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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


ディーパー・バイオレット・ディーパー

■Blue

 遠くから耳鳴りのように聞こえてくるざわざわとした気配が、何のことはない、入浴時に立つシャワーの音であると気付いた。
 ゼゼ・イヴレインはベッドの上に上体を起こしたまま、しばしの間ぼう然と薄く開いた扉の向こうを凝視している。
 誰が風呂に、と素朴な疑問のすぐ後で、ここは何処だ、と自問する。
 ここは何処だ。誰の部屋だ。今は何時だ。どうして眠っていたんだ。
 どうして、僕は生きているんだ。
 矢継ぎ早な自分への問いかけに、何時間前のことになってしまっただろうか、藍との相対の記憶が蘇る。
 彼女の部屋に忍び込み、暗闇で彼女を待った。
 そこに彼女が帰ってきて、二、三の言葉を交した――そこまでは覚えている。
 が、先の記憶がふっつりと寸断されていた。
 腹の底がかっと熱くなったことは辛うじて覚えていた。
 おそらく自分は我を忘れ、彼女に食ってかかっていったのだろう。
 そしてその時に、返り討ちにあったのだ。
「……情けない、な……」
 呟いた言葉こそは苦々しかったが、彼の声音は幼い。
 恵まれなかった体躯そのままに、その年頃の少年たちが経験するはずの変声も遅れているのだろうか。凛とした少女であるとすら思わせる、拙い子供を匂わせさえする声だ。
 くしゃりと金の髪を指でかき上げて、ゼゼはベッドの端からそっと絨毯に降り立つ。
 部屋を温めているストーブに視線を留めると彼は不愉快そうに深紅の目を細めたが、それは戸惑いのせいだった。
 どうして彼女が、自分のために部屋を温めるのか。
 ゼゼには想像も付かなかった。
 良く良くベッドの枕許のサイドテーブルを観察してみれば、湿らせたタオルや半分ほど水の入ったグラス、それにミネラルウォーターのペットボトルが置かれている。
 グラスの中で、溶けきっていない氷がカランと音を立てた。
 明らかに、数十分前まで自分以外の誰かがいた形跡である。
「……」
 ゼゼは顔色ひとつ変えない。
 が、心中は淡い狼狽が膜を張っていた。
 何のためにあの女は、自分を介抱したのだろう?
 自分の後ろに、まだ組織の存在があると疑っているのだろうか。
 介抱のあとで目覚めるであろう自分に、それを吐かせるため?
 それにしても。
「………捕虜に対する扱いじゃ……」
 ない、と。
 口の中で語尾を掻き消した、その瞬間に。
 自分の後ろで、扉がガタリと鳴ったのに細い両肩を激しく震わせて、ゼゼは勢い良く振り返った。
 ――青。
 戸口に立って目を瞠る、彼女――藍の瞳の色に視線を奪われ、ゼゼは軽い眩暈のような狼狽で身体を強ばらせた。
 目覚める直前まで観ていた夢が、彼の意識の表層にまで押し上げられる。

■Red

 シャワーを浴びる間には、必ず目を閉じるようにしている。
 浴室は密室で視界が通らないし、入り口を塞がれては逃げ場所などない。
 だから、目を閉じて視力を意識的に奪い、代わりに聴力に頼る。
 飛沫の音の隙間の隅々にまで意識を拡散すれば、気配に異変があった時にすぐ対処できるからだ。
 ましてや、今は平素にも増して、細心の注意を払わねばならない。
 何を思ったのか、自分は――自分を殺しに来た暗殺者を介抱し、寝室に匿っているのだから。
「……」
 銀華――藍銀華は髪を手早く洗い、ほたほたと先から滴る水滴を払う。
 シャワーノズルを下方に向けて、濡れた犬の毛にも似た深銀のそれを束ねあげた。その間も、目は閉じたままである。
 寝室で滾々と眠っている少女を――驚いた事に、銀華は未だにゼゼが少女であると信じて疑わなかった――ベッドに運び込んでから、七時間が経とうとしていた。
 あれこれと世話を焼く間に時間は経過していき、結局シャワーを浴びるのが一番後回しになってしまった。
 音で彼女が目を醒ましやしないかと危惧したが、それならそれで構わないと思った。
 あれだけ疲弊した身体だ。どんな不利を以ても、今はまだ自分の命を本当に脅かすようなことは無いだろう。
 自分の知らないうちに逃げ出して、一言も言葉を交せない。
 どうしてかそれだけが、厭だと思った。
「……甘い、だろうか……」
 目の前の濡れたタイルにこつんと額を預け、銀華は自問する。
 放っておけないのだ。
 あの少女が。
 彼女は愛情に飢えた子供の目をしている。お腹をすかせたのら犬のような、触れたらすぐさま弾けてしまいそうな危うさを内包している。
 彼女を構って、自分の何を肯定したいと云うのだ。
 何を、償いたいと云うのだ。
「……」
 ため息が深く、耳の奥で響いた時。
 開けて置いた扉の向こうで、彼女が覚醒し――小さく立てた衣擦れの気配を、感じた。
 ――起きた。
 く、っと銀華は瞳を開ける。
 シャワーはそのままに浴室の扉をそっと開け、大振りのバスタオルを細い身体に巻き付ける。
 そして足音を忍ばせながら廊下を踏み、扉の隙間から室内のようすをそっと、覗き込もうとして――
 銀華は目を瞠った。
 甘い、匂い。
 鼻腔から不意に体内に忍び込んできた鈍く甘い香りが、銀華の奥深くに封じ込めていた何かを引き摺り出そうとする。
 いけない。
 とっさに、扉にしがみついた。
 軽い扉は大きな音を立てて大きく開かれ、その音で室内の少女が此方を振り返る。
 ――赤。
 驚いて此方を凝視する少女の、大きく見開かれた真っ赤な瞳に、銀華の視線が釘づけになってしまう。
「………あ……」
 その瞬間。
 銀華の理性が、音を立てて崩れ剥がれていく。

