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<東京怪談ノベル(シングル)>


戯れ あるいは少女の慟哭



 もとより、快活な年相応の子供…と云う訳では、決してなかった。
 同い年ほどの子供達が燦々と降り注ぐ太陽の下、子犬のように駆け回っているのを横目に、小夜子は部屋の奥でじっと本を読みつづける子供だったのだ。
 だから、母親の実家である東北の田舎へ帰る夏があまり好きではなかった。
 膝小僧をむき出しにした、野蛮な子供達が小夜子を小馬鹿にする。
 東京もんは、蝉も触れんね、カマキリも触れんね。
 庭で昼顔が花を開くくらいの時間になると、決まって近所の悪がきどもが現れ、垣根のすきまから顔を覗かせては小夜子を笑う。
 そして虫網をひらつかせながら駆けていくのだ、小夜子は砂利を踏むサンダルの音と笑い声が遠くなって行くまでじっと本にうつむくままだ。
 ……どうしてわたしだけ、そんな風に笑われなくちゃいけないんだろう。
 涙をぐっとこらえていると、見下ろしている真っ黒な文字が少しずつ霞んでくる。
 蝉。
 わんわんと鳴り響く鳴き声に耳を取られて気を抜くと、ほったりと目に溜まった涙が紙の上に落ちてしまう。
 泣いたことを母親や祖母に悟られたくなくて、小夜子はあわてて手首でそれをぬぐってごまかす。
 小夜子は、母親の実家である東北の田舎へ帰る夏があまり好きではなかった。

「たまにはみんなと、遊んだらどうね。茶屋の坊主が毎日、あんたを迎えに来るっしょ」
 祖母の言葉に、もそもそと箸の先で飯を混ぜながら小夜子は口唇を噛む。
 そんな仕草をやんわりと窘めながらも、母親がふりかけの小瓶に手を伸ばし小夜子の前に置いてくれた。
「みんな、本当はあなたと遊びたがっているのよ。でも素直にそう云えないから、あんなふうに野次を飛ばして興味を引こうとしているの」
 祖母の言葉も、母親の言葉も、毎夏ここに来るたびに聞かされている。
 が、小夜子にはとうてい信じられないのだった。
 あんなふうに意地悪な言葉を投げてくる男の子たちが、どうしてわたしと遊びたいなんて思っているだろう。
 子供にとって、唯一のコミュニティである同世代の社会へ受け入れてもらえないという事実は耐え難い。
 それも、ただ東京で生まれ育っているというだけで小夜子は、この村の子供たちに蔑まれなくてはいけないのだ。自分の努力や話術とはまったく関係のない所で。
 早く盆休みが終われば良いと思った。
 そうすれば、エアコンの効いた都会の自宅へ戻ることができる。
 東京ものだから――そんな馬鹿げた理由では誰も小夜子を馬鹿にしない、自分の場所に戻ることができる。
「……ほら、小夜子。ちまちまやってないで、早くご飯食べちゃいなさい」
 母親の言葉に小夜子はこくんと頷き、小さな手でふりかけの小瓶をつかみ取った。

 そう、それは――武田小夜子が四歳の、夏だった。



 寝付けないままで、小夜子は小さく寝返りを打った。
 ころんと上を向いて天井を見上げると、常夜灯がぼんやりと霞んで見える。
 二重に張られた蚊帳が光を阻んで、だいだい色をぼやけさせているのだった。
「……――」
 小夜子にとって、蚊帳はひたすら得体のしれない、気味の悪いものであった。まるで網戸のお化けだ。蚊取り線香の陰気な香りが鼻の奥についてただでさえ眠りが浅いのに、天井から吊るされた蚊帳は見上げるとさらに閉塞感も与えてくる。
 ましてや、ただ暑いだけの田舎では、することもなくてじっとしているから、夜になってもちっとも疲弊感がない。
 眠れない。
 そっと頭を起こして両側を確認すると、すやすやと小さな寝息を立てて右側に母親が眠っていた。
 左側では、祖母が低い唸り声のような呼気を立てながら、それでも深く眠っている。
 二人にはさまれて、小夜子は川の字の真ん中に寝ているのだ。
 トイレに行こうと、蒲団から抜け出した。
 母親を起こそうと彼女の横に座り、何度か身体を揺すってみたが、小さく不満そうに喉を鳴らしながら母親は反対側を向いてしまう。
 仕方なしに、小夜子は真夜中の蚊帳を、一人そっと抜け出した。

