|
『花の乙女 ― 蒼の血と結珠の涙 ― 』
何かが複雑に絡みついていく?
―――それとも絡み付いていたものが解けていっているのだろうか?
「それはおそらくはあたしたちが五つの建物を壊したがためでしょうね。あれは術の核だったのよ。あの建物が核となって術を作り、その術が【花の乙女の造花】に栄養を送っていた。大地の精(じん)を」
「だけど術が壊れたから栄養が来なくなった【花の乙女の造花】は枯れた?」
「おそらくは」
「【花の乙女】とは何なんだ?」
俺がそう言うと、彼女は形のいい眉根を寄せて俺をじっと見据える。それは何かを見定める時かのようなそんな瞳。
俺はその視線を真っ直ぐに受け止める。
胸のうちで何かがざわついている。
形をなさぬ不安、焦燥、疑問、疑心、そして恐怖。
彼女の薄く形のいい唇から紡がれるのは・・・・・・・
開けられた窓から入ってくる夏の風は病室の白のレースのカーテンを揺らしている。ベッドのサイドボードに置かれた花瓶に生けられたひまわりの黄色い花びらが風に舞って部屋を飛んでいく。
ひょっとしたらその花びらはわかっていたのかもしれない。
何かを紡ごうとした彼女の唇を見つめる俺は見た。何かを紡ごうとしていたはずの彼女の唇がしかしその次の瞬間に形作ったのは笑みだった。しかもものすごく意地の悪そうな。
そして彼女は何を想うか俺が座っているベッドに片手をつくと、腰掛けていた椅子から腰を少し上げて俺の顔に自分の顔を近づけて・・・・
―――なんの前触れもなく開いた病室のドア。
「お兄ちゃん。着替え・・・持って来たよ」
「あ・・・」
がちゃりと開いたドア。その隙間で呆然としたような表情で固まっていたのは結珠だ。俺と眼を合わせた彼女は耳まで真っ赤にしていて、そして避けるように眼を俺から逸らしてしまった。
妹に逸らされた目はすぐ目の前にある黒髪に縁取られた小生意気そうな仔猫かのような美貌に吸い寄せられる。そして傍目から見れば俺の唇にキスする寸前であったかのような彼女の唇は囁いた。
「お花のような妹さんの登場だ。だから作り物の花の事なんか忘れなさいな。っていうかそんな事を考えている余裕すらなくなるかな?」
くすっと笑った彼女はワルツを踊るように振り返る。ふわりと香ったシャンプーのいい香りが俺の鼻腔をくすぐり、彼女の黒髪が俺の頬を叩いた。
そのまま彼女はドアの横で小さく固まっている結珠の方へというか、人見知りの激しい幼い子どもかのような結珠の横のドアに向かっていった。
そして彼女は俯いたままの結珠の肩にぽんと手を置いて、口を結珠の耳に近づけて囁く。
「じゃあ、蒼の事を後はよろしくね、結珠さん」
―――何が面白いのだろうか? いつもはさんづけで呼ぶくせにまるで俺の彼女みたいに呼び捨てで呼んで、彼女ぶって。
眉根を寄せて睨む俺を振り返った彼女はくすっと笑ってそして病室を出て行こうとして、だけどその彼女のあまりにも細すぎる背中を見た瞬間に俺は・・・
『殺してやる。絶対におまえを殺してやる。このリュート弾きの小娘。キサマを飢えた男どもに人格が崩壊するまで弄らせて、後は生きたまま野良犬に喰わせるかそれとも蟲に喰わせてやろうか? 死んだらその魂は引き千切って闇に捨てて・・・死後永遠に苦痛が続くようにしてくれるわぁーーーー』
それは【無垢なる混沌の闇】が吐き出した暗い呪詛。
なぜだか俺はそれが突然に思い出されて・・・
「あ、あの」
「ん? なに?」
呼び止めた彼女は肩にかかる黒髪を掻きあげながら不思議そうな表情を浮かべたまま小首を傾げる。
