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<東京怪談ノベル(シングル)>


肩に置かれる手に

 暖かくなり始めた三月の半ばに降った雨は、春の空気を少しだけ冷やして、咲く日を待っている木々の蕾をしっとりと濡らした。
 藤井百合枝は、昼間降り続けた細い雨が上がった夕方、用のなくなった傘を片手に勤め先を出た。日が長くなったとは言え、六時を過ぎればやはり辺りは暗い。一日の疲れを肩に、百合枝は首を左右に倒した。こき、と言う感触に仕事の疲れを感じて、熱いシャワーが恋しくなる。
「さ、とっとと帰りましょ」
 帰宅したらまずはシャワーで一日の汚れと疲れを洗い落とし、空腹を訴える身体に適度な食事と、気が向けば酒でも少し。ゆったりと先日購入した新刊でも読んで、一日の自分の勤労をねぎらって、眠りにつく。
 これからの予定をざっと思い浮かべながら、百合枝は夜を迎えた町を行く。

 それ、に気付いたのは最寄の駅に着いて数分も行かぬ場所、商店街の外れの小路だった。夕飯の為の買い出しに、と商店街に寄った為、普通に帰宅するならば通らぬその小路で、百合枝はもはや見なれてしまったモノを見た。百合枝以外に見えない炎の痕跡――人の思いが残した跡だ。
 百合枝は人の心を炎として捉える能力を持つ…望んで得た力でないそれは、幼い頃は百合枝を悲しみや戸惑いに導くことも多かったが、今はこの能力も自分の一部であるのだと、受けとめている。それでも時折、自分のような特殊能力の無い妹を、うらやましく思う時があった。
たとえば、今のように強い炎の痕跡を追って辿りついた先に、花束が添えてあれば。
そして、その場を焦がすかのような、凄まじい炎を見た時は。
「……そう言えば」
 百合枝は残された炎に魅入られたように呟いた。
 最近、この付近で通り魔が現れ、女子高生が一人亡くなっていた。それまでにも数件、同一犯と思われる通り魔事件が相次いでいた。確かテレビでも話題になっていた筈だ。お定まりにコメンテーターだかなんだかが、昨今の事件の凶悪性をさも得意げに語っていた。
 襲われたのはどの件でも女性で、年齢は十代後半から二十代。女子高生が亡くなった件で4件目程だったろうか。
 いずれも目撃者が無く、警察の捜査も難航しているようだった。
 残された炎は、まるで燃え盛るかのようだ…見える感情は混乱と恐怖。形は炎であるのに、それはまるで凍りつくような冷たさを百合枝に伝える。揺れうねり伸び上がる熱の無い火は、今も恐怖と混乱に捕われたまま、この場に縛りつけられている。
 これは疑うまでもなく、ここで殺された女子高生の残した恐怖の記憶だ。
「…………」
 百合枝は炎に手を伸ばした。
 
――いや、来ないで。

 引きつれた声が聞こえた。

――なんでこんな事をするの……ッ? 止めて……お願い。

 逼迫した懇願。恐怖がびりびりと百合枝の身体を震わせる。
百合枝は意識を更に深く合わせ、炎という念に残された記憶に自分の意識を同調させた。

 百合枝のよく知る商店街…先ほどまで居た場所だ…の風景が後ろに流れて行く。記憶の主――女子高生である少女は必死に走り――逃げていた。
全力疾走しながら思う。
 夜と言ってもまだ七時を回った程度だと言うのに、この静けさは何だろう。どうして誰も居ないのだろう。店はどうしてみな閉まっているのだろう。いつもならまだこの時間は買い物帰りの主婦や、家族連れや、会社帰りのOL、サラリーマン…様々な人が居る筈なのに。店だって、まだ閉まるには早すぎる。24時間営業のコンビニすら閉まっているというのは一体どういうことなのだろう。
 ゆっくりと確認している時間はなく、逃げるのに必死になりながらも、少女は自分以外の人を捜していた。人を見付けて助けを求めたかった。
 だが、いくら走っても、何処にも誰も居なかった。

