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<PCシナリオノベル(シングル)>


霧里学院怪奇談−学院の闇−

【0】

──……駄目……、それを持っていかないで……、……時間……、……助けて……。もう……私の力じゃ……壊れ……誰か……、……──、

【1】

 私立神聖都学園。
 放課後の学園敷地内は、生徒達の明るい笑い声や部活動に励む運動部員の掛け声で賑わっていた。──よっしゃあ、終わったあ、──ねえ、マック寄ってかえろーよー、──ファイト、ファイト、ファイト、……。
 ──因みに、声援として「ファイト」と云うのは日本人だけである。要は、ジャパニーズイングリッシュなのだ。英語では同義語として「Go! Go! Go!」と云い、「Fight!」と云えば「闘え」となる。主に、「いいぞ、そのまま喧嘩売っちまえ!」と云った場面で使用される──、余談だが。
 ここは東京である。拠って日本語圏内になるのだが、どうやらトラックを走る運動部員達の掛け声は、意図せずして本来英語圏内での正しい意味合いを以て彼等のBGMとなっていたようだ。

「さんしたァ──────!!」
「ヒィイィィィィッ!!」

──Fight! Fight! Fight!!

 虐め? 恐喝? ──ともかく、喧嘩だ。一方的な。
 数人の高等部の生徒から小突き回されて取り囲まれているのは、一人の男子生徒だ。取り囲む側は、男子では無い。女生徒、今時の女子高生である。女が男を虐めているのだから未だマシ☆ ──でも無いか。多勢に無勢、あまつさえその、見るからに気の弱そうな目をした美少女のような顔の男子生徒は、中等部の制服である。
 然しここで「お姉さんが小さい男の子を虐めるなんて、いけないよ」とでも忠告しようものならその親切者はたちまちにして彼女達の嘲笑を受けるだろう。「バーカ、コイツだって高等部だよ、し・か・も・年・上☆ ウチら1年だもん、コイツは2年☆」──と。
 いやそれでも虐めはいけないですよと思うものだが、然しそう云われて見れば、中等部の制服が違和感も無く似合ってしまい、年下の少女達に口応えの一つも出来ずに目に涙を溜めている男子生徒には「男の子の癖に……情けない」と溜息を吐きたくなって来る。それにまあ、一歩引いて生暖かい視線で眺めていれば虐めなどという陰湿なものでは無く、彼女達にも悪意は無く単に、あまりにも情けない反応がその少女のような美貌が泣き顔に変わる事の可愛さも相俟って、仲良く巫山戯ているだけのように思う。
 そうであるから、神聖都学園へ編入して早や数カ月、彼、三下・忠(みのした・ただし)には既に、どれだけ揶揄かわれようが虐められようが、教師からも微笑ましい一瞥を貰うだけで助け舟を出してくれる人間は皆無となってしまった。
 ──彼に用事のある、外部の人間以外には。

「おや、……楽しそうですね」
 
 不意に、彼女達へと投げられた穏やかな声。自らのダミ声と比べてあまりにも透き通るように美しいその声質にはた、と振り返って見れば、無邪気な虐めっこ女子高生数人の魅了は一瞬で完了だ。
 そこに在ったのは、──こんなキレーな人間が居るワケぇ!? 嘘、あたしゲーノージンでもこんな良い男見た事なぁい、こんな美形が実在するなんて知ってたら、あたしだってもーちょっとはおしとやかにしてみてぇ、良い女目指してたのにぃ、──という感想を一律に女子高校生共に抱かせた絶世の美貌。
 一貫して透き通るような淡い色彩。白い肌に陽光を受けてきらきらと輝く銀色の柔らかい髪、海の色にも似た青い瞳。古代ギリシャの美女の彫像のように整った顔立ち、口許には穏やかな笑みを浮かべて、上質なスーツにスプリングコートを纏った麗しい青年──リンスター財閥総帥、セレスティ・カーニンガム。
 華奢な体つきの彼は、片手に付いたステッキが無ければ脆く崩れ落ちてしまいそうな程に思えた。──その儚さは有終の美を思わせて、見る者の意識を完全に奪う。地べたに平気で座り込む女子高生さえ。
 たった一人を除いては。
「あぁぁっ、セレスティさあぁぁぁん!!」
 彼、三下・忠に取っては、相手が絶世の麗人だろーがそうで無かろーが一律に、差し伸べられた救いの手、というだけである。賺さず(そこまで慌てなくとも虐めっ娘達の意識は既にセレスティのみに捧げられており、情けない三下少年の事など忘却の彼方である、御安心を)セレスティへ駆け寄ってその胸に遠慮なく縋り付き、うわあぁぁぁぁん、と本当に滝の涙を流して嗚咽を上げた。
「……、」
 そこまで勢い良く胸に飛び込まれては、ステッキで弱い足腰を支えるセレスティはよろめいてしまう。既の所で何とか転倒は免れ、「でも忠君(あくまで忠雄君には在らず)は可愛らしいので許しましょう」とにこにこと彼の散切り頭を撫で回す、ラブラドール犬にでもそうするように。
「よしよし、……辛かったようですね、さあ、顔をお上げなさい」
「うう、……ううっ、セレスティさぁん、酷いんですぅぅぅ、僕が今日の体育で、100メートル走のタイムで47秒53の学園最長記録を出したからって、ここまで、ここまで虐めなくてもぉぉぉ、」
「(……)お気の毒に。然し愛されている証拠ですよ。あなたの事を思えばこそです。御覧なさい、彼女達の慈愛に満ちた目を(それはあなたへ向けられたものです、総帥)」
「──うわぁぁぁぁああん、」
「さて」
 セレスティはそこで三下少年をぽい、と自らの背後へ押し遣り、女子高生達へと友好的な笑顔を向けた。
「申し訳ありませんが、三下君はお連れします。──お仕事なのですよ、彼」
 彼女達は無言だったが、付け睫とラメ入りアイシャドウとアイラインに囲まれた饒舌な目が、「はぁい、つか三下とかもうどうでも良いですぅ、お好きにして下さぁい」と大きく首を縦に振っていた。