俺は呼び止めたものの何を言えばいいのかわからずに結局はごくありふれた言葉を口にした。
「いや、気をつけてな」
「ありがとう、蒼。そんなにも愛されていてすごく嬉しいわ」
まるで天使が如く純粋無垢ににこりと微笑みながらそう言って彼女が閉めた病室のドアをじっと見据えながら、俺は数秒前の思考をものすごく後悔した。
******
「誰、あの人?」
「え、あ、いや……バイト先の知り合い」
結珠は彼女もあの茨の事件の時に自分を助けてくれた事を知らないのだ。
なんとなく俺は悪戯をしたのがばれて親の前に突き出された子どもかのように落ち着かない。
どこかぎこちない会話をした結珠は家から持ってきた俺の着替えと頼んでおいた本を置くと、そのまま帰ってしまった。
「ったく。あ〜ぁ」
俺はごろりとベッドに寝転んで病室の真っ白な天井を見つめた。そして思考は彼女に上手く逸らされてしまった事に行き当たる。
「本当に【花の乙女】とは何なんだ?」
******
お兄ちゃんのばか。
お兄ちゃんのばかばか。
お兄ちゃんのばかぁーーーー。
「お兄ちゃんのばか」
そして私は口に出してもみる。
「お兄ちゃんのばか」
病院の階段を下りながら私は大きくため息を吐いた。そして階段の手すりにもたれながら立ち止まってもう一度ため息を吐く。
―――そりゃあ、私だっていつまでも同じでいられる訳はないと想っている。だけどそれでもまだお兄ちゃんは大学生で私は高校生で、もう少しだけ…そう、まだもう少しだけ今のままでいられると想ったのに………
時折、夢に見る。あの茨の妖精の夢を。
あの時にお兄ちゃんは言ってくれた。
『俺たちは仲のいい兄妹。それ以上でもそれ以下でもない』
何度も夢に見るあの時のお兄ちゃん。
その言葉が私を救い、私の背中を押してくれて、くじけそうになる弱い私にいつも力をくれる。
だけど………
「お兄ちゃん」
もう少しだけ…もう少しだけ一緒にいられると想っていたふたりの時間………その時間すらももうほんの少ししかなかったの?
私の両手に乗せられていた神様から与えられた時の砂はしかしさらさらとさらさらと指の隙間から零れ続けて…もう私の両手には乗ってはいないのだろうか?
思考はそんな考えてもしょうがない事に囚われてしまって……
「あの、お体の具合でも悪いんですか?」
そんな時、上の階からかけられた声。
私はいけないと想い、顔をあげた。するとそこには・・・
「あ、お姉ちゃん」
花が咲いたような笑みに相応しい明るいソプラノトーンの声。私は驚きに目を見開く。そこにいたのは姫だったのだ。
******
「お待たせしました。イチゴミルク二つに宇治金時です」
私と姫の前にイチゴミルク。そして姫のお母さんの前には宇治金時。
「さあ、どうぞ、食べて」
姫のお母さんはにこりと微笑んで、私にそう言った。私は幸せそうな彼女の笑みと左手の薬指にはまる指輪に密かに憧れた。
病弱だった頃の私は私なりに未来に想いをはせもしたものだがしかしその頃の自分はあまりにも病弱だったから、だから結婚も子どもを産むのも自分にはとても縁がない話だとおませにも子どもなりに想っていた。だけど私は元気になり、そして法律的にはもう結婚もできたりする。それがなんだかとても不思議で・・・。
「なあに、あたしの顔をじっと見て? 照れるじゃない。結珠さんみたいな美人さんにそんな風に見つめられたら」
「あ、いえ、そんな、ごめんなさい」
私は顔をふるふると横に振ると、彼女に頭を下げた。あまりにも現実味の無い話だけど私もいつか結婚して子どもを産んだらこんな風に余裕のある幸せな母親の表情を浮かべる事ができるのだろうか?
