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<東京怪談・PCゲームノベル>


春、音楽都市からのエスケープ ─雨の時間─

【1】

「磔也君」

 ──カシャ、

 何気無く振り返った磔也はシャッター音を模した電子音と、倉菜が構えていた携帯電話のカメラに気付いて眉を顰めた。
「……倉菜、」
「うん、きれいに撮れた」
 無邪気な笑顔を満足気に浮かべて画面を確認している倉菜に、磔也は俄に不機嫌そうな表情で舌打ちしながら訊く。
「──じゃ無いだろ。何やってんだよ、お前」
「だって、磔也君を撮りたかったんだもの。母がね、磔也君がどんな人か見たいって。……良いでしょう?」
「嫌いなんだよ、写真」
「……どうして?」
「魂が抜ける」
 ……明らかに嘘と分かる答えを返し、磔也は前髪を大雑把に掻き上げながら溜息を吐いた。
「──あ、シャッターチャンス」
 
 ──再び、カシャ。

「……おい」
「だって、さっきのは前髪でちょっと目が隠れてたんだもの」
「止めろよ、」
「だって」
 丁度、雲の切れ間からコントラストを伴って差した陽光に似合う朗らかな笑い声を上げる倉菜には磔也の不機嫌さも毒気を抜かれざるを得なかったらしい。溜息を吐いて肩を落としながら、好きにしろ、と彼は吐き捨てた。
「つーかな、……何で母親が俺の事知ってんだよ」
「駄目?(上目遣い)」
「もう良い、好きにしろっつってんだろ」
「じゃあ、」
 倉菜は賺さず彼の傍らに顔を寄せ、携帯電話を持った片手をぐっ、と前へ伸ばした。
「一緒にもう一枚、──ね?」

