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代償
「――ぼくのお母さん、なんだか変なの」
ソファにちんまり座った小学生位の少年が、今にも泣きそうな声で語りだす。付き添いで来たらしい、年上に見える黒髪の少女が頑張って、とでも言うようにその肩を撫でている。
少年の話によると。
この頃毎晩、少年が寝付いた後に母親が外へ出て行ってしまうらしい。少年が夜中にトイレに起き出した時、いつも一緒に付いていってもらうのだが、両親の寝室へ行ってみるといつも父親が寝入っているだけで母親の姿が見当たらないのだと言う。
朝になれば少年を起しに来るので帰ってきていると分かるのだが、何処か言っていたのかと聞いてみてもずっと寝ていたと言い張るのだと。父親にも寝惚けているんじゃないかと笑われたと悔しそうに言った。
「こっそり出かけているだけじゃないのかな？例えば、夜中のパートとか」
子供に心配かけまいとして、寝かしつけた後に出かける例はないではない。そう言った武彦を見た少女がふるふると首を振る。
「パジャマ姿ででも？」
少年――芦田裕輔が、ある時寝たふりをして待っていた所。
夜中に、ごそごそと這い出す音がし…そして、そっと戸を開けて見ると。
たらん、と腕を力なく垂らしたまま、ゆらゆらと揺れるように外へ歩き出した母親の姿が在ったのだと言う。思わず声を掛けたが反応はなく、止めようとしても止まらず、玄関の扉を開けて外へと出て行ったのだとか。
毎晩は流石に少年の体力が続かないが、無理に起きている限りではいつも同じだと、目を潤ませた。
「――他に変わった所は？お母さんがおかしくなる前後に。何か増えていたり、消えていたりとか」
「…ない…と、思う。――あ…でも」
何か思い出したのか小さく声を上げて。
「お父さんがシュッチョウから帰って来てからだ。なんだかケンカしてたみたい…」
躊躇いながら、そう言うと、
「おねがいします。…お母さん、元に戻して」
ぺこりと頭を下げた。
「あ、そ、それと、お金、いまこれしかないけど…おとしだま、まだいっぱいのこってるから、あとで持って来るね」
ごそごそ、と自分のポケットから綺麗に磨いた５００円玉を取り出してはい、と武彦に差し出した。
「…あー…」
これだけ受け取っても、とか、どうみても子供からお金を受け取るのは、とかそんな事を考えていたが、
「分かった。それじゃ…依頼料として、受け取らせてもらうよ」
にこりと笑みを浮かべて、しっかりとそのお金を受け取った。
「ところで、君は？付き添いか？」
「うん。そんなところ」
殆ど言葉を挟む事無く大人しく座っていた少女が、すとん、とソファから降り立って「ゆうすけくん、行こ」と声をかける。
「あ、まってみどりちゃん」
２人で外へ出るときにぴょこん、と頭を下げると、ぱたぱたと軽い足音を立てて出て行った。
「仕方ない…零、リスト出してくれ」
小さな依頼人に対して無下にいつもの請求が出来る筈もなく。赤字覚悟の呟きを込めて、武彦は指示を飛ばしたのだった。
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「いってきまーす」
マンションの友達だろうか、数人が裕輔を呼びに来、それまで母親にべったりだった裕輔がしぶしぶ外へと出て行く。とは言え、家を出た途端楽しげにぱたぱたと走り去って行ったのだから、遊びたいのをじっと我慢していたらしい。
「…全く、いつまでたっても甘えん坊なんだから」
苦笑めいた言葉を漏らす母親が乾いた洗濯物を取り込み、植物の姿で裕輔の家に居る藤井蘭の近くで畳み始めた。太陽を浴びた洗濯物の匂いに、ほんの少しだけ葉を鳴らす。人間の姿をしていたら、間違いなくぼふん、とタオルや服の中に埋まっただろう。
――ふと。
母親の動きが止まった事に気付いた蘭が、洗濯物から注意を逸らして顔に意識を向ける。
膝の上に洗濯物を置いたまま。
目の焦点を合わせず、ぼんやりと考え事をしている様子。
やがてゆっくりと首を振り、深い息を吐いてから残りの洗濯物を畳んで他の部屋へと持っていった。何か悩みでもあるのか、憂えた顔は晴れる事が無く。