彼女は宇治金時を口に運ぶ手を止めると、
「彼氏と喧嘩でもしたのかしら?」
「え」
「そんな顔をしてるわよ」
「え、あ、いや、そんな違います……」
私は顔を俯かせる。顔がものすごく熱い。言えるわけがない。喧嘩…というか気まずくなったのは彼氏じゃなくってお兄ちゃんです、なんて。
「本当はちゃんと結珠さんのお話を聞いてあげて、びしっとアドバスなんかをしてあげたいところなんだけど、結珠さんには前にお恥ずかしいところを見てしまわれているからあんまり偉そうな事を言えないしね」
「え、あ、いや、そんな事ないですよ。ぜんぜん」
「ありがとう」
そう言ってくすりと微笑んだ彼女はとても綺麗で優しい表情をした。私はその彼女の表情にはっとし、そして次の彼女の言葉で私はその理由を知る。
「この娘が結珠さんのような優しいお姉ちゃんになるんだって言うのもわかるわ」
「あ、じゃあ・・・」
「ええ。三週目だって」
「おめでとうございます」
それから私は幸福の絶頂にいる彼女とそのまま病院の隣にある喫茶店で乙女のシークレットトークをし、そして明日の日曜日に姫と動物園に一緒に遊びに行く約束をした。
******
きぃーっと静かに開いた病室のドア。見回りの看護士はライトで俺の部屋を照らして俺がちゃんと寝ているのを確認すると開けた時と同様に病室のドアを静かに閉めて、次の病室に行ってしまった。
そしてその気配がきっかりと消えてから、
「そろそろと出てきたらどうだ?」
「あらあら。ちゃんと気配は消していたはずなんですが、キミのせいかな?」
そのふざけた声の持ち主はもう一つの気配にそうからかうような声をかける。
「あんたの気配でわかったんだよ」
いや、わからせてくれたのだろう、こいつは。
「そうですか。これは失敗失敗」
そしてベッドの上で上半身を起こした俺の横にそいつはいつの間にかいる。身長180センチぐらいの長身痩躯の男。もう一人は完全に病室にある夜の闇に溶け込んでいてわからない。
「さすがは【神薙ぎの鞘】」
そいつはにやりと笑った。
「俺を【神薙ぎの鞘】と呼ぶな」
「【神薙ぎの鞘】を【神薙ぎの鞘】と呼んで何が悪いのですか?」
「舐めているのか、俺を?」
「だとしたらどうしますか、【神薙ぎの鞘】?」
俺はそいつを睨みつけた。だがそいつはその視線を涼やかに受け流している。そう、悔しいが感じずにはいられない。こいつは俺よりも強い。
「ふん。哀れですね、キミは。なまじ強いから相手の強さもわかってしまう。それでどうするのですか? それでもボクと戦いますか、九重蒼。そうですね。それでももしもボクと戦い、そして少しでもこのボクに血を流させたら、そしたらキミに教えてあげましょう。【神薙ぎの鞘】とどうしてキミが呼ばれるのか? そして【花の乙女】とはなんなのかを」
そいつはにこりと笑った。
******
誰もいない病院の屋上の空に広がるのは満点の星空だ。
その星空の下で俺はそいつと対峙していた。
相手は人間だ。
だが纏う気は凄まじい。そして正体不明だ。今まで感じた事の無い気配。しかもその風体はまた異様だった。左手と右足が生来のモノでは無い。両方とも義手と義足だ。しかもそれは時代遅れな感じの棒タイプのモノ。しかしなぜそんなモノを?
「戦えばわかりますよ」
にやりと三日月形に吊りあがるそいつの唇。だがそこに油断は無い。そう、そいつは明らかに俺よりも強いのに、なのに俺に対して油断はしていないのだ。
「ちぃぃぃ。嫌になるな、本当に」
俺は居合い斬りの構え。攻防一体のこの構えで、勝機を狙うしかない。
―――そう、敵に油断は無い。だったらこちらは手持ちのスペックで戦うしかないのだ。たとえそれが肉を切らせて骨を絶つ戦い方でも。
「ああ、ダメダメです、キミ。そんな考え方では【神薙ぎ】には勝てませんよ」
―――【神薙ぎ】?
