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<東京怪談ノベル(シングル)>


グランブルー・ノスタルジア



 いつでも百合の花が香っている、そこを思い出す時はいつもまぶしさに目を細めたくなった。
 咲き誇る白い百合の花々と、鮮やかな紺碧の空。
 海の側に位置していたその孤児院はキリスト教系列のもので、目に付く大人はみんな濃紺と白の分厚い生地でできた服を着ていた。
 庭で遊ばせてもらえるのは一日のうちごく僅かで、普段は小さな文字で書かれた本を読んだり、歌を歌ったりしてすごす。
 晴れた日には、遠く海の向こうにうっすらと小さな島が見えることもあった。
 四角く区切られた窓の向こう、白い飛沫を立てながらうねる海と空をぼんやりとよそ見していると、耳元で大人の声がする。「ゼゼ、神父さまのお話はきちんとお聞きなさい」
 彼――ゼゼと呼ばれた少年は、ゆっくりと視線を傍らのシスターへ向ける。
 そしてから何度か、呆けたようなまばたきをして、やっと壇上の神父へ視線を移すのであった。
「ナイフとフォークは祈りの後よ、ゼゼ」
「ベッドに入る時は、両手を毛布の中に入れてはいけませんよゼゼ」
 一般的な家庭の中にあれば、そろそろランドセルの準備が始まるといったほどの年齢である。厳格な教義の許に布かれる孤児院での生活の掟は、ゼゼにはまだ少し難しかった。
 また、彼がここで生活を始めるまでの過程も、他の子供たちや大人たちからすれば好奇の対象でもあった。父親は消息不明、在日外国人の母親は殺人の容疑をかけられ現在拘束されている。
 他に身寄りのないゼゼが真っすぐにこの孤児院に受け入れられたことは、たらい回しにされる同じような境遇の少年たちと比べればかなり恵まれていたと云っても過言ではなかったかもしれないが。
 教義を知り、大人を知り、子供らしさを捨てずに仔犬のように振舞う同世代の子供たちと共に在りながら、少しずつゼゼは孤立していく。
 あの孤児院を思う時、ゼゼの中ではいつも日差しだけが、まぶしかった。

 ある日突然のそれは、不意の事故だった。
 いつも日陰で座り込み、庭で転げ回っている少年たちをじっと見つめているゼゼに、鬼ごっこをしようと誘った少年がいた。
 ゼゼに取っては、初めて声をかけてくれた友達である。
 緊張と嬉しさに頬を赤く染めながら、見様見真似で鬼ごっこの中に交じらせてもらった。
 高鬼と呼ばれる関東の鬼ごっこで、鬼は地面と、地面よりも低いところにいる者をつかまえることが出来る。その代わり、少しでも高いところにいる者は捉まえることが出来ない。
 ゼゼは鬼になって、一人の少年を追いかけていた。
 一生懸命に駆けながら、自分よりも少しだけ年上の少年の背中を追う。
 追いながら、上昇する体温も、浅くなる息も嬉しかった。
 いつも自分が眺めるだけに留まっていた鬼ごっこが、これほどまでに楽しいものだったとは知らなかった。
 このまま暗くなるまでの限られた時間の後で、自分はきっと他の皆と小突きあったりしながら食堂へ向うことができる。
 よほど嫌われることをしなければ、きっと明日も誘って貰えるだろう。
 そんな事を考えながら伸ばした手は、背中が不意に近く見えた事への反応を遅らせた。
 花壇の上に乗り移った少年の背中を、急には止まれぬまま勢い余って強く押してしまったのである。
 少年が向こう側の地面へ顔から転げ落ちた瞬間、ゼゼを始め、周囲の子供たちの息が一瞬止まった。
 どれほど続いたか判らない、重く苦しい沈黙の空気を引き裂くように少年が泣き叫ぶ。
 少年の右まぶたの上がざっくりと裂け、顔半分が深紅に染まっていた。
 その声に、シスターの一人が慌てて庭へやってくる。
「ゼゼが突き飛ばしたんだよ」
「どん! って、すごい音がしたの」
「花壇からあの子を押したんだよ」
 数分前まで、笑いすぎてむせかえりながら鬼ごっこをしていた『友達』が、矢継ぎ早にシスターへゼゼの凶行を報告した。
 ゼゼはしばらくの間、自分の両手のひらが何をしてしまったのかが判らないままでいた。
 ただ茫然とその場に立ち尽くしていたが、子供たちが『ゼゼ』という言葉を口々に紡ぐのを聞いていると少しずつ、上がった体温がさあっと下がっていくのを感じた。
 子供たちがすがるシスターの顔を、ゆっくりと見上げてみる。
 まるで、石の裏にへばりついた蟲でも眺めるかのように、憎悪と嫌悪の入り交じった眼差しと、目が合った。
「……とにかく、医務室に行きましょう」
 涙と血で顔をぐしゃぐしゃにした子供を抱き抱えて、シスターは小走りにゼゼの横を通りすぎる。
「これだから、」