 古い木造の建物が、足を踏みだすたびにぎしり、ぎしりと不気味な音を立てる。
 月明かりが廊下に差し込んでいるので、辺りは青白く照らされていた。
 ……ぎしり。……ぎしり。……ぎしり。……ぎしり。
 用心深く歩を進め行きながら、小夜子は庭の方へと視線を向ける。大きな月が山端に掛かり、まるで村全体が月に見張られているようだと小夜子は思った。
「……。」
 不意な、ちょっとした怒りが小夜子の中に沸き起こっていた。
 昼間のうちに、仔犬のように跳ね回っているあの悪がきどもは、こんな真夜中に一人でトイレに行けるだろうか。
 今ごろは遊び疲れて、ぐうぐうと眠っている頃合いに違いない。
 わたしは夜の世界を知っている。夜でもこうして、一人でトイレにも行けるし、決してそれを怖がったりしない。
 それなのにあの子たちは、いつもわたしのことを怖がりだとか泣き虫だと云ってばかにするのだ。
 ずるい。
 小夜子はトイレへと続く廊下の角でふと足を止め、振り返る。
 山すそを煌々と照らしている月があまりにも明るかったので、思わず目を細めてしまった。
 わたしは、夜の世界だって、怖くないのに。
 小夜子の足が、二歩ほど引き返す。
 そしてそのまま縁側を下り、はだしのままで土を踏んだ。生ぬるい。
「……怖いことなんて、」
 ないもの。
 小夜子は垣根を両手で分け、その隙間から身を滑りだした。



 山へ続く道は、ごく細かな砂利が敷き詰められた緩やかな小径だった。
 小夜子は小さな歩幅で、それでもしっかりと山に向けて歩いていく。
 それは近所では「裏山」と呼ばれる程度のもので、少し体力のある男子であれば自転車で越えることができるほどの小さな山である。
 が、四歳の幼い少女が挑むにはたいした場所であることには相違ない。
 折れた小枝が小夜子のくるぶしを刺して、うっすらと朱色の擦り傷を作らせている。
 小夜子はぱりぱりと枯れ葉を踏みしめながら、それでも山の奥深くまで潜っていくのであった。