「買い物でも行けば、気が晴れるかも…」
ぽつっと呟いた母親が、立ち上がって財布を手に外へ出て行く。
その頼りなげな足音を聞き、しばらく静かになった後、蘭はわさわさと葉を揺らし…そして、ゆっくりと人間の姿になってうーん、と伸びをした。
きょろきょろ、と周りを見回して家の中を動き回る。誰もいない室内は静かで、そして日差しのせいか暖かい。
眠くなって来た目をこしこし、と擦ると他の部屋を覗いてみた。
「あ」
タンスの前に、個別に分けた畳んだ洗濯物が置いてある。
……うずうず。
飛び込みたい、でも飛び込んだらくしゃくしゃになっちゃう…そんな葛藤に苦しみつつ、むりやり頭を捻じ曲げて後ろを向く。
見て回るのに飽きた頃、外から足音が聞こえてきて、慌てて元の姿へと戻った。
「ただいまぁ」
玄関の鍵を開けたのは買い物から戻ってきた母親。がさがさとビニールの音が聞こえ…そして、その声と足取りは出かけた時よりも冴えなかった。
その原因はすぐわかった。
台所へ買い物袋を置いてすぐさま戻ってきた母親が手にしていた郵便物。他にもいくつかあったのだが、戻って来た時には飾り気の無い白い封筒だけしか無く、そして硬い顔をしながらびりびりと封を開けて行く。
「――――――」
真剣な表情で中を読む、その横顔は硬いまま。
「…やっぱり…」
ひらひら、と畳の上に落ちた写真に目もくれず、何かが書かれた紙を真剣に読み続けるその口から、ぽつりとそんな言葉が漏れた。
そして。
――ざわざわと、風が揺れる。蘭にも感じ取れる程、すぐ近くで、びりびりと。
「――」
きゅ、と唇を噛むその視線は、凍りつく程冷たく。
髪の毛が、生き物のように蠢いている――ように、見えた。
畳の上に落ちた写真には、仲の良さそうな男女の姿が映っている。女性は目の前の女性ではなく…落ちたことに気付いたか、其れを見下ろす視線は写真に食い入る様で。
す、と立ち上がった女性が奥の部屋からハサミを持って戻ってくると。
しゃきん。
触れもせず、刃を当てると、２人が重なった位置から半分に切り裂いた。
しゃきん。しゃきん。――無表情で。首を、胴を、足を。…目を。片方に写っていた女性だけを、丁寧に、丁寧に切り刻んで行く。
触れるのも嫌だというように、写真に触ることなく。
「――っ、ふふ…う、ふ、ふ…」
言葉が――笑みが、唇から漏れた。それは、次第に歪み、そして笑いながら肩を震わせ、溢れ出したモノが頬を伝い、畳へと染みこんでいく。
それは、酷く静かな時間だった。ハサミから手を離した女性が手で口元を覆い、呼吸が落ち着き、次第に整って行くまで。
「――ふぅ」
最後に大きく息を吐いて、伸びをする。下に散らばった写真を一つ一つ拾い集め、半分だけ残った写真もくしゃりと手の中で丸め、同じように丸めた手紙と共に屑篭へ放ると、頬に残った筋をごしごし擦って消して、もう一度深呼吸。落ち着いた様子を見せると不思議そうにきょろきょろと辺りを見回し、そして蘭の傍へにじり寄ってくる。
「…観葉植物、私も１つ買ってみようかしら。癒し効果があるって言うものね」
語りかけと独り言の中間のような喋りが蘭の耳に届く。母親の声か蘭が自ら揺らしたのか、さわさわ、と小さく葉が鳴り、くすっと女性が笑いかけ。
「そうだわ。ちょっと待ってね、お水あげるから」
――やがて注がれた水は、何故だかとても美味しかった。
夕食を済ませ、お気に入りのアニメのビデオを見ながら母親が揺り椅子代わりにかゆらゆらと左右に揺れ、楽しそうに裕輔が笑う。話の端々に出てくる父親は、毎晩帰りが遅いらしい。
まだ寝ないと駄々をこねている裕輔をなだめすかして部屋へと送る母、その腕にしがみつく少年。その顔は、眠気に負けそうになりながらもどこか必死で。
「大丈夫よ。ちゃんと傍にいますからね」
「ほんとう？」
「本当。だから、裕輔もちゃんと寝てね？でないとおっかないわよ？」
両手の指を頭に乗せて鬼の真似をする母親。その様子に取りあえず安心したのか、裕輔がちらっと蘭を…鉢植えを見てから部屋へ寝に行った。戻ってきた母親が、静かに戸を閉めながらふ、っと息を吐く。
…まだ、帰ってこない。
そんな呟きが、その唇から漏れたように見えた。裕輔には聞こえないよう、音を立てずに。
