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<東京怪談ノベル(シングル)>


闇の申し子

「今日は月が隠れているんですね。街から離れると、真っ暗です……本当に」

 ふと見上げた夜空に御上・咲耶は、ぽつりとそんなことを漏らした。
 星の光も届かない、今日は雲が空一面を覆い隠して月さえも姿を見せていない。これで雨でも降ってくれれば良かったのだが、どうやら雲は雨雲ではないらしい。
 足を止め、そんな空を眺めた先に、咲耶は過去のことを思い出した。
 それは月が消えたように暗く、下界に光が届かない……そんな日の出来事。
 咲耶がまだ幼く、子供と称されていた時期のことである。

*****

 母親は東南アジアの特殊の民族の出だった。己が民族以外との交流を絶ったその閉塞感を母親は嫌い、そしてある日意を決して街へと飛び出したのだと、幼い頃に母親が教えてくれたのを思い出す。どれも新鮮だっただろう都会での生活は、その分辛いこともあったに違いない。他種族と交流するということは、意外と難しい反面楽しいこともあるのだが。
 そんな生活の中で、母親は出張で立ち寄っていた父親と出会うことになる。初めての恋だったのだろうか。そのまま日本へとやって来て、父親と結婚し自分を産んだ母。
 けれど──…。
 その幸せは長く続くものではなかった。

 1歳になり、2歳になり……咲耶が6歳になった頃、それは確実に自身に起こっていたのだ。


「お母さん、お腹空いた」
 夕飯の支度をしている母親の元に、幼い咲耶は空腹を訴えるように隣に立った。包丁を動かす手を止めた母親は、少しだけ困ったように咲耶を見ると、時計を見てから頭をひと撫でする。
「もうすぐ夕飯だから我慢してね。おやつ食べなかったの?」
「ううん、食べたよ。食べたけど、お腹いっぱいにならないの。ご飯をいっぱい食べても、お腹がいっぱいにならないの」
 お腹を押さえて、咲耶は小さな体が訴える信号を母親へと伝えた。
 母親の作るご飯は美味しい。おかずもちゃんと作り、育ち盛りだからと沢山の料理を作ってくれた。おやつもホットケーキやクッキーなど、結婚してから覚えたのだろう菓子類まで作ってくれていたのだ。
 咲耶はそれらを出された分全て食べ、その時は確かに空腹感はなかった。しかし布団に入り、寝ようとするとあることに気づくようになる。

 ── お腹空いた…… ──

 その『飢え』は食べ物を口に入れても治まらない。こっそり夜中に冷蔵庫からハムを取り出して食べてみても、飢えは治まるどころか益々強まるばかり。
 だから夕飯前になると、咲耶は母親へと『飢え』を訴えた。
 けれどそれを口にするたびに、母親はひどく悲しげに瞳を潤ませて抱きしめてくるのだ。
「ごめんね、咲耶……」
 同じ金の瞳から流れ落ちる雫が、咲耶の頬を伝いポトリと落ちる。
 幼い咲耶には、何故母親が泣くのか、どうしていつも謝るのか判らなかった。
 ただ判るのは、食事をどんなにしてもこの『飢え』が消えないということ。どうしたら消えるのか、少年には判るわけもなく、毎日が飢えとの戦いだった。
 しかしその『飢え』は、暫くして消えることとなる。


 月が見え隠れし、時折覗く光が薄っすらと辺りを照らす。
 それは父親が出張中のある晩のこと。
 咲耶は夕食を食べ終え、自分の部屋で本を読んでいた。すると扉がノックされて、夕飯の片づけを終えた母親が入ってくる。いつも通りの母の顔。
「咲耶、ちょっといい?」
「どうかしたの?」
 本を閉じて母親へと向き直ると、目の前の女性は最初言葉を紡ぐのを躊躇い、しかし金の瞳をこちらへ向けて優しく咲耶を抱きしめた。
「これからちょっとお出掛けしましょうか」
「何処へ行くの?」
 首を傾げる咲耶に、母親はニコリと微笑んでみせる。
「近くに墓地があるのでしょ? あそこでね、待っていて欲しいの。お母さんもすぐに行くから、今日は出店が出てるみたいよ」
「縁日やってるの? うん、判った。お母さんもすぐ来てね」
 笑顔の少年に母親は「うん」と優しく笑みを浮かべた。
 玄関を飛び出して、慣れた道を走る咲耶。けれど気づいていなかった。
 時計の針は既に縁日をやっているような時間ではなかったことを──


 墓地へと到着した咲耶は露店を探しながら、中をウロウロと歩き続ける。
「おかしいなぁ。もう終わっちゃったのかなぁ?」
 そう呟き、家に帰ろうと踵を返した瞬間、差し込んだ月明かりから目の前で1匹の狼がこちらを睨んでいることに気づいた。金の瞳を吊り上げた黒狼は低い唸り声を上げて、咲耶へとジリジリ近寄ってくる。
 それは本能だったのだろうか。

 生きる者としての──…

   生きようと望む者の──…

 咄嗟に咲耶は墓地の中へと逃げ込んだ。子供の足では追いつかれてしまうかもと、考えている余裕なぞない。ただその存在から逃げなくてはと思ったのだ。
 しかし飛び掛かってきた黒狼を最後に、咲耶は意識を失ってしまう。

 ── お母さん 助けて…… ──

 そうしてどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。意識を取り戻した咲耶が、目を凝らして辺りを見ると、そこにはもう黒狼の姿はなかった。けれど自身も傷だらけで、何故か服を着ていない。
 狼が服を破り取ったのだろうか。
 そう思うも、ふとあることに気づいて、咲耶はお腹を見つめた。
「お腹がいっぱいになってる」
 ずっと付いて回っていた『飢え』を感じないのだ。それは初めて味わう満腹感。
「お母さんに教えない…………と」
 続けようとした言葉を飲み込んで、少年が見たのは静かに横たわる母親の骸。笑顔は急速に温度を無くし、凍りついた。
「お……か……さ……」
 震えるのは寒さでも恐怖でもなく、例えるなら不安。指先を伸ばし、そっと触れた母親は……抱きしめてくれる温かさをもっていなかった。
「お母さぁぁああん!!」
 まるで狼の遠吠えのように、咲耶の声は墓地に響き渡る。

*****

 あれから12年の月日が流れる。
 母親の死は原因不明で処理され、咲耶も大学生になっていた。
「何故あなたが死んだのか、今なら想像が付きます。そして何故いつも謝っていたのかも……」
 それは同じ瞳を持った者同士だから。恨んでいないとは決して言わない。いいや恨んでいると言ってもいいだろう。
 見上げる夜空から一瞬だけ月光が差し込むと、咲耶はスゥと目を細める。
「あなたは闇を食らうことをやめ、そして餓死したんでしょう?」
 あの晩の記憶は咲耶にはない。ないけれど、安易に予想が付いたから。
 そして裸で倒れていた自身の存在の意味も想像できる。
「俺は今、満腹ですよ」
 闇を食らった帰り道。
 咲耶はそう呟いて、また歩み始めた。


 母の気持ちも真実も知らぬまま──…
   身を呈し、獣化してしまった我が子に、自身の闇を食らわせたのだという事を……。

【了】