俺の心は揺らぐ。ほんの一瞬。
そして・・・
「キミは阿呆ですか? 今はボクと殺あっているのですよ」
虫の鳴き声が聞こえていた夜の闇にかつーんと乾いた音がした。
「なにぃぃ?」
そいつは左手の義手を軸として駒のように回転しながらの義足の蹴りを放ってきたのだ。
「【波動回転雷神撃】」
「えぇーーーい」
俺はそれを【桜火】で受け止めた。だが向こうは回転の勢いもありで単純なパワー負けで俺は吹っ飛ばされる。
―――このままではフェンスにぶつかる。
このスピードでフェンスにぶつかればその衝撃でフェンスを破壊してしまう。
「【桜火】――――」
俺は両手で握り締めた【桜火】を屋上の石畳に突き刺した。そうすることで俺と【桜火】は屋上のコンクリートを7メートルほど削ってようやく止まる。
だが・・・
「油断大敵ですよ♪」
とん、と軽やかな音。
そして突き出される義手の一撃。
「くそぉ」
俺はそれを下から払い上げた一撃で流すが、しかしそれを見越していたかのようにそいつはその衝撃に逆らう事無く逆にその勢いを利用して虚空でくるりと一回転すると、義足の蹴りをラッシュで叩き込んでくる。俺はそれをすべて紙一重でかわして、後ろに飛んだ。
―――ひとまず間合いを取る。
しかし、この男・・・
「本当に強い」
そしてそいつもにやりと笑った。
「いえいえ、キミも充分に強いですよ。このボクが4割の力で戦っているんですから。当初の計算ではキミ程度など2割で充分だと想っていたのですからね」
―――この男
俺は前に飛んだ。
だったら全力を出させてやる。
「いいんですか、ボクが全力を出したら、キミ、死んじゃいますよ♪」
そしてその瞬間、俺は後ろに飛んでいた。
体がそうしていた。
「はあはあはあはあはあはあはあ」
―――誰の呼吸音だ。耳障りな。
俺は自分で自分の口から零れる呼吸音に気づかない。それほどまでに俺はそいつに追い詰められていた。そう、前に飛んだ俺は飛びながら【桜火】一の型である【桜花爛漫】を放たんとしていた。しかし『いいんですか、ボクが全力を出したら、キミ、死んじゃいますよ♪』そう言った瞬間の奴と眼を合わせた瞬間、俺は殺されると想った。
―――そう想った瞬間に生存本能が無意識に働いて、後ろに逃げていた。
完全に俺の負けだ。
もはや体ががちがちに緊張した俺にはそいつに斬りかかる事はできない。
そしてそいつはそんな俺ににこりと優しく微笑んだ。
「敵の強さがわかるという事も大切な能力です。そして時には逃げると言う選択もね。それはキミが正しい。そう、キミは先ほどまで阿呆にもボクに捨て身の覚悟で斬りかかってきていましたね。だけどね、死んだら元も子もないでしょう。生きてさえいれば人は成長できる。今は敵わずとも時が経てば、ね。そう、だってキミはまだ若いのだし、まだまだ成長期だ。だけどボクはもう既に完全体。この差はね、今ボクとキミの間にある差以上に大きいですよ♪」
「何者なんだ、あんたは?」
「ボク? ボクですか? そうですね。これからキミとは深い仲になるのだから教えてあげましょう。ボクはこの【世界の雛型の国を見守る者】でありまた【竜術師】です」
「【世界の雛形の国を見守る者】、【竜術師】だと?」
―――何を言われているのか、わからない。
そいつはまた優しく笑った。
「いっぺんにわからずとも良いですよ。真実は逃げやしない。それどころかキミの場合はその真実の方からやってくるのだから。そう、だからキミはせっかく【風の巫女】に守られ続けてきたのに、運命がそれを許そうとしなかったかのように【花の乙女】と出逢ってしまい、そして【無垢なる混沌の闇】とも遭遇してしまった。元来は【傍観者】であるはずのボクらがこうして出てきて【神薙ぎの鞘】であるキミと会うのも【無垢なる混沌の闇】が【顔無し】と手を結んでしまったから」
―――ただ疑問符の海に溺れるばかりだ。
「だからいいと言っているでしょう。とにかくはボクと一緒に行きましょう。そこでキミには【竜術】を得てもらいます」
「だから【竜術】って?」
「簡単に言ってしまえば、仙道ですよ。ボク、とどのつまり仙人なんですよ」
仙人は実に軽薄そうに微笑んだ。
******
「どうしたの、姫?」
姫はペンギンの水槽の前から動こうとしない。彼女はただペンギンの水槽を見るばかり。
「姫?」
私は髪を掻きあげながら少しかがんで彼女の横顔を覗き込んだ。すると彼女は私の顔を見てにこりと笑って、顔を横に振った。
「ううん、何でもないの。ただあたし、水が怖くって泳げないからペンギンさんは泳げていいなって」
「あ、そうか。あのね、姫。私も泳げないんだ。だから夏の体育は…というか、体育の授業はすごく苦手」