 人殺しの子供は。

「……………」
 ゼゼが目を瞠る。
 夕日の橙に染まりはじめた光を受け、きらりとその瞳に光が反射した。
 とっさに目を逸らしたシスターが、忌々しげに眉を顰めると同時に――
 ざわり。
 ゼゼの心が音を立てて粟立ち、息苦しいほどの鼓動の音を耳に聞いた。



 翌日、誰も現れない白い食堂で、ゼゼはいつまでも食事を待っていた。

 大人はやはり、畏怖の対象なのだ――ゼゼは思う。
 昨日までの粟立った感情の理由を、ゼゼは未だに判らないでいた。
 毛布をすっぽりと頭の上までかぶせ、周りの子供たちが小さな寝息を立て始めるころになっても眠れずに涙をこらえていた。
 まぶたと首の後ろが熱かった。
 ぎり、と歯を強く噛みしめると舌の脇に鉄のしょっぱさを感じ、改めてそれを舐めてみると血の味がした。
『今』なら、その感情の名前が判る。
 どす黒い血の色をしたそれは、憎悪だ。
「……せん、せ……来ない」
 ゼゼは小さく呟きを漏らす。
 しんと静まり返った朝の食堂に、遠くの潮騒が届いている。

 日が高く昇り始めた頃、掻き立てられた不安に背中を押されて、ゼゼは職員棟へと歩いていった。
 途中、一人の子供にも、職員にも遭遇しなかった。
 こんな事が、未だかつてあっただろうか――不安に眉をよせながら廊下をそっと歩いたが、その足はトイレの前でひたりと止まる。
 そして、一歩もその先に進めなくなってしまった。
「……!?」
 トイレから廊下に上半身を覗かせて、小さな子供が前のめりに倒れていた。
 床と腹の間に両手を差し込み、横を向いた口の端から白濁した唾液が零れている。
 おそらくは倒れている彼の部屋だったろう、半分だけ開いた扉の隙間から寝室を覗き込むと、

 その中では眠っている格好のままで七人の子供が絶命していた。

 海辺の孤児院に不意に齎された凶事は、そのさらに翌日、地方紙の小さな記事で取り上げられる事となった。
 集団食中毒。
 生存者はただ一人、年端も行かぬ幼い少年――ゼゼだけだった。
 前日の夕食に出されていた献立のどれかが引きがねとなったものだろうと云った推測が紙面を飾っていたが、いかんせん唯一の生き残りが子供である。
 保健所の職員が孤児院に踏み込み、ただ一人の生存者としてゼゼを保護した時、彼は晴れた庭の隅で泣きじゃくっていた。
 事の次第を聞いても、名前を訊ねても、ただゼゼは萎縮して泣くだけで問いに答える事はない。
 自分の友達や孤児院の職員たちが、理由も判らずに一夜で全員失われてしまったのだから無理もない。大人たちはそう考え、彼に対する言及は児童虐待であるとすら捉えられるようになった。
 よって、事の真相は最後まで追及されることはなかった。
 いつしかそんな社会的騒動もなりをひそめ、数年後には完全に過去へ埋もれた事件となる。

