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<東京怪談ノベル(シングル)>


珠玉の時―内包された世界―

 窓の向こう側から差し込んでくる鈍い光が、長身の男の影を優美に映し出していた。
 胸から下げた細かな細工物の懐中時計がゆるやかに時を刻んだ。
 大き目の窓の向こうはなかなかの快晴だが、所々雲が浮かび、いい具合に日差しをさえぎって柔らかい光に変えている。
 眼下に広がる美しく手入れされた庭を眺めながら、男――セレスティ・カーニンガムはゆっくりと杖をついて、脇にあった車椅子にその身を落ち着けた。
 そうしてそのままつい、と動かして文机の脇を通り、なめらかな動きで書斎から通じる隣の書庫へと入っていく。
 その途端、書庫特有の、乾いた本の匂いが鼻をついて、セレスティは自然と顔を綻ばせた。
 馴染みのある空気に包まれながら、車椅子での移動を前提として通常より幅広く作られた書架の道を進みながら、少しずつ体の奥底から湧き上がる気持ちに、彼は知らず手を早める。
 くるくると回る車輪の上で、艶やかな銀の髪がふわりと舞った。ゆるくまとめられたそれを肩に垂らしながら、セレスティはさぁ、何を読もうか、と思案する。
 理知的な光を湛える蒼の双眸は、いまや期待に輝いて、涼やかな口元は自然と笑みの形を取っていた。
 ――このところ、ずっとゆっくりと本を読むだけのまとまった時間をとることができなかった。
 それでも本というものを心底愛している彼は、暇を見つけてはこの書庫の入り口近くの本を手にとって眺めてはいた。けれども、やはりじっくりと読むとまではいかない。
 だから、この気持ちのいい午後には、久々に奥の方で読み手を待っているだろう本を読み返そうと決めていた。
 図書館と呼ばれる場所にも劣ることのない蔵書を誇る書庫の書棚、一つ一つを眺めながら、セレスティは丁寧にその全てを覗き込み、タイトルを眺めては手に取る本を吟味する。
 今までに彼が集めてきた大切な本には、オーソドックスなものもあれば、古語で書かれたような、難解なものまで色々と揃っていた。
 その中から、彼は一つの書棚を選んで車椅子を動かし、そっと太目の本を取り出す。
 ――ずっしりとした質感。
 古いものだが、丁寧に管理されていたことがよくわかる。古ぼけてはいない。
 それは、旧約の聖書だった。世界で一番のベストセラーである、この書物。
「いつ見ても、……これは興味深い書物です」
 一人、そう漏らして厚手の表紙をめくる。すでにその目は、本という異界を覗き見たい、という純粋な光で満たされていた。

 ――――GENESIS

 創世記、と呼ばれる章から、それは始まる。
『神、初めに天と地を創り給えり。神は言われた「光あれ」。
 するとそこには光があった。神は光と闇とを別け、光を昼と呼び闇を夜と呼んだ。
 
 夕べがあり朝があった。第一日である。』

 神と呼ばれるものはほんの一声、その一瞥でこの世界を創った、と描かれている。セレスティが生まれ、育まれた母海は三日目に創られた。祝日が創られ、人の存在が創られ。やがて時をおいて滅ぼされ、洗い流された人という醜悪なもの。……だが、それは本当に醜悪だったのだろうか。
 バベル(混乱)と呼ばれた塔により、新たな人間たちは分けられ、ちりじりになり――そうして、今にはびこる人々の先祖となった。
 ……セレスティは思う。神がしたことの意味を。
 創ったものが、意のままに育たなかった。だから、洗い流した。地を、水で洗った。気に入る行いをするものだけを残して。地を這う獣も、空から還り、羽を休めていた鳥も、水に群がっていた魚も。
「だが、それは、意味のないことだ」
 一度離れたものは、けして自分の手には還らない。手の内にあると、思うべきではない。
 様々なものがあった。それが気に入らなかった。けれどもそれは個々のものであり、生きている「もの」であったのに。
 もし。万が一、だ。
 この現在に神が在り、その神が自分たちを良しとしなければ、どうなる。
 ……洗い流されて、しまうのか。自分も。自分が何よりも大切と思うものも。愛すべき、人も。
 目を閉じると、視界のはずれで、大地が見える。
 その上に在る、人々も。そうして、その向こうから押し寄せる水が。セレスティを育み、今はこの支配下にあるはずの水が、情け容赦なく、押し寄せて。
「……させない。けして」
 考えるよりも先に口から滑り出た言葉に、自分でも驚いた。蒼の双眸を見開いて、一瞬ぼんやりと辺りを眺める。
 目に入ったのは、見慣れた書棚。鈍い斜光。そして、柔らかく自分を包み、宥めてくれる午後の書庫の空気。
 ああ、またやってしまった、とセレスティは優美な眉を寄せて、苦笑した。
 膝の上に開いて、ずっしりとした存在を訴えかけてくる聖書の紙面を撫でて、小さく息をつく。

 ――本による旅路。
 いつも、無意識の内にやってしまう。
 ただでなくとも、知らぬ間に書かれてあること以外も読み取ってしまう自分であるから、本はいつも雄弁に、様々な出来事を伝えたくてセレスティに語りかけてくる。
 その度に彼は、その瞳の裏に異界をひらめかせ、その中に在りながらも強固な意志を持ってこの現実に戻ってくる。それは、何よりの彼の楽しみ。
 一冊の本にこれほどまでに深く関われることは、セレスティにとってはひどく喜ばしいことだ。
 誰に干渉を受けることもなく、この指で覗きたい世界を内包する本を選び取り、現実にいる自分を感じながら、本の世界に浸ることが。――――これほどまでに楽しい。

 優雅な空気の中でたゆたう時間はやがて終わりを告げるだろうが、まだ、今はたっぷりとここにある。
 静寂が包むこの午後の書庫の中で。心底落ち着く香りに包まれながら、セレスティは聖書をそっと書棚に戻すと、また別の書棚に移る為に車輪を回す。
 懐中時計が刻む時の音はひどく優しい。

「さて……次は、何を読みましょうか……」

 たまには……こんなゆったりとした一人の時間も――悪くない。
 そして、長く、優美な指は次なる世界を内包した本を選び取った。

END


§ライターより§
いつもお世話になっております。ねこあです。
この度はご発注ありがとうございました。

本の話を書くのはとっても楽しいのでつい色々と書いてしまいます。今回はご指定にもあった聖書を少し読んでいただきました^^

ゆったりとした、優雅な空気を感じていただけたらとても嬉しいです。

いつも嬉しいご感想をいただき、ありがとうございます。とても励みになっております。
件のものも、笑っていただけて幸いです……(?)

それでは、この度は真にありがとうございました。
またお目にかかれることを願いまして。

ねこあ拝