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<東京怪談ノベル(シングル)>


文太の湯煙候記

 ── なんで此処にいるのだろうか ──

 文太はそんなことを、首を傾げて考える。
 どうやって此処まで来たのかなんて当の昔に忘れてしまったけれど、辺りに立ち込める湯気の様子から温泉街にいることだけは分かったからだ。
 数秒考え、そして穏やかな風に運ばれて硫黄の香りが鼻に届くと、文太はペタペタと足を動かして移動を始めた。
 来たからには温泉に浸かって、のんびりしたい。
 肩に掛けられた手拭いと小脇に抱える檜の桶が、文太の温泉好きを物語っているのだから。

 ぺたぺたぺた──

 歩く姿に通り過ぎる年配の人間が、あらあらと微笑ましく眺めるも、文太は気にした素振りも見せずにただ前を歩いて行く。
 そうして辿り着いたのは、鄙びた一軒の宿。外観はお世辞にも繁盛しているとは言えないが、ホテルなどの大きな施設だとペンギンに酷似した文太は、子供の格好の餌食になってしまう。動物園でしか見ることの出来ない生き物が、まさか遊びに来た先で出会えるなんて思わない人間……特に子供は目を輝かせ、そして文太を体力が続く限り追い掛け回してくるのだ。めっきり体力の落ちたこの体では、子供から逃げ切れるわけもなく、抱きつかれ玩具のように扱われて温泉どころではなくなってしまうだろう。

「……。」

 まぁそんな記憶があるような気がするだけで、されたわけじゃないのだが──…。
 文太は瞳を左右に動かして温泉への入り口を探すと、看板の矢印にまたペタペタと足を動かす。
 今日は人も少なく、子供の姿もないようで、ゆっくり温泉に浸かれそうな予感がした。

*****

 小さな宿の裏手、山間に来た文太が目にしたのは、雪残る湯煙の場所。春近しと言えど、まだまだ気温は春を告げるには早いこの季節。温泉から立ち上る湯気に、文太の心は躍った。丁度宿の裏手が露天風呂になっているらしく、建物の影から白いものが見え隠れしているからだ。
 逸る気持ちを抑えながら、さて早速入ってみるか、と歩き出したその刹那。

 ずざささささ!!!!

 !!!!????

 文太の横を大量の『何か』が猛スピードで走り抜けて行く。慌てて大切なものを守ろうと桶を抱えた文太は、その何かが通り過ぎる頃には、クルクルと目を回してその場に尻餅をついた。

 ── 一体なんだっただろうか…… ──

 と思うも、首を振って大切なものがあるのを確認すると、気を取り直して露天風呂へと歩いていく。
 そして湯煙を抜け、いざ温泉を堪能!と一歩踏み出した文太が見たのは──…

「……。」

 満員御礼 千客万来 家内安全? 健康第一??

 先ほど文太の横を走り去った正体……猿の一団がのんびり、まったり、気持ちよさそうに温泉を占領している姿だった。ボス猿と思われる大きな猿の周囲には、メス猿だろうか。毛繕いをせっせとしているし、母猿が小さな我が子を胸に抱きながら目を閉じている姿もある。その数20頭……いやもっといるだろうか。既に温泉には文太の入り込めるスペースはなかった。
 呆然とその光景を見詰めていた文太であったが、折角の温泉である。あと数歩歩けば温かい存在があるというのに、諦めることなんて出来るわけがない。自分の方が先に到着していたのだ。──ちょっと歩くのが遅かっただけで。
 文太は猿の集団をじぃと見つめ、どうにかして自分が入ることは出来ないか考えた。
 考えて考えて考えた末、またペタペタと歩いてその場を一旦離れ、猿から見えない場所へと移動する。そうしていつも持ち歩いている桶は脱衣所の一番下に置き、徐に肩の手拭いを手にすると起用に翼を動かしてそれを頭へと被せ、そっと山側へと移動して温泉へと近づいて行った。
 ゆらりゆらりと立ち込める湯気の中、そ〜と猿の後ろに立ち尽くして恨めしそうな視線を投げ掛ければ、今まで極楽を味わっていた猿達が何かに気づいたようにこちらを見やる。
 普通ならペンギンが手拭いを頭から掛けている、ちょっと愉快な光景が広がるだろう。しかし見難いのとゆれる手拭いと何よりその視線が猿達へと向けられた瞬間、猿はザバッ!と湯から飛び上がった。

 うきぃぃぃ!!??

 ボス猿がひと鳴きするや否や、露天風呂の中に居た猿達が一斉に山へと帰って行く。ある者は慌てすぎて温泉をガブッと飲み込み、ある者は押しのけるように湯の中で動き。母猿は小猿を抱きかかえ、3本の足で器用に逃げて帰った。
 一瞬の大騒ぎの後の静寂に、残ったのは手拭いを肩に掛け直した文太の姿ただ一つ。

*****

 猿の集団がいなくなった温泉は、実に静かだった。脱衣所から桶を取ってきた文太は、そのまま誰も居なくなった温泉に静かに浸かり、ゆっくりと目を閉じる。
 やはり温泉はこうでなくてはならない。多すぎては休まるものも休まらず、ゆっくり出来るものも出来ないだろう。
 湯は少々高めだが、外気の低さと混じり合い丁度良い温度なのが気持ちいい。翼を動かして自身の体を擦れば、つるりと温泉独特の肌触りがした。
 そして桶の中にあるキセルを片目でチラリと見ると、また両目を瞑り温泉を堪能する。
 どうして此処に来たのか、どうやって辿り着いたのか、そんなことはどうでもいい。今はただ出会うことの出来た存在に、身を任せるだけ。
 そう。
 いつだって出会いは突然で偶発的で、こちらの意図なぞお構いなしなものなのだから。

 ふぅ──

 息を吐いた文太は人の気配を感じ、閉じていた瞳をパチッと開いた。
 そして辺りを見渡すように首を動かした先で見たものは──…

 黒髪をだらりと垂らし、透けるような白い肌とこちらを見つめる生気のない瞳。文太は恐る恐る見上げていた首を下へと動かしていく。浴衣は此処の宿のものだろうか、白地に文字が書かれているようだ。
 そしてスラリと伸びているはずの足先……つまりは文太の丁度視線が向けられる位置には、あるべきものは存在していない。透けるような肌も、よく見てみれば後方の景色が映し出されているではないか。本当に透けているのだ。
 文太は暫し動くことをやめ、それらのことを必死に整理してみようした。したのだが、これは誰がどう見ても結論は一つなわけで。

「……。」

 女性の佇む場所は、先ほど文太が猿を驚かそうとしていた位置。

『ふふふ…………』

 微笑むと表現するには、あまりにおどろおどろしい声に、文太は頭上の手拭いをずるりと湯へ落として、バシャバシャと温泉内を逃げ惑う。泳げば早いのだが、そんなことを考えている暇なんて今の文太にはなかった。なんせ本物の幽霊が立っているのだ。


 それからどうやって温泉を出たのか、文太は覚えていない。宿の前でぜぃぜぃ息を吐きながら湯の方向に顔を向け、逆の方向へと歩き出す。
 きっと先ほどの猿達も文太を見て驚いたのではなく、あの幽霊を見て慌てたのだろう。
 どちらにせよ、湯を堪能できた文太には関係ない。少しだけ驚いてしまったけれど。

 文太はそう思いながら、何処に行くでもなく歩き続ける。
 それは温泉がある限り、続くのかもしれない。

 いつか本当の目的に気づく、その時まで──…

【了】