 少女はある小路に飛び込んだ。商店街の中でも比較的背の高いビルの壁に挟まれた道は、昼間でも薄暗い。夜ともなれば更に暗く、人一人通れる程度の本当に狭い…道と言うより隙間だった。
 ビルの裏口が道に面しており、飲食店があるビルゆえか裏口付近にはポリバケツや生ゴミが詰まった大きなビニール袋が並んでいる。
 少女はとっさにその裏口のドアに飛びついた。ノブを回すが当然のように鍵がかかっており、開かなかった。扉を叩いて中の人間を呼ぼうかとも考えたが止めた。追ってくる者に気付かれる。少し距離を離したのか、今はまだ追跡の気配は近くにない。少女はドアを開けるのを諦めてゴミ袋の陰に身を隠した。この道は外から覗いただけでは奥までを見とおすことは出来ない。外から見えるのは反対側の道の光だけなのだ。しかも少女はこの年齢にしては小さく、ゴミの陰にすっぽりと収まる事が出来た。ポリバケツとゴミ袋の僅かな隙間から自分が飛び込んできた方を窺い見るが、まだ姿は見えなかった。この道に入ったのは見られていない。もしかしたら気付かないまま通りすぎたかもしれない…そう思いながらも、少女は首を引く。少しでも自分の身体が陰から出ないように。例え外から見てこのゴミすらそうと判らない程の暗さでも安心は出来なかった。
 少女は、ゴミの陰で息を殺す。なるべく息を細くした。長く走っていたが故に、息を殺すのは苦しい作業だったが、必死に抑えた。心臓の音が激しくて、それが外にもれてやしないかと、普通なら考えられないことが脳裏を巡った。
 この間にも、誰か知りあいが通らないかと、背後のドアが開いて少女を見付けてはくれないかと、必死に願った。

――助けて。誰か助けて。助けて。助けて。

 呪文のように繰り返した。
 足はもう棒のようで、重く、今までのように走れはしない。限界が来てしまった。
 もう、走れない――その事が少女の恐怖をいや増した。
 だからこそ、少女に残された道は願うしか、祈るしかなかったのだ。

――お母さん、お父さん、お兄ちゃん………っ………

 家族や、友人の名を呼んだ。誰でもいい、ここに通り掛かって、声をかけて。一緒に逃げて。

――助けて。

 同じ言葉を繰り返した。かたかたと震える身体を両腕で抱き、これ以上ないほどに縮こまって。
 その肩を、叩く手があった。
 少女はひときわ大きく身体を震わせて、立てた膝に押しつけていた顔を恐る恐る上げた。
 
