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Dark Contact
心地よい夜だった。
暦が弥生の春を迎えてからしばらく経つが、昼間の朗らかな陽気は夜を迎えるとあっという間に消えてしまう。
深夜ともなると冬の名残のように冷たく、体にしみこむような寒気が、人気もまばらとなる街を支配する。
けれど、酔って火照った体をもて余す彼にとっては、このひんやりした空気がたまらなく心地よいものに感じるのだった。
「うい……」
瞼を閉じて彼は、陽気にしゃっくりをした。
いつもの休日。
気の合う親友とパチンコ屋でひと遊びして、ちょっと小遣いを増やして、安い居酒屋で夕食ついでに飲んで。
陽気に騒いで親友と別れ、一人、わび住まいの安アパートへの帰還の道。
終電が行ってしまった踏み切りを抜けて、一人トボトボと、小さな商店街を歩いていくと、ふとため息をついた。
「ふぅ……今日はやり過ぎたかもな」
向坂・嵐(きささか・あらし)は、そう呟いて、足取りもままならぬ自分を自嘲した。
パチンコで8000円儲けて、1万3千円の飲み代を払う。
足が出た分は、次の休みにまた取り返してやる……。こういう思考は良くないよな、やっぱり。
まあいい。
あそこの親父さんのおでんは最高だったし。
トイレに行ってる間に取られた唐揚の恨みを取り戻す為にも、もう一度行ってみたい店だ、ウン。
商店街を抜け、住宅街の方に入ると、さらに寒気が増してきた気がする。
ほろ酔いの体にも、それを感じるようになり、嵐は息を吸い込み、身を縮ませた。
「早く……帰ろう……」
その時だった。
ふと背後で、小さな音がした。
カン……カン……カン……カン。
さっき通り過ぎた踏切の音のようだった。
こんな時間でも電車が走るのか?
そんな疑問が一瞬脳裏を過ぎたが、あまり気にすることもなく彼はまた歩き出す。
しかし。
数歩進んで、ふと、また足が止まった。
ジーパンの尻ポケットから携帯電話を取り出すと、時計を確認する。
【02:21】
「……?」
少なくとも終電が走っている時間ではないだろう。
場所によっては、貨物列車が通ったり、寝台特急が過ぎる場所もある。
けれど、その踏み切りでこんな時間に電車が走るわけのないことは、彼が一番知っていた。
「……」
気づくと音は消えていた。
聞き違いだったのかもしれない。そう思うことにし、嵐は再び、自分のアパートに向かって歩き出す。
その時、また。
……カン、……カン、……カン、……カン
「!」
さっきよりもなぜか少し大きく聞こえた。
足を止め、思わず振り返る嵐である。
「……どういうことだ?」
何かあったのだろうか?
そんな嫌な気分が胸を支配した。何が、多分、それはとても悪いコト……。
そして次の瞬間。
【……】
誰かが見ている。
嵐は、踏み切りの方向を振り返る姿勢のまま、体を硬直させた。
それは狭い道幅の側溝のそばに佇む電信柱の下。
「……」
冷や汗が背中をつたう。
気味の悪さを感じながらも、彼は、ゆっくり、ゆっくりと視線を動かし、それを確認した。
【……】
それはそこにあった。
黒い……塊。
女の髪の毛……に見えた。
黒髪ではない、茶色の髪も混ざっている。
しかも一つではない複数である。
たくさんの女の頭がそこに生えているのだ。
濡れているのか黒光りしているそれらは、僅かながら風に吹かれ、蠢いていた。大きさは1メートルくらいあるだろうか。いびつな球体に近い。
手も足も顔もなく、ただ黒々とした髪の毛だけがそこに揺れているのである。
異様としか言えない光景だった。
「……」
息を呑み、嵐は、まずは気持ちを落ち着かせる事に決めた。
しかし。
嵐が彼女(……長い髪だから彼女……と例えることにして)をみていることに、それも気づいたのだろうか。
彼の心に次の瞬間、氷が刺さったような衝撃が走った。
(目が合った!!)