 港の見える丘公園から歩いて程無く、外人墓地が連なる庭園に出た。石造りの十字架や聖母子像を象った墓碑が立ち並ぶ間には、春の訪れを告げる色彩が静謐ながら息苦しい程の生命力を花開かせている。
 きれい、……そう感動を覚えると同時に、矢張り来て良かった、と倉菜は思った。傍らを歩く磔也が、彼は敬虔なクリスチャンの墓碑には何ら思う所も無かったようだが咲き乱れた花々には時折、目を奪われたように立ち止まって目を細めている事に気付いたからだ。そんな時の彼は、普段の冷酷さに比べれば驚く程無邪気な目をする。
 倉菜も、そんな顔を見せる時の彼の方が好きだ。本音ではきっと優しい人だと思う、──でも、だからこそ、彼は優しい顔をしている方が良い。
「きれいね」
「──まあな」
「磔也君、花は嫌いって云ってたけど、……本当はそんな事無いんでしょう?」
「嫌いだよ」
「嘘」
「嫌いだ。……きれいだと思うと、花びらをバラバラに散らしてやりたくなるから」
 ──そう云った彼の口唇は酷薄そうな笑みを浮かべていたが、目がどこか寂しそうだった。
「……、」
 まさか、と思う。きっと本心じゃ無い、と。
「……もう、触っても大丈夫なんだから、──触れてみない? 優しく、そっとね」
「良いよ」
「でも、」
 ──お前さ、と不意に彼が何かを思い出すような目になった。
「薄々勘付いてたけど、何か勘違いしてないか? 俺の事」
「え?」
「俺はお前が思ってるような人間じゃ無いぜ、多分。優しくもないし、それに臆病だ」
「……磔也君?」
 急に、何を云い出したものかと倉菜は戸惑った。
 気紛れな所のある彼の事だ、案外、ここから見える景色の感傷に当てられたのかも知れない。
「……何の事?」
 例えば、と云いながら、気侭に伸ばした指先で背の低い花木に触れて行きながら、磔也は歩き出した。遅れないように、と倉菜もやや小走りにそれに続いたが、翳らせた横顔をやや伏せている彼とはどうやっても目を合わせられなかった。
「何か、……お嬢さんが聞いたら嫌悪するような事を過去にやらかしてるかも知れないだろう?」
「幻想交響曲の事?」
「──え、」
 倉菜の言葉は、磔也には全くの不意打ちだったようだ。驚いたように足を留め、彼女を振り返った目には戸惑いがあった。
「聞いたわ、……磔也君と、お姉さんが関わってたって事」
「……っあー、……総帥か。……やられたな」
 悪戯が露見した子供そのものの表情で、磔也は苦笑した。然しそこは狡猾だ。素早く倉菜の手を取って両手で包み込み、彼女の目を真っすぐに見て云う。
「もうしないよ、お前が居るんだ、……もう、あんな事はしない」
 本音かどうかは別として、目を真っ直ぐに見れば真剣な表情に見えるのは当たり前である。
「……それが良いわ。だって、無事だったのが不思議な位よ。異能者相手に、そんな危険な事」
「……、」
 妙に生暖かい目を座らせ、磔也は苦しい笑みを浮かべた。──お嬢さんめ……。相変わらず、着眼点が飛んでる。
「……そうするよ」
 本気か? と疑う余裕が純真な彼女にある筈も無い。必死で、更に不良が調子付くような事を云う。
「この間の事は仕方なかったと思うわ。だって、組織に命令されたんでしょ? 最後には私達に情報まで流してくれたじゃない。悪い人の筈は無いわ。そこまで反省してるなら(←してません)……、許されるんじゃ無いかしら。それに、その映像作家の事件も、命令されてやった事なんでしょう?」
「……いや」
 流石にここまで甘やかされると決まり悪いらしく、磔也は自ら否定した。
「俺の意志だ。……意志でも無いな、単に、調子に乗ったんだ。姉貴と賭けまでしてた」
「賭け!?」
「その映像作家のデッドオアアライブ。因みに俺は死ぬ側に賭けてた。黒星だ。完全に遊びだったけどな」
「……、」
「他にも色々やってんぜ、……あー……、」
 笑みを浮かべたままで、彼は苦々しそうに眉を顰めた。
「今にして思うと、何であんな事したんだろうって思うような事もある」
 そこで、彼は目を細めて倉菜を眺めるように見詰めてやや首を傾いだ。
「……お前、誰?」
 ──え? 一瞬の間を置いて、何となく彼の云わんとする事に気付いた。──こんな話を静かに聞いていられるお前は、一体誰なんだ、と。薄々ではあるだろうが、彼は倉菜の異能にも気付いている。
「私……、」
「……異能者だって云う事は分かってるよ。前も云ったけどそれは俺にはどうでも良い。だからって嫌いやしないし利用する気も無い。それは本当だ。……ただ、気になるだろう、お前、一体誰なんだろうって」
「……、」
「……いずれ、お前がどっかに帰ってしまうんじゃないかって不安なんだ」
「……そんな事は無いわ」
 倉菜はやや俯き加減に、肩に落ちた銀髪の陰に目を伏せた。

──私は魔神の娘なの。……もしも覚醒してしまう事があれば、きっとこのままの姿では居られない。

 その事実は、告白出来なかった。否定したのは倉菜自身の希望としての意見でもある。せめて、そうして自分にも彼にもそんな事は無い筈、と云い聞かせるしか出来なかった。
「……悪かった。そういう事、訊かれる時点で厭だよな。……もう良い、何も云わなくて」
「……、」
「俺だって人の事云えないからな」
 気を取り直そうとしたのか、磔也はそこで態とらしい程明るい声を上げた。

──磔也君、どこかへ行くの?