「…おっかないわよ、か…ちゃぁんと、早く帰って来てくれれば、いいのにね？」
生き物と言う点では蘭のような植物でも語りかけると落ち着くのだろうか。テーブルに手を付き、頭を手の甲にちょこんと置いて、柔らかく目を細める。
「何を言ってるのかしらね…返事なんか、返って来る筈、ないのに…」
ゆら、ゆら、と。
もう片方の手で草の先を揺らしながら。
――すっかり夜も更けた頃帰ってきた裕輔の父親は、写真の男と同じ顔をしていた。
真っ暗な中、さわさわ葉を鳴らしながらあちこちを覗いてみる。人が動く気配は無く、疲れているのか男の寝息が高く聞こえて来る。
時計も見えないため、今が何時なのかは分からないが…そんなことを思っていると。
からりと戸を開けて中から母親がすぅ、と姿を現した。
裕輔が言っていたように、パジャマ姿のままで。
まっすぐ前を見つめ――焦点の合っていない視線は横を向く事も無く。
素足に構う事無く、向こうへと消え…そして、玄関の扉の開く音がした。
………。
わさわさと葉を動かして辺りを伺うが、物音１つない。開けっ放しの扉の向こうからも――。
――ちょっと、寒いかなぁ。
夜中の、しかも外。そんなことを思いながら、ゆるゆると人間形態へと変形していく。
きょろ、っと周りを見回して、誰も見ていないことを確認すると、母親の後を追って外に出ようとして――
あ。
昼間、放り込んだ屑篭の中身は移動していない。
何が書いてあるのか分からないが、父親が写った写真を切っていたところをみれば、何か関係のあることなのだろうと思い至り、よいしょ、と小ぶりの屑篭を抱えてとことこと外へ出て行った。
玄関を開け放したままで。
出て行く前に何か、視線を感じたような気がしたが…確かめもせず。
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「おいおい。子供がこんな時間に何処へ行く？」
屑篭を抱えた子供の姿が余程奇異に映ったらしい。マンションの玄関から外に出て、きょろきょろと辺りを見回していた所に声をかけてきた男が鋭い視線で蘭を見る。
「うん、あのね、ゆうすけくんのおかあさんをおってるのー」
ゆうすけくんのおかあさんあっちいった？と指さして訊ねる蘭。通行人にこういうことを訊ねても普通はまともな返事など返って来ないのだろうが。
「あー…お前も草間んトコのか」
「うん」
こっくり、と大きく頷いてぶるん、と震える。
「あう…寒いのー…」
外気はそろそろ春とは言え冷える。その中を重装備ではない姿でいる蘭は、確かに酷く寒そうだった。
「そりゃ、外に出るんだったら出る準備してなきゃ…ってなんで俺を見るんだよ」
じぃ。
つぶらな瞳で見上げると、苦笑しつつ男が「わーかったよ」と言い、
「速度遅いから大丈夫だろうが、こんなトコで潰すだけの時間もねえし。ほら、コレ着な」
どさりと背中に被せられたのは、使いこなした皮のジャケット。今まで着ていたからだろう、暖かく、そして蘭が着るには大きくて重かった。が、寒いよりはマシとにこにこ顔になって歩き出す。途端、むんずと首根っ子を捕まれ。
「こら。どっち行く気だ。こっちだよ」
くるりと方向転換。そして、急ぎ足で歩き出した。
合流した先には３人が居た。他の２人は？と聞いた嵐に、先行したとウィンたちが言葉を返す。
サイズのまるで合っていない大きなジャケットを着て、何か円筒形のモノを抱えている蘭を不思議そうに見ながら。
「遅かったわね」
「バイクじゃ音うるさいしな。気付かれないように距離空けて来たんだ」
嵐がそう答え、うんうん、と大きく頷く蘭。
「ところで、…その籠、何？」
シュラインが何故誰も言い出さないのだろうか、というような不審気な顔をしながら指さす。
「えーとね。しゃしんとおてがみがはいってるの」
はい、と言いながら差し出した蘭は屈託なげに笑いかけ。複雑な顔で受け取ったシュラインが、細々としたゴミの中からくしゃくしゃに丸めた封筒と、捻じ曲がった写真を取り出して広げる。他の者も興味深そうに寄ってきて、街灯の下で灯りを当てた。
「――この人は？」
「男の人はゆうすけくんのお父さん。女の人はわかんない」
