃあ、」
 リストの1番、と告げて、鍵盤に向き直った磔也は不意に真摯な目になった。
「楽譜は?」
「要らない」

 所要時間は短くとも、音楽の大きな曲だ。1楽章が終わっても、義母が何も云わないのでウィンもそのまま続けるように促し、3楽章の第一主題が終わった所で、彼女がぽつりとウィンにだけ聞こえるような低声で呟いた。
 ・・・・・
「とても上手だわ」
 先程は暖かく歓待の意を現した笑顔だった彼女も、ピアノの評価となればシビアだ。目は笑っていない。
「──技巧が耳に付くわね」
 義母の評価にはウィンも真顔のまま大きく頷いた。演奏する腕は無くとも『聴く耳』はあるウィンも、磔也のピアノには同じ感想を先ず持った事だ。
「確かに、『巧さ』は非の打ち所が無いし、リズム感覚も正確だわ。でも、──分かるでしょう?」
「はい」
「──決して耳に付いてはいけないのよ、『上手過ぎる』というのは」
「分かります、……結局、『それだけ』という事ね」
「惜しいわ」
 彼女が目を細めて眺めている彼には、既に他人の会話を耳に入れる余裕は無い。──あの真剣さ、……演奏スタイルは違っても、巣鴨で間近に見た彼の父親そっくり、とふとウィンは思った。
「音楽は本当に好きなようね。それは分かる、時々、内声を歌わせようとする意図も見える。でも、結局は『巧さを見せたい』だけなのじゃないかしら、と思うような弾き方に負けてしまう。完全に技巧派寄りでは無いだけに、中途半端だわ。これではプロとして評価出来ない。──若いから、技巧をもっと突き詰めるのは案外簡単よ。でも、そこから更に表現を深めるのは大変でしょうね、あの子の場合」
「何とかならないかしら?」
「彼──タクヤ次第ね」
 短期間でどうこう出来る問題では無い、と義母は云う。それは、ウィンも分かっていた事だ。
「ともかく、滞在中に私が出来る限りの事は話してみたいと思うわ。タクヤが心を開いてくれて、少しでもそこから何かを汲み取ってくれれば、この先の成長の中で変わって行く筈。大丈夫よ、才能はあるわ。彼と同じ目線で話をすれば、きっと──、……私も若い時は表現の点ではとても苦労した」
 そこから光を見せてくれたのはあなたの彼女──ウィンの母親──なのよ、と義母は微笑んだ。

「とても良かったわ。先ず、正確さと力強さには吃驚しちゃった」
 ──良い音楽の教師は、決して貶しはしない。先ず、長所を褒めてやる。それは甘やかしでも何でも無い。畏縮してしまえば、音楽は終わるのだ。
「……だから?」
「勿論、あなたよりは多少、長くピアノをやっている人間として云いたい事は色々あるわよ。今夜はもう遅いけれど、まあ、少しずつ見て行きましょうね。待ってて、ちょっと楽譜を探して来るわ」
「覚えてる」
「そう? でも今から私があなたにやって欲しい事は『楽譜を読む事』なのよ?」
「俺が一体いつ、音を間違えた!?」
「あら」
 彼女は決して嫌味にならない笑顔を浮かべたまま、諭すように磔也の目を覗き込んで首を軽く傾いだ。
「タクヤ、音の並びと強弱記号、指定記号さえ完璧に覚えれば、もう楽譜に用は無いって本気で信じてるの?」
「……だって、」
「だったら、楽譜なんか原典だけで十分よ。何故、今現在も優れた奏者が過去の傑作曲の編集版を手掛けるの?」
「……、」
「あなたが全く出来ていない事をはっきり云いましょう。作曲者が楽譜に託した意図を全く読んでいない。読もうとした事も無いのだと思うわ」
 この辺りから、通訳に回るウィンも彼女自身の真摯な気持ちを何とか磔也へ伝えようと真剣になった。
「アマチュアならばね、それで十分よ。好きなように解釈して好きなように満足すれば十分。だって、奏者も自分なら聴衆も自分一人だもの。……でも、専門でやろうとする人間として……、」
 そこで義母は一旦言葉を切り、ごく自然な親しみを込めた目で磔也に微笑み掛けた。
「『私達のプライドとしては』、そこは拘って行きましょうよ」

 リストのピアノ協奏曲第1番、変ホ長調。
 その楽譜を持って間も無く戻った義母は、ピアノの上に楽譜を広げた上で傍らに立って、「もう一度、楽譜を見ながら弾いてみて」と促した。
「ウィン、譜捲りをしてあげてくれる? 取り敢えず、何か云ってもそのまま通してね。でも、その問題点は覚えておいて。これから、……そう、私とあなたのマスタークラスで考えて行く所なのだから、ね?」
 
 ──ここまで真剣な表情で、他者の言葉に素直に耳を傾けようとする彼を、ウィンは始めて見た。自然、通訳にも力が入るし、彼女自身、義母の言葉や微妙なニュアンスを聞き洩すまいと必死だった。

「そこは技巧を魅せる所じゃ無いわよ。大事なのはあくまでこの曲の主題。あのね、協奏曲って、実は細かいニュアンスに拘ってもあまり伝わらないのよ。それよりは、主題として存在している音楽をしっかり提示する事。……もう一度。……そう、良いわ、その音楽が主題。分かったでしょう? ……そこは最初から飛ばし過ぎないで。上昇音形では上に行く程巻いて行かなきゃ。……落として、下降形のクレシェンド、難しいわね。でも上手よ、細かい処理の仕方はまた自分で考えてみて。……さあ、カデンツァよ、どうしたの? 躊躇しないで。カデンツァこそ奏者の技巧を魅せる為のものなのよ、はっきり云えばここは崩しても良いわ、思う存分技巧を披露して。……分かった? テーマで音楽を作っておいたからこそ、カデンツァの技巧も生きるのよ」
 ──……。

