|
ポケットの中 姉の涙
「要! 早く起きなさい! 学校遅れるわよ!」
ノックもなしに部屋の扉を開けられ、大声で怒鳴りつけられて、鬼柳・要(きりゅう・かなめ)は目を覚ました。眠気で頭がぼんやりするが、のろのろと身体を起こした。カーテンから漏れる光で朝であることは分かったが。
時計を引っ掴んで、がしがしと頭を掻く。
「こんのくそ姉貴。自分の出勤時間に合わせて起こすなよ。まだ時間あるだろ。」
時計の針はまだ6時半を指していた。ぎりぎりでよければ、7時54分の電車に乗れば間に合う。あと48分は寝ていられたのに。
「あんたがサボらないように起こしてやってんでしょ。」
鬼柳・雪希(きりゅう・ゆき)が腰に手を当てて、戸口で仁王立ちになっている。どうやら要がきちんと起き出すまでその場を動かないつもりらしい。
「お前なー、人の部屋勝手に開けるなよ。ノックしろって。」
「何よ? 見られて困るものでもあるの? 今更ね。」
ずばり言い切られ、要はそれ以上文句を言い募ることは出来なかった。
このパワフルな姉には負けっぱなしだ。ささやかな抵抗も鼻息で吹き飛ばされてしまう。
「さあ、さっさと起きる。昨日学校サボったのは分かってるんだからね。今日はちゃんと行きなさいよ。」
雪希に急かされ、要は渋々ベッドから出た。
「……着替えるから出てけよ。」
「はいはい。ベッドに逆戻りしないでよ。あたしはもう出かけるからね。」
部屋の扉を閉めた後、少しして玄関のドアが開閉した音がした。
要はのろのろ制服に着替え、リビングダイニングに入る。2人の私物が程よく散乱していた。
ふと、その中で銀色に光るものを見つけてしまう。ダンヒルのライターだった。
それは要の中で嫌な記憶を刺激する。憎々しげに睨みつけていると、鼻腔がいい匂いを捉えた。
匂いを辿ると、テーブルの上に要の分の朝食が作り置いてある。「欲しいものは己の裁量で手に入れろ」がモットーな姉は、滅多に要に朝食など作りはしない。それが更に癪に障った。
「ちっ。馬鹿姉貴。」
要はがしっとライターを取り上げ、ポケットの中に突っ込んだ。
せっかく朝早く起こされたのに、結局要は遅刻した。
すでに授業が始まっており、今更教室に入り、教師にぐちぐち言われるのも鬱陶しい。
次の時間から出席すればいいや、と要はサボり場と化している屋上へとやってきた。
小春日和で、空模様も綺麗だ。
それなのに、要の心の中は負の感情が逆巻いていた。
ポケットに手を入れるたびに感じる冷たい金属の感触。
これが力の限り握りつぶせるようなものならばどんなによかっただろう。
それとも簡単に壊れてしまうようなものならば。
刺激される記憶は、隠れるように泣いていた姉の姿。
あの常日頃元気一杯な姉の、弱い一面を垣間見て、要は強いショックを受けた。
思い出すたびに怒りを感じる。ぎりっとライターに爪を立てたが、自分が痛いだけだ。それが忌々しさを倍増させた。
要は自分がシスコンであることを自覚している。海外赴任している両親の代わりに要を育ててくれたのは姉だ。彼女の幸せを奪う奴は許せない。
ライターを身代わりにして燃やし尽くしてやりたい。
固い壁に叩きつけて、変形させてやりたい。
思っても出来ないのは、姉が一度でも愛した人だから。
彼女の幸せを運んでくると思われた人のものだから。
そして、姉自身がそれを望んでいないから。
この怒りをどこにぶつければいいのか分からず、要の苛々は募るばかりだった。
家に帰ると、すでに雪希は帰宅していた。リビングダイニングをあちこち引っくり返している。掃除でもしているのかとちらっと思ったりしたが、そんな雰囲気でもない。どうやら、何かを探しているらしい。
「何してんだよ。」