「女の人？」
蘭が昼間見た光景を語り、それを聞きながら手紙を広げて行く。
「…○○リサーチセンター…って…大手の興信所じゃない。テレビでも特集で出てたことあるわ」
シュラインが眉を潜めつつ、中に書かれた内容に目を通して行く。
「――これって…やっぱり…」
「…気付いて…」
夜中故か、それとも書かれている内容のことでか、自然と声が小さくなる皆。なんだろう？と顔を上げた蘭が重いジャケットによろろ、と少しよろけ、美猫に支えられた。
「大丈夫？…ずいぶん重そうな上着だけど、どうしたの？」
「高坂さんがかしてくれたの」
ほこほことあったまりながら、手の出ない長い袖を嬉しそうに振って笑う。上で話している人たちとは背の低さも会話も少し違う、少しばかり下の視線の２人。
「いいなぁ。ねえねえ、美猫も中入っていーい？」
「うん、いいよー。どうぞ」
だぶだぶの上着を開いて、二人ですっぽりとくるまると丁度良い大きさになる。
「あったかいね」
「うん、あったかいの。寒いのはダメなの…だから、もっとあったかくなって欲しいな」
「美猫もあったかいのが好き。ひなたぼっこしながら縁側でお昼寝って気持ちいいんだよね」
「僕もお昼寝好きー。でもベッドで寝てると怒られちゃうの」
「そうなの？ベッドの上も気持ちいいのに、ひどいね」
「ひどいの」
うんうん、と真剣な表情で頷く蘭に、美猫がくすくす笑う。
「――ゆうすけくん、今日遊んでいた時もずっと家のこと気にしていたみたいなの。…早く元気になるといいね」
「うん。お母さんもいいひとなの。僕に美味しいお水くれたの」
美猫がちょっと不思議そうな顔をした後で、ああ、と納得したように小さく呟いた。
不意に、その場に緊張が走る。鋭い視線を向けたのは話をしながらも辺りを伺っていた３人。
「あ…あれ、お父さんじゃない？」
「えっ！？」
ばたばたと、慌てて着替えてきたような姿の男性が、道の真ん中できょろきょろと辺りを見回している。名を呼ぼうとしているのか口の脇に手を置きかけて、止めた。流石にこの時間に名を呼びまわるのは不味いと思ったらしい。
「寝てたんじゃなかったのか」
母親と先行した２人が気になったらしく、急ぎましょ、とシュラインが皆へと声をかける。
「あの人はどうするの？」
「……まだ何とも言えないわ。…彼女が自分の意思で外に出たのかどうかだけでも違うから」
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早足になってその場から去って行く３人を追いかけて、ジャケットからするりと抜け出した美猫がおたおたと後を付いて来る蘭を少し離れた位置から早く早く、と手招きし…だが少しばかり遅かった。
「あっ、お前」
その重さが仇となったか、ぽてっと転んだ蘭を慌てて抱き起こした父親が、少年の身体を見て怪我がないかどうか確認し、それからはっと意識を戻して掴みかかる。…牛皮部分を、そっと。
「お前だよな？さっき俺の家から出て行ったのは。――誰なんだ、お前。それに…あいつは、どこだ？」
しゃがみこみ、バランスを崩さないようにしっかりと蘭を支えながら話し掛けてくる男。写真の笑顔は何処にも無く、必死そのもの。
「僕…蘭。ゆうすけくんのお母さんは、あっち」
「そ、そうか」
あっさりと名を名乗り、そして目指す人物の行く先を教えてくれた事に拍子抜けしたらしい男ががばっと立ち上がって急ぎ足で向おうとして。
「あぅ」
ジャケットの重みに構わず後を追いかけようとした蘭が、バランスを崩してまたぽてっと倒れてしまう。
「……」
ちらちらと、行き先を眺めながら蘭へも視線を向ける男。
じたばた。
じたばた。
袖の長いジャケットの中から手を付いて起き上がろうとしても、ジャケットに引張られる形になり上手く行かず、立てない蘭に深々と息を付くと、急ぎ足で戻ってきてひょいと立たせ、砂や埃を払ってやる。
「それじゃ先に―――いや、案内してくれるか？」
手を繋いだつもりか、長い袖の先を握りにこっと笑った男の笑顔は、写真で見たのとはやはり違って…ずっと、柔らかな笑みだった。
「…そう言えば裕輔の手を繋いで歩いたのっていつのことだったかな…」