 不安感情は、伝染する。倉菜は悲痛な表情で恋人を見上げた。
 ──辛気臭いな、と、まるで今までの会話が無かった事のように彼は殊更何気無い表情を見せた。
 それに甘んじよう、と倉菜は暗い気分を抑え込んだ。

──せめて、今だけ。……もう少しだけ。

【2】

「磔也君、誕生日はいつ?」
 気分を取り直して、話題を変えた。
「……あ、製造年月日? 5月26日」
「……、」
 自分から、製造年月日などと自嘲的な言葉を平気で云ってのける磔也に倉菜は悲し気に眉を顰めたが、敢て気付かない振りをする事にした。
「……5月26日ね。……良かった、未だ過ぎて無いのね。覚えておくわ」
「覚えて要ら無ェよ。何が目出度いんだ、誕生日なんて」
「……お祝いする事に、理由が必要?」
「祝う必要が先ず無い」
「寧ろ私は、毎年両親に感謝するかしら。……あ、」
「……、」
 ちらり、と横様の視線を投げた磔也の目の冷たさに気付いた倉菜は口許を覆った。──仕舞った。……禁句だ、彼には。
「……ごめんなさい」
「……、」
 ──つかつか、と磔也は倉菜に歩み寄って来た。……完全に怒らせた、と恐れて倉菜は肩を強張らせた。──が、彼女の目を覗き込んだ途端、彼は不意に思わぬ明るい笑顔を見せた。──態とだ。態と、驚かせる為にさっきはあんな冷たい目をして見せた訳だ。
「まあ、それも有りだろうな。──で、更に今年は親は放っといて、恋人と祝うって選択肢は?」
 愉快犯のような、気恥ずかしさと照れで顔を赤らめたまま俯く倉菜の反応を楽しもうとする時の彼は、普段通りだ。──良かった、と思いながら、倉菜はようやくの事で頷いた。
「……有り、──……でも……、」
「でも、何だよ」
「……今年は……もう過ぎてるわ」
「……、」
 間の抜けた沈黙が2人の間を通り抜けた。──一瞬の後、はあ、と微妙な声を磔也が発した。
「早生まれか、お前」
「……そう、」
「いつ?」
「3月7日」
「ああ、──ってこの間過ぎた所かよ」
「……そう、」
「じゃあ、祝ってやるのは来年だな」
 明るい声を取り戻して、磔也は軽く倉菜の髪を撫でた。──ええ、と倉菜は微笑みを浮かべて頷いた。
「……楽しみにしてる。そうだ、その前に私が磔也君の誕生日、お祝いしてあげなきゃね、」
 何か欲しい物ある? と倉菜は訊ねた。──懲りもせず。
 懲りもせず、……と云うのは、磔也の場合、こうした質問に真面目な返答を返した試しが無いからである。矢張りというか、そうだな、と空を見上げた磔也はニヤ、と悪戯っぽい笑みを浮かべて倉菜を一瞥した。
「お前とか?」
「……え?」
「"Je tu vous"?」
「……ちょっ……、」
 ──くす、と軽く上がった忍び笑いに顔を上げて初めて、揶揄かったのだと気付いた。
「……もう、磔也君!」
 悪い、お前、あんまり素直な反応するから。──笑い声は未だ続いていた。
「誕生日とか、祝った事無いんだよ。俺も姉貴もアレだろ? ……特に、去年は最悪だったな。その頃から耳鳴りが酷かったし、雨も降ってて、とにかく憂鬱でそれ所じゃ無かった」
「……そう、」
「祝ってくれればそれはそれで、嬉しいかも知れないな」
 そう云って、悪戯なウィンクを投げる。──……祝うって……。
「……それは、」
 ……そういう事!? ……再び頬を熱く火照らせた倉菜の素直さを冗談だよ、と笑い飛ばし、磔也は彼女の手を取って引こうとした。
「……とか云ってる内に、……来たぜ、」
「え?」
「雨だ」
 ──とうとう降り出したな、──そう云って空を見上げた彼に吊られて、倉菜も顔を上げた。──ポツ、……、その彼女の頬に、冷たい雨粒が一滴、雫を跳ねて降りて来た。
 昼過ぎから、空模様が怪しい、とは云っていたのだ。磔也は夕方までは持つだろうと云っていたが、とうとう降り始めたらしい。
「行こう」
 港の見える公園までの登り坂に喘いでいた時とは逆に、今度は磔也が倉菜を促した。倉菜は頷いて、彼に手を引かれるままに歩調を揃えて駆け出した。

