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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


慾するは目の前の銀(しろがね)

 もう誰にも、止められないのだ。
 彼の心根に芽吹いた、欲望と言う小さな芽を。
 誰にも、それを摘む権利など、無いのだから。

「…河譚?」
 もう丙夜も過ぎた時刻になる、季流家の庭園。
 整えられたその一角、黒御影石で出来た手水鉢が置いてある付近に見慣れた姿を見つけた白銀(しろがね)は、長い廊下を歩く自分の足を静かに止めた。
 立ち尽くしているかのようにも見える、よく知っている背中。―――時比古(ときひこ)のものだ。白銀はそっと庭に降り、彼の元へと進んだ。風呂上りなのか、肩にタオルを下げ、銀の糸には水の雫が纏わり付いている。
「河譚?」
 控えめな、声。
「……白銀様」
 白銀のその声に、時比古は内心、驚いていた。それでも表にはそれを微塵も見せずに、彼へと振り返る。
「どうした…?」
 何か感じ取ったのであろうか。白銀は時比古を覗き込むようにしながら、そう問いかける。
 そんな白銀に、時比古はただ優しく微笑みを返すだけだった。
「河譚…?」
「はい…白銀様」
 問いかけると、返事が直ぐに返ってくる。それなのに、何かがおかしい。
 白銀は観察するように時比古を見ながら、それでも追求はせずに、小首をかしげた。
「………」
 その、何でもないような仕草が。彼の心を、狂わせる。時比古は表情を全く変えずに心の中の歪みを、必死で落ち着かせていた。
「お前は、何も言わないからな…」
 白銀は独り言のようにそう言うと、口に手を当てて何かを推測したらしい。よくこの場で時比古が剣術の特訓をしているのを見かけるので、今日もそうしていたのだろうと、あたりをつけたようだ。
 その夜特有の静けさの中、ふとした瞬間の小さな水音を、白銀は耳にする。
「……?」
 時比古の手に、視線が行った。彼の手は水の雫が付いている。そして雫で光っている、銀環。見かけない物だったのか、それをよく見ようとした次の瞬間。白銀は、自分の目を疑うような物を目撃する。
「…河譚っ!」
「はい?」
 思わずの荒い呼びかけにも、時比古は何事も無かったかのように、返事を返す。
 白銀はその返事を無視し、彼の手を取り持ち上げた。
「どうしたんだ、この傷…ッ!!」
 時比古の掌には、大きな生々しい傷があった。まるで何かから逃れるために、無理矢理引裂いた様な、痛々しい、そのもの。
「…すぐに治します。大丈夫ですから…」
「大丈夫って…! 簡単に済ますな…」
 白銀の言葉が、そこで途切れた。
 とん、と口唇の上に置かれた、時比古の人差し指。そしてその直後に、彼の柔らかい笑顔。
「…ご心配おかけして、申し訳ありません。見かけほど酷いものでもありませんし…本当に大丈夫ですから」
「……河譚…」
 諭すような、時比古の声。
 白銀はその声音に、あっさりと負けた。これではもう、何も言い返せはしない。
「それよりも…お風呂上りなのでしょう。髪を濡らしたままではお風邪をお召しになられますよ」
「…、…」
 時比古の言葉に追いつくようにと、開かれた口唇は、またも音を作ることが出来なかった。
 時比古の、行動が。
 彼が白銀の髪を一房掬い上げ、その先に光を放っていた水の雫とともに、自分の口唇を寄せ為だ。
「………」
 呆然としている白銀に、時比古は顔を上げ、ただ微笑むばかり。
「…さぁ、もうお部屋へお戻りください」
 何か言いたげな白銀の背を、ゆっくりと押して。時比古は部屋へ戻るようにと促す。
 それで渋々、白銀は背を時比古に向けた。肩越しに振り返った白銀の、心配と、何をどう返していいのかを頭でまとめられず、綯交ぜになったその表情は何とも表現しがたい。
 それを見た時比古は少しだけ困ったように笑いながら、彼の背に手を置き、端近まで送り届ける。
「おやすみなさいませ、白銀様」
「…ああ、おやすみ。河譚」
