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花月―かげつ―
七歳で天狗に攫われた少年は数年後、美しい喝食になっていた。
半分は俗世に身を窶しての山巡りの日々。
何を求めて心は彷徨うのか。
横川の流れに映る月を唯一の心の慰みに、心細く寂しい生活に耐えた比叡の大嶽。
水面に映る月影にかの面影を偲ぶ。
二度と逢えぬ尊い者。
すべては夢か幻か――。
風にまかする浮き雲の
風にまかする浮き雲の
とまりはいずくなるらん
―『花月』世阿弥作―
『夕日の色みたい』
ちぃ兄さまと初めて会った時にそう思ったの。
ちぃ兄さまの瞳はさよならの光芒をお空いっぱいに広げたお陽さまの色をしていたから。
お陽さまが沈んだら何もかもを飲み込んで大きな闇が包んでしまう。
あの夕日の瞳を閉じたら……ちぃ兄さまには闇夜を照らすお月さまはあるのかしら?
夜が明けない事はないけれど、一人で待つにはとても長いわ。
お月さまもお星さまもない夜のお空は淋しくて、きっととても心細いわ。
□■
私がこのお家に来たのは年小組だったから4つの時。
まだ逆上がりが出来なくてお迎えが来るまで毎日頑張って練習してた頃だった。
鉄棒を小さな手で逆手に握って園庭に母さまの姿が見えるまで繰り返し地面を蹴る。
先生が「えいっ」って思い切り地面を蹴るんだよって教えてくれたから。
お手々が赤くなっても何度も続けたの。
そうしてるうちに手だけじゃなくお顔も髪も先生もみんなみんな夕日に染まって赤くなっていく。
お陽さまがさよならする短くて淋しい時間……だけど私はこの色が嫌いじゃないの。
だって、母さまがお迎えに来てくれる色だから。
仲良く長い影を落とし、お手々を繋いでお家まで帰る緋色の道。私にとって一日の中で一番優しい色。
ある日、帰り道で母さまが「お父さまとお兄さまができるのよ」って、そう言ったの。
ちょっぴり驚いちゃったけど、でもそれ以上に嬉しくてワクワクしたのを覚えているわ。
だって、かず君にもひかちゃんにもお父さまがいるのにどうして私にはいないの? そう思ってたんだもの。
一度だけ母さまに私の父さまの事を聞いたことがあるの。
けれど母さまは困ったように微笑ってた。私はとてもいけないことをしたと思ったの。
母さまは本当に悲しそうなお顔をしたから。
だから、それから私は父さまの事をお話するのはやめたの。
大好きな母さまの悲しいお顔は見たくないわ。
新しい父さまの事を話す母さまは楽しいお顔。つられて私もにっこりすると母さまがまた微笑うの。
そんな母さまを見ると私も嬉しくてお家に行く前に父さまや兄さま達のお話を沢山聞いたの。
もちろん、父さまや兄さまのお話を聞くのが楽しかったから。そしてお話する母さまが幸せそうだったから。
父さまだけじゃなく兄さまも一度に二人も出来るのよ。どんなに私が嬉しかったか分かるでしょう?
優しいお兄さまは女の子の憧れだもの。
父さまも兄さま達もとても優しくて素敵だって母さまは何度も何度も言うの。
私はうんとおめかしして行かなくちゃって思ったわ。
母さまに新しいお洋服とリボンを買って貰う約束をしたの。母さまは「おしゃまさんね」って笑ったけど第一印象はとても大事よ。
キレイにしなくちゃ恥かしくって幼稚園にだって行けないわ。だって女の子だもの。
新しい父さまのお家は神社なんですって。
七五三や初詣で母さまとお参りに行ったことがあるから、どんな所かは知っているわ。
お友達に自慢できるかしらってぼんやり思ったの。だって神社がお家だなんて珍しいでしょう?