【3】

 どこか、明確な行き先やアテがあった訳では無い。ただ、雨を凌げる屋根の下へ行こうと元町通りの石畳を駅に向かって2人は走った。
 雨は、刻一刻と激しくなって来る。夕立ちのようだ。少し待てば止むかも知れないが、如何せん通り雨でもこの激しい雨垂れに晒されるのは容赦して欲しい。
 手近な軒先に身を寄せた所で立ち止まり、参ったな、と磔也は苦笑して空を見上げた。……倉菜は平気だったが、彼はやや息が切れていた。
「どうする」
「どうするって……、……仕方ないわよね、止むのを待つしか」
「当分は降るぜ、まあ止むのは夜だ」
 既に携帯電話を取り出して天気情報を見ていた彼の言葉で、倉菜は厭な予感を感じてやや表情を強張らせた。

──あの空……、……厭だ、……『来そう』、

「仕方ないな、帰るか」
「……、」
「倉菜?」
 どうした、と磔也は急に顔色を失って黙り込んだ倉菜を覗き込むように肩に手を置いた。──と。

「いやあぁぁぁぁぁっ!!」

 周囲がフラッシュのような白い閃光に包まれた、と思うと同時に倉菜は悲鳴を上げて磔也の胸に縋り付いた。それでも、そんな高い悲鳴も同時に唸を上げた爆音にかき消される。
 ──雷だ。
「何……、」
 磔也が肩を竦めたのは、不意打ちの雷では無くて急に自分に縋り付いて来た倉菜の行動に、である。
「何だよ、……おい、」
「……あ、」
 我に返って、初めて倉菜は自分の咄嗟に取った、ある種大胆とも云える行動に気付いて慌てて身を引いた。
「ご……ごめんなさい、私……、」
「……、」
 ──お前さ、と云い掛けた彼の表情が再び、閃光で白くなった。
「雷、苦手なん……──、」
「きゃあああああっ!!」
 今度は耳を覆って蹲る、──聞いて無ェ……、と磔也は呆れた表情になって黙った。
「倉菜?」
 大丈夫かよ、と未だ蹲ったままの倉菜に合わせて屈み込んだ彼の手が適当に軽く背を叩いている。
「そこまで怯える事無いだろう、そう簡単に人体に落ちるもんかよ。──ほら、見ろ、あそこに避雷針だって付いてんだろ」
「厭なの、私、雷なんか大っ嫌い、……音が厭なの、……あんな大きい音、……怖い」
「……へえ、」
 意外だ。何ともまあお嬢さんらしい苦手だが、だからと云ってここまで狼狽する彼女は意外だ、と磔也は呆れたような笑みを浮かべた。
「立てよ、──大丈夫だって、建物の中に入っちまえばそう聞こえるもんじゃ無ェし。もう直ぐ駅だよ、一気に走ろうぜ」
「厭……、」
「おい、」

──駄目だ、こりゃ……、

 梃でも動きそうにないな、と微笑したまま磔也は溜息を吐く。
「……え、」
 不意に、強く腕を掴んで立ち上がらされたと思うと、倉菜の肩は抱き寄せられていた。
「磔也君……、」
「仕方無ェなあ、……全く可愛い苦手があったもんだ」
「……、」
 雨に濡れて冷えた身体が、恋人の体温に暖かさを感じている事で倉菜の思考回路は苦手の雷まで忘れる程、一気にショートした。──顔が赤い。
「そんなに厭なら今日はどっかで泊って行くか?」
 彼の口調は優しいが、それは寧ろ冗談めかして戯ける事で彼女の意識を恐怖から反らそうとする類の声だった。
「泊るって……、……ちょっ──、……と、磔也君、」
 既に彼女の耳には雨音も落雷音も入っていない。しどろもどろに訊く彼女の赤い顔を見て、満足気に彼が高く笑って腕を離した。。
「冗談だって。……お前、確りしろよ。帰らないんならそういう事になるぜ、流石にそういう状況で自制しろって云われてもな。それは厭だろう? ……ほら、……帰ろう」
 急に、彼の表情からは笑みが消えて目が真剣になっていた。
「でも、」
 そう云った倉菜の手を、磔也がぎくりとする程強い力で引いた。
「磔也君、」
「俺に間違い犯させる気か?」
 倉菜の目を覗き込んだ磔也の声にはどこか焦りと、切実さが含まれていた。──怖い。
「帰るぞ、良いな」
「……、」
 倉菜が頷いた時には、彼は既に身体を離して走り出していた。
 何も仕方が無く、ただ腕を引かれるまま、雨の中を駅に向かって駆け出すしか出来ない。
 倉菜の意識は既に雨にも落雷音にも無かった。

