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<東京怪談ノベル(シングル)>


春まだ遠き日に、髪を切る事


「想いを――わたくしの、未練を断ち切っていただきたいのです」

 少女はそう言った。
 思いつめた、昏い炎が宿る瞳だった。
 今どき古風な、濡れたような黒髪がまっすぐに流れる。おとなしいが、趣味のよい服装を見るにつけ、きっと裕福な家庭に育ったのだろうと思わせる。
 なによりも、彼女が差し出した封筒がそれを物語っている。簡素な封筒を分厚くふくらませているのは、札束だ。
「いかがでしょうか。……これで、足りますでしょうか」
 橘は、腕に抱く相棒と顔を見合わせる。
 こきり、と、人形の首が傾いだ。
 あるじに代わって、困惑の表情を浮かべた狩衣姿の少年が、口を開いた。
「なにを言うてんのか……わかってんのか?」
「…………」
「いちど断ち切った想いは……二度と取りかえすことはできひんねんで」
「……それこそ、望むところです」
 少女はきっぱりと言った。
 しかし、その声に含まれる痛みは、橘の胸を、まるでわがもののように刺すのだ。
 彼女が橘のもとを訪れたのは、ある夕刻のことだった。
 この東京の街で、大道芸でいくばくかの日銭を稼ぎ、暮らすようになってそれなりの日々が経つ。
 芸を披露する場所は転々としていたが、それでも、何カ所かはなじみの場所のようなものがあって、それはむろん人通りが多く、芸を行うに差し支えなく、実入りの期待できる場所であった。そういったところでは、たくみな人形操りのわざを見せる少女がいるという評判が、知る人ぞ知るという形で、口伝えに流れているらしく、橘を目当てに足を運ぶものも、しだいにあらわれるようになっているのだった。
 その少女は、だいぶ長いあいだ、すこし遠巻きに、橘のわざを眺めていた。
 あやつり人形が滑稽な動作を見せたり、客と軽妙な掛け合いをしてみせたときには、ふっと頬をゆるめることもないではなかったが、あまり、大道芸を楽しむといったふうでもなく、ただじっと、そこに立ってこちらを見つめていたのである。
 やがて客足が退き、そろそろ片付けをはじめたところ、彼女はおもむろに歩み寄り、話しかけてきたのである。
「白宮橘さんでいらっしゃいますね」
 橘よりはすこし歳上か。所作はしとやかで品がある。
「お願いがあって参りました」
 そして、彼女は言うのだった。

「想いを――わたくしの、未練を断ち切っていただきたいのです」


 わたくしの父は、踊りの師範をやっております。
 一応、ちいさいながらもひとつの流派の家元という役をやらせていただいておりまして、わたくしももちろん習っておりますし、それなりにお弟子の方もついてきて下さっています。
 ですが、わたくしは一人娘でございまして、父には跡取りがございません。
 そこで、内弟子のなかから私の婿を迎えて、次の家元に、と――。そのような次第になったのです。
 わたくしは……父のことをたいへん尊敬しておりますし、踊りも好きです。
 やはり自分の家の踊りには愛着もございますし……絶えることなくつづいていってくれれば――自分が、そのためにできることがあるのなら、何でもする覚悟でおります。
 そして、わたくしの許嫁となった方も――この方は父の一番弟子で、私からすればずいぶん歳上ではあるのですが、芸も確かな、たいへん、立派なお方です。この方のことも、私は父と並んで尊敬できると思っておりますし、わたくしたちが共に、踊りの道を盛り立てて、守ってゆくことができるなら、それがわたくしたちに課せられた役目ならば、それはなんと栄誉な、誇らしいことだろうかと、晴れがましくも思うのでございます。
 ですが――。
 ……恥をしのんで申し上げます。
 実は、わたくしには……ずっとせんより、心に決めた想い人が、いるのでございます。
 いいえ、このことはわたくしひとりの胸にうちにしか――
 当のお方にさえ、告げてはおらぬ、まったくわたくしひとりの、勝手な懸想にございます。
 その方は――三味線をお弾きになる方で、お若くして名取りになられて、いつも、わたくしどもの踊りの会ですとか、日頃のお稽古にも、地方をお願いしております方なのです。わたくしの地方も何度もしていただいて……そうこうするうちに……。こんなことを申し上げるのは、本当にお恥ずかしいことです――舞の最中に、踊りに専念できないのは、本当にわたくしの未熟さ以外の何でもないのですから。
 ですが、三味線を弾かれるあの方の、すきっと伸びた背筋や、すずやかな目元や、ひきしまった面差しや、撥を持つすこし骨ばった手の甲や――……さほど、言葉を交わしたこともございません。ですが、そうした、あの方のお姿を目にし、お名前の文字を見ただけでも、わたくしの胸のうちに、それまでは味わったことのない、あやしい、息苦しさのような感じが、広がるのでございます。
 あるとき、その方の地方で、わたくしが父に稽古をつけていただいておりますときに、父が申したのでございます。
「ようやく、おまえも艶めいた振りができそうになってきたな」
 と――。
 わたくしは、どきりといたしました。
 ああ、わたくしは、やはりこの方に恋をしているのだ、と、わかったからでございます。
 そして……なんと、あさましく、畏れ多いことだろうかと――父が許嫁を決めて下さった今、このようなことが許されるはずもございません。
 橘さま。
 人づてに、あなたさまのことを聞き及び、参ったのでございます。
 その太刀は、悪縁であれ、あやかしであれ、何であれ――かたちあるものも、ないものも、断ち切れぬもののない刀であるとか。
 どうか……その刀で、わたくしの、この想いを断ち切っては下さいませんでしょうか。
 わたくしは、家のために、流派のために、父のために……わたくし自身のためにも、このようなはしたない想いを……おそろしい秘密を抱えたまま、嫁ぐことなど、できようはずもございません。
 どうか――どうか、この想いを断ち切って下さいまし。
 お礼はこのとおり、ご用意いたしました。
 この弱い女を……自分の気持ちひとつ、自分でどうにかできぬわたくしを、どうか、助けては下さいませんでしょうか――?