 そうして、カーニンガム総帥と三下少年を乗せたリムジンは意気揚々と神聖都学園の校門を後にした。

【2】

 それよりも更に1時間程前の事だ。
 つい最近、彼の統治するリンスター財閥の中に、若手の音楽家を支える目的で新たに設立した財団の宣伝にと中堅音楽雑誌の編集部を出版会社白王社に訪ねたついで、同じ建物に在るこちらもまた中堅オカルト雑誌、月間アトラス編集部を訪れたセレスティは編集長である碇・麗香と対面した。
「あら、珍しい事。リンスター財閥は総帥、カーニンガム様が直々に一体何の御用?」
「私用のついでです。いつもあなた方には(特に三下編集員には)知的好奇心を楽しませて頂いて居りますので、一言御挨拶にと」
「あらそう」
 セレスティを前にしても、自らもスタイル抜群のクールビューティであり、密かに彼女のハイヒールの踵に踏み付けられたいと願う隠れ崇拝者を多く持つという、濃い色のストッキングに包んだ長い足を組んだ碇女史は冷静だ。
「ところであなた、」
 くるり、と編集長の椅子を回転させてセレスティに向き直った彼女は、手にした赤ボールペン(つまりは、その剣よりも強い威力で以て原稿を抱えた編集者に悲鳴を上げさせる、アレだ)の先で、あなた、と彼を指しながら切り出した。
「何か?」
 赤ボールペンを向けられても、雑誌記者では無いセレスティは何ら怯む事も無い。ただ、穏やかに常からの笑みを浮かべて軽く首を傾いだ。
「前に三下に書かせた記事で、取材に同行してくれたんだそうね」
「個人的なお付き合いですから、お気に為さらず」
「気にしやしないわ。何しろ、あなただし。ウチは請求されもしない取材協力費を好き好んで払う程、裕福な出版社でも無いのよ。……そう、その、霧里学院」
 
 ──全寮制霧里学院。
 数々の数奇に見舞われながらも、全寮制というある種閉じられた世界である事、広大な敷地を持つ学院自体が一つの学園都市である事などから、学院は今尚在り続ける。
 水霊使いとしてのセレスティは世界を陰より支えるべく、この東京の中での空間の異変にも絶間なく意識を向けて来たが、──そう、そこは特に注意すべき場所でもあった。地盤がこの上無く不安定な街、霧里。
 過去の幾度も霧里学院での怪奇現象に立ち会い、顛末を見届けて来た彼としてはその名前を聞いて知らない顔は出来ない。彼の目にした、余りにも夥しい結界や「実害在る七不思議」……、──尤も、既にその固有名詞自体が人間としての彼の知的好奇心に強く訴える所もあったが。

 ──すい、と碇は一枚の葉書を指先でデスクに滑らせ、セレスティに示した。
「展覧会のお誘いですか」
 生徒の手に拠る物らしい、印刷機で擦られた素朴な案内状だ。霧里学院所蔵美術品展覧会、──主催、霧里学院美術部。
「ウチ、前回の事件で霧里学院を記事に載せたからね。オカルト誌であればこそ何の噂話も笑って済まされるけど、逆に今度は向こうから売り込みみたいよ。……ま、ちょっとツテのある出版社だの新聞社だのに適当に送ってるだけなんでしょうけど、ともかくまあ、ウチにも来たのよ」
 碇の伺うような視線と思わせ振りな口調から、彼女の真意がただそれだけ、では無い事は明白だった。
 セレスティは葉書を取り上げ、目を細めて眺めた後で碇に笑みを向けて首を傾いだ。
「取材に?」              、、、
「まさか。ネタになるかどうかも分からない美術部の展示ごっこの為だけに、編集者を派遣する程余裕のある時期でも無いのよ。だから、あなたに差し上げるわ。この間のお礼代わりよ。──まあ、何だったら役に立たない幽霊編集員の1人や2人、連れて行っても良いけどね」
 流石は敏腕女流編集長だ。──よくもまあ、飄々と。
 美術部、──前回の人斬り幽霊騒動の舞台は、敷地内の森の中の旧美術部部室だ。その事は、三下が書いた記事を目に通した碇が良く知っている筈である。展覧会、──展示物が学院所蔵の美術品であるとすれば、恐らくそれらの保管場所は件の旧美術部部室のプレハブ2階に位置する保管室では無いか……。
「あなたに御足労願うには役不足かしら、高校の美術部主催の展覧会なんて?」
 ──伸るか反るか? ──イエス、オア、ノー?
「芸術は好きですよ」
 ──イエス。
「伺いましょう、……三下さんに御一緒して」
「決まりね」
 にやり、と笑って碇はセレスティへ向けていた赤ボールペンをすい、と手許へ引っ込めた。
「……、」
 前回の事件は、未だ終わりでは無いと思っていた。──そろそろか、と……。
「ねえ、総帥」
 徐ら、碇は眉を吊り上げたまま片方の口唇を持ち上げて笑った。
「あなた、大体予想が付いてたんじゃないの? それで、何か情報が在りはしないかとウチへ──」
「買い被りですよ」
 にこやかに、セレスティは答える。どうだか、と溜息を天井向けて吐きながら、碇は椅子の背凭れを軋ませて胸を反らせた。
「とにかく、お願いするわ。神聖都まで三下、迎えに行ってやって頂戴。今から行けば丁度下校時刻でしょう」
 承りました、と礼儀正しく、また美しい女性へ対するマナーとして恭しい一礼を残して編集部を後にしようとするセレスティを、ちら、と眼鏡の奥から見遣った碇女史の心中たるや、──ちょっと、畏れ多過ぎたかしら、……といった所だったが……。

──まあ良いわ。……三下が足を引っ張る事を考えれば、リンスター財閥総帥でもやっと一人力だし。

【3】

 厭ですよぅ、この間あんな大量の怨霊に追い回された場所にまた行くなんてぇ、──そう、セレスティの腕にずるずると取り縋る三下も、「碇女史からの通達ですよ」と云えば、仕事である。今に限った事では無いが編集長に逆らえない事は三下自身が一番良く分かっている。──尤も、とセレスティは笑みを浮かべた。