──間違いって……、

【4】

 新学期が始まる直前の4月某日夜、成田空港のロビーに独りで佇む倉菜の顔色は明るいとは云えなかった。
 ──顔を上げる、電光掲示板の表示が、彼女の待人を乗せたフランクフルト国際航空からの旅客機の到着を知らせた。

──磔也君、

 ──『今度、良いオーケストラが来たら連れて行ってやるよ』
 来日したロンドン交響楽団を聴いて来た、という磔也が春休みの直前、電話を寄越した。やけに明るく取り繕った声と、当たり障りの無い話題が先日の気まずさを挽回しようと務めているらしい事は倉菜にも分かった。だからこそ倉菜もそう、と務めて何ら気に留めた風の無さを装って相槌を打った。
『良かった?』
『まあまあだった。指揮が良かったな。今度誘ったら、行くか?』
『行きたいわ。……連れて行ってくれる?』
 良いよ、と安堵したような、穏やかな笑みを浮かべているらしい声が返った。
『春休み、どうするの?』
『特に何も無いな。取り敢えず進級も出来たし』
 また連絡するよ、と云った磔也の声に屈託が無かったので、倉菜も安心して受話器を置いた。

 ──だが、春休みに入って数日が経過しても、磔也からは何の連絡も無かった。
 最初の内は、気紛れな彼の性格を思って特に気にも留め無かったものが、流石に数日間音沙汰が無いと、──まして、一応、と思って電話を掛けてみても不通、メールの返信も無し、……となれば不安が沸き上がった。
 
──また、危ない事に巻き込まれてるんじゃ無いかしら。

 太巻さんと何か、危ない事でもしたんじゃ無いかしら。
 それとも、東京コンセルヴァトワールがまた何か、……ううん、だとすれば、あの人、……ホールで見た女の人。……シドニー、って磔也君は呼んでた。シドニー・オザワ。……総帥は『最も注意すべき人物です』って仰っていたけど、……あの人と磔也君、一体どういう関係? ……きれいな人だったわ。