 しばし――
 彼女が語り終えた後も、橘は言葉を発することができなかった。
 いや、もとより、橘が声を出すことはない。だが、彼女のかわりに、人と話す人形の少年もまた、あるじのように言葉を失ったがごとく、黙りこくっているのだった。
「……なんでや」
 ようやく、それだけを、絞り出した。
 ふっ……と、少女は微笑んだ。
「なんで、そこまで……。いくら家のため、流派のため、言うたかて……あんた、それでしあわせなんか、そんな……そんなこと……」
「芸の家に生まれたものの、これはさだめなのかもしれませんね」
「そんなことない!」
 少女は、ゆっくりと、かぶりを振った。
「それとも、わたくしは、結局、臆病なだけなのかもしれませんわ。……どのみち、わたくしがあの方と想いを遂げることなどできはしないのです。ただ、それがこわくてわたくしは……自分のさだめのせいにしているだけなのかもしれません」
「……それで、ええのか」
 こくり、と彼女は頷いた。
「ほんまに……ええんやな」

「どうか……ひとおもいに」

 すらり――と、抜き放たれた太刀。
 この世のありとあらゆるものを断ち切る刃。

 刹那――

 椿の花が落ちるほどの、時間も必要なかった。
 ちん、と、太刀が鞘に戻されたときには、すべては終っていた。

「ありがとうございます」
 少女は、深々と頭を下げる。
 そして、ふたたび上げた彼女のおもてに、橘は目を伏せたいほどの痛々しさを見てとった。瞬時にして失われた恋心のあとにある大きな大きな空白。心にぽっかりと、奈落のような穴を開けた少女は、うつろな瞳から、はらりと、涙を流した。
 失恋の涙ではない。失うべき恋心そのものを、亡くしたことの、寂しさの涙であった。



「なんでや」
 独りになって、風につぶやく。
「たしかに人を想う、いうことは、くるしいことかもしれんけどな……」
 そうだ。
 橘は、榊の手に自分の手をそえ、今いちど、そっと、『断ち花』を抜く。
 いっそ――
 自分のこの想いも、断ってしまったら……
 そうすれば、日々、むなしく独寝の床につき、かなしい夢で枕を濡らし、さみしい思いで目覚めることなど、なくなるのではないか。
 この旅も終えられるだろう。
 太刀を持つ手に力がこもる。
 この想いを、断ち切ってしまったら。
 あの少女のように。
 ひとおもいに。
(――できない)
 橘はうつむいた。
 それはできない。……やはり、それだけは。
 この想いを断つことは、自分自身を失うことだ。
 あの少女は、想いを断っても、芸があった。でも自分は――
 深く、うなだれると、はらりと、髪がこぼれた。
(きれいな髪だね、橘)
 異様になまなましく、その声を思い出して、どきりとする。
 あれはいつのことだったか。いちどだけ、あのひとが、この髪を手にとって――。
(ぬばたまとはこのことだろう。匠の塗った、漆のようじゃないか)
 ずきり、と胸が痛んだ。
 今はここにいないひと。会うことができない……その不在がもたらす言い様のない、ひえびえとした痛みだ。
 気がつくと、刃を髪に添えていた。
 想いは捨てない。しかし、その思い出が、胸をしめつけるのも本当。
 飾り太刀の鋭利な刃は、難なく、髪の束を落していた。

 このところ、ようやくぬるみはじめた風に、すっかり短くなった橘の髪が揺れた。
 そっと手をやり、撫でてみる。
 慣れぬ感触だった。
 そっと空を見上げる。
 結局――。髪を切っても、何も断ち切ることはできなかった。自分は、あの少女より、弱いということだろうか。それとも、強いということになるのだろうか。
 橘の中に、その答はない。
 あったとしても、彼女はそれを声に出すことはかなわなかった。
 あふれてくる想いを、涙に変えて、泣くことさえ、できないのである。
 春を待つ曇天からは、やがて、俄雨がふりはじめた。
 ぽつん、と、橘の頬に雨つぶがひとつ。
 それが涙のかわりのようだった。

(了)