──そう云えば、単に「連れて行っても良い」と仰っただけでしたね、碇女史は……。

「すみません、」
「──はい?」
 霧里学院、旧美術部部室。未だ春の日の高い今の時刻では、前回訪れた時には同じ場所に無数の怨霊や天然理心流を操る幕末期の人斬りが蠢いていた事など想像も付かない明るさだ。
 中では美術部員らしい数人の生徒達が展覧会の準備に追われて慌ただしく行き交っていた。
 セレスティが声を掛けた1人の女生徒は、思わぬ美貌の来客(但しコブ付き)に目を見開いて頬にやや朱を差しながら、何か御用ですか? と学院関係者とは思われない彼に訊ねた。
「失礼致します、月刊アトラスの者ですが」
 私では無く、彼がですけどね。
 然しまあ三下がこの服装(神聖学園中等部制服)では信憑性も無いし、──とセレスティは落ち着きの無い三下をちらりと一瞥してから、碇から受け取った案内状を示した。その目で微笑み掛けられれば警戒心の抱きようも無い、美しい表情を浮かべたままで。
「……あ、はぁい……、」
 葉書を改めた彼女は、アトラスの人間を名乗った事で納得したのだろう、こくりと大きく頷いてから、……でも……、と首を傾いだ。
「あ、すみません、展覧会、明日からなんですよねぇ。場所もここじゃ無いし……今日は未だ、準備中なんですけど」
「存じ上げて居ります、案内状にもそうありましたものね。……ええ、私達が本日伺ったのは、準備段階の様子を見せて頂けないかと。事前取材ですね、──お許し頂ければ、の話ですが」
 お許しになるも何も。
 敷地内には森や湖まである、大正ロマン的な霧里学院に寄宿生として寝起きする、やや夢見勝ちな純愛志向の美術部員っぽさ満開の彼女が、セレスティのように神秘的な麗人に頭を下げられて退けられる訳が無い。──碇女史でもあるまいし。
 どうぞどうぞどうぞ、と途端に彼女は愛想良くセレスティを、ついでに三下も込みで部室内へ招き入れた。

 セレスティは促されるままに中へ足を踏み入れ、──先日、の恐怖が甦ったのだろう、「ぅう〜……、」──と呻いて口唇と足を震わせたまま落ち着き無く周囲を見回している三下と共にざっと準備風景を見て回る事にした。
「誰?」
 背後では、彼らを招き入れてくれた女生徒に他の美術部員がこっそりと訊ねている。
「アトラスの人だって……(未だうっとり)」
「……あの中学生は? 神聖都学園じゃないの、あの制服」
「知らない……(どーでも良いし、そっちは)」
 ──セレスティは、慎重にステッキと手摺りで身体を支えながら階段を昇り始めた。──件の、封印を施した鏡などが展示されている筈の2階へ続く階段を。
「大丈夫ですかぁ〜?」
 ぎしり、ぎしり、と古い木の階段が軋む度、三下は不安そうに脆弱なセレスティを気遣ってうろうろする。
「大丈夫ですよ、御心配無く──、」
 にっこり、と微笑んで見せようとしたセレスティだが、その笑顔を三下へ向ける事は適わなかった。──何故ならば。
「──はうっ!!」
「──!!」
 突如、足許を外してすっ転んだ三下に咄嗟に腕を掴まれてしまい、諸共に階段の上に折り重なって倒れてしまったからだ。
「……、」
 ──段を転がり落ちなかったのが倖いだった。辛うじて無傷で済んだ上体を起こして三下を振り返ってみる、──が、流石のセレスティも呆れ返って笑顔を浮かべる事は出来なかった。
「……三下君、」
「あぁああうぅ、ごめんなさいぃぃぃぃ、だって、だってだってここ、前に僕が足を掴まれた所ですよぉぉぉぉぉ、そう思ったら、足が、足が竦んじゃってぇぇぇぇ……、」
 ──単に、コケただけではあるまいか? ……然し、セレスティは然りげ無く三下の手を払って体勢を立て直す事に敢えて努めた。
「お気を付けて」
「セレスティさん、怒ってますぅぅぅぅ!? ごめんなさいごめんなさい、咄嗟に近くにあった物を掴んでしまっただけなんですぅぅぅぅ!!」
「怒りはしませんよ、不慮の事故程度で」
 態と冷たく、云い放ちながらセレスティは髪の乱れを掻き上げ、瞳を細めて展示室2階を見回した。──異変は、無い。封印された鏡にも、何も。

──杞憂であればそれに越した事は無いのですけどね、

「うわぁぁぁああん、ごめんなさいごめんなさい……!」
 未だ、騒々しく許しを乞うている三下もそろそろ可哀相なので、いい加減慰めてやろうかと踵を返した時だ。

「あんた、いい加減にしてよ! また来たんだ、そろそろ執着こいよ!」

 ──階下で、罵声が上がった。
 おや、──揉め事ですか、と何気無くひょい、と階上から覗き込んでみれば、1階にいた美術部員が固まって、入り口に立つ一人の少女を取り囲んでいた。
「……、」
「??」
 セレスティに倣い、三下も一緒に彼の脇から顔をひょっこりと覗かせてその光景を見守っている。
「──……返して、あの絵」
 消え入りそうな低い声でそう、呟いたのは取り囲まれた少女だ。学院の生徒では無いらしい、制服でも無く、どこか生活感の無い、儚い存在に思える大人しそうな少女だった。
「う」
 三下がこそこそとセレスティの背後に隠れようと移動を始めた。──ええ、あなたには何かを思い出させる光景ですものね、……セレスティも生暖かい笑顔で敢えて止めはしない。
「だからぁ、返せって云っても何でなんだかハッキリ云ってくれなきゃ、はいどうぞ、って返せる訳でも無いでしょ!? 何なの、あんた、ちょっと、はっきりしなさいよ!」
 美術部員は、全員が苛立っているようだった。率先して少女に詰め寄っていた女生徒が痺れを切らしたか、やや乱暴に少女の腕を掴もうとした。
「──……、」
 流石に見兼ねて、セレスティが口を開こうとした時だ。ざわめきが一瞬間、制止した。
「──……きゃあっ!?」
 わっ、と人垣が割れ、そこに悲鳴を上げた女生徒が弾き飛ばされて倒れ込んで来た。それを合図に、先程よりも切羽詰まったざわめきが振り返す。
「──……、」
 セレスティは少女に注目した。──一瞬にして、不意打ちのように少女の前に現れた一人の男子生徒が彼女の前に立ちはだかり、女生徒を払い退けて後は両手を羽のように広げて少女を庇っていたのだ。
 見覚えのある顔だ。……確か、彼は……。
「……夢路君?」
 ──そうだ、美刀・夢路(みと・ゆめじ)、──前回、ここを訪れて人斬りの亡霊に襲われたセレスティと(主に)三下を、その平静の呆れる程に意志の疎通が通じないスローモーションな言動に反して目を見張るような身のこなしで救ってくれた古流武術部所属の男子生徒、夢路少年だ。
「──美刀ッ!」
 彼を知るらしい(日常、あのスローモーション具合では学院内で有名にもなろうか)、美術部員達が血相を変えて怒鳴り声を上げた。内男子生徒などは反射的にか、彼の後ろの少女に掴み掛かろうとさえした、が──。

