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<東京怪談ノベル(シングル)>


ペンギンと猫と逃走と

 がちゃがちゃとした、雑多な音がこだましている繁華街に、ぺんぎん・文太(ぺんぎん ぶんた)はぽつりと立っていた。
 どうして自分がその場所にいるのかを、文太はよく理解していないようで、きょろきょろと黒の目で辺りを見回していた。それは、現在の位置を確認しているようにも、迷子になってしまってどうすればよいのかを模索しているようにも見えた。
 実際、文太は確認と模索をしていた。どうして今現在の場所にいるか、どうしても思い出せないという確認、そうしてこれからどうしたらよいのかという模索である。
 文太が確認した所、自分が今いる場所が繁華街の裏道であるという事が分かった。それは、今いる場所から真正面に開けている道路に人通りが多いという事、そうして今いる場所が狭い小道になっている事からも分かった。建物と建物の隙間である文太のいる場所は、ヴヴヴというエアコンのモーター音が酷く響いていた。
 にゃあ。
 モーター音に紛れて聞こえたか細い声に、文太はびくりと体を震わせて辺りをきょろきょろと見回した。
 にゃあ。
 再び聞こえた、か細い声。近い、と文太は判断してそろりそろりと動き始めた。
 目の前には響いていたモーター音の元であろう、大きなエアコンの室外機があった。恐らく、店舗用であろう。その大きな室外機から繰り出される風に、文太の首から下げている手ぬぐいがひらひらと揺れる。中々にして気持ちいい。
 にゃあ。
 文太はその声にびくりと体を震わせた。室外機の風に心惹かれていた文太の気持ちを見透かしたかのような声であった。文太は一瞬動きを止め、平べったい手で頭を軽くぺしんと叩き、再び声の主を探した。
 にゃあ。
 文太は声を辿り、ついに声の主を発見する。巨大な室外機の陰に、ちょこんと二匹の子猫が座っていたのだ。くりくりとした大きな目に、ふわふわの毛。二匹はその大きな目でじっと文太を見つめ、二匹揃って「にゃあ」と鳴いた。
 文太は子猫しかいないのを見て、辺りをきょろきょろと見回した。普通ならば、まだこんなに小さな子猫を残して母猫がいなくなる事は無い。という事は、この近くに小猫たちの母猫がいる筈なのだ。だが、どんなに辺りを見回してみても、母猫の姿は何処にも見当たらなかった。
 にゃあ。にゃあ。
 きょろきょろと母猫を探す文太に、小猫たちが主張する。
 自分達の母親は、今引越しの最中なのだと。安全の為に定期的に自分達子猫をくわえて引越しをしているのだと。今、まさにその引越しの最中であり、つい先ほど自分達の兄弟をくわえて新たな引越し先へと向かったのだ、とも。
 文太はこっくりと頷いた。ならば安心なのだろう、といわんばかりに。
 そんな文太の優しい目に、小猫たちはしきりに「にゃあ」と嬉しそうに鳴いた。文太は平べったい手をひらひらとさせえ安心したままそこを立ち去ろうとし、ふと立ち止まった。
 ここに住んでいたという子猫ならば、ここがどういう場所なのかを詳しく教えてくれるかもしれないと思ったのだ。
 文太の問いに、子猫たちは顔を見合わせた後ぷるぷると首を振った。
 子猫たちも生まれたばかりであり、この辺り一体を探索した訳ではないのでよくは分からないのだという。文太は小さく溜息をつく。子猫に教えないと分かった為、あとは自分の足で情報を集めるしかないのだ。
 そこで、文太は子猫たちに一応の礼を言い、その場を立ち去ろうとした。……が、立ち去ろうとした足は、ぴたりと止まってしまった。
 繁華街からこの裏道に向かい、上下を作業服で固めた男たちが向かってきていたのだ。それは間違いなく、保健所の人間である。
 文太は思わず手にしていた湯桶を落としそうになりながらも、何とか持ちこたえた。あのままこちらに向かってあの保健所の人間たちがきたとすれば、まず間違いなくあの子猫たちは捕らえられてしまうだろう。……いや、子猫たちに限った話ではない。
 保健所の人間が捕まえるのは、野良犬だとか野良猫だとか……ともかく野良の生き物である。そして文太は、傍から見ると野良ペンギンである。否、傍から見なくても野良ペンギンなのだ。飼い主などおらず、ただただ気ままに生きている野良ペンギン。温泉をこよなく愛し、のたりのたりと生活している野良ペンギン。
 そんな文太も、保健所の人間にとっては捕獲対象に相違ないであろう。