■Vioret

 嗚咽のように喉の奥から突き上げる深い呼気に、銀華が呻く。
 ずるずると扉の縁から崩れ落ちる彼女の様子に刹那、ゼゼは歩み寄って良いのか否か戸惑った。
 が、激しい狼狽に視線を彷徨わせた後で、大きく足を踏みだす。
 眩暈は収まっていた。
 苦しげに顔を歪めた銀華が深く俯いたことで、瞳の青から逃れることができたせいかもしれない。
 年頃の女性が、薄手のタオル一枚のみを纏った姿。
 それが平素の状態であれば、彼も幾許かの躊躇を持っただろうが。
 が、今目の前にいるのは――憎い仇、である。
 しかも、どういうわけか相手も平素の冷徹さを失っていた。
 理由はわからない。
「……おい……おいってば、ねえ……!」
 乱れたタオルの隙間から薄い胸がのぞく。
 淫らな気持ちからではなく、なんとなくそれがいたたまれなくて背中にタオルを掛け直してやろうと手を伸ばした。
「――ッあ……!」
 びくり、と銀華の肩が震える。
 ゼゼの中ではいよいよ困惑が深く影を落とし始め、浅い息が喉を掠める。
 ひっ、と。
 銀華が自分の両腕を抱き、ゼゼから避けるように壁に身体を擦り寄せていた。

 意識は遠く、記憶の溝に潜り込んでいく。
 ぎゅっと閉じた目の端で、白くちかちかとした光が弾けては収束して行った。
 心は、あの日の阿片窟に在る。
 銀華の肌を生ぬるい舌先が這い回り、その後から嫌悪の脂汗が珠を作るのだった。
 やめて。
 義父さん、やめて。
 身体の左半分が焙られるように熱を持ち、爛れ溶けていくかのようにじりじりとした痛みを銀華に伝えている。
 体内は甘く鈍い背徳の香りに満たされて、銀華の理性が悲鳴を挙げながら必死に抗う。
 あの日、悪魔の墨に自分の身体の半分を明け渡してしまったあの日。あの日の記憶がフラッシュバックする。銀華を呑み込み、圧倒し、滲み込む阿片の香りが熱と痛みと軋みと爛れをいっしょくたに混ぜ返し、銀華の脳を酸欠にする。
 現実という悪夢から逃れようと願ったのは、どの自分だったか?
 ああ、もう、(もう)
 わたしを、いためないで。
 現実の過去、そして現実の現在。
 その両方の銀華の願いが共鳴した瞬間、珠の汗を拭きだした鎖骨から二の腕に掛けての銀華の左腕がひくん、と痙攣する。
 鞭のようにしなった左腕がゼゼを払いのけるように振りたくられ、力強く五指が開かれ――