「──オラオラオラァッ!!」

 ……有り得ねェ……。
 ──と、失礼、地が出た。
 が、そう奇声を発しながら太極拳のような動きを見せた夢路少年の繰り出した連続拳打はコンマ数秒の内に3人掛かりの男子生徒を全て弾き飛ばし、美術部員全員がうわぁッ、とどよめいて怯んだ隙に彼は少女の腕を引いた。
「美雪さん、」
 そして、少女と共に外へ出ようとする。
「……、」
 美雪、と呼ばれた少女は未だ未練があるように部室を振り返っていたが、結局は夢路に腕を引かれて2人は共に屋外へ、──霧里森の中へと消えて行った。
「……おや、まあ」
「……ぇぇぇぇぇぇぇ……、」
 セレスティの背後の陰から、呆然と三下が呻く。有り得無ーい……と脱力する彼は気にせず、セレスティは一先ずは階下へ降りる事にする。

「やだぁ、ちょっと、鈴木ぃ、大丈夫!?」
「佐藤君、確り!」
「大変、田中先輩瘤が出来てる──!!」
 既に1階は大騒ぎだ。夢路少年に弾き飛ばされ、口々に「痛ぇ、」と呻く男子生徒を介抱する女生徒やら、彼らを追おうと外へ出て既に陰も形も見えない事に舌打ちする生徒やら。
「大丈夫ですか?」
 失礼、とセレスティは輪の中へ入って行き、先ずは鈴木君佐藤君田中君の容体を伺った。
「ちょっと見せて下さい?」
 きっと佐藤君とは恋人同士なのだ、健気な目に涙を浮かべた女生徒に安心させるような微笑を向けて佐藤君の無事を確認し、田中君の瘤にも然りげ無く触れて腫を引かせて──要は、血液の流れを正常に戻してやる。
「──大丈夫です、怪我はありませんよ、どうぞお静かに」
 セレスティの静かな号令で、その場の喧噪はぴたりと止んだ。

 ──因みに、鈴木君佐藤君田中君は本当に無事だった。あれだけ派手に吹き飛ばして置きながら人体への直接的なダメージは最小限で、恐らくは単にすれ違い様肩を打つけた程度の衝撃だった。これならば三下がセレスティの胸に飛び込んで来た時の方が余程痛かった。田中君の瘤に関しても、多分、彼も誰かと同じでドジなのだろう、転び方が悪くて自分で自分の額を床にごっちんしただけの事である。
 ──余程の武術の達人で無ければ、出来ない芸当である。

【4】

「一体、何の事です、返せと云うのは」
 騒ぎが一段落してから、セレスティは彼を取り囲んだ美術部員一同を見回して訊ねた。先程、美雪、と夢路少年に呼ばれた少女が「返して」と云っていた、「あの絵」についてである。
「あれです」
 1人の女生徒が、既に運び出しの為の梱包を終えて段ボール箱に収まっていた額縁を差し、彼女に促されて先程の鈴木君と佐藤君が2人掛かりでセレスティの元まで運んで来てくれた。
「その絵を、返せって云うんです、あの娘。でもね、あんな子学校じゃ見た事無いんですよ。この絵はずっと前からここに収蔵されてた物だって先生からも聞きますし、ただ返せって云われても、はい、どうぞ、って渡す訳に行かないじゃないですか。でも執着こくって」
「──そうですか。……然し、返せ、と仰るからには元々、自分の持ち物であったような云いようですね」
 クッション材代わりの新聞紙が鈴木君に拠って取り払われて行く様子を眺めながら、セレスティは思案する傍らで静かに呟いた。
「……、」
 ──中の絵が現れた。
 美しい絵だ。霧深い里の風景を描いた、つい魅入られるような絵。……然し……。
「……ぅうう……、」
 ──何か、在る。
 それを「無気味」と受け取ったらしい三下は、ただ見る事さえ恐がって目を逸らそうとしている。
「……、」
 
──……ああ、

 何か、封じていますね、──。
 額縁のガラス板越しに手を翳し、その絵の「写し取った物」を読み取ろうとしたセレスティは目を細めて軽く頷いた。
 封印、……ここにも。
 「封じて」あるだけに、何かは分からないが……、ともかく、この絵には何かが「封印」されていた。
 ただの、幻想的な霧掛かった絵。それだけなのに、何処かしら(三下が恐がる程に)無気味に思えるのは、その所為だ。
 