 文太はぎゅっと湯桶を抱え、ともかく逃げようとした。向こうからは既に保健所の人間が近付いていた。早く逃げなければならない。
 にゃあ。
 だが、子猫もいた。自分一人すら逃げられるかもしれないが、それ以上に子猫はもっと自分ひとりだけでは逃げる事は出来ないだろう。最悪のパターンも、充分にありえるのだから。
 文太は迷った。途中まで足を動かしかけ、そうしてまた再び子猫の元に帰る。近付く足音、野良を捕獲しようとする人間達。見捨てる事など出来ようか。……否、出来る筈も無い!
 そうして、文太は意を決した。
 湯桶を地面に置き、子猫たちをひょいひょいと掴んで湯桶の中に入れた。入れるたびに不思議そうに子猫たちは「にゃあ」と鳴いた。
 文太は平べったい手で「静かに」のポーズをし、湯桶を抱えて走り始めた。
「何かこっちで声がしなかったか?」
 保健所の人間の声に、文太はぴょんと少しだけその場で飛び上がり、再びぺたぺたと走り出した。
 文太は歯痒く思う。後ろからは刻一刻と保健所の人間たちが近付いてきている。自分はただぺたぺたと子猫二匹を入れた湯桶を抱え、ただ逃げる事しか出来ないのだ。しかも、道は狭く、くねり曲がっている上に、障害物も多い。流石は裏道というか、だからこそ裏道というか。
「おい、あっちで何かぺたぺたっていう音がしないか?」
 再び文太はぴょんと飛び上がった。そのぺたぺたという足音は、紛れもなく自分のものである。文太はぎゅっと目を一瞬だけ瞑る。
 得意の、大の得意である、直線ダッシュが出来たなら……!
 ペンギンとは思えぬその脚力で、文太はダチョウ並みのスピードで走ることが出来るのだ。……一分だけ。それが出来たならば、子猫を抱えたままでも、充分保健所の人間から逃れることが出来る……かも知れない。
「お、おい!あれ……!」
 文太はその声に再びぴょんと飛び上がった。しかも、今度の飛び上がり方は今までの中で一番力強く、そして高らかに飛び上がったのだ。それもその筈。前の二回とは違い、今回は完全な緊迫感に支配されていたのだから。
 つまり、見つかってしまったのである。
「ペンギンじゃないか!どうしてこんな所に……」
 見つけてしまった以上、保健所の人間達はどうやら文太を捕らえる事にしてしまったようだった。じりじりと間をつめられてしまっている。
 文太はちらりと湯桶の中にいる二匹の子猫を見る。この子猫の重みさえなかったら、もっと速く走れたかもしれない、と。
 にゃあ、にゃあ。
 子猫たちが鳴き、文太ははっとした。見捨てられる事など、出来る筈も無いのだ。文太はぷるぷると頭を震わせ、再び走り始めた。そうして、人間が入り込めそうに無い細い道を発見し、そこに滑り込む。
「お、おい!あの間に入っていったぞ」
「あー……そりゃ、無理だな」
 口々に文太の走っていった先を見て、人間達は言い合った。文太でさえ、ギリギリ入り込む事のできるような場所なのだ。人間が入る事は、絶対に適わない。
 にゃあ、にゃあ。
 子猫たちが嬉しそうに鳴いた。人間達は諦めて去っていっている。文太は暫く目を大きく開けてどきどきとする心臓の音だけを聞いていたが、やがてしんと静まり返ったのを確認して漸く大きく息を吐いた。全身から緊張が解れる。
 にゃあ!
 突如、子猫ではない鳴き声が響いた。そして、路地の奥の方から大人の猫がそっと現れたのである。湯桶の中の子猫たちがしきりに「にゃあ!」と鳴いた。
 あれが、自分達の母親であるのだと。
 文太はそっと湯桶を下ろし、子猫たちを出してやった。その途端、子猫たちは母猫のところに駆け寄って甘えた。母猫は子猫たちの無事を確認した後、文太に向かって頭を下げ「にゃあ」と強く鳴いた。礼のつもりなのだろう。
 文太はそれに対して、平べったい手でひらひらと謙遜し、照れを隠すかのようにそっと煙管を口にくわえた。そっと火をつけ、やんわりと息を吐き出す。
 そんな文太に、運んで貰った子猫たちは口々に「にゃあ」といい、文太に礼を言った。文太は再びひらひらと手を振り、煙を吐き出した。
 文太は一服し終わると、煙管を大事そうに湯桶にしまった。親猫も子猫も、文太の法を向いて「にゃあ」と鳴いた。気をつけて、だとかまた会おう、だとか、そういった言葉を含みながら。
 文太はひらひらと手を振り、湯桶を抱えて再び歩き始めた。
 背中に猫たちの声を聞き、ほんのりと自分がまとっている煙管から出た煙の残り香を楽しみながら。

<逃走の成功にほっと息をつきながら・了>