ちろりと舌を出すと、その私の顔を見て姫はくすくすと笑った。
―――私は姫の手を握って次はゾウを見に行こうとして、立ち上がって、そしてその時に何気なく水槽を見て……
「きゃぁ」
私が悲鳴をあげたのは水槽の中に女の人がいたから。とても綺麗な女性なのだが、しかしどこかその美貌に不自然さを感じる女性を。
「お姉ちゃん」
姫が怯えた声を出す。
私はその彼女の手をぎゅっと握った。
わからない。何が起こっているのかわからない。だけど私の本能が警鐘を鳴らしている。とてもヒステリックに。ここにいてはダメだと。
―――だけどダメ。足が竦んで、動けない。
水槽の向こうでにたぁーーと笑う女の人。その唇が動く。
ようやく見つけた。【花の乙女】
私は目を見開く。
【花の乙女】ってなに? だけどその言葉が私の心を乱す。
助けて。助けて。助けて、お兄ちゃん。
*******
「どうしましたか、蒼君?」
「いえ、なんでもありません。師匠」
「うむ。それではボクとの最後の修行です。いきますよ」
―――師匠の体を取り囲む精(じん)の化身である竜たちがその動きを活発化させた。師匠の【波動回転雷神撃】がくる。
だから俺は身を深くし、居合い斬りの構えを取る。【竜術】によって絶対無敵の究極奥義にまで昇華された【破蕾】を。
「竜を俺に力を貸してくれ」
俺を取り囲む竜が活性化する。俺は心の手で竜の右手を触れる。瞬間、俺は足下を蹴って前に飛ぶ。
「【波動回転雷神撃】」
「【桜火】二の型 一閃炸裂。【破蕾】」
震える空間。
ぶつりかう師匠の義足と俺の【桜火】。
パワーは互角。
技のキレも。
あとは・・・
『私の力は汝の力。汝の力は私の力。そう。あとは私とあなたのシンクロ率。蒼、さあ、私の名を呼びなさい』
「【桜火】」
「『だぁぁぁぁぁあああああああーーーーー』」
「くうぅぉぉおおおおおーーー」
振り抜いた【桜火】。
根元から折れた師匠の義足。
そして師匠は果ての見えぬ【修練の間】をたっぷりと500メートルほど吹っ飛んで止まった。
俺はその距離を一瞬で移動し、師匠を抱き起こす。
「大丈夫ですか、師匠?」
「ええ。それにしても強くなりましたね。外の時間でわずか一日。この修練の間の時間にして100年。【竜術】を得、【桜火】に自分の名を呼ばせ、それでキミは完全にボクを越えた。だけどそれでも【神薙ぎ】と【顔無し】はキミよりも格段に上です」
俺は顔を横に振った。そして師匠はそんな俺をどこか哀れむような目で見てくれていた。
「蒼君。この【蓬莱山】で自分の運命を…秘密を、そして結珠さんとの出会いの意味を知ってしまった事を後悔してますか? すべてを知ってしまったキミはもう戻れない。日常と言う名の非日常に。少し前までの非日常がもうキミの日常なのだから」
その師匠の問いに俺は即答した。
「いいえ。後悔してません。それにすべてを教えてくれた師匠たちには感謝してますし、こうして【神薙ぎ】と俺のせいで狂ってしまった【結珠】の運命を正すための力も手に入れました。だから俺はこれでいいと想います」
「そうですね。キミは有能なる戦士となった。運命を正す剣を手に入れた。だけどね、蒼君。ボクはそんなキミが昨夜会ったキミよりも心配なのですよ。そう、そんなキミだからこそ【神薙ぎ】に・・・」
師匠は口をつぐむと同時に瞼を閉じた。
「すみません。少し眠ります」
そして師匠はダメージを回復させるべく眠りにつく。俺はその師匠に頭を下げた。
「ありがとうございました。師匠」
―――そう、俺はここで結珠を守るための力を手に入れたつもりだった。俺の【神刀】の血のせいで運命を狂わされてしまった結珠を守るための。俺を【神薙ぎ】からずっと守ってきてくれていた結珠を守るための。
……………だけど俺は知らなかったんだ。今こうしているその時に結珠が泣いていた事を。
******
震える小さな手。その手が私をはっとさせた。そうだ。私はお兄ちゃんに守られてきた。だけど今この場にはお兄ちゃんはいなくって、そして私は守られる立場なんじゃなくって、姫を守る立場なんだ。
「姫、走れる?」
「うん」
私は姫の手を引いて走った。
背後を振り返らずともあの女の人が水槽の強化ガラスをすり抜けてきているのがわかる。
私はペンギンの宿舎から飛び出した。
夏休み最後の日曜日。
動物園は幸せそうな家族連れでいっぱいだ。
そう、たくさんの人で…幸せでいっぱい。
こんな場所でどこに逃げろ?と。
だって、あれは私たちを追いかけてくる。そして私たちを捕まえるためなら周りの人を平気で巻き込む。
そんなの嫌だぁ。
―――私は周りを見回した。
どこも人がいっぱいだ。
どうする?
どうすればいい?