──封印されている内は大丈夫でしょうが……。

 ともかくは安心だろう、と手を引いたセレスティは、そこでふと目を覆って「見ない見ない」している三下に気付いた。
 ──きゅ、とセレスティの口唇が持ち上がる。悪戯心が首を擡げるのは、決してセレスティの責では無い。あなたが、そういう可愛らしい恐がり方をするからですよ、三下君。
「三下君? どう為さいました? ……ただの絵ですよ、御覧なさい、とても美しい」
「厭ですよぅぅぅぅ、見せないで下さいよぉ、」
「何を仰っておられるのです?」
 厭々〜、……する三下を促している内、再度セレスティの脳裏に閃く事があった。三下は放って置いても恐がるので解放するとして、美術部員に向き直る。
「この絵は、どなたの手に拠るものなのでしょう? ……署名は、ありませんね」
「そうなんです」
 こくり、と大人しく美術部員は頷いた。
「然し立派な絵です。とても、無名の画家の作とは思えませんが、お聞きになられていませんか? 由来などでも、何か」
「……さあ……、」
「この風景は、一体どこを映したものなのでしょうね?」
「……ん────……、」
 首を傾ぎながら、美術部員達は目配せを交わす。──知ムらない、っと。全員の応えは聞くまでも無かった。
「先程のお嬢さん、……美雪さん、と呼ばれておられた。彼女はこの絵の所有権を有する方なのでしょうか? それならば、本来の持ち主にお返しするのが筋だとは思いますが」
「でも、先生だってあんな娘知らないって云ってましたぁ。名前だって名乗らないんですよ、本当、『返せ』って云うだけで。それなのに、所有権とか、分かりません」
「……夢路君、彼は彼女の名前を呼ばれた。様子からして、親しいようですね。彼の事は御存じでしょう? そこからも、思い当たる事はありませんか?」
 ──これも、駄目だった。返って来たのは、「美刀の事なんか誰も知らないんですから、……何しろ変人だし」という半ばお手上げの投げ遺りな言葉だけだ。
「……ちッくしょゥ、美刀の奴……、」
 ──田中君である。夢路少年に先程弾き飛ばされた、一番(自分で勝手に)悲惨な目に遭った。
「聞いてはいたんですよ、美刀の奴、普段はアレだけど古流武術で『相対したら』滅茶苦茶強いって。有り得無ェっスよ、お前は何だ、何人だ、みたいな、つーかお前はロボットだろう、核で動く戦闘ロボットか、……──」
「……夢路君は、何を思って彼女に手を貸そうと思われたのでしょうね……」
 横様の視線を霧里の絵に向けながら、セレスティは何やら1人で勝手に話の飛躍する田中君からは冷たい空気の層を一枚隔てた静かな世界で呟いた。
「……彼は、私達をも救ってくれた事があるのです。……決して、悪事に加担する人間とは思えませんが」
 ──然し、彼の思惑は読めない。何しろ、平静があのスローモーションというか……なので。如何に占い師としても、そこまでは。
「美刀君の事も気に掛かります。……彼女の事も、」
「……あのぉ、」
 徐ら、遠慮勝ちに美術部員が口を開いた。はい、と顔を上げたセレスティに、俄に整然と姿勢を正した美術部員一同(田中君除く)が一斉に頭を下げていた。
「この絵を、護って貰えませんか」
「私が?」
「お願いします! ……だって、今回の展覧会は私達の責任で任せて貰ってるし。学校の所蔵品を無くした、なんて事になったら。……美刀の奴もまたいつ来るか分からないし、……来ても、アイツがあれだけ強かったら……、」
「……腕ずくで奪うような真似をする方だとは思えませんが……、」
 ──暫し思案した後、セレスティは頷いた。……寧ろ、夢路少年の事が気に掛かる。絵の護衛を引き受けた事で、もう一度夢路少年と話が出来れば。
「……分かりました。……然し、会場では警備が皆無という訳でも無いのでしょう?」
 有難うございます! と元気良く礼を述べた後で、彼女達は会場での警備について話し始めた。
「──こんな感じで、当日は警備会社からも何人か来るそうなんです。でも、会場に運び込むまでは私達の責任なんです。他の展示物は粗方運び終えた物もあるんですけど、この絵は。この絵は、当日までここに置いておきます。会場時間ギリギリに運び込む事になっていて」
「……分かりました……」
 今晩は、ここへ泊まり込みましょう。──夢路少年と少女が、再び絵を、会場に移されるまでに狙うとすれば今夜だろうと考えたセレスティはそう請け合った。
「でも、大丈夫なんですか? ……あのぉ、失礼ですけど、なんだか華奢な人だし……、もし、美刀に殴り掛かられでもしたら、」
 セレスティへと叶わぬ恋一直線らしい、最初に彼を招き入れてくれた夢見勝ちな少女がおずおずと切り出す。大丈夫ですよ、とセレスティは更に魅力的な微笑(意図している訳では無いので仕方無い)を浮かべて軽く首を振った。
「そうなれば、彼にお任せします」
 ──セレスティの、どう見ても粗暴な格闘技など嗜んでいなさそうな華奢な美しい指先が差していたのは、……三下だ。
「……はいぃ!?」
 驚いたのは三下本人だ。何で何で僕が、無理ですよぉ僕核で動く戦闘ロボット相手に(田中君に騙されている……)喧嘩なんてぇぇぇえ、1年の女の子にさえ良いようように小突かれるのにぃぃぃぃ……。
 然しセレスティは莞爾として「御謙遜を」ととんでもない事を宣う。にこやかに。
「彼、ああ見えて武術の達人なのですよ。恐らく、美刀君とも互角に……いえ、それ以上ですか、張り合える筈です」

 嘘付け。

 流石の美術部員達も一斉に目でそう突っ込みながら、三下を生暖かい視線で眺めていた。
 対するセレスティは、まるで後光でも差しているかのようにきらびやかな表情だ。
「嘘ではありませんよ、人を見た目で判断するのは感心しません。……美刀君の事を思い出して下さい、……分かるでしょう?」
「……、」

