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桜の季節
少し早かったかな。
腕時計を確かめ、葛城・樹(かつらぎ・しげる)はもう一度、校門の内側に首を向けた。
茜色の空の下、陸上部の生徒達が校庭で掛け声をかけながら、短距離を競っているのがすぐに目に入る。
季節は既に春休みを迎えている。学校としては休みだが、部活動の生徒達が熱心に校庭のあちこちで練習に励んでいるようだった。
それでも、夕方の17時はもう過ぎているので、一部の部活動は後片付けを始めているらしい。だんだん明るい時間は長くなっているが、春とはいっても18時を過ぎればすっかり暗い。
ころあいだろうと見計らってきたのは間違いではなかったようだ。
一緒に出かけるために樹が迎えに来た……その少女は、新体操部所属だった筈だ……彼女も待っていればすぐに現れるだろうか。
しかし、その望みは15分さらに待ったところで、いったん打ち切ることにした。
「……困りましたね」
向かう先にも時間の都合というものがある。
17時には終わる、と確かめてきたのだが、練習に夢中になっているのかもしれないし。屋内競技では時間の経つのも時計を眺めてなければわかりにくいだろう。
まだゆとりは残っているが、だんだん不安になってきた。
仕方が無い。と、樹は軽く苦笑して、お迎えにあがることに決めた。
大切な従姉妹殿。
熱心に頑張ってるのを見るのも、少し楽しみというものだ。
校門から迷わず入り、広々とした校庭を横切っていくと、体育館の周りには美しい桜並木が立ち並ぶのが見えた。
まだ咲き始めたばかりといったところだろうか。桃色の花弁は愛らしく、とても美しい。
ほのかに花の香りを感じ、心にバッハの音色を奏で、樹は目を細めた。
その時だ。突然空を切るような、ビシュッという音が響き、思わず視線を彼はそちらに向けた。
「?」
立ち並ぶ桜並木の向こう。
もう薄暗くなってき始めている校庭の奥に、アーチェリーを構えた生徒達が熱心に練習をしている。
「ほう……」
少女達の中に一人、目立つ少女がいる。
金髪に青い瞳をしたショートヘアの少女は、人なつこそうな笑顔を浮かべて、友人たちが的に向かって次々と放つのを笑顔で見つめている。
短い髪だが、頭の後ろに一房だけ長い部分があり、それが彼女が明るく微笑んで動くたびに、ふわふわ揺れる。
ボーイッシュな雰囲気というのかもしれない。けれど、成長期の一番自然な美しさに包まれている時期の少女は、周りにいる他の少女に比べてもとても綺麗に見えた。
桜の花と、名も知らぬ金髪碧眼の少女。
不思議な組み合わせだ。
ふと……その時、樹の脳裏に何かひらめきのようなものが宿った。
「!」
……メロディが流れ始めたのだ。
持っていた鞄を地面に置き、その中から未使用の楽譜を取り出す。
地面に膝をつき、そこに楽譜を置くと、樹は大急ぎで胸元の万年筆を抜き、楽譜に音符を刻み始めた。
桜の花と、散る花びらと、春の風と、名も知らぬ少女。
浮かぶイメージをメロディに変換する。
……いい曲になりそうだという確信があった。
心を澄ませて、ただイメージに素直に音符を彼は一心につづる。
「チェリーナ、あなたの番よ」
明るい声が桜の向こうから響いてきた。
(チェリーナ?)
ふと、万年筆を止め、彼は桜並木の向こう側を振り返る。
「はーい」
満面の笑みを浮かべたその少女は、友人に軽く手を上げ、それから立ち位置につくと、アーチェリーを構える。
無邪気な視線が、真剣なそれにかわる。
ぴんと張り詰める空気。
放たれるアロー。
的の先までは見えなかったけれど、周りの友人の歓声でわかる。
見事、命中。……そうでしょう?
チェリーナ。
いい名前だ。
瞼を伏せて、樹は小さく微笑んだ。
再び、楽譜に目を落とす。書きなぐったような音符の山を眺め、樹は優しく微笑んだ。
素敵なワルツになるだろう。
チェリーナ・ワルツ。
なかなか面白い名前かもしれない。
彼の名を呼ぶ声がした。
振り返ると、従姉妹殿が彼を呼んでいた。もう制服に着替えて、「お待たせ」と微笑んでいる。
樹はうなずき、楽譜をしまうと、もう一度、桜並木を振り返り立ち去っていった。
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「見た?かっこよかったよねー」
「うんうん。誰だったんだろう」
「……何の話?」
タオルを首にかけて、アーチェリーを置き戻ってきたチェリーナ・ライスフェルドは、桜並木の方を振り返って楽しそうにしている友人たちに声をかけた。
「今、あっちの方にすっごくハンサムな人がいたの」
「そう……」
言われて振り返っても、そこにはすでにもう人影もなく。
友人達の話では、背の高い、黒髪に前髪の一部だけ銀色のメッシュの入った青年だったという。
立っているだけで絵になるようないい男。
でも、見た事ないし、へぇそうなんだ、と思う以外に仕方ないんだけど。
「でも、その人ね、チェリーナの事、見てたと思うのよ」
「私の?」
友人の言葉に目を丸くするチェリーナ。
「どうして?」
「知らないけど、でもきっとそうなの」
「そうだったよねー」
声をそろえる友人に、気味悪そうな顔をしてみせ、もう一度だけチェリーナは桜並木を見つめた。
舞い散る花びら。香る花。
その向こうには、もう誰もいない。沈む夕日に暮れなずんでいく景色だけ、ぼうっと見える。
「……」
どんな人だったのだろう。
ちょっと気になった。
でも、二人の出会いは、まだ先の話である。
+++おわり+++
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