 そこには。

「……ッ!」
 百合枝は炎に触れさせていた手を勢いよく引いた。
 恐怖の感情が急激に高まって、同調させていた意識が弾かれたのだった。
 百合枝は引いた右手を、左手で掴んだ。ゆるゆると摺り合わせた。両手ともに冷えきっていた。
 背筋が冷風に直に撫でられたかのような寒気に震えた。少女を襲った生々しい恐怖が、身体に残っていた。
 暫くその場で我が身を抱くようにして佇んでいた百合枝は、ふと気付いた。
「……随分静かね……」
 百合枝の居る小路の、その前後に開けた道に人通りがないのに気付く。どちらもこの時間は常に人通りの多い道だ。
 それが、先程から人の気配が無い。一時ならそれもあろうが、まるきりと言うのはおかしい。
 百合枝は引かれるように歩き出す。自分が来た道を戻り、商店街側へ出る。
 そこには、人の気配どころか何の気配もなかった。
「何……?」
 まるで先程見た少女の記憶をそのまま持って来たかのような光景に百合枝は息を呑む。人も車も全くなく……音も無い。店は閉まりそこにあるのは何もかもが死に絶えたかのようなただ静けさ。
 百合枝は肩にかけていたバッグから霊刀を取り出した。無意識にそれを強く握る。
――いつもの、気配じゃない……
 百合枝が知っているいつもの商店街じゃない。明確に理由を答えられはしないが、確信があった。
 これは違う、と。
「一体何が……あ」
 百合枝は人の絶えた道に一人の男を見付けた。見た瞬間に背筋が粟立つ。
 同時に背後の炎が勢いを増したのを気配で察した。
「あの、男なのね」
 少女を殺した男だと、直感する。
 男はどういった方法でか既に百合枝を見付けていたのだろう。真直ぐに百合枝の方へ歩いて来る。
 年は百合枝とさほど変わらないだろう。一見して普通の青年だ…右手にナイフを握っていなければ。
「待ってろよお……今、望み通り切り刻んでやるぜえ……」
 瞳には狂気を宿し、ぶつぶつと呟きながら男は持ったナイフの先を壁に付け、そのまま引いて歩く。カリカリという乾いた音が、他の音の絶えた場に響く。
 百合枝は後退った。一歩、二歩…次の瞬間には走り出していた。反対側の出口へ急ぐ。先は見えている。そう長い道ではない。反対側に出て少し行けばすぐに百合枝の自宅への道に出る。
「一寸、待って」
 走る足の速度が緩まる。
「アイツを放って行くの」
 男は何人もの女性を襲っている。放っておけば次の犠牲者が出るのは明らかだ。それに、と百合枝は後ろへ視線を流す。
 現在のこの異常……人が全くないのにはあの男が関連している。このまま逃げても解決はしないだろう。原因を探り、取り除かない限りは。
 百合枝の足が止まる。体を反対方向へ返した。男がちょうど小路に入って来るのが見えた。
 そして。
「……!」
 男の背には制服を身に着けた少女が覆い被さるようにして、居た。
「……まさか?!」
 百合枝は驚愕に目を見開いた。先ほど百合枝が同調した炎と同じ気配を持っていた。
 少女の周りには、先ほど見たのと同じ炎が揺らめいていた……いや、この少女の姿は炎が形造っているのだ。普段なら炎としてしか見えない筈のそれが、恐らく「場」として閉ざされたこの空間で形を得た。
――いや、彼女等の残した強い思いが集い、男の澱んだ感情と混ざり合い共に「場」を形成したのだ。
 そして、男が負うのはその少女だけではなかった。
 百合枝は男の、正気を逸した瞳を見返した。
「あんた、殺したのは一人じゃないね?」
 百合枝が見えるだけで三人が男にまとわりついていた。どれも恐怖に顔を歪ませて、時折何かを叫ぶように身を震わせていた。
 その他にも沢山の彩を持った炎が、男を取り巻いている…それは恐らく男が今までに少女や女性を傷つけて、触れて来た恐怖の記憶。彼女達のあまりに強い恐怖が、恨みが、男に少しずつ蓄積していった。
 それが皮肉な事に男を更に狂わせ、凶行を増長させたのだ。
 男は不気味な笑みを浮かべて、楽しげに奇妙な笑い声を漏らす。その度に猫背気味の身体が小刻みに震える――全身が楽しい、と語っているかのようなその姿に、百合枝は怒りが増す。
「……何が楽しいの? 何もしていない女性を傷つけて、殺して――まだ恐怖に捕われたままでいるのに」
 怒りに過ぎて、声は却って冷静だった。その間にも、百合枝の身体の底から怒りが立ち上ってくる。冷えた筈の身体が熱くなる。百合枝は手にした霊刀を握りしめた。
「彼女達はこんな事で死にたくなかった……。勉強や、恋や仕事や遊び……、沢山の事を、大切な人達と重ねて生きて行きたかったのに、それを――」
 自分の欲望のままに、ただそれだけの為に無残に打ち砕いた。
「何が、おかしいの……?」
 心の中で炎が逆巻くかと思った。それほどの怒りが百合枝を満たしていた。
 百合枝は霊刀を鞘から抜いた。刃上を外灯の光が走りきらめく。
「このまま放っておけば、あんたはあんたが傷つけた女性の心にとり殺されるでしょうね……」
 今はまだ、高揚するだけに止まっている狂気はいずれ恐怖に摺り代わるだろう。自分で蒔いた恐怖の種は、自分の足元で育っている。
 男は百合枝の声も届かない様子で、笑っている。愉悦に歪んだ頬が、ひくひくと動いた。
 そして男は、唐突に動いた。
 百合枝に向って持っていたナイフを突き出す。百合枝はそれを難なく避け、逆にナイフを持つ手首を掴んで、男の勢いを利用して捻り上げるように回転させた。男の身体が反転し、地に打ちつけられる。容赦なく繰り出されたそれに、男はまるで反応が出来ず、打ちつけられた痛みにもがく。
 百合枝は男が落したナイフを蹴って道の隅へと追いやった。
 男はそれに気付かぬままに身を折っている。百合枝は男を見下ろして、小さく息をついた。
百合枝はこう見えても俊敏さには自信があり、スポーツ全般を得意とする上、学生時代には柔道をやっていた。その百合枝に、がむしゃらに打ち込まれた一撃などが効くわけがない。
「放っておいてやりたい所だけどね」
 百合枝は霊刀を右手にし、横へ薙いだ。
 炎が刀身をひらめき滑り、夜闇に散った。それに百合枝は緑の瞳を細める。
 初めて見る――これは自分の心の炎だ。百合枝は人の感情を炎として知覚する事が出来るが、自分の炎を見た事はなかった。初めて見たそれは百合枝の怒りを表してか赤々と鮮やかだ。
 怒りを宿した百合枝の炎は刃の銀に映り新たな刃紋を描く。
 男が顔を上げ、百合枝の霊刀を見た。慌てて自分の武器を探すがそれは男の傍には無い。
「……放っておいて、見ててやりたいくらい――あんたが滅びるのを」
 声と共にふうわりと新たな炎がまた霊刀の上に舞う。
 燃えあがるかのように刀に宿る力が炎に呼応し、チリと震えた。
「ひ……ひィ……っ」
 男は百合枝の手を凝視したまま後退った。炎が見えているのか、顔は愕然と、瞳は恐怖に見開かれ。
 腰でも痛めたか――それとも恐怖に力が入らぬのか、立ち上がる事も出来ずに手足をばたつかせてじりじりと下がる。
「私が怖い? たかだか一度投げ飛ばされて? 唯一の武器を落とされただけで?」
 男が下がるのに合わせて百合枝は足を踏み出す。男が間をあけた分だけ差を縮める…ゆっくりと。
 百合枝は下ろしていた右手を上げる。
 刀の尖端が男に据えられた。
 闇を照らす程の赤色が、ゆらめき踊る。
「う……っ、あ……来る、な……ッ! 止め……ッ」
「同じ事を、あんたが傷つけて、殺した子達も言った筈よね?」
 コツ、コツ、と百合枝の靴がアスファルトを鳴らす。
「彼女達の恐怖はこんなモノじゃなかったのよ――」
 男は声にならない悲鳴を上げた。バランスを崩して後部にあったポリバケツに当たった。バケツは転げ、中身を派手にぶちまけて、異臭を辺りに放った。
「あんたも同じ様に――してあげようか?」
 百合枝は唇の両端を吊り上げた。瞳の緑が炎を映して鮮やかに燃える。霊刀の先はまっすぐに男に向けられている。今や刃は自身が炎であるかのように輝き、その姿を揺らめかす。
男は極限の恐怖に動く事すら出来ずに、倒れたバケツに半ばすがるような体勢で、顔だけを霊刀へと向けていた。何処か呆然と、瞳に生気はなく。魅入られ、魂を抜かれた者のように。
 百合枝はとうとう男の間近に立った
「私は、あんたを許さない。他の誰が許したとしても、絶対に」
 百合枝は息を吸い込んだ。冷えた夜気が肺を洗う。怒りをも冷やして、鎮めてくれる。瞳を閉じた。少女の…女性の…幾人もの声が聞こえた。助けて、と痛い、と。
 百合枝はゆっくりと双眼を開く。
「こんな馬鹿に囚われたら駄目よ――」
 穏やかに告げるのは、男へではなく。
 言葉に応えるかのように、霊刀が纏う炎が色を変える。赤から金へ…そして白く…清浄な炎が燃え上がる。
 百合枝は霊刀を構えた…そこでようやく男は我に返る。意味のなさない言葉を喚き散らす。それにも構わず百合枝は白刃を降り下ろした。