蘭の歩く速度に合わせてゆっくりと歩を進めながら、ぽつりと男がそんなことを言う。
「良かった。悪い人じゃないのね」
「っっ！？」
歩き出した２人にかかった背後からの突然の声に、緊張がほぐれていたのだろう。悲鳴を上げる一歩手前で何とか堪えた男が恐る恐る振り返り…そして、美猫の姿を認めた。にこにこと近寄りながら、先導するように歩き出し。
「美猫もこの子も、こうしんじょのお使いなの。ゆうすけくんにお願いされたんです」
２人の周りを８の字を描くように付いて歩きながら、美猫が男へ言う。
「…最近は変わったもんだな。こんな子供も働けるようになったのか。いや…ちょっと待て。こんな真夜中に、お前ら…その…親は平気なのか？」
「お仕事だもの、大丈夫。それに…ちゃんと、許可は取ってますよ？」
「僕も平気ー。――ゆうすけくんのお父さんは、こんな時間に外に出ていて平気なの？」
「…そりゃ…大人だしな」
思わず苦笑いする男。この時間に小さな子供が２人も居る異様さに気付いたものの、２人の様子に警戒する気も起きなくなったらしい。軽く肩の力を抜いて、目的地らしき場所へとのんびりと言っていい足取りで歩き出す。
「それにしても、興信所か」
「どうしたのー？ゆうすけくんのおかあさんの様子がおかしいこと、知ってるの？」
その言葉を聞いて、男の顔が変わった。
「…まさか…」
「心当たりがあるんですか？」
ひょこん。顔を上げた美猫の目がきらんっ、と輝く。
「い、いや、知らない…はずだ」
「しゅっちょうって、しゅっちょうだったの？」
ぎくぅん。
一瞬にして引きつった笑み。出張と言う意味すら分かってなさげな子供の言葉がまともに心に刺さったらしい。
「ゆうすけくんに聞いたのー。帰って来てからケンカしたって。その日からお母さんの様子がおかしいって」
黙ってしまった男と一緒に、２人がとことこと歩いて行く。街灯がぽつん、ぽつんとある中を、子供達の足に合わせて。
「…裕輔が、そんなことを」
「夜中にこうしてお母さんが外に出て行くことも、知ってたみたい」
美猫の足取りは、軽い。注意しなければ足音が他の音に紛れて消えてしまうほど。数歩先に歩いてくるりと後ろを振り返り、ちらちらと男を見上げながら蘭の言葉を補足した。
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「…！… …」
――ふと。
風に流れて聞こえてきた『声』に、３人が立ち止まって耳を傍立てる。先行した皆の姿は視界の中には無く、すぐ近くにあるのは石で出来た階段。それは、闇の中へ続く様に、木々の合間を通すように上へと続いていた。
「――この…上か？」
流石に行くのを躊躇うような男の声。だが。
「――お母さんに…誰…！？」
先ほどよりはっきり聞こえた声に、３人の表情が引き締まった。中でも美猫は目を大きく見開いて、上を睨みつけている。
「…今のは」
裕輔？
名を呟いたのは誰だったか、少なくともそれが３人の――男の背を押したのは間違いなかった。上に行こうとした男が、握ったままのジャケットの袖に気付いてええい、と声を上げると蘭を抱き上げてばたばた駆け上がって行く。
「あ――ちょっと…」
はやーい、と呑気に呟いたまま、ぶらぶらと無抵抗に揺れる蘭。静止するように声をかけた少女もすぐさま後を追ってくる。
――ギャア、ギャア…
男の腕の中から上を見上げると。
闇の中に、もう１つの闇がばさばさと羽ばたきながら耳障りな鳴き声を上げていた。
階段を駆け上がった――運ばれた者もいたが――３人が目にしたものは、大きな神木を背に木にもたれかかっている母親と、その前に立ってその場に居た者達を精一杯の顔で睨みつけている少年の姿。散らし髪が顔にかかり、俯いたその右手は左腕を握り締めたまま、皆から…少年からも顔を逸らし続けている。
「……裕輔…？」
呆然と呟いた男の腕からするりと落ちた蘭がちょこん、と地面に足を付いて無事降り立った。其れにも気付いた様子が無く、混乱しているのか定まらない表情を何とか笑みの形に引きつらせ、数歩皆の居る場所へと近寄って行く。
「…貴女の望んだ事の結果よ。これが」