「あら、お帰り。遅かったわね。」
「学校終わって真っ直ぐ帰ってくる高校生がいるかよ。」
「今日は道場じゃなかったの?」
「…………。」
悪ぶって見せようにも、さすが姉だ。要は町の道場に通い、居合抜きを習っており、確かに今日はその練習日だった。脅威の集中力を見せる要は、練習に熱中したおかげで、今日の午前中の苛立ちをすっかり忘れ去っていた。
「で、何してるんだ? 俺の奴までぐちゃぐちゃにするなよ。どこにあるか分からなくなるだろ。」
「だったら片付けなさいよ。いらないものかと思ったわ。」
「お互い様だろうが、それは。」
要は不機嫌そうに言って、ソファにどっかりと腰を下ろした。身体は程よく疲れている。
「ご飯は?」
「食ってきた。」
「そう。」
雪希もすでに食事を終えているのだろう。キッチンの電気は落とされていた。
「あっ、これ、こんなところにあったのか。」
気に入っていたTシャツを引っ張り出され、要が声を上げた。
「やっぱりどこに何があるかなんて分かってないじゃないの。本格的に片付けする必要がありそうね。あんたも手伝いなさい。」
「休みの日にしろよ。面倒くせー。」
要はTシャツを確保して、ぼんやり雪希の行動を眺めていた。
「ないわね……あんた、知らない?」
「だから、何をだよ。」
「……別にいいわ。……ここら辺に置いたと思ったんだけど……。」
ぶつぶつ呟いているのを聞いて、要はようやく雪希の探しているものに気付いた。言葉を濁すのは、要がその話題を出されるのを嫌がるからだ。彼女自身もあまり口にしたくないのだろう。
ポケットの中のライターが強く存在を主張してくる。それを握りつぶしたい衝動に駆られながら、要は必死にそれを押し殺した。
雪希と婚約間近かと思われていた男。
その彼氏の浮気が原因で破局し、泣いていた姉。
いまだに忘れ形見のように大切にしている奴のダンヒルのライター。
「あんな男忘れちまえよ。」
いつの間にかぽろっと口に出ていた。
雪希が驚いたように要を振り返る。
「なくなったんだろ? ちょうどよかったじゃないか。さっさと忘れて次の奴探せってことじゃねえの?」
「……要……。」
「姉貴はさ、いい女なんだから。絶対男の方が放っておかないって。あんな奴、すっぱり忘れちまえよ。」
「…………。」
怒られるかと思った。
あんたには関係ないでしょ、と言われるのではないかと思っていた。
だが、雪希は何も言わなかった。ただ優しい瞳をして、よしよしと要の頭を撫でただけだった。
初めて見る姉の表情に、要は驚きに目を瞠る。
そこに、姉の領域に立ち入った弟へ怒りの色はない。
要はそこから正しく感謝の意を感じ取っていた。
やがて雪希はすくっと立ち上がった。
「あたしは先にお風呂入ってくるわね。あんたはそのまま寝ちゃわないのよ? 汗だくのままじゃ、部屋が臭くなるし。」
「俺が帰ってくる前に入っとけよ。」
「生意気言うのはこの口か!」
ぐいっと頬を引っ張られ、要はその痛さに悲鳴を上げた。
「何すんだ、この馬鹿姉貴!!」
「お黙り。今まで誰に育ててもらったと思ってるの。」
「横暴……。」
「負け犬の遠吠えね。」
勝ち誇った高笑いを響かせながら、雪希はリビングダイニングから出て行った。
まだひりひりする頬を押さえ、要は口では雪希の文句を言い連ねていた。だが、内心ではいつも通りの姉弟の雰囲気が戻ってきて、ほっとしている。
雪希がなくなったと思ったのなら好都合だ。こうなったら、ポケットの中のライターは早急に始末してしまおう。下手に自室に置いておいて、見つかりでもすれば厄介だし。
結局、雪希の思い出として簡単に捨てるわけにも行かず、ほぼ見つかる可能性のない地中に埋めることにするのは、また別の話……。
|
|
|