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藤と桜と
原宿駅から青山通りに向けて、まっすぐに伸びている道がある。両脇に連なるケヤキの並木が美しい、明治神宮の表参道である。
三月半ば、日曜日の表参道を行き交っているのは、軽やかなパステルカラーを纏ったひとびとであった。
軒を連ねたブティックのウインドウには誇らしげに春の新商品がディスプレイされ、立ち止まった恋人たちはお互いの耳に口を寄せ、たわいもない相談をしている。
たとえばこの服を、このバッグを、このアクセサリを贈りあえる日はいつだろう。誕生日やクリスマス――それ以外にも、初めて出会った日、つき合い始めた日、彼らの記念日は数多い。
だが、まだ風は寒さを孕む。恋人たちが思わず、スプリングコートの襟を立てたとき――
突然、華やかな桜の花が表参道を席巻した。
桜吹雪かと見まごうばかりのそのひとは、ふりこぼれるような満開の桜の花をあしらった着物姿の若い女性であった。道沿いの瀟洒なビルで行われている、日本舞踏教室での稽古がえりであろうと思われる。
(綺麗なひとだなぁ)
(桜柄の着物なのね。素敵)
桜の着物は、季節を選ぶ。まだ開花には少々早い、今ごろの時期にしか身につけられない着物を、彼女はいとも優美に着こなしている。これから買い物を楽しむ予定であるらしく、道沿いのショップを眺めては、立ち止まって思案顔であった。ウインドウのガラスにも桜模様が映り込み、時ならぬ花を咲かせている。
カップルの男性の方がぽかんと見とれて、恋人に肘を突かれた。道行くひとびとも目を奪われているその姿は、しかし凛としてつけいる隙がない。
ひとりの勇気ある若者が、声を掛けようと試みて近づいた。が、彼女のダークブラウンの瞳と目が合った瞬間、気圧されてすごすごと引き下がる始末である。
そんな外野のあれこれをものともせず、桜の着物姿の嘉神しえるは、街をゆっくりと歩き始めた。
※ ※
(ここに、こんなお店があったかしら……?)
しえるはいつの間にか、細い道の角にいた。
ずっとアートジュエリーショップや、輸入雑貨専門の店、インポートブランドのブティックなどに入っては、それぞれ気に入った商品にじっくり見入り、店員から説明を受けていたのだ。その繰り返しを楽しむうちに、青山通りから少し外れた道に入っていたらしい。
――『藤壺庵』
皮付きの杉を加工した看板には、そう彫りこまれている。あたたかな風合いの木材で組まれた店構えと藤色に染められた麻暖簾から察するに、和風雑貨を商う店であるようだった。
暖簾をくぐってみて、しえるは小さく歓声を上げた。
藤色を基調とした、しっとりと落ち着いた店内である。まず目に入ったのは、薄墨で描かれた、たわわな藤棚の絵だった。木目を生かしたテーブルには、藤をあしらった漆器や箸箱、正絹ちりめん友仙の敷布や花紋小鉢、薄紫の小さな香炉が小粋に並んでいる。
「これ……。ぜんぶ『藤』にちなんでいるんだわ」
ひとつひとつ手にとっては眺め、しえるはため息混じりに呟く。店の奥に静かに立っていた店主が、微笑みながら近づいてきた。
「藤づくしの庵にようこそ。桜のお嬢さん」
真っ白な長い髪をきっちりと結い上げた、上品な老婦人である。藤柄の古銘仙が実によく似合う。物腰にどこかしら艶めいた色香を感じるのは、もしかしたら芸妓出身であるのかも知れない。
「季節にそぐわない柄でごめんなさいね。私は年間を通して、藤の着物を着ているの」
「いいんじゃないですか。宇野千代さんも、一年中桜の着物しか着なかったみたいですし。私はそんな度胸、ないですけど」
「まあ」
はっきりとした物言いに、店主は楽しげに笑う。
「あなたのようなお嬢さんがいらしてくださって嬉しいわ。日本舞踊のお稽古がえりなのかしら?」
「ええ。普段の練習は浴衣でやるんですけど、今日は発表会前の特別稽古だったので。発表会ってお金がかかるから、できるだけ衣装は自前でって言われちゃって」
袖を軽く持ち上げ、しえるは改めて自分の着物を眺める。
その様子が微笑ましいようで、店主は目を細め、口に手を当てた。
「そのお召し物なのに申し訳ないけど、あなたの踊る『藤娘』を拝見してみたいわ。『〜若むらさきにとかえりの花をあらわす松の藤浪〜』さぞ優雅でしょうね」
「あー、それ、この前踊りました。考えてたより難しかったですよ。あれって16歳の女の子が好きな彼氏を思う気持ちにならなきゃいけないでしょう?」
「……それは、難しいことなの?」
可笑しそうに聞く店主に、しえるは真剣に頷く。
「はい。とても」
「想う方は、いらっしゃらないのかしら?」
少し考えてから、首を横に振る。
「彼氏っぽかったひとは、兄貴の仕事に対して失礼なこと言ったから振っちゃったし。回りにはろくな男がいないし」
「そうなの……? 不思議ね。この店に入ってくるお嬢さんは、たいてい恋しいひとに渡す贈り物を選んでいくのよ。あなたもそうなのかしらって、思ったのだけども」
「贈り物……」
言われてしえるは、藤づくしの雑貨を、もう一度見回した。
(あら……?)
片口小鉢や豆角皿が並んでいる隣に、ふと目を惹かれた湯呑みがあった。
白地に近いほどのごく薄い藤色を下地に、淡彩で藤の模様が描かれている。その淡い紫は、ある誰かを思いおこさせた。
異界と化した井の頭公園に棲まう、白蛇の化身。しえるが訪ねる度に、とても喜んで嬉しそうに笑う彼。
(……あなたの瞳とお揃いね)
湯呑みを手に取り、くすりと笑う。
「すみません。じゃあこれ、プレゼント用に包んでいただけますか?」
「まあまあ。ええ、すぐに。恋しく想う方に心当たりがあったのね?」
「そういうんじゃ、ないんですけど」
――芽生えかけている何かは、遅咲きの桜にも似て、まだつぼみは固いのだけど。
※ ※
店主は湯呑みを桐箱に入れ、西陣織の正絹風呂敷でくるんでくれた。
店を出たしえるは、思い立って青山通りから渋谷へと向かうことにした。
途中、東洋のお茶200アイテムを扱う専門店で、伊万里のかぶせ玉緑茶を買い求める。
これで準備は整った。
しえるは、この足で京王井の頭線の渋谷駅へ行くつもりだった。渋谷と吉祥寺を繋ぐ路線は、終点近くであの公園へと通じている。
とある都市伝説にご機嫌ななめの女神と、その眷属が暮らす異界へ。今日もあの白蛇は女神の気まぐれに振り回されて、ぼやいているに違いない。
この箱をプレゼントだと言って差し出したら、彼はどんな顔をするだろう?
そういえば和服姿を見せるのは、初めてだったかしら?
東急東横店前を横切る艶姿に、モヤイ像の前で待ち合わせをしていたひとびとがはっと息を呑む。
通りすがる男性たちが、次々に振り返る。
桐箱を抱えなおし、しえるは微笑した。
桜吹雪の竜巻さながらに、小さな旋風を巻き起こして。
――Fin.
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