 百合枝はいつも通りの姿へと戻った商店街を見つめた。人の声、人の気配…それらが満ちているのを確かめてから、足元を見た。そこには男がポリバケツにもたれるようにして倒れている。
男の傍らには霊刀が突き立てられている…百合枝は男を刺したのではなかった。
 斬ったのは、女達の残した炎……残留思念。男を更なる狂気へと駆り立ててしまった炎を散らしたのだ。
 男の為になしたのではない…男の狂気に囚われた炎を解放する為だ。
「散らす事しか、出来なかったけどね……」
 百合枝には浄化の力は無い。散らした炎は消えたわけではなく、まだ辺りに漂って居た。
 男から離れた事によって、いずれは消え行くだろう…これは感情や記憶の残滓であるから。
 百合枝は剥き出しのままの白刃を鞘に戻す。自然と吐息が漏れた。それが安堵から来るものなのか、疲れなのか自分でも判然としなかった。判るのは終わったと言う事。
 付近を騒がせた通り魔はもう現れない。
「警察に、連絡……」
 呟きかけて、顔を上げた。最初に見付けた炎を見る。
 男が意識を失ったせいか、炎の勢いがいくらか静まっている。
 百合枝は無言で傍らに歩み寄る。再び、炎に手を伸ばす。
 最初と同じように……同調が始まった。だが、先とは少し違っていた。先程は少女の意識と完全に同調し、少女の視点で記憶を覗いた。だが今度は――
 少女が目の前に蹲って居た。かたかたと体を震わせ、固く身を縮めて。小さく呟き続けている。
 百合枝はそのすぐ傍に立った。
 少女はそれにも気付かずに震えている。小さい呟きはまだ続いている。何を言っているのかは聞き取れない。だが百合枝は彼女が何を言っているのか知っている。
 少女の肩に手を置いた。
 途端、少女の肩が、体が大きく震えた。立てた膝に押し付けるようにしていた顔が、恐る恐る上げられる。
「もう、大丈夫よ」
 百合枝は微笑んで、少女に手を差しのべた。。