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<東京怪談ノベル(シングル)>


絶望の世界



 静かに目を開けてみると、まずその視界に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。
 宇奈月慎一郎はぼんやりとうつろな瞬きをしてから、ぎこちなく上体を起こそうとする。
 が、それが自分の思うほど上手にできなかったので、何事かと思いそろりと視線を下方へ這わせてみた。
 右足が膝の上で支えられ、天井から吊された器具に固定されている。
 骨折した足首を治療するための様だった。

 どうして、自分がここにいるのか。
 どうして、捉えられた巨大哺乳類が如く白い腹を露にし、醜態を露にしているのか。
 浅く長い眠りから目覚めた嬰児さながらの胡乱さで辺りを見回す、慎一郎にはとんと想像もつかぬ。
 白い部屋を抜け出して海辺の町にたどり着き、そこで彼は彼たる所以を知ったつもりになっていた。
 が、現実。
 目が醒めたのは相変わらずのこの白い部屋で、ご丁寧に利き足の自由まで奪われている有様ではないか。

 〜絶望から脱した時、足を踏み出したのは絶望の世界であった〜
                          宇奈月慎一郎

 そんな真理の一言を、新書の帯書きのために捧げたいと思った。
 どこの出版社でもいいが、本の内容そのものはなるべく暗くて、陰気くさいものがいい。
 世間から狂人であると太鼓判を押されている、しごくまっとうな青年が主人公だ。
 彼は世間から、まるで薄汚いシンデレラか何かのように陰湿で、悪質ないじめを受けている。
 靴の中に画鋲を仕込まれるとか、給食のうどんの汁がいつまで待っていても回されないとかだ。
 先生も見てみないふりをするし、主人公がほんの少し気にしているクラスメイトの女の子もただ黙って哀れみの目を向けるだけ。
 ようするに主人公というものは、いつだって孤独なのだ。
「かわいそぅ……」
 慎一郎はつぶやき、いたたまれない気持ちでゆるゆると首を振る。
 首の後ろでまくらがさらさらと鳴った。
「お父さん……お母さん……どうしてボクをおいて、お星様になってしまったの……?」
 自分の想像ででっちあげたかわいそうな青年に、すっかりと自分の面影を重ね慎一郎は悲痛なつぶやきを漏らす。
 窓には鉄の格子がはめられており、細い縦長に仕切られた薄暗い空が見える。
 今が明け方なのか、それとも夕方なのか。
 それすらも、今の慎一郎には想像すらつかないのだった。
 お父さん。
 お母さん。
「……ねぇ迎えに来て、ボクを」
 慎一郎は枕を濡らす。
 尻が痛くて身悶えをすると、天井から吊るされたぶざまな片足がふらふらと宙で揺れた。



 やがて彼の切なる願いは格子を抜け、しんしんと冷たく凍てる夜空の向こうへ届けられることとなる。

 身体の自由を奪われ続けていたとあっては、足の回復も驚くほどに早い。
 慎一郎は二重にも三重にも施錠された狭く白い小部屋の中を、自由に動き回る事ができるほどに骨を接いでいた。
 不思議と、脱走してやろう等と云う気が起きぬ。
 毎晩寝る前に星へと祈る、そんな習慣が楽しくてたまらなくなってきたからであった。

「お父さま…お母さま……」
 今夜の慎一郎は、おそろしく背が高く細長い塔に閉じ込められた囚われの姫、である。
 隣国の王子と、気に染まぬ婚姻を結ばされそうになってここにいる。
 彼(女)の武器は、生まれてからこのかたずっと鋏を入れた事のない長い長い髪。いつかこの髪を使って、この塔から脱走してやろうと彼(女)は考えている――
 そんな「ひとりお姫さまごっこ」に興じながら、慎一郎はうるうると輝く瞳で星空を見上げている。

 その時だった。
 にわかに一点開けた星空、まばゆいばかりの光に白い室内が満たされた……そう思った瞬間、霧散した光の渦が小さく凝縮する。
 シーツの縁に両ひじを突いて手を組んだまま、慎一郎はいたいけな少女のようにぽかんと口唇を開けてそれを見守っていた。
 ――星の精だ。
 理屈も無しに、慎一郎はそう直感した。
 光はやがて細かな点となり、掻き消えたようにふつりと途絶えてしまった。
 あとには再び、暗闇と静寂が残される。
 それなのに慎一郎は、うたがわしげな眼差しでじっと、光の途絶えた辺りを凝視していた。
 奴はいる。
 ここにいるのだ。
 星の精はここにいて、目には見えぬが自分を狙っている。
 油断して寝付いた隙に自分の血液を吸い、暗闇の中で紅色に蠢く心積もりであるのだ。
「……そ、そんなことはさせないぞ!」
 慎一郎は叫ぶ。
 細く痩せた腕をぶんと振りたくって、光の消えた辺りの空気を攻撃した。
 虚しく宙を切った腕をさらに数度、ぶんぶんと振り回してはのそのそと起ち上がる。
 地面に突いた足首がずきりと痛んだが、頓着はしなかった。
 絶望が背中を貫いただけだった。

 壁際にへたりこみ、青白く不健康な両手や裸足の足、そして首筋に至るまでをすっぽりとシーツで包み込む。星の精に血液を吸わせぬためだった。
 真夜中の暗闇の中、さらにぎゅっと瞼を閉じて深く濃密な暗闇を作る。
 白い部屋の一番隅でうずくまる、白いシーツのかたまり。
 その中心で慎一郎は小さく丸まり、決して広くはない室内を物色している星の精の気配を感じては身を更に縮こまらせていた。
 絶望から脱した時、足を踏み出したのは絶望の世界であった。
 人は絶望の螺旋を生きる。
 自分を取り囲む絶望の世界は、さらに大きな、それを内包する絶望の世界に含まれている。
 核から外皮へ向け足を進め、さらなる絶望を求めて旅をする。
 人は、そんな生き物であるのだ。
 慎一郎は思う。
 このまま星の精が、自分の存在に気付かぬままでいてくれれば良い。
 慎一郎は願う。
 早く朝が来て、星の精がこの部屋から出て云ってくれれば良い。
 だが、それと同時に、慎一郎は知っている。
 星の精から逃れる朝がやって来れば、自分はさらにる絶望の世界に足を踏み入れる事になるのだと云う事を。

 彼の長い夜は明ける。



 静かに目を開けてみると、まずその視界に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。
 宇奈月慎一郎はぼんやりとうつろな瞬きをしてから、ぎこちなく上体を起こそうとする。
 が、それが自分の思うほど上手にできなかったので、何事かと思いそろりと視線を下方へ這わせてみた。
 右足が膝の上で支えられ、天井から吊された器具に固定されている。
 骨折した足首を治療するための様だった。

 〜絶望から脱した時、足を踏み出したのは絶望の世界であった〜
                          宇奈月慎一郎

 ここから出たら、本を書こう。
 慎一郎は白い天井を見上げ、一人そっと心に誓う。

(了)