 ──ともかく、……それでも、無事でいてくれれば良いのだけど。
 そう思って待ち続けていた倉菜に追い討ちを掛けたのは、父からの電話だった。

『……お父さん?』
 優しい父の声、──元気か、と気遣ってくれる彼の言葉が、不安を抱えていた倉菜の気分を大分和らげてくれた。
『元気よ。……そうだ、プレゼント、有難う。ホワイトデーって、バレンタインのお返しの日だったのね。知らなかったわ。でも嬉しかった。……翡翠? 元気よ、とっても可愛い』
 一通り、彼がホワイトデーにと贈ってくれた灰色猫の礼を述べた所で、彼がふと「倉菜」と重々しい声で切り出した。
『──彼氏とは上手く行っているかな』
『……、』
 ──大丈夫よ、……でも、最近連絡が無くて、……忙しいんだと思うわ……、──無意識の内に、不安と、彼に理由を与えて弁護したい気持の混ざった言葉を脈略無く呟く彼女に、父親は厳しい声で告げた。
『気を付けなさい。彼はもしかしたら、倉菜を遊びくらいにしか思っていないかも知れない』
『……、』
 愕然とした倉菜は言葉を失った。──……遊び……、……遊びって、どういう事。
 彼の恋愛は真剣ではない、と云う事だと父は云う。だから、気紛れに純真な少女を口説き落として遊んでいるだけではないかと。
『ただ聞いた話だが、彼の男性関係はあまり誉められた物では無いな』
 そんな事無いわ、磔也君、自分はゲイじゃないって凄く怒ってたもの、と倉菜は咄嗟に高い声を上げた。──つい、でもそこまで声を荒げてしまった理由は、その事を一番認めたくないのが彼女自身だったからかも知れない。
『どうだろう。どうやら、過去にどこぞの青年の愛人だったという話も聞くし、そいつとは最近、別れ話が縺れたのか何やら一騒動だったようだ。ホテルに連れ込まれたという話もあるし』
『──……嘘』
 ──だから? だから、最近連絡してくれなかったの? 男性は嫌いって云ってたのは、私を騙す為?
『倉菜』
 ──その後の父の言葉は、あまり覚えていない。
『大方の事情はお前も聞いたかも知れないが、彼は過去に大分悪事もやらかしているようだ。お前がそれでも好きだと云うならば私に止める権利は無いがね、然し、そんな人間が女一人騙すくらい、何の罪の意識も感じないだろう事は頭の隅に留めて置いた方が良い』

 その事だけで大分動揺していた彼女が、父からの電話を受けた翌日、偶然か運命の悪戯か、道端でばったりと磔也の姉、レイと顔を合わせてしまったのが更に悪かった。

『──あら、磔也の彼女』

 レイは、情報屋の割りに肝心な事には全く気楽というか鈍感な人間である。元々、──レイが過去に、磔也から暴行を受けたトラウマを抱えている事など知りもしない倉菜には、そう思えた──彼女には難聴者の弟を放置していた認識から好感を抱いていない。どうも、と素っ気無い会釈を返して通り過ぎようとした倉菜に、ねえー、と苛立つ程脳天気な声が掛かった。
『聞いてる? 磔也から』
『……、』
 何を、──と、止めなさい、と自分で思ったにも関わらず、倉菜は問い返してしまった。
『ドイツ行きの事。……あ、聞く訳無いか。当日になっていきなり知らされたんだものね、本人も』
『ドイツ行き?』
『磔也、今ドイツなのよ』
 え? ──ドイツ、一体、何故。
『──さん、知ってるでしょ? あの人達のお義母さんが、世界的なピアニストなの。だから、その特別講義ってトコかな。もー、大騒ぎだったわよ、本人が暴れるもんだから、殆ど彼と2人掛かりで車に押し込んだの』
 さぁて、今頃血でも吐いてるかな。レイの気楽な言葉にも、そこで精神状態が最悪まで落ち込んだ倉菜には聞き咎める余裕すら無かった。
『ごめんね、あなたに連絡するのが遅くて。──そうそう、帰国予定は──日だから、良ければ空港まで迎えに行ってやってよ。喜ぶわよー、磔也』

 ──そうして、行きたくない、会いたくない。……彼の本音を知るのが怖いと思いながら、それでも倉菜は重い足を引き摺ってこうして成田空港までやって来てしまった訳だ。
 
──どうせ遊びだったのなら、早い内にはっきりと知らされた方が良い。

 ゲートから、疎らに人間が出て来る。
 ぼんやりとその流れを見詰めていた倉菜の耳に、──きれいな、さほど大きく無くともその美しい声質で以て良く通る大人の女性の声が届いた。
「タクヤ」
「──……、」
 ──磔也君? 
 思わずそちらを振り返ると、──何だか、遠目にも妙に憔悴した様子の磔也が一人の外国人女性に伴われているのが目に入った。
「大丈夫?」
「……、」
 磔也は粗暴な程の身振りで彼女に何やら悪態を吐いている。然し、女性の方は鷹揚だった。倖いだったのは、その女性が磔也と比べればせいぜい若い母親程度の年齢で、こちらは疑いようがなかった事だ。
 2人はその後、更に2、3言言葉を交わし、行き先を異にして別れた。
 ……ふら、──飛行機酔いか、体調でも優れないのか(何れにせよ出国審査の検疫では足留めを喰っただろう)、よろめきながら歩く磔也は、立ち尽くしたままの倉菜に確実に近付いて来ていた。