 どこをどう歩いたのか、本人にすら見当もつかぬ。
 ただ月を目指して小夜子は歩いた。
 日の熱を孕んで残熱を放つ砂利と泥が交じり合い、小夜子の足裏をぬかるませている。道を阻む手首ほどの太さの枝を踏んでは転げそうになり、深いぬかるみに足を取られてはかくんと膝を折った。
 そうこうしながら、おそらくは少女の足で一刻は歩いただろうか。
 太い枝ほどの大きさの、それでもぬかるみのような感触を持つ何かに小夜子は足を取られ、あわてて両手を前に延ばした。
 そのお陰で転倒をまぬがれた小夜子だったが、小さなもみじのような手のひらがぺたんと突いたその場所も、やはりぺたりとした温い感触である。頭の上を覆う木々の葉が月明かりを阻んでいたので、小夜子は何度か目を瞬かせて暗がりに慣れさせる。
「……」
 果たして、小夜子が四肢を突いたのは、彼女よりもずっと大きな肉を――もしくは、身体を――持った、人間の男の死体、であった。
 指先が緩く掴んでいたのは、男のシャツの腹部である。見当をつけて視線を這わせたその先に、目の周りが不自然なほどにくっきりと窪んだ涅槃の面持ちがあった。
 小夜子はまじまじと、その胸から顔までを眺めている。
 見紛うことなき、人の死体である。
「……あらあら…」
 幼く拙い声音が、小さな小夜子の口唇から漏れる。
 それは世話焼きの母親を真似たような口振りであったが、口調とは裏腹に小夜子の視線は物珍しげに男の顔を観察しているのだった。
 あまりに幼いばかりに、生と死の何たるかを小夜子は知らぬ。ただじんと温く、そして動かないままの男を、ゆっくりと首を傾ぎながら凝視するばかりである。
 そして漸く、小夜子は両膝を動かした。男の腿から膝頭をそっと離し、身体の向きを変えて男の傍らに座り直す。
 改めて間近に眺めた男の頬はげっそりとこけ、口が虚ろに開かれている。
 そして、落ち窪んだ眼窩が青黒く染まっていた。
 何かが塗り込めてあるのかしら、小夜子は躊躇うことなく右手の指先をそのまぶたに添えてみる。
 すると、常人のまぶたの弾力はそこにはなく、あ、と小さく声を漏らす間にググ、と指先が呑み込まれていってしまう。
 男に対して、とても申し訳ないことをした気分になった。
 決して恐怖からではなく、だから小夜子はさっと指先を引き抜いた。
 すると、ぬめって開いた不気味な孔から、ぞろり、と小夜子の指先ではない何かがはい登ってきたのだ。
「……」
 不審げに首を傾いだ小夜子の、その視線の先で、男の左目の中からぞろぞろとごく小さな虫が現れた。
 最初、小夜子は男の目から血が流れ出してしまったのかと思った。それでますます申し訳ない気持ちになったが、よくよく目を凝らせばそれは目尻ではなく男の頬や首筋へ、重力に逆らって流れ零れている。
 虫。
 小夜子がそう認識したのは、零れ出た何かが自分の指先に絡みついてきた時だった。
「……あなたは、だあれ?」
 小夜子は、自分の指先に甘えるように吸い付いてきた小さな虫に言葉を投げ掛ける。ソレは当然のことながら返事をする様子は見せず、小夜子の肉の温もりを確かめるかのようにそっと指の間に潜り込んだ。
 不思議と、恐ろしさが沸き上がってはこない。
 得体のしれない虫は男の眼窩からとめどなく溢れ出し、男の首を伝って土へと下りていった。
 小夜子はじっとその先頭を見守り、草と草の間に隠れ入ってしまうことを知りあわてて起ち上がる。
 自分に懐く「ソレ」が、一体何ものなのかが知りたかった。
 男の死体から草の影へ、ソレは長い長い行列を作って歩いて行く。
 小夜子は指先にソレの一匹を携えながら、再び山の奥深くへ足を進めて行く。



 遠くに、不思議な声を聴く。
 自分が追ってきた小虫たちと戯れ、無数に蠢くそれらの中心に身を浸し、すっかりと安心しきって目を閉じる頃には、小夜子は怨々と響くそんな声が死者の呼び声であることを悟っていた。
 ここは、死んだひとたちが来る場所だ。
 小夜子は可愛らしい小虫の背中を指の腹でそっと撫でてやりながら、そんなことをぼんやりと考える。
 この場所は不思議と、自分のことを優しく受け止めてくれるような気がしていた。
 生きながらにこの世界に辿り着いた自分を厭うことなく、虫はこれほどまでに愛おしい。
 自分を仲間外れにする村の子供たちよりも、この虫たちはずっと自分に優しく接してくれるのだ。
 くすくすと、喉の奥で自分が笑っていることに、小夜子は気付いていた。
 友達。
 内気な自分にできた、とても数の少ない友達。
 そう思うととても満ち足りた気分になって、小夜子は強ばった小さな背中をまた少し緩めることが出来るのだった。

 生きながらにして足を踏み入れた、幽冥界。
 そこでの一時は確実に、小夜子の人生の面舵をぐっと傾けさせる事となった。

「……――………」
 小夜子が寝間を抜け出し、月明かりを頼りに山へ足を踏み入れた日。
 それから二日後に、半年前から行方不明になっていた隣り村の老人の遺体と共に彼女は山の最奥で発見されることとなる。
 両足の裏にたくさんの泥を蓄え、小さくくすくすと笑いながら遺体の眼窩をほじくっていた。
「お友達、できたの。お友達なの……」
 捜索に当たっていた山狩りの男性は、さながら幼い鬼を見た、と後に語ったと云う。

(了)