その時、私の耳に届いた声…
『こっちへ来なさい』
『右に曲がって』
『そしていっきに300メートル走って』
『そしたら今度は左に』
『そしたらそこにあたしたちがいるから』
『だからこっちへ』
『こっちへ早く、結珠』
『【花の乙女】を探し求める【無垢なる混沌の闇】が追いつく前に』
―――私は言われた通りに走った。
そこにあったのは植物園の一角にあるガラス張りのハウスだった。
私は姫を連れてそこに飛び込んだ。
閉めた扉のかぎをかう。
そして私はハウスの奥まで走って、そこに姫を隠した。
―――ぞくっと背筋を襲った悪寒に振り返った私が見たのはガラスの扉の向こうに立つ女の人…【無垢なる混沌の闇】。
彼女はにやりと笑って…
―――そして…
「きゃぁぁぁーーーーー」
私は頭を両腕で覆って悲鳴をあげた。
ハウスのガラスがすべて嫌になるぐらいにこの場にそぐわない綺麗な澄んだ音をあげて砕け散った。悪魔が歌う賛美歌とはこんな歌なのかもしれない。
「こんにちは、どうも、九重結珠さん」
「ど、どうして私の名前を…」
―――知っているの?
彼女はにこりとまるで少女のように微笑んだ。
「それはね、あたしが九重蒼の殺したいから」
「お、お兄ちゃんを?」
「そう、お兄ちゃんを」
こくりと頷いた彼女。そして彼女は髪を掻きあげながら、
「あとそれとね、あたしはおまえも殺したい。だってあたし、おまえみたいな女は大嫌いなのですもの。おまえみたいに『きゃぁー』って素で悲鳴をあげるようなぶりっこは大嫌いなのよ」
―――涙が滲んだのはその言葉に哀しんだからじゃない。
「あら、性格のくそ悪い女よりもよっぽどいいと想うけど?」
ばっと振り返った【無垢なる混沌の闇】。そして彼女は癇癪を起こしたかのように地団駄を踏んで、リュートを手に持つその人はにこりと小生意気そうな仔猫かのように微笑んだ。
******
「ふん、おまえに言われたらお終いだわね、あたしも。リュート弾きの小娘」
笑いがこみ上げてくる。【顔無し】に言われて九重蒼の妹を殺しにくれば、なんと長年探し求めていた【花の乙女】がそこにいた。
しかもそこにどれだけ八つ裂きにしてやっても気がすまないリュート弾きの小娘まで来てくれて。
だけど…
「二兎追うものは一兎も得られず、って言うものね」
【無垢なる混沌の闇】はくすりと笑うと、胸元からそれを取り出した。彼女の手の中で蠢くそれは………
「かしらぁ〜♪」
「かしらぁ〜♪」
「「そうかしらぁ〜♪」」
それは二つの人形を真ん中で切って、その切り口を縫い合わせて一つにまとめた闇の人形。それが歌を歌う時、これまで結珠を守る気を発していた植物らはしかしその瞬間に異様なる姿となって、リュートを弾こうとした彼女と結珠を襲った。
彼女らの首、両腕、腰、両足は奇怪なツルに捕らわれて天高く持ち上げられる。
そして【無垢なる混沌の闇】はにたりと笑った。
「子どもの時からかくれんぼの鬼にはよくなっていた。あたしはじゃんけんが弱かったから。だから鬼をいーっぱいやったんだけどお陰で隠れてる人を見つけるのはおてのもの」
軽く握った拳を口元にあてて彼女はくすりと笑った。そして視線をそこに向ける。
「【花の乙女】みぃーーーつけた♪」
結珠の顔が恐怖に歪んだ。
姫をにんまりと見据えて、それは笑う。闇よりも昏く暗鬱な表情で。
【無垢なる混沌の闇】はスキップを踏むように小動物のように小さく縮こまって震える姫に近づく。結珠は悲鳴をあげる。まるで自分の身が切り裂かれているように。
「えぇぇーーーーい」
口の片端から血の筋を一筋流す彼女はなんとかリュートを弾こうとするがしかし腕が動かない。だから彼女は結珠に言った。
「歌を! 歌を歌いなさい」
結珠は小さく口を開けて、そしてそう言った彼女から逃げるように目を逸らした。
「早く。【花の乙女】がさらわれたら…あいつの手に落ちたら彼女は種を搾り取られて殺されるのよ。それでもいいの、あなたはァ」
結珠は眼を見開いた。
言い訳がない。