毎日おみくじが引けるのかしら、とか、賑やかでふわふわの綿菓子があるのねって思ってしまったのは今思うと勘違いだったのだけど。
母さまに手を引かれて神社へ来た時は、まだここがお家になるんだなんて実感は持てなかったの。
広いお庭に沢山の木が植えられていて高い天から射すまぶしい光が庭先で踊っているようだった。
紹介された父さまは運動会やお遊戯会の時にビデオを必死に撮っているお友達のお父さんより、ずっと年をとっているみたいで父さまというよりはお爺さまみたいだったの。
だから私はひどく残念に思ったのだけど……内緒よ?
それでも父さまは私が母さまに促されて挨拶をすると目を細めて柔らかく笑ってくれたの。
私の頭をすっぽりと包んで撫でてくれた手がとても大きくて温かくて、不思議な気持ちになった。
それまで私の頭を撫でてくれるのは母さまの細い手と幼稚園の先生だけだったもの。
母さまもとても温かくて私は母さまの手をぎゅーって握って寝るのが好きだったけれど父さまは母さまより体温が高いのか、もっと温かい感じがした。
だから私は母さまも父さまの手をぎゅってすると温かいのかしら? って考えたの。
お手々が温かくなったら心も温かくなるのかしら。私が眠る時そうだったように。
後で聞いたお話なのだけど父さまは娘がいなかったから、私に会った時本当はとても照れていたらしいの。
どうしていいのか分からずに、それで私の頭を撫でたのね。
もしかしたら不器用な人なのかもしないわ。頑固な人っていうのは無口でそうしたものだって幼稚園にお迎えにくるお友達のお母さん達が前に話しているのを聞いたもの。
それでも私は父さまの手がとても温かだって知ることが出来たから安心したの。
言葉で伝えられない事もお手々で伝えられるのだと思うわ。だって、あの時、父さまのお手々は「いらっしゃい」ってそう言ってくれてたもの。
私に「ここに居ていいんだよ」って、そう言ってくれた気がするの。
父さまは私とはにっこり笑ってお話してくれるけど兄さま達ともこうしてお話するのかしら?
それはとても素敵な事だと思ったの。
父さまと母さま、それに兄さま達と色んなお話をしたり食事をしたり、考えただけで嬉しくて駆け出したくなったわ。
でも、現実は甘くないわね。
あの時の私はまだ4つで子供だったのだわ。
おお兄さまに会ったのは、その日の夜。
母さまと私が来る『特別な日』だからお仕事を早目に切り上げて帰ってきてくれたみたいだったの。
おお兄さまは証券会社ってところでお仕事をしているんですって。
どんなお仕事なのかは分からないけど、とにかくとても忙しいの。
おお兄さまは父さまよりももっと優しく笑って帰りの途中で買って来てくれた花束とぬいぐるみを母さまと私にくれたの。
一緒に遊べると楽しみにしていた兄さまが思ってたよりもずーっと大人でお友達のお父さんとあまり変わらないみたい、なんて思ってしまったのだけど、それは心の中だけにしまっておくわ。
期待していたのとは違ったけれど母さまのいうように素敵な人には違いなくて嬉しくなったのは本当よ。
おお兄さまが運動会やお遊戯会に来てくれたら、きっと先生もお友達もビックリするわね。とても自慢だわ。
そんな事を考えて、貰ったぬいぐるみを抱き締めた。
だけど、おお兄さまはお仕事が忙しくてあまり会えないの。
兄さまに会えなくて淋しいって拗ねる私に色々なお土産をくれるけど私は兄さまとお話できるのが一番嬉しいんだけどな。
でも、我侭は言わないわ。「ありがとう」って笑うとおお兄さまも笑うから。
お土産は私の事を忘れてないよっていう合図だと思うの。一緒にいない時も『かなめの為に』って選んでくれるのだと思うととっても素敵。
時々、淋しそうなお顔をするおお兄さま……お仕事で疲れているのかしら?
どうしたの? どこか痛いの? って声を掛けようとしたのだけどやめたの。
なぜ? どうして? は子供の特権だけど、聞いてはいけない事もあるのだと私は知っていたから。
もし、おお兄さまも母さまみたいに悲しいお顔になったