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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


雪溶水

 ゆっくりと、だが確実に。
 じわじわと周りから、中心から、少しずつ、少しずつ溶けてゆく。
 気のせいである筈も無く、かと言って現実感だけが支配している訳でもない。
 確実に、だがゆっくりと。


 縁側にひょっこりと覗いている黒髪のポニーテールに、守崎・啓斗(もりさき けいと)は足を止めた。
(来ていたのか)
 啓斗はそっと微笑み、ポニーテールの石和・夏菜(いさわ かな)を見つめた。守崎家の縁側で遊ぶ、夏菜の姿。それを、同じく縁側で啓斗は見ていた。茶色の髪の奥にある緑の目は、そっと優しい光を発している。
(暖かいな)
 じっと見つめていると、ほんのりと口元が緩んでくるのを感じた。夏菜は啓斗とはまた違った緑の目で、楽しそうに笑っている。その様子が平和さを象徴しているようで、啓斗はほっと心が安堵してゆくのを感じた。
(本当に、今日は暖かい……)
 啓斗はそっと夏菜と同じ視線を辿った。ひらひらと風に揺れる洗濯物。パタパタと軽い音をさせながら飛んでゆく雀たち。遠くから聞こえてくる、遊んでいる近所の子ども達の声。井戸端会議をしている主婦たちの声。そうして、ゆっくりと青い空を泳いでいく白い雲。全てが……そう、全てが鮮やかに繰り広げられていく。
(あれは、いつの事だったか)
 啓斗はふと思い返す。鮮やかな現実の中で蘇ってくる、鮮やかな記憶。そして、少しだけ啓斗は苦笑した。思い返すたびについ苦笑してしまう、一つの事実。
(本当に、参ったな)
 啓斗はそう思い、夏菜の揺れているポニーテールを見つめる。

 啓斗は夏菜の事を、少しだけ苦手に思っていた。


「ただいまなのー」
 数年前の事である。突如守崎家の玄関に、元気のいい夏菜の声が響いていった。その声に、啓斗は小さく溜息をつく。
「夏菜、帰ってきたのか……」
 当時、夏菜は体操の為に合宿所で生活をしていた。こうして声がするということは、久々に帰郷したという事である。わざわざ、守崎家にまでその事実を教えに来てくれたのだ。
「あいつ、何処に行ったんだ?」
 啓斗はそう呟き、きょろきょろと辺りを見回して弟の姿を探した。だが、弟はいない。自分一人しかこの家には存在していなかったのである。
(こういう時にこそ、一番役に立つというのに)
 ちっ、と小さく舌打ちする。眉間には自然と皺が寄る。
「啓ちゃーん、いないのー?」
 催促の声が玄関からする。啓斗は半分諦めたように再び溜息をつき、玄関へと向かった。そこには案の定、にこにこと笑って立っている夏菜の姿があった。
「なんだ、啓ちゃんいるんじゃない」
 夏菜はほっとしたように微笑む。だが、啓斗は顔の表情をぴくりとも動かさず、腕を組んでただ口だけを動かす。
「お帰り、夏菜」
 だが、そんな啓斗の反応を気にする事なく、夏菜はにっこりと笑う。
「ただいまなの!ちゃんと返事してくれないと、鍵を閉めずに出ちゃったのかなって思っちゃうの」
 夏菜が言うと、啓斗は首をただ横に振った。
(忍である自分がそんな杜撰な事をする筈が無いし……万が一そうであったとしても、夏菜が心配するような事は何も無い)
 それを口に出せば良いのだが、それを啓斗がする事は無かった。喋る必要は無いと思っていたのだ。ただただ、自分と弟が分かっていればいいと、そう思っていたのだ。
 夏菜は小さく「そうなの」といい、きょろきょろと見回した。啓斗は直感的に弟を探しているのだと気付く。
「今、出ているみたいだ」
「そうなの?……って、啓ちゃん私が考えている事が分かったの?」
 大きな目を丸くし、夏菜が嬉しそうに笑った。その笑顔に戸惑いながら啓斗は頷く。
「そうなの!……そっか、分かったのね」
 啓斗は小首を傾げ、また眉間に皺を寄せる。
(何故)
 疑問が自然と浮かんでくる。
(何故、夏菜は喜んだりしているんだ?)
 啓斗はただ冷たく光る緑の目を、夏菜に向けた。夏菜がどうして自分に向かって嬉しそうに笑っているかが全く分からないし、また分かろうとも思わなかった。それは全く自分には関係の無い事だと思っていたし、またそう思って当然だとも思っていた。
(所詮、この世で信じられるのはこの身一つ)
 啓斗はぎゅっと手を握り締める。
(いや、この身ともう一つは信じられるものがある。だが、それだけだ)
 信じられるものは、自分と弟。血の繋がりが、自分と同じ立場にいるという事実が、弟を信じるという結果へと繋がっているのだ。それが無ければ、信じられるものがあるとはどうしても思えなかった。
(俺と、弟さえあればいい。それが、全てともいえるから)
 だからこそ、こうして目の前に夏菜が立っている事すら違和感を得てしまうのだ。自分の言葉に笑う夏菜。それがどうしても理解できない。
(何故笑っているんだ?何故嬉しそうなんだ?)
 疑問が浮かび、それから小さく啓斗は頭を振る。
(いや、そんな事はどうだって良い。さして興味の対象とするのはおかしい事だし、関係の無い事なのだから)
 啓斗はそう思い込もうとし、ふと気付く。自分はこんなにも夏菜に対して警戒をしているというのにも関わらず、夏菜に警戒というものが全く無いと言う事に。完全なる無防備の状態だ。
(何故)
 いつ殺されてもおかしくないほどの、無防備さ。それに啓斗が訝しんでいると、夏菜はそっと微笑んだ。無防備な態度に、無防備な笑顔。
「啓ちゃん。私はね、ずっと思っているの。啓ちゃん、凄く簡単にしようとしてるなって」
「簡単?」
 不思議そうに聞き返す啓斗に、夏菜は微笑んだまま頷く。
「そうなの。あのね、何もかも全部嫌っていうのはとっても簡単な事なの」
 啓斗の眉間がぴくりと動くが、それ以上に変化は無かった。夏菜はそっと続ける。
「だからね、拒否をするのはまだ早いの」
(しかし、確かに全てを拒むのは至極簡潔なんだ)
 啓斗は組んでいる手を、ぎゅっと掴む。
「全部を信用するのは、本当に難しいの。それはね、本当に分かるの」
(そう、人は裏切るから)
「でもね、全部を信用する必要は無いの」
 夏菜は微笑み、啓斗の顔を覗き込む。啓斗は少しも表情を変える事なく、だが何も言わずに夏菜の言葉を聞いている。
「急に全部を信用する事ができないのなら、その人のどこか一つでも好きになるの」
(それは簡単に見えて、とても難しい事だ)
「最初から、諦める事は勿体無いの」
(諦める事は簡単なのに)
「一つだけ好きな所が出来ると、それは少しずつ増えていくから。だから、大丈夫なの」
(信用する事は、酷く困難だ)
「人を好きになる事を、止めちゃ駄目なの」
「……裏切られてもか?」
 ぽつり、と啓斗は問う。夏菜は微笑んだまま、頷く。
「踏みつけられても?踏み躙られたとしてもか?」
 少しずつ口調が荒くなりながら、啓斗は問う。夏菜は微笑んだまま、頷く。目には凛とした意志を抱いて。
「全てを、拒否する事が一番の道だと悟ったとしてもか?」
 夏菜はじっと啓斗を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。口元には、あの無防備な笑みを浮かべている。
「啓ちゃん、止めたら駄目なの。諦めちゃ駄目なの。どんなに踏み躙られても、踏みつけられても、裏切られたとしても……人を好きになる事は、止めちゃ駄目なの」
 啓斗の全身を、不思議な感覚が突き抜けていく。
(分からない)
 疑問が、溢れんばかりの問いが、啓斗の体中を駆け巡る。
(どうしても、分からない……分からない……!)
 夏菜はそっと啓斗に向かって手を伸ばした。啓斗は一瞬びくりと体を震わせたが、夏菜の暖かく柔らかな手を払う事はしなかった。夏菜はそっと啓斗に抱きつく。とくんとくん、と心臓の音が響いてくる。
「どこかでね、きっと啓ちゃんを待っている人がいるの。その人の為に、笑顔でいるのよ」
「俺を待つ人?」
 皮肉めいた笑みを浮かべ、啓斗は呟く。にわかに信じがたい話である。自分を待つ人間がいるとは、どうしても思えなかったから。
(そんな奴がいるのか?いるというのか?)
 疑念が駆け巡る。だが、夏菜は頷く。啓斗を抱き締めたまま、柔らかく響く体温を以って。全身に響く心臓の音。流れ込んでくる体温。暖かいという、生きている証。そこで、漸く啓斗は少しだけ実感する。
(信じる……)
 一つだけでも、ほんの少しだけでも。人を信じるという事は、きっとこのようなものなのかもしれない。このように響く音や、このように感じる温度。生きているという実感と、自分が今この場所に存在しているという確固たる証。
(答えなど、出ないが)
 言葉としては出てこない。だからどうなのだ、という教科書めいた答えが出てくるわけでもない。だが、確かに啓斗は感じていた。自分の目が、少しだけ柔らかくなったという事を。
(夏菜は、ずるい……)
 啓斗はぽつりと心の中で呟く。自分にない物をたくさん持っている夏菜。自分には到底できぬ事を成し遂げる夏菜。羨みと嫉妬が交じり合ったような、どろどろとした感情が心の中で渦巻いていた。だが、それすらも既に消えようとしていた。
(本当に、ずるい)
 啓斗は夏菜に抱き締められたまま、小さく笑った。夏菜に悟られる事の無いように、口元だけで、そっと……。


(結局、俺は夏菜に嫉妬していたんだな)
 当時を思い返し、啓斗は苦笑した。そして、現状と過去のその大きな違いにも苦笑する。
(しかし、あの頃から俺は夏菜には驚かされてばかりだ)
 啓斗の思いを超えた発言をする夏菜。そんな夏菜の言葉を、啓斗は驚きながらも心にそっとしまってゆく。
(妹なのに、時々思いも寄らない事を言うんだからな、夏菜は)
 啓斗はそっと微笑む。その時、くるりと夏菜が振り返った。啓斗の姿を見て、そっと微笑む。
「あ、啓ちゃんなの」
「夏菜、いらっしゃい」
 啓斗はそっと夏菜の隣に座る。腕を組むことは無く、また夏菜を見下ろす事もしない。当然のように同じ視線の高さになる。そんな啓斗に、夏菜は「ふふ」と嬉しそうに笑う。
「何だ?」
「啓ちゃん、寝癖ついてるの」
 夏菜はそう言って啓斗にそっと手を伸ばした。びくりとする事も無く、啓斗はただ夏菜の手を好きなようにさせる。
(警戒する必要など、無いから)
 啓斗は直される寝癖を気にする事なく、柔らかく夏菜を見つめた。そして、ふと思う。
(もし裏切られても、踏みつけられても、踏み躙られても)
「直ったの」
「有難う」
 啓斗が微笑んで礼を言うと、夏菜はにっこりと笑って「どういたしましてなの!」と答える。
(決して、止めないから)
 全てを信じられなくても、拒否する事が簡単な事だと分かっていても、夏菜は教えてくれたのだから。笑顔でいる事の大切さを、重要さを。
「啓ちゃん、知ってる?さっき、夏菜は飛行機雲を見ていたの」
 夏菜はそう言って空を指差した。見上げると、確かに先ほど通ったのだろう飛行機雲があった。ただし、時間が経ったためにはっきりとした弧を描いてはいなかったが。
「滲んでしまっているようだな」
 啓斗がそう言うと、夏菜は「違うのよ、啓ちゃん」と言って笑った。
「あれはね、空に溶けていってるの」
 通った飛行機雲の白は、時間が経ってゆっくりと、じんわりと空へと溶けていっているのだ。青に染まるように、そっとゆるやかに。
「……そうか」
「そうなの」
 空を見上げたまま、啓斗は笑い、夏菜もにっこりと笑った。

 いつしか飛行機雲は、完全に空の青へと同化していくのだった。

<確実にゆっくりと溶けていき・了>