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道標
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例えるならばそれは、この世に生を受けた赤子が最初に挙げる畏怖と驚愕の泣き声にも似ていた。
世界の全ての残酷と絶望を知り、非力で無力な自分自身に対して挙げる哀れみの慟哭。
生きるも死ぬも、たった一人の道程である――ヒトは生まれながらにしてそれを悟る。この世に生を受けたその刹那、この世の真理を悟ってしまうのだ。
因果な生き物である。
彼が――神山隼人がその日耳にした声無き『慟哭』は、そんな哀しみに満ちた魘熱の叫び、であった。
「…………」
風に漂って運ばれる悲痛の歎きを確かめるかのように、神山はついと顎を伸ばした。
それはそう遠くない、濃密な因縁と因習の匂いに包まれた場所に在る。
呼んでいる――私を。
その日帰路に着こうとしていた彼の踵を返させたのはそんな、胸に過る不安にも似た確信のせいだった。
足を進めるほどに、息の詰まるような薄黒い因縁は色濃くなっていく。
遠くで飼い犬がけたたましく吠えていた。おそらく、その気配を感じ取っているからだ。
月夜の晩にしては、辺りがやけに暗い。
「――静かに。闇が散ってしまうでしょう」
一瞥と共に神山が投じた囁きが、吠えたてるその犬にも伝わったらしい。ひたり、と泣き声は止み、踵を返す鎖の音が申し訳なさそうに後から響いた。
よほど、神山の背負った影が、恐ろしかったと見える。
神山は真っすぐに前を見据え、視線だけで因縁の場所を探していた。
この先、あの角を曲がって――すぐ、大きな屋敷だ。
いよいよ深くなっていく呪わしい闇の根源を知り、彼の歩幅が広くなる。
辿り着いたのは、高く古めかしい塀に囲まれた武家屋敷のような旧家である。
澱。
鈍く澱んだ濃密な闇。
そして、禍々しい呪詛が敷かれた気怠い気配。
見上げる塀の向こう側ではそんな、ヒトの顕し得る限りの負の力が蠢き、それに狼狽の気が複雑に入り交じっては術者たちを混乱させていた。
雷(らい)の気が、それに混じっている。
塀に阻まれた気配たちは、神山の視力にその存在を誇示することは無かったが、
「木乃伊取りが木乃伊に――良くある話しですね」
それくらいは、感じて取れた。
生半可な術に頼った術者と、術者の想像を上回る力を持っていた被術者。
どちらが滅ぶ定めにあるかは、推して然るべしである。
随分と小賢しい真似をする被術者だ。神山は苦笑すると同時に、細やかな興味が自分の内に湧きだすことを止められなかった。
この屋敷を包む、薄汚い因縁と因習。
そこから逃れた『赤子』を、この目に見たいと思った。
だから。
「――こんな騒ぎを起こしておいて、裸足でふらついていたら……すぐに捉まってしまいますよ」
塀を見上げる自分の後ろを、何の警戒もなく通り過ぎようとしていた青――芹沢青に、神山は屈託のない言葉を掛けたのだった。
大気を満たしている濃密な因縁は明確な殺意という意志を持ち、若い彼の肌から体内へと滲み込んでいた。
少年がそれを『祓』わないのは、自分の力に確固たる自信を持っているからなのか、それとも。
神山は青の潜在能力を推し量ろうと、彼の内を透かし見ることを試みるようにす、と目を細める。
「……………」
青は、沈黙していた。
神山が掛けた声が自分に向けられたものであるとは感じて取ったが、その言葉の意図や理由が、今の彼には汲めなかった。
因縁に、魂を支配されていたからである。
「……ああ」
虚ろな青の瞳ほ覗き込み、神山は小さく納得の声音を吐く。
――これでは文字通り、本当の意味の『赤子』ではないか。
「来なさい。……私の気を引くのが、上手だね」
く、と、神山は口唇の端だけを歪めて笑んだ。
呆けてしまったように足を止め、虚ろな瞳で宙を見上げる青の手を引き、彼は
帰路――東京へと急ぐ。
ゆったりとした足取りで屋敷の前を通り過ぎ、古めかしい塀の角を曲がったその後で、
――二人の姿は、跡形もなく消え去っていたと云う。
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東京にある自宅で、神山はしばらくの間、青の面倒を見ていた。
始終俯いてぶつぶつと何かを呟いている青の首筋に触れてみると、そこがひやりと異常な冷たさを保っている。
彼の魂と半ば同化してしまった因縁の闇が、そこに根深く宿っていたのである。
「仕方のない子だ。自力で祓えぬなら、連れて来なければ良いのに」
神山はぼやく。
彼が自分の能力を以てそれを散らすことは容易かったが、そうすれば既に同化してしまった闇が青の体内で暴走してしまう恐れがあった。
普通、自我を持つ術者は、ここまで闇が自分の体内に潜り込む前に、祓うなり散らすなりして自分の理性を守ろうとする。自分の首を自分の指で締めて自殺することが不可能なのと一緒である。理性を保つまま自分を殺めることはできない。
可能と不可能に関わらず、彼の中に滲み込んだ闇は、彼自身にしか如何することはできないのだ。
神山には、興味があった。
青の自我は崩壊の一歩手前と云うところまで追いつめられていた。
そこから赤子は、立ち直ることはできるのだろうか。
自ら崖に投身することを望んだ獅子の子供が、再び崖を這い上る日は来るのだろうか。
「自分の能力から目を逸らし続けることは、楽ではないだろう――私を、」
落胆させないでくれ。
自分の目を見ようとしない青の瞳を、神山は愉悦の笑みで覗き込む。
悪魔と呼ばれても仕方がない。
自分は、悪魔なのだから。
「アンタ、この子どこから拾って来たんだい? 俺ァココロの病気にはとんと疎いんだ。点滴とマスクくらいっきゃしてやれねェぞ」
馴染みの闇医者が苦笑して神山に告げる。
昼夜の別なしに青は呆け、泣き、叫ぶ。
まぶたを閉じればそのたびに、悪夢に魘されている様だった。
叫ぶときは髪を掻き毟り、自分の頭を両手で覆い喚き散らす。
泣くときはただ枕に顔をうずめ、痛々しく背中を丸めて啜り泣いた。
衰弱した身体は、闇の医者とは云え堅実な腕を持つ彼に面倒をみて貰うことにした。
「記憶障害が出てるから、脳にきちんと酸素を送ってやらなきゃなんねェ。今ッからきちんと酸素治療をしてやっても、きちんとした記憶が戻る可能性は五分五分だなァ……」
そんな医者の言葉さえ、神山は適当な様子で耳にしていた。
彼にとっては、青の記憶が戻るかどうか、ヒトとして社会復帰ができるかどうかなどはどうでも良いことであったからだ。
ただ。
彼が、あの深すぎる因縁に打ち克てるのかどうかが、知りたい。
打ち克つ姿が、見たい。
神山はただそれだけを思い、闇医者の許へ日々、青の様子を見に通った。
そして、神山と青が出会ってから、数週間が経ったとき。
まるで深い海の底から引き上げられたかのように、青が理性と健常を取り戻した。
「あの坊主が目ェ醒ましたぞ。どうする、今から来るかい」
そう、と、神山は小さく答えた。
覚悟を決めたのだ。
そう知ったからだった。
あの日、神山に助けられた記憶がそのまま抜け落ちたままの青が、その記憶の中では初めて神山に対面したのは、それからさらに数日が経過したときだった。
(了)
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