──ともかく、お願いします、あたし達もう帰りますんで……。

【5】

「セレスティさん、」
「はい?」
 ──窓の外の霧里森は、暗い。
 それでもここ、旧美術部内には一応の照明が灯っていると云うのに、態々好き好んでいるかのように薄暗い片隅に、三下は高校生らしく体育座りになって膝を抱えていた。中々高校生が板に付いて来た。うむ。
「……怖いんですけどぉ、」
「御安心為さい、本当にあなたを夢路君に打つけるような真似は致しませんよ。ただ、彼が万一現れたとすればゆっくりとお話をお聞きしたかったのです。下手に御心配を頂いて、鈴木君か佐藤君辺りが(田中君はどうせ残っても役には立つまいから、除外だ)一緒では困りますでしょう? 言葉の綾です」
「そうじゃ無くてぇ、」
 ──だって、ここで前亡霊に殺され掛かったんじゃ無いですか……。三下の目は、何だか某金融会社に出演する白い犬のように円らで、物云う光を持っていた。
「あの方達はもう江戸時代へお帰り頂きましたよ」
「……でも怖いです……何か、無気味で、……空気が」
 ──ああ、……あの絵の所為ですね……。
 セレスティは合点しながら、微笑みを浮かべたままで仕方無い、と溜息を吐いた。
「ならば私1人でも結構ですよ。どうぞ、お帰りになって下さい」
「え、良いんですかぁ!?」
 三下の顔が現金にも──ぱっ──、と輝く。──が。
「ええ、構いませんよ。……但し、私は護衛を引き受けた以上ここを離れる訳には参りませんから。……森の外までお送りする事は出来ませんけども、ね」
 ──要は、独りでこの夜の霧里森を抜ける勇気があるならば。
「……良いです、矢っ張り」
「そうですか。お付き合い頂ける方が嬉しいですよ、私としましても」
 セレスティは、そうして三下に携帯電話を貸して欲しい、と願い出て私邸の、特定の人間へ通じる回線へ電波を発信した。
「……ああ、君ですか。私です。……今夜は泊まりますから、そちらへは戻りませんがどうぞ御心配無く。申し訳有りませんが、ですから明日の事はお任せします。……大丈夫ですよ、相変わらず、悪い事を考え過ぎです、君は。……君も、早くお休みになられた方が良ろしいでしょう。それは、前にも一度忠告しましたね?」

 ──梟が啼いた。……まあ、森なので。

【-】

「……(数秒経過)、……未だ……人が居る……、」
「……、駄目……、……もう……、時間が……、」
「……、……、……、……でも……、……あの人は返してくれない……と思う……な、」
 ──夜の帳が降りた霧里森の木の陰から、明りの煌々と灯った旧美術部部室のプレハブを、絶望的な目で伺っている二人の少年少女、──美刀・夢路と昼間の少女、──霧里・美雪だ。
「……駄目、」
 少女、──美雪は胸に手を当て、喘ぐような息を吐いて幽かな声を絞り出した。
「……展覧会が会場してしまったら終わり……、……あの絵は……、人目に晒されてはいけないの……、……公開されて……、……多くの学生の……若い精神力が集中してしまえば……壊れてしまう……、……封印が、……駄目……、もう……私の力じゃ……、」

──助けて。

「……、……、……、……、……、……、……その……、封印……が……、……壊れたら……、……どうなるの……?」
「滅神が解放されてしまう!」
 そこで、少女は上ずった苦しそうな息を大きく吐いて蹲った。──……大丈夫? 夢路はスローモーションな彼なりに、急いで彼女の背をさすってやっている。
「……滅神……、……『万物殺し』……、……それが解放されてしまったら!」
「……、……、……、……、……?……」
 夢路は、訝し気に首を傾いだまま、ただ美雪の背をさすって少しでも楽にしてやろうとする事に専念していた。

 彼は、あの霧里の絵の何を知っている訳でも無い。また、美雪とは元々の知り合いだった訳でも無い。
 何故彼がこうして、絵を取り返そうと、──展覧会で公開される事で、絵に封印された滅神が解放される事を防ごうとしている事に手を貸しているかと云えば、ただ、美雪が「困っていた」から、ただそれだけだ。

──助けて。

 彼女がそう、誰でも良いから助けて、と切実な意思を訴えていたからだ。困っていた彼女を、放って置けなかった。それだけだ。何を知っている訳でも無い。

「……じゃあ……、」
 ──こうしよう、と夢路は少女に提案した。

「……俺が……、……最初に……、開場の直前に……、……絵が運び込まれた直後に……、警備員を惹き付けるから……、……、そうしたら……、……美雪さんは、ブレーカーを落として……、……絵を持って、逃げて……」
「でも、それではあなたが、」
 ──……ゆっくりと、スローモーションに夢路少年は微笑んだ。
「大丈夫……、……だよ……、……だって……、……そう……出来ないと……、……君が……困るんだろ……?」

【6】

 朝だ朝だ。希望の朝だ。
 喜び給え三下・忠、本名三下・忠雄。君の不安は杞憂に終わった。見給え、何事も無く夜が明けたでは無いか。だから、カーニンガム総帥は信用しても良いのだよ。……と。
「……、」
 睡眠を必要となどしてはいないかのように、ただ静かな目を開いて意識を保っているセレスティの傍らで三下はすやすやと安らかな寝息を立てていた。……筆者の言葉など聞く筈も無いか──現金な奴め。

 ──朝になって、昨日の美術部員達が顔を見せ始めた。絵の無事と、そうして夜通し警備を続けてくれたセレスティへ感謝の言葉を口々に述べながら最後の搬出に取り掛かる。
「もう大丈夫です、ちょっと遠いんですけど、会場だって学院の敷地内だし。……本当に有難うございましたあ、」
「……何よりです」
 セレスティは笑みで応え、──然し、何事も起こらない訳には行くまいと……。
「……会場は、──でしたね。……それでは私達も一旦引き揚げて、また、後程伺いましょう」
「待ってます、良かったら、取材もヨロシク☆」
「……ええ、」

「三下君、」
 ──霧里学院の校舎を出た所で、セレスティは三下がのうのうと熟睡している間に容易していた一枚の紙片を彼の目の前に突き出した。
「……水、括弧聖水が望ましいが無ければペットボトル入りのミネラルウォーター括弧閉じる、※(こめ)、少なくともがぶ飲みミルクコーヒーは避ける事、……何ですかあ、これ」
「持ち物リストです。……と云って、一つだけですから何の難しい事も無いでしょうね、良いですか、手提げ鞄の方にお入れして置きますから忘れないで下さいね、ランドセルの方ではありませんよ、良いですか、こちらです……」
 ごそごそ、と三下の手提げ鞄にそのメモを押し込もうとしながら、セレスティはふと顔を上げて再びその紙に追加事項を書き足した。
「会場の名前と地図も書いておきましょうね、……そう、開始時刻もです。これより1時間は早く来て下さい。こちらが、集合時刻ですよ、分かりますね?」
 紙の上に書き出した上、更に懇切丁寧に説明を繰り返すセレスティ。──前回の失敗を受けて、三下には望む事とそうで無くとも重要な事柄はこうして小学生の遠足の枝折並に書き出して注意してやらねばなるまい事は薄々考えていた。それを、今こうして実行に移しているのである。
「……」
「私は一旦私邸へ戻ります。シャワーを浴びたいですしね。そう時間もありませんが、──後程、会場でお会いしましょう」
「……」
 