「お疲れ様。……でも、本当に良くなったわ。ね? 少し楽譜に書かれた事に注意するだけで、本当に音楽が前向きに変わった、と自分でも思わない?」
 ──分からない、と磔也は答えた。
「……何か、……大分ショックが大きいんだ。……可能性、……可能性の事を考えると、自分の弾き方とか選択が、何もかも間違ってるみたいな気がして来る」
 だから、解釈をするのが厭で避けてたんだ、──最後に独白のように呟いた言葉だけは、ウィンは訳さずに置き、代わりに目を細めて頷いた。
「弾き方に、間違いっていうのは無いのよ。別にタクヤのピアノにおかしい所なんて無いわ。ただ、そうあなたが感じるとすれば、矢っ張り自分で、今自分が弾いている音の響きを聴いていないのよね。──アンサンブルでもそうなのだけど、実は『聴く』事って、簡単なようでいて実際には凄く難しい事なの。歌の伴奏だって難しいでしょう? 伴奏理論のマスタークラスなんてものもあるんだもの。そういう場で、何を一番云われると思う?」
「……良く聴け、」
「正解。歌より目立たないように音量を抑えるとか、歌の足を引っぱらないとかね。そういう事って、実は二次的なものなのよ。本当に、ちゃんと自分の音、そして一緒に演奏している人の音、全体のアンサンブル、音響、──全てが『聴』けていれば、自然と出来るものなの」
 明日からね、一緒に頑張りましょう、と義母は磔也に手を差し伸べた。──驚いたような、だからと云ってどうすれば良いか分からないような表情で彼はその手を取る事も出来ずに、ただ彼女の、自分と同じ、長く鍵盤楽器に向き合って来た、細くて節の高い指を見詰めていた。
「……どうして?」
「何が?」
「何であんたみたいなピアニストが、俺にレッスンを付けてくれるのかが分からない。……ルクセンブルクに頼まれたから?」
「そうよ」
 でも、と賺さず彼女は自分から磔也の手をそっと握り締めた。
「あなたのピアノにはとても興味があったの。リストのように難しい曲をさらっと弾いてしまうなんて、どんな子かしらって」
「実際に聴いて失望しただろう」
「そういう、自虐的な事を云わないの。必ず音楽に現れるわよ。自虐的な音楽なんて在り得ない。……今では、──そう、こうしてレッスンを付けたからね。タクヤが、今後どういう風に成長するかって事に興味があるし、楽しみだわ」
 そして、譜面台の上の楽譜を閉じてぽん、と気軽な動作で彼の腕に押し付けて笑った。
「今後は、一度やった曲でも新しく取り組む度に楽譜を買い直してね。今回は記念に私からプレゼントする。そして、思ったこと、考えた事、注意する事でも何でも、書き込んで行くのよ。──子供みたいって思ってる? そんな事無いのよ、みんな、そういう作業を何回も繰り返して、マイスターになって行くの」
「磔也」
 ウィンは後ろから、磔也の肩に手を掛けて耳許で囁くように促した。──それでも、次の瞬間に彼が、実際に口に出して──本当に低い、素っ気無い声ではあったけれど──義母の目を見て告げた言葉にはウィン自身とても驚いたし、また嬉しかった。
「──Danke.」

【w-9】

 翌朝にはウィンとケーナズは予告通りに身支度を整え、再びフランクフルト国際空港から成田への便に搭乗するべく、母達へ別れの挨拶を交わしていた。
「それでは、磔也をお願い、お母様」
 お互いの頬へ、挨拶のキスを交わしながらウィンは重ねて不良少年の事を頼み込んだ。彼は、未だ暫くここへ留まる事になる。帰国の際はどうしようかという話になり、またウィンが一人でも迎えに来ようかと思ったが、朝になって母が「わたくしが送ってあげる」と申し出てくれた。──何やら、含みもあるようだが……。
「トオルに宜しくね。……そう、それと、タクヤのお父様にも」
「ええ。また東京にいらっしゃるなら、その時は是非ホテルのロビーでピアノを弾いて頂けるようにお願いして置くわ。都合さえ良ければ、お義母様も」
「──それも良いけれど」
 違うのよ、と彼女は妖艶な笑みを浮かべた。
「シノブ・ユウキでは無くて、あの子が身を寄せている方の『パパ』」
「……お母様、」

「……じゃあ、……また、メールして下さいね、あの子の様子だとか、何か問題があれば」
「任せて頂戴」
「……お義母様、」
「ええ。私も楽しみよ。とても教え甲斐のある生徒だと思うの」

 ──未だ一抹の不安はあるが、嘗てはそうやって自らが、厳しくも優しく躾けられた母の笑顔と、義母の優しい言葉を信じる事にして、ウィンは相変わらず磔也を揶揄かって遊んでいる兄の腕を引いた。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】

【NPC / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【NPC / 結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】

【NPC / 渋谷・透 / 男 / 22 / 勤労学生】
【NPC / 太巻・大介 / 男 / 84 / 紹介屋】

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■         ライター通信          ■
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NPC姉弟の天国と地獄が実現してしまいました。
本人は騒々しいですが、WRからはドイツ留学が実現した事に多大な感謝を述べさせて頂きます。
お気遣い頂きましたが、彼にはあれ位云ってやって丁度良い程です、有難うございました。
尚、多少WRが悪乗りしている部分がある事をPL様及び他にも目を通して下さった方に白状しておきます。ごめんなさい(平伏)。
懲りずに……また遊んでやって下さい……。

x_c.