 ──このまま、気付かない振りをしてしまえば一時的にでも大分楽になれただろう。……でも。
 
「……磔也君、」
 倉菜は殆ど反射的に彼に駆け寄り、手を差し伸べていた。──顔を上げた彼の驚愕した様子。
「倉菜」

「──お帰りなさい」

 重そうね、荷物、持ってあげましょうか? ──良いよ。別に重く無い。──……そう。……あのね、

「もし良ければ、少し話せる?」

【5】

「磔也君、矢っ張り男性の方が良いの?」
「おい」
 ロビー脇のスタンドで珈琲を買い、二人はそれを手に喧噪の中の片隅で向かい合った。
 何がなんでも俺をゲイにしたいらしいな、と磔也は投げ遺りな溜息を吐いた。
「俺はゲイじゃ無ェっつってんだろうが、何でそこで話が逆戻りするんだよ」
「……父から聞いたの」
「また父親か。……そういう下ん無ェ事云ってると、今度は俺が近親相姦を疑うぜ」
 ここまで思い詰めた倉菜の苦悩など知る由も無いらしい磔也は、そんな軽口さえ冗談めいた笑い声と共に口にした。
「……連絡してくれなかったじゃない……、」
「悪かったよ。でもな、俺だって死に掛けたんだぜ。太巻の店に予告も無く連中が乗り込んで来たと思ったら急にドイツに連れて行くとか云われて、姉貴までパスポート持って便乗しやがって。連絡する暇がある訳無いだろう、あっちに行ったら携帯は圏外だわ説教されるわ地下牢に放り込まれるわ、──……、」
「……地下牢?」
「……厭な事を思い出した……、」
 磔也は目許を覆って天を仰いだ。……まあ、何やら大騒ぎだったらしい事はそのようだが、……問題は。
「……男の人とホテルに行ったって、本当?」
「……、お前の父親、どっからそんな情報聞き付けて来るんだよ。……ホテルってなあ、……本当のホテルだぜ、連中の実家なんだ。所謂観光宿泊施設」
「でも、男の人と、……」
 
──何、云ってるの私……、

 不意に倉菜は自分自身で驚愕して俯いた。頬を両手で覆っていたのは顔が火照った所為だと思ったが、そうしている内に目頭が熱くなって来た。──泣きたい。

「……要は、浮気したんだろうって云いたい訳だな」
 静かに降って来た磔也の言葉は、妙に落ち着き払っていて声は冷たかった。……第三者が見れば、「ああ、キレたな」と分かるだろう目の色だったが、彼女は目を伏せているので気付かない。
「……だって、私は女だし、」
「そうか」
「……、」
「ふ──ん……、……まさか、そこまで見損なわれてるとは思わなかったね」
 ──もう駄目だわ。倉菜はここで覚悟を決めていた。それだけに顔を上げて磔也の目を見る事がどうしても怖かった。
 然し沈黙は暫くの間続き、別れの言葉を告げる代わりに磔也が取った行動は、俯いたままの倉菜の腕をやや乱暴に引いて立ち上がった事だった。
「ちょっと、来い」

【6】

 どこまで行くの、──ねえ。
 倉菜の訴えを無視して磔也はさっさと歩く。然し倉菜の腕を掴んだ手の力は強く、彼女はただ従うしか無かった。
 そうして磔也が辿り着いたのはタクシー乗り場である。一台のタクシーを捕まえると彼は先ず倉菜を押し込み、無愛想に「取り敢えず都内まで」とだけ告げた。