 ──こうして、セレスティと備忘リストを片手に呆然とリムジンを見送る三下は、一旦霧里学院の前で別れた。──ここまでして置けば、如何に三下と云えども『全く役に立たない』……事はあるまい、……多分……。

【7】
 
 展覧会会場、──開場時刻まであと、半時間を切った。
 車椅子に掛けたセレスティは予め美術部員に聞いていた通り、各所に配置された警備会社の人間の存在や出入りする人間の気配に終止気を廻らせながら、会場の中央に威風堂々と展示された一枚の絵を眺めていた。──そう、問題の、あの絵だ。

「……、」

 ──矢張り、……いや、ここで騒いだ所でどうにもなるまい、……少なくとも、これから起ころうとしている事柄へ先ずは対応する事だ……。
 傍らでは、三下が暢気な表情で取材用にかデジタルカメラのシャッターを切っていた。
「……あ〜、矢っ張り、明るい所で見ると違いますねぇ〜、別に怖くないって本当だったんですねえ、セレスティさぁん、」
「……そうですね」
 セレスティは視線は霧里の絵に据えたまま、ただ、そうとだけ答えた。
「……でもぉ、この絵ってそんなに上手ですかあ? ……いや、僕に比べたら上手いですけどぉ、……何か、普通って云うかぁ。……どこにでもありますよね? こういう、風景画……、」
「──……、」
 
──煌!

 その瞬間、セレスティの青い瞳が強い光を見せて輝いた。──来た、……。

「夢路君!」

 ──未だ、開場前で疎らな、それでも最終準備で慌ただしく人間の行き交っていた場内で、ざわめきと、悲鳴と、──聞き覚えのある、「オラオラオラオラオラァッ!!」という奇声が同時に上がった。
「美刀ッ!!」
「何だ、君、──止まりなさい、──あうっ!」
 制止に掛かった警備員は、多分、高校主催の展覧会の警備という事で戦闘能力にはさほど優れない人材だろう事を差し引いても、超絶的なスピードで駆け抜けて来た少年に、──夢路に、さっくりと、跳ね飛ばされてしまいました。
「……、」

──……警備が集中した……、……死角となったのは……、

 俄、セレスティはくるり、と車椅子を翻して一点を目指し出した。
「三下君、……後を宜しくお願い致します」
「え……ぇえええええっ!! どっどこ行くんですかぁ!? 僕、僕……、」
「君は夢路君を宜しくお願いします。……ね? ……『夢路君と同等か或いはそれ以上』、という事になっている三下君ですから」
 にっこり、とセレスティは最後に微笑み掛けた。
「言葉の綾じゃ無かったんですかぁぁぁぁぁあ、無理ですよぉぉぉぉぉおおおおぉおお!!!」
「オラオラオラオラオラァッ!!!!」

 ──三下と、夢路少年の絶叫を背にセレスティは車椅子を押し続けた、──夢路に集中した警備員の意識から逸れ、がら空きになった電源制御室まで。
 彼がそこへ辿り着いたのと、照明が全て落とされて館内が暗転したのは、ほぼ同時だった。
 ブレーカーに手を掛けていたのは、矢張り、昨日の少女だった。

「──美雪さん」
「……!?」
 狼狽し切った様子で、ブレーカーを落とした手を引いた彼女が振り向いた。──暗闇の中でも、セレスティにはそれが分かる。
「……あなた……は……、」
「……そうですか。……夢路君が、警備の目を惹き付けている内に、あなたが絵を……、と」
「……、」
「……私は、あなたの邪魔をしようとは思っておりませんよ。ただ、聞かせて頂けますか? ……あなたが何故、あの絵を欲していたのかを」
「……それは……、」
「……、」
 暗闇の中で、2人の視線が交錯した。──セレスティの青い、透徹した瞳。……それを、闇の中でも見付ける事が出来たらしい美雪は、信じた。セレスティの目を見詰めたまま、静かに口唇を開く。
「……月宮の手に渡さない為……、」
「……月宮?」
 ──会場の方角から、「あひィッ!!」と三下の悲鳴が上がったが、そこは夢路少年が相手であるから生きているだろう、逆に。心配は無用、と──。

「月宮・豹です。過激派退魔剣匠、……過去の霧里学院で起こった事件は、全て彼が」
「……月宮・豹……、」
 
 ──セレスティの脳裏を、前回の人斬り事件について三下が書いた記事の最後の一文が過った。

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  ・
  ・
  ・

 以上が、今回の悲劇の真相である。
 然し、封印を解いたのは一体誰だろうか。
 再び、この封印が解かれる事はあるのだろうか?

 最後であるが、最近、取材に訪れたこの学院で耳にした噂を掲載しておこう。

「この間、人斬り幽霊が出た森。──見た人がいるんだって。旧美術部部室を笑いながら眺めて、『素晴らしい』って呟いた男が居るって……」

 これは、封印を解いた人間に関する手掛かりであろうか。それとも、連鎖する闇の悲劇への幕間、あるいは新たな闇の幕開けなのだろうか……。
────────────────────

「……、」
 ──「素晴らしい」、と呟いた男の噂、……それが、月宮……?
「──……、」
 ……何だろう、……夢路か、三下か……、──会場のざわめきが大きくなった。
「……急がなきゃ、」
 美雪はセレスティの脇を擦り抜けて会場へ向かおうと駆け出した。──お待ちなさい、とセレスティはその背に声を掛けた。
「止めないで!」
「止めはしませんよ、……ただ、」
 美雪の腕を引いて視線を合わせ、セレスティは静かに告げた。
「あの絵は、贋物です」
「──え……!?」
 