静かな、緋玻の声が神社の中に響いて行く。ぴくりとも動こうとしない母親は、聞こえているのかいないのか、それすらも分からない。
「満足出来たかしら？皆にこうやって知られて…旦那さんも来たらしいわね。いい加減おかしいって事、気付いてたみたいよ」
ゆらり、と顔にかかっていた髪が揺れる。息遣いが変わったのだろうか。その言葉を聞いた裕輔が、勢い良く視線を向けて父親の姿を認め――そして。
思い切り、睨みつける。
「…まー、それはそれとして。…お父さんにもたっぷりと思い知らせてあげないとね」
くるりと振り返った女性３人が、冷ややかな視線を近寄ってきた男へと向けた。所在なげにあちこちを見ていた嵐がゆらゆらと危ういバランスで立っている蘭と、美猫の傍へとやって来る。
「その重さで良くやって来れたな」
「ゆうすけくんのお父さんと一緒にきたの」
「そうか。…おい…大丈夫か？」
声は、大きく身震いした美猫へとかけられたもの。こく、と頷いてはみたもののぶるぶる震える身体は止めようが無く。蘭がとことこと寄って行くと、「はい」と先程もしていたようにジャケットの前を開いてひらひらと手招きする。
「…ありがとう」
何か複雑な表情をした美猫だが、誘われるままに中へと入り、そしてほぅっ、と息を吐いた。
「…あったかいね」
「あったかいよ」
やや穏やかな表情になった美猫と、どこか得意げな蘭。俺のだぞ、と言う嵐の声は２人へ届いたのかどうか。
「たかだか浮気じゃないか。お前と別れてまで手に入れたいような女じゃないよ」
不貞腐れと焦りと開き直り、そして後ろめたさが同居した顔で、男が母親へと語りかけているのが聞こえ、其方へと意識を向ける。
「――その発言は気をつけたほうがいいですよ？…『お父さん』」
わざと丁寧に。最後の言葉には強調まで付けて、険しい顔のままシュラインが言い放つ。
何だよ、と言いかけて、下からの鋭い視線に出会う。…裕輔が、真っ直ぐ、父親を見上げていたからだ。
「うそつき」
その一言は、何がしかの痛みを伴って突き刺さったらしい。顔をしかめた父親が、口を歪める。
「大丈夫って言ったよね。お母さん、内緒にしていれば怒らないって」
裕輔の丸い瞳が、断罪を望むかのように罪びとを映し出して。
「お父さんがあんなことしなかったら、お母さん怪我しないで済んだのに」
「え…怪我、してるのか」
「…大したこと、ないわ。――かすり傷よ…」
ゆるりと首を振る女の、裂けたシャツから覗いているぱっくりと開いた腕の傷はとうに塞がっている。塞がっているだけ。赤黒くこびり付いた血は隠しようがない。
黙ったまま、２人が見詰め合っている。男は困ったように。女はひたすら静かに。
そして、口を開いたのは――女。
「――別れましょう。それが、最善の方法か分からないけど」
「本気か？…いや」
ちら、と父親がじっと見つめ続けている裕輔を具合悪そうに見て、
「子供のいる前でする話じゃない。なあ、もっとじっくり話し合って…」
「話し合うのは構わないけど、裕輔を抜いて話はできないわ。…気付かなかった？わたしたちのこと、一番見ていたのはこの子なのよ」
男が、少年を見下ろす。真っ直ぐな瞳の奥に何が見えたか、苦い顔をして小さく笑みを浮かべ。そして其れを隠すように自らの手で口元を覆う。
「――そうだな。こいつとも一緒に話し合うか」
何を考えていたのか、何を思っていたのか。
不貞腐れていた男がようやく肩の力を抜き、そして少年の頭にぽん、と大きな手を置いた。
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「ホントにいいの？僕がお願いするんだから、その代わりにお金払わないといけないって教えてもらったのに」
目を丸くした少年が、武彦を見上げてくる。
「大丈夫。きちんと払ってもらっただろ？最初に」
「でもあれだけだと、おべんといっこ買ったらおしまいだよ？…いいの？」
「ああ」
少年の目が、どういうわけか哀れみの視線に変わる。そして。
「たんていさんって大変なんだね。５００円でやっていけるの？」
僕のお小遣いより少ないのに、とじぃ、と真っ直ぐな瞳で見つめられて思わず思い切り目を逸らしてしまう武彦。何気に送られている冷ややかな視線は零のもので、奥で聞いていたシュライン達が手で口を押さえて笑い出す。