そんなのが言い訳がない。
こんなの怖くって怖くって怖くって怖くってしょうがない。
ただの小娘の自分にどうこうできる事だとも想わない。
だけど…
だけど…
「姫が殺されるなんて嫌だぁ」
結珠は姫のあの小さな手が持っていた温もりがまだ残る手を握り締めて、歌を歌う。
魔性の人形の歌によって異様なるモノに変えられていた植物たちは、しかし結珠の優しい歌によって、心を癒される。そしてその姿は元に戻るのだった。
だがそれは遅かった…。
どうしようもなく…。
人形たちの魔の歌にもその姿を変えられる事無く結珠の心を代弁するかのように姫を守っていた茨はしかし、【無垢なる混沌の闇】に切り裂かれ、茨の結界の中にいた姫は彼女の腕の中で気絶をしていた。
そう、【花の乙女】はついに【無垢なる混沌の闇】の手に落ちた。
「姫ぇー」
結珠は泣き叫びながら姫を助けようとするが、しかし【無垢なる混沌の闇】の切れ長な瞳に見据えられた瞬間に動けなくなった。
「ひ、め・・・」
そして怯えた結珠を見て、【無垢なる混沌の闇】は笑う。
「いいのよ、結珠。あなたが哀しむ必要も自分を責める必要もない。あなたは風の属性を持つ【巫女】なれど、しかしそれがどうした? 所詮はたかが小娘。あたしに敵うはずは…」
と、言った瞬間に彼女は口から血塊と一緒に息を吐き出した。そして彼女の目は自分の腹部に。そこからは刃が飛び出していた。
彼女は首を180度回す。そこにはリュート弾きの小娘がいて、その彼女の手には懐剣が握られていた。
「所詮はたかが化け物。忘れないでくれる、このあたしの存在を」
そして彼女はまた【無垢なる混沌の闇】のマスクを血だらけの手で剥いだ。それはおそらくは彼女の計算通りだったのだろう。【花の乙女】を抱きしめていた【無垢なる混沌の闇】の手はその彼女を放して、そして拳を握り締めた手がにやりと笑って後ろに飛んでリュートを構えた彼女を襲った。
だがその手は奏でられたリュートの旋律に砕け散る。
にやりと笑う彼女。
呪詛をヒステリックに吐き捨てる【無垢なる混沌の闇】。
その隙に結珠は姫に走り寄って、彼女を両腕で抱きしめた。
一体なぜ自分たちはこうなったのだろう?
なぜ?
何が悪くって、それでこんな性質の悪い悪夢かのような非日常という名の日常のある場面に放り出されてしまったのだろう?
だけど……
「かしらかしらかしら、そうかしら」
「なにかしら?」
「【顔無し】ちゃんのご登場」
「あらあらまあまあ、それじゃあみーんな皆殺し」
「「ぐぅえ」」
睨み合う彼女と【無垢なる混沌の闇】から結珠は視線を転じた。ぞくっとした冷たいモノを感じた方へ。そしてそこには狐の面をつけた姫と同じくらいの男の子がいて、その足はじたばたと動く奇怪な人形を踏んでいて。
………結珠は姫を抱きしめたまま後ずさる。
そしてその後ずさった足が地についた瞬間には狐の面をつけた男の子…いや、待て。狐の面をつけた女性が結珠の前にいて、その彼女の握り締めた拳が結珠の腹部に叩き込まれた。
「ひ、め・・・」
結珠はくずおれそうになってもしかし姫を最後まで放さない。
その彼女に狐の面をつけた女が優しく囁く。
「手を放して、風のお姉ちゃん。その娘はね、【花の乙女】。化け物なんだよ。だからいいの。そういう役目を持って生まれてきたんだから。だからいいの」
ああ、その囁きが持つ闇の気配に当てられた結珠の心は闇に囚われて…彼女は気を失う。
気を失った結珠から【花の乙女】を取り上げた狐の面をつけた女…【顔無し】は左腕で姫を抱えたまま、右手を結珠に差し向ける。右手の伸ばされた指先…つんと尖った爪の先が結珠の白い首に当てられて…その白い肌を血のビーズが飾るが、しかしその時に結珠が「ひめ」と言いながら涙を一滴零したのを見た瞬間に指先に込められていた【顔無し】の力は消えた。
そして彼女は【無垢なる混沌の闇】に狐の面をつけた顔を向けた。
「【無垢なる混沌の闇】。私は帰る。あなたはどうする? 私と帰って両腕をつける? 【花の乙女】を連れて***村に行って儀式をする? それともここでその娘に殺される? どうする?」