 ──昨日、美術部員達からこの絵を護って来れと頼まれた時には中に見えた封印、──それが、先程mは無かった。消えた訳では無い、絵そのものが、セレスティの監視から離れて美術部員達に拠って会場まで運び込まれた僅かな間に摺り替えられたのだ。
 昨日はあれほどあの絵を恐れていた三下が、「普通ですよねぇ」と余裕を見せられたのもその所為だ。本当に、ただの絵なのだから、今のあの絵は。

「──大変!」
 美雪が駆け出す。──セレスティもそれに倣った。

【8】

「──おやおや、」
「……、」
 
 ──カツ、カツ、……と暗闇と喧噪の中でもその足音は明確に、高く響いた。
 セレスティと美雪が再び会場の中へ、三下と夢路の許へ辿り着いた時と同じくして、その男は現れた。

「──随分と派手な騒動を引き起こしてくれた物だ」
「……あなたが、月宮・豹、……ですね」
 にこり、と彼が目を細めて笑った事が、金色の瞳の輝きの歪みで分かった。──闇に溶け込む、黒いロングコートの裾が翻ったのを、男は手にした長刀の先で払った。
「素晴らしい、……君には、前回とても楽しい思いをさせて頂いた。──セレスティ・カーニンガム殿」
「その言葉はそのまま、あなたへお返し出来る事と思いますよ」
「……、」
 ──お互い、駆け引きに長けた者同士らしい。暫し、冷ややかな笑みが交錯して2人の間にある空気を張り詰めさせた。
「何故、このような事を?」
「君はもう『見通して』いただろう、──あの絵、霧里の絵には、『万物殺し』の滅神が封じられている」
「……、」
 ──それで? ……セレスティはきゅ、と眉を吊り上げながら目を細めた。
「私もこれで退魔剣匠だ。……過激派、と呼ぶ者も居るがね。──永い、永い退魔稼業の中で私は悟った。地盤の不安定な東京、空間の歪みがここまで著しくなった今、異界存在への切り札を保有する事こそが急務だと」
 ──この思想犯!
「……それで、本当の絵は何処に」
「私の手の中に」
 ──彼の統治し得る空間の中、という意味だろう。嘯くようにそう云いながら月宮は両手を広げて見せた。──クッ、とその喉から低い笑い声がくぐもって響いた。
「……本当は、彼女達から本当の絵を遠ざける為にした事だったのだがね」
「……何ですって?」
「……、さあ、そろそろ開場時間かな」

──生徒達の、若い精神力が絵の許に集中する。

「──……オラオラオラオラァッ!!」
 いやもうその奇声は良いから。……夢路少年。
「戯けが」
 ──スル、と軽やかな動きで、月宮は夢路の連続拳打さえ躱してしまう。然しそこは、夢路も流石に古流武術の恐るべき使い手だ。攻撃を躱されながら、月宮の気を読もうとするように流れるような動きを続けて懐に飛び込む隙を伺い出した。

「……い……た……、」

「……美雪さん?」
 セレスティは振り返った。──彼の視線の先に、蹲った美雪が胸を抑えて苦しそうな息を断続的に吐き続けている。その呼気は段々と激しくなり、──とうとう彼女は悲鳴を上げた。
「何を……するの……!」
「……!!」 

──轟──……!!

「何……!」
 ──あまりの衝撃に、セレスティは腕を翳して顔を覆った。──この、気魄……。
「──きゃあぁぁぁぁぁぁ!!」
 美雪の絶叫が、無気味な程に反響を伴って会場内に響き渡った。──然し、その高い悲鳴も直ぐに掻き消される、──会場中の、否、学院全体から発せられた生徒達の阿鼻叫喚の悲鳴に拠って。

「きゃあああああ──────っ!!!」

「──三下君!」
 ──ようやく君の出番ですよ、今ばかりは役に立って下さい。
「はいッ!!」
「水を、早く、水を撒いて下さい、」
 ──まさか忘れていないでしょうね?
「どどどどどどどどどどこにですかあああああああ、」
「ここに!」
 ──もうどうにでもなれ、とでも云うのか、殆ど自棄っぱちじみた大胆な動作で、三下は手提げ鞄から出したコンビニエンスストアの袋から(ええいまどろっこしい!)出した(何故か)コントレックスのペットボトルの栓を抜き、──ばしゃあっ!! ……と彼等、セレスティの周囲に打ち撒けた。

「──……く、……ッ……、」
 
 せめて、この場限りでも水の防壁を……、──床に撒かれた硬水へと意識を集中させるセレスティの秀麗な眉が、苦痛に歪んだ。それでも彼は華奢な腕を伸ばして両手を翳し、気を高める。
 ──きらきら、きらきら……、彼の意思を持った水滴が煌めきながら中空に舞い上がるが、それでも、このあまりの勢いを得た闇には、──月宮が摺り替えた、本当の霧里の絵から溢れ出した闇には、せいぜい彼等だけを護り得るのが精一杯だった。

「……滅神……、……万物……殺し……、」

 ──限界だ。

「──……、」
 闇に裾を翻し、軽い足音を響かせて駆け出した月宮を止める事は、叶わなかった。──きらきら、……きら……、……煌々しい、セレスティの瞳に同調して青く輝く水滴の光さえ、刻一刻と闇に染まって行ってしまう。
「──……、」
 ──セレスティの瞳も、輝きの強さを失って深い、──静かな夜闇の中の海のように、暗い青色へと沈んでしまった。
「……う……、」
 ──はら、……力を失った両手が下がった。車椅子の背凭れに上体を反らせて凭れ掛かったセレスティの胸も、呼吸の高さに比例して上下していた。
「月宮……、」

 ──うわあぁぁぁぁぁぁっ!!!
 哀れな三下の泣き叫ぶ声と滝の涙が流れる音は、喧噪の中でもぼんやりとしたセレスティの聴覚の隅に入って来た。──美雪さん……、夢路の声と、喘ぎ続ける美雪の苦しい息の音も。

──滅神が解き放たれた……、今、……学院は……、

【−学院の闇−】

 展覧会の会場で、月宮の手に渡った本当の霧里の絵、『万物殺し』滅神を封じた絵から溢れ出した黒い霧。
 その霧は生徒達を喰い荒らし、更に拡張して魔物が学院内を跋扈する。

 霧里学院の空に、黒い光が走った。