 だがしかし、ゼゼは知っている。
 この事件の元凶が、自分自身の得体のしれぬ能力のせいである事を。

 あの日彼は時間をかけ、院内全員の死亡を確かめたあとで、ふらふらと庭に下りた。
 建物の中にいるよりも潮騒はずっと良く響き、真っ青な水平線がずっと遠くでゼゼを見守っている。
 幼い彼にとって、死は深く、混沌としすぎていた。
 事も次第も理解しえなかった彼はただ、明るく楽しい鬼ごっこの記憶と、そのすぐ後で成したどす黒い血の記憶が同居する庭に一人下り立ち、おろりと辺りを見回した。
 ふと、少年を突き飛ばしてしまった花壇に目が止まる。海へ下りるための小径の側にある、赤いレンガで作られた花壇。
 重い足取りでそちらへ向かい、所在なげにゼゼは花壇の花に手を伸ばす。
 百合の花だった。
「……」
 ごめんね、と呟いた。
 花壇の縁は欠け、黒々とした土がそこから少し漏れ零れている。
 自分は「百合の足」を欠けさせてしまったのだ。
 そう思うとゼゼの心は痛む。
 が、それと同時に、非道く言い訳めいたざらつきが、心に滲み込んできた。
 ――あの時、少年が花壇の上に上りさえしなければ。
   あの時、不意に駆け足のスピードを、緩めさえしなければ。
   あの時、自分が勢い余って押した身体を、少年がその両足でくっと踏み耐えていたら。
 ざらりとした黒い感情に擦られた心の粘膜がひりつく。
 嵐の夜の大波のようにゼゼの心を覆った黒い感情に、思わず彼の小さなひとさし指が百合の花弁の上でひくんと震えた。
 と、その時。
 さぁ、っと、乾いた砂が零れるような音を立て、百合の純白が縮んで変色した。
 灼熱のアスファルトに置き去られた白い海洋生物のように、百合の花はいびつにちぢれてくねる。
 あっと思う間に百合は茶色に枯れて、欠けた花壇のレンガにくたりと崩れ落ちたのだった。
 ああ、とゼゼは思う。
 取り返しのつかない事をしてしまったのだと、強く思う。
 枯れてしまった花には、決してもとのように美しく咲く日は来ない。
 自分の中の、力強く黒い感情――怒りが、この花のように孤児院の皆を「枯らして」しまったのだ。
 昨日初めて自分を受け入れてくれた友達も、母親を侮辱したあのシスターも、怪我をさてしまった少年も、
 自分は等しく、枯らしてしまったのだ。

 ほたり、と手の甲に雫がこぼれた。
 ゼゼが流した、後悔と不安の涙だった。
 自分は世間から疎まれる子になるだろうと思った。
 自分の中に住んでいる、何か得体の知れない汚い力のせいで、自分はこれからもっともっと孤独になっていくのだろう。
 そう思うと、腹の底から恐ろしいと思った。
 息を凝らして、背中を丸めて、自分はこれから先の自分を生きなくてはいけないのだ。
 それが、孤児院の皆を枯らしてしまった自分に課せられた、罰なのだ。



 目尻を伝った冷たい感触で、覚醒した。
 見上げれば、奇しくもあの孤児院のものと同じ白い天井。
 夢と現実の境が非道く曖昧なままで、指先を自分のこめかみへとそっと伸ばした。
 ――泣いていた。

 もう、あの日の幼い自分に戻れない事を知っている。
 もう、あの日の幼い自分のように、自分の無力さに脅える事も、押さえ切れなかった力の存在に狼狽する事も無い――それをゼゼは、ゼゼ・イヴレインは…知っている。
 ゆっくりと、ベッドの上から上体を起こす。
 そして半分ほど開けられた扉の向こうへ、静かに視線を向けた。

(了)