あれから数日後の事。
初めて此処に来た時よりもずいぶんと表情が明るくなった少年が、報告に来ていた。
「僕のうちね、引っ越すんだって」
結果的に良かったのかどうか、それは事務所の人間が判断する事ではないが。
母親の奇行が近所で噂になっていたことでもあり、じっくり話し合った結果でもあり…親子揃って、父親の会社からそう遠くない町へと引っ越す事に決めたのだという。詳しいことは裕輔には分からないらしかったが、母親の怪我の回復が早い事と、最近は父親の帰りも早いらしくそれがご機嫌な理由のようだった。
時期的には小学校へ上がる直前でまだ良かったと言うところだろうか。
こんこん、と遠慮がちなノックの音と共にかちゃりと扉が開いた。その向こうには、会社帰りらしいスーツ姿の男性と、少しおめかしした様子の女性が見える。
「あ。お父さんだ。またね、みどりちゃん」
「うん、ばいばいゆうすけくん」
これから食事に行くのだと、ドアを開けて中を覗く父親にぱっと顔を輝かせ、ぱたぱたと急ぎ足で走って行く少年。照れくさそうに笑った２人の男女がぺこりと頭を下げ…その様子を見て、小さく何事か呟いた少女が、ちょこんと立ち上がる。
「私も帰ります。あまり遅くなると母御が心配しますので」
「そう言えば」
武彦の声に、首を傾げる少女。
「お前は…彼の何に当たるんだ？親戚か何かか」
「いえ、近くに住む友人ですよ。私の役目は、困っていた彼を此処に連れて来るだけでしたから」
小さな唇が、ゆるく笑みの曲線を描いていく。
「もう、お忘れですか？…雨宮翠です。お久しぶりですね」
そう言い、歳よりもずっと大人びて見える少女は小さく笑みを浮かべた。
「――いや、待て。あの子は確か、もっと小さかったし…それに、その髪。切られたんじゃなかったのか？」
それ以上にその口調、表情。裕輔達と居た時とは明らかに違い。
「幼子は成長が早いですから」
さらりと言い、くすっと楽しげに笑う。
「また何かの折に伺うこともあるでしょうが、良しなに」
ああそうそう、とぱたりと足を止めた少女がくるりと振り返り。
「『私』のこと、くれぐれも私の周りの者には言わないでくださいませね」
一瞬見えた真赤な唇と――それにも負けることのない赤い瞳が。
その後直ぐ背を向け、水の様に流れた艶のある黒髪に溶けて、少しの間幻のように漂っていた。
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【整理番号 ／ ＰＣ名 ／ 性別 ／ 年齢 ／ 職業】
【0086／シュライン・エマ ／女性／ 26／翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員】
【1588／ウィン・ルクセンブルク／女性／ 25／万年大学生 】
【2163／藤井・蘭 ／男性／ 1／藤井家の居候 】
【2240／田中・緋玻 ／女性／900／翻訳家 】
【2380／向坂・嵐 ／男性／ 19／バイク便ライダー 】
【2449／中藤・美猫 ／女性／ 7／小学生・半妖・４４匹の猫の飼い主 】
【2770／花瀬・ルティ ／女性／ 18／高校生 】
ＮＰＣ
草間 武彦
零
芦田 裕輔
父
母
雨宮 翠
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■ ライター通信 ■
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お待たせ致しました。「代償」をお届けします。
ようやく以前から用意していたＮＰＣを登場させる事が出来ました。今回はエキストラなので、キャラクターが顔を合わせたのはほぼ全員がエンディングでのことでしょうね。今後も頻繁ではなく使って行く積りなので、宜しくお願いします。
それでは、また別のお話で会えることを願い、筆を置くことにします
今回の参加、有難うございました。
間垣 久実
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