 左の腕に刻まれた忌むべき痣色の墨が揺と蠢き、銀華の半身を包む大翼と、なった。
 
■Deep Vioret

 自分の目の前で何が起こったのか、しばらくの間ゼゼは理解することができず――息を呑んだ。
 始めは、宥めるためと云うよりもむしろ、半狂乱になって身体を強ばらせる銀華を疎ましく思ったからだった。鈴の割れるような悲鳴を挙げながら部屋の隅に蹲る銀華の異様な様子に、声を聞きつけた隣人がやって来ないとも限らなかった。この期に及んで、どうして介抱までした自分を恐れるのかと。
 が、苦しげに歪めた双眸に常人の光が宿っていないことを見て取り、ゼゼは彼女の明確な異変に気が付くのだ。銀華の目が、自分を見ていない。
 己の中で色濃くなっていく不安や不審そのものが、銀華を脅えさせていることをゼゼは知らない。
 彼が感じるそれらの感情が、知らずのうちに辺りをまやかしの香りに包ませていることを、彼は知らないのだ。
 阿片。
 奇しくもゼゼの狼狽が室内に満たしたのは、銀華が最も畏れ、戦慄き、かたくなに受け入れることを拒み続けてきた記憶を呼び起こす香りのキィであったのだった。
 だから、ゼゼはただ不安を募らせる。
 それが室内の阿片を色濃く漂わせることになり、結果的に銀華を正気から遠ざけてしまうのだ。
「……なん、なんだ…よ……」
 呟きには怒気さえ滲む。
 と、その瞬間、銀華が自分を遠ざけるように振った左腕に、ゼゼは信じがたい光景を目の当たりにさせられるのだった。
 半裸で現れた彼女の左腕に、最初から頓着しなかったと云えば嘘になる。
 が、最近の若い世代にとってタトゥというものはさして珍しいものでもない。
 銀華の左腕に生々しく刻まれた、濃い紫色の翼。だからゼゼは、最初こそちらりとそれに視線を投じたが、すぐに銀華そのものの様子の方に意識を持って行かれてしまった。
 今、その痣が銀華の肌の上でざわりと蠢き、ゼゼの眼前で揺れる。
「………え……っ…」
 彼女の肌に深く刻まれた痣墨は、まるで白磁の腕から剥離するかのように揺らめき、床の上に蹲る銀華の肩から天井にまで届くほどの大きな翼となった。
 室内の空気を鋭く震わせながら、音もなく一度羽撃き。
 その羽先から、まばゆい光の羽根を無数に吐き出す。
 室内がさあっと明るくなり、柔らかく舞うように散る羽根の、形骸。
「・‥…――」
 動揺や驚愕こそあれ、明確な殺意を司らないそれらの光弾はゼゼを傷つけることはない。ゼゼの肩にはらりはらりと散るのみで、床の上に落ちると跡形もなく消え去ってしまう。
 ――何なんだよ、一体。
 目を細めなければいけないほどに明るくなった室内が、再び薄暗い寝室の一角になる。
 レースのカーテンの掛けられた窓からは朝陽がうっすらと冷たい空気を侵食しはじめていた。
 額に未だ大粒の脂汗を流しながら、しゃくりあげて肩を震わせている銀華を見おろした。
 知らず、彼女に見えぬ方の左手を強く、握り締めていた。
「・‥…‥」
 その拳を、いくばくかの躊躇いのあとでゆっくり、解く。
 そしてから無防備なうなじに向けて、手刀を振り下ろした。
 
 崩れ落ちた銀華の上体を膝の上に載せて、ゼゼは窓の向こうに広がる赤紫色の空を見上げている。
 浅い眠りの中、何か恐ろしい夢でも見ているのだろうか。先ほどまでの狂気がまるで嘘であったかのように、銀華はときおり肩を強ばらせて震えるのみでただおとなしく眠りについている。
 シャワーから上がったばかりだった銀の髪は、すでに冷たく乾いていた。
「‥‥・‥…ちくしょう」
 ゼゼは銀華の寝顔を見下し、毒突く。
 息の根を止めるなら、できる。
 このまま細い首筋を縊ってしまえば、それで終わる。
 が、ゼゼにはそれが、出来なかった。
 これがあの『藍銀華』だろうか。
 あの日自分を冷徹に蔑み、自分の組織を壊滅に追い遣った、あの女なのだろうか。
「…違うんだよ……違う……」
 自分が憎んだのは、少なくとも、こんな風に自分の膝の上で子供のように丸まっている銀華ではなかった。
 こんな少女を、殺しに来たのではなかったのだ。

 深い紫色の朝陽が橙を帯び、やがて静かに街を照らし始める。
 ゼゼはしばらくの間、見失いかけてしまった自分の希望と絶望に、ただ打ち拉がれてうなだれるだけだった。

(了)