なんとも言われぬ嫌な気分になった彼は、そこから進みだす事に決めた。
日常の中に、そういう気味の悪いものが、まま存在する事を彼は知っていたし、ヘタに驚いたり騒いだりすることがそれの持つ攻撃性を誘発する事にもなりかねない事も知っていた。
なるべく知らん振りに、ゆっくり歩く。
が。
ヒタ……ヒタ……。
足音をたててそれは追ってきた。
「……」
嵐は聞こえないような小さなため息をつく。
一体……俺が何をした。
彼が足を止めると、それも止まった。
「……何の用だ?」
聞くまいか、知らないフリを続けるか長く悩んだ末に彼は振り返る事に決めた。
アパートまでそれを連れて帰る気にもならないし、遠回りして撒くにしても面倒だ。しかもこっちは酔っている。
街灯の下で照らされたそれは、あっちにもこっちにも赤黒くべっとりとした血糊が張り付いている。
そして、何を語るでもなく、その醜悪な体を彼に見せ付けていた。
「……ウザいんだよ!」
嵐はだんだんムカついてきて、ジーパンのポケットに指を突っ込んだまま怒鳴った。
それはゆっくりと嵐に向かってフラフラと近づいてくる。
髪の間から、突然にゅるっと白い女の腕が伸びて、嵐の頬を撫でた。
「やめろっ!!」
叫び、嵐はふとその腕を掴む。
咄嗟に怒りで、嵐の体の周りに白いオーラが広がる。
(……出るな!!)
危険は目の前だが、セーブしきれない念動力を発動させるのは気が引ける。
しかし。
理性がそう告げても本能が危機をもっと大きく認識していたのか。
【ガ……ガガガ……】
ソレが呟いた。
虫の羽音のような嫌な声だった。
「離れろ!!!」
体から弾け飛ぶように、嵐の体から強い力が発射される。彼が掴んでいた白い腕が千切れ、髪の球体は弾け飛び、近くのブロック塀に打ち付けられた。
びしゃっ。
スイカが壊れたような、嫌悪感きわまりない音が響く。
嵐は掴んでいた腕を地面に叩きつけ、こみあげる吐き気を堪えた。
「……ちきしょう……なんなんだよ……」
ブロック塀の下で、びちゃびちゃと音を響かせ、起き上がり始めるソレ。
嵐はもう一度、両腕を振るい、念動力をぶつけた。
大気が歪み、強烈な重力がそいつを潰す。
……湿った音と共に、それは完全に弾けとんだ。
「気持ち悪ぃぃぃ……」
路地に四つんばいになり、口元を押さえて嵐はうめく。
力任せにぶつける以外に制御の利かない能力なうえに、体力を消耗することこのうえなく。
「……なんで俺がこんな目に〜……」
そのうえ、目の前に広がる光景はさらに、血の海と髪の破片が散乱していて、さっき以上に正視に堪えない。
「……知らねー……ぞ」
ふと額の汗を拭い、彼はフラフラと立ち上がった。
そしてもう振り向かずにアパートに向かって帰宅していくのだった。
【……】
彼が遠く去っていく後ろ……。
大地を這う白い二本の腕が、自らの肉体をかき集めに蠢く。
そして肉と髪を集めながら、近くの狭い側溝に身を潜めて消えていった………………。
翌日。
「おはよーっす」と出勤したバイト先の事務所で、テレビを見ていた上司がふと振り返って彼に言った。
「これ、おまえんとこの近所じゃないのか?」
「ん?」
新聞を受け取り、眺める。それは今朝、速報として飛び込んできたニュースだった。
彼が普段通っているいつもの踏み切りで、昨日の夜、事故があったらしい。
「へえ……どうりで朝、人が集まってたわけか」
納得して画面に目をやると、終電に轢かれたらしい、とレポーターが話し出した。
「終電?」
「朝まで誰も死体にも事故にも気づかなかったって話だよ。気味悪ぃよな」
明るく笑う上司。
「気持ち悪いって……」
……終電の後にオレそこ通ったって!
嵐は苦笑を浮かべ、大げさな声で言うのであった。
おわり。
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