 国道が県境を越えた所で運転手が「どちらへ行きます?」と訊ねたが、磔也は「どこでも良い」と無茶苦茶な事を云う。
「どこでも、って困りますよ。取り敢えず都内まで来ましたけど、」
「……じゃあ良いよ。ここで降りる。止めてくれ」
 運転手は呆気に取られていたようだが、然し面倒な客はさっさと追い出すに限る。タクシーはそこで停車し、精算をさっさと済ませた磔也は再び倉菜の腕を引いて夜の東京の街へ歩き出した。
 
 一体、磔也がどこへ向かおうとしているのか分からない。……どこへ、それは彼本人にも知る所では無かっただろう。ただ、歩いて行くだけだ。人目を避けて、薄暗い路地を選んでひたすら歩く。
「──離して、」
 人気が完全に途絶えた所で、とうとう倉菜は踏み止まって叫んだ。磔也は足を止めて倉菜を振り返ったが、それでも強く掴んだ彼女の腕だけは離さなかった。
「厭だ」
 良いか、俺の目を見て聞け、という彼の言葉は、倉菜から抵抗する気力を奪った。──聞きたくない、彼の本音を知るのは怖い、と思いながら、目を逸らす事が出来無かった自分に、どうして、と叫びたい。
「俺は今までさんざん犯罪紛いの事をやって来た、それは認めるし、お前に隠してたのも事実だ。単に云わなかっただけじゃない。意図的に黙ってた。でもな、この事に関しては嘘は云わない。俺はゲイじゃないし、男どころか他の女にもこんな事は云った事が無い。俺はお前が好きだ」
「止めて、……狡いわ、磔也君……、」

──……狡い。……その言葉を云われれば、私が何も考えられなくなってしまうのを知ってて。

「好きだ。愛してる」
 磔也は更に倉菜の頬に両手を掛け、抗えない強い視線を向けてきた。
「どんな風に見える? ……決めるのは父親でも無いし、ゲイかそうじゃ無いかとかそういう問題でも無いだろう。お前が決めるんだよ、」
「……、」
「答えろ、どうなんだよ。嘘を吐いてるように見えるか? 同じ言葉を、お前以外の誰かに向けて云ってるように見えるか」
「……それは……、……勿論……そんな事して欲しくないわ、……でも、分からないもの、」
「分かる筈だ。よく見な、時間は幾らでも与えてやる。云い訳はしない。もしも信じられないなら、侮辱されたと思うなら仕方ないな。多分、本当にそういう人間なんだろう。何も抵抗しないよ。俺の身体をお前にやる。今の俺が償いとして差し出せる唯一の物だ。気の済むように痛め付ければ良いさ。また無音の世界へ戻しても良いし、この両手だって失っても良い。これはいつかみたいに安くないぜ、絶対に失いたくない物だからな。……そう、それで未だ足りなければ命でもやる」
 ──判断するのはお前だ、と強い、激しい感情できらきらと輝いた真剣な目を、彼は更に近付けた。

「お前が俺を裁いてみろ」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【2194 / 硝月・倉菜 / 女 / 17 / 女子高生兼楽器職人(神聖都学園生徒)】

【NPC / 結城・磔也 / 男 / 17 / 不良学生】
【NPC / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】

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■         ライター通信          ■
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ドイツでは疾しい事はありませんでした。
元々認識の甘い人間なので、今後は男女関係に関する正しい認識は高校生らしく持つように諭されただけです。
云い訳はしないと云っているのは、そこでぐずぐず云い訳するような男では駄目だろう、くらいのプライドはあるようなので。
いくら噂があったとは云え浮気するような人間性だと思われたのが堪えたのでは無いでしょうか。
今後はあまり女々しい甘えも自主的に排除するでしょうし、彼には丁度良い薬だと思いますが。
潔く、信じられる人間かそうで無いかとの判断を仰ぐ事にしたようです。
彼はNPCです。決断は、倉菜ちゃんが下して下さい。

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