【無垢なる混沌の闇】はうぐぅっと言葉を飲み込むと、そのまま空間に溶け込んで消えた。「リュート弾きの小娘。次こそはおまえを殺してやる」と昏い怨念のこもった声で呪詛を吐きながら。
そして【顔無し】は…
「ばいばい、【風の巫女】。また、今度ね」
狐の面をずらしてぺろりと結珠の涙を舌で舐めとって、そして消えた。
******
ベッドの上の結珠は眠っていた。その寝顔はとても哀しい。
「ごめんな、結珠。おまえをひとりにさせてしまって。だけど大丈夫。安心しろよ。姫は俺が必ず連れ帰るから」
そして俺は病院を後にする。
その俺の前に現れた彼女。
「どこへ?」
「***村へ。【無垢なる混沌の闇】を完全な闇なんかにはさせない。姫は必ずこっちの世界に連れ帰ってみせる。ああ、やってやるさ」
俺がそう言うと、彼女は微笑んだ。だけどそれは師匠と同じ俺を哀れんでくれているようなそんな表情。
「そう。そうね。もう【神薙ぎ】と【顔無し】VS【神薙ぎの鞘】と【風の巫女】は始まっている。だけど大丈夫? あなたは【神薙ぎの鞘】。【花の乙女】の香りに耐えられる?」
―――俺はその彼女の問いに笑いながら答える。
「もしも俺が【花の乙女】の香りに惑わされて、道を踏み外しそうになったら、そしたら君がその俺を殺してくれ。あの刀工に渡された懐剣【蒼月】で」
「知っていたの? そう、そうか。もうあなたは全てを【蓬莱山】で教えられてきたのね」
「ああ」
そして俺と彼女は***村へ行く。そこで行われようとしているおぞましい儀式を阻止し、姫を救うために。そしてそれは同時に【神薙ぎの鞘】であるこの俺の第一の試練。
複雑に絡みつく糸は一本一本ほどけていく。
――絡みついた糸を解くのが俺の宿縁というのならば、俺はそれを背負う。運命の重い十字架は俺が背負う。そう、俺独りで……。
『いいかい、蒼君。結珠さんは【風の巫女】。本来ならば【神薙ぎ】を癒すのがその役目。だけど【神薙ぎ】と【神薙ぎの鞘】という運命の糸が複雑に絡み付いてしまったばかりにその糸に絡まった彼女の運命も狂ってしまった。だからいずれ彼女もまたこの戦いにその身を投じなければならない。故に強くなりなさい、蒼。彼女が大事なのなら』
ああ、結珠は大事な妹だ。
―――だから俺はすべてを独りで背負うんだ……。
この戦い、俺独りでやってみせる。
ああ、やってやるさ。
**ライターより**
こんにちは、九重蒼さん。
こんにちは、九重結珠さん。
ライターの草摩一護です。
連載形式シチュノベ第三話『花の乙女 ― 蒼の血と結珠の涙 ― 』
今回はツインでとの事でしたので、それではと想い、そしてこうなりました。
【花の乙女】は姫だったのですね。^^
そして【花の乙女】とは化け物で、どうやら儀式の道具らしいです。しかも【無垢なる混沌の闇】は逆に前は人間で、その儀式と何やら関係がありそうです。
しかし***村とは?
今回、蒼さんは仙道をマスターしたもようです。
【竜術】→これはどうやら気の結晶である竜に触れる事で身体能力を爆発的に高める技のようです。
そしてやはり今回、びっくりだったのは結珠さんでしょうか? 彼女は【風の巫女】だったらしいですね。しかも何か重大な運命を背負っているようですが、しかし蒼さんはその彼女の重荷まで自分独りで背負って、彼女をこの戦いに参加させるつもりは無いようです。^^
ですがそれはやはり蒼さんが決めるべき事ではなく、結珠さんが決める事。今後の彼女に期待大ですね。
【顔無し】も今回は色々と動いてはいましたが、しかし行動がまだまだ謎ですね。しかもどうやらこの【顔無し】は現時点で蒼さんよりも強いらしいです。
そしてとうとうその名が出て来た【神薙ぎ】。果たしてこれは一体何なのでしょうか?
まだまだ糸は絡みついたままです。
それでは今日はこの辺で失礼させていただきますね。
今回も本当にありがとうございました。
失礼します。
|
|
|