 廊下に上った白銀を見上げる時比古の顔は、どこまでも穏やかだった。そこでまた、白銀は彼に騙されているのだが、それを知るには、あまりにも時間が足りなさ過ぎる。
 とんとん、と足音を立てながら、白銀はゆっくりとその場を後にした。
「………」
 庭園を吹き抜ける、一陣の風。
 再び戻った深閑な空間の中の、時比古。先ほどまでの穏やかな表情は、どこに消えてしまったのだろうかと言うほどの、厳しい表情。その後の、自嘲する笑み。
 傷を負った掌を、徐に持ち上げ、言葉もなく眺める。銀環が、リン…と鳴った気がした。 痛み、など。
 そんなもの、今の時比古には感じられない。『天破/月蝕』と呼ばれる刀を血で染めた瞬間に、痛覚は棄て去ってきた。
 決して、主である白銀には見せられない、時比古の激しさ。
 腕に納まっている銀環。それを得るために、彼は人を殺してきたばかりなのだ。
 己の限度を超えた能力を、どこまでも欲する時比古。白銀の為に…否、欲深き自分の為に、どんな残忍な手を使おうとも。銀環も、その法術具の一つである。
 掌の傷は、持ち主の抵抗により負傷したものだった。思ったよりそれが酷く、庭にある手水鉢で洗浄していたところを、白銀に見つかったのだ。深追いをされることもなく、事なきを得たが、時比古の内心は早鐘の如く騒がしかった。
 白銀の言葉一つで、どれだけ自分の心情が揺さぶられるか。
 昂ぶった心根を隠しながら主の接する為の精神力は、計り知れない。平静を装って、安心させるために微笑んで。崩れないように、崩さないように。
 それなのに、その白銀は無意識に時比古の心を、横から突付くのだ。
 風呂上りに、ろくに髪の水分も拭き取らずに自分へと駆け寄ってきた、主。無防備な仕草、見上げる視線。…そしてその口唇から零れる、声音。
 彼の髪に口付けをした時は、ギリギリのところで葛藤していた結果が、あれだった。『負けた』のだ。抑えていた感情に。白銀の髪を飾っている水の雫に、嫉妬したのかもしれない。もしくは、それが甘い蜜に見えたのか。口に含んでしまいたいと思った瞬間には、行動に移ってしまっていた。
 目を閉じれば瞬時に現れる、白銀の姿。
「…『俺』を嗤ってください、白銀様…」
 傷ついた掌を握り締め、口元に持っていきながらそう呟く、時比古。その表情は、苦痛にも似ている。
 そんな自分を、嗤えと。
 愚かで浅ましい感情を持ち合わせている、自分を。
 笑顔の裏で、渦巻く貪欲さを。
 ぽたり、と紅い滴が、一つの円を足元に作った。
 時比古の握り締めた拳から、零れ落ちたものである。一度は乾いた血が、力を入れたことでまた鮮血を生み出したらしい。
「…………」
 涸れてしまえばいいとさえ、思う。後から止め処なく溢れてくる感情も、目に見える紅い滴も。
 いつか、今のこの『仮面』を破り、自制できない時が来てしまいそうで、怖いのだ。そして、その哀れだろう姿を、白銀に見られてしまうのが。
 じり…と地面に吸い込まれていく紅い色を、時比古は草履で土と一緒に掻き混ぜる。
「……様」
 一言、主の名をか細く紡いだ後。
 雑念を振り切るかのように、顔を上げた時比古の表情は『いつもの』彼のものに戻っていた。
 そして、未だ血が流れる掌に手早く布を巻きつけ、静かに庭を後にする。
 彼の背には、目には見えない芽がゆっくりと育ち始めていて、摘み取ることも枯らすことも、…まして腐らせることも。それらの術を知りえる者など、何処にもいないのである。


-了-


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河譚・時比古さま&季流・白銀さま

ライターの桐岬です。毎度ありがとうございます。
今回は納品がギリギリになってしまい、申し訳ありませんでした。
如何でしたでしょうか、今回も脚色は多々させていただきましたが…。
途中から私自身がすっかり時比古さんになってしまい、なんだか
書きながら苦しくなってしまいました(笑)。
毎回、素敵な内容の発注ありがとうございます。
これからも頑張りますので、よろしくお願いいたします。
※誤字脱字がありました場合、申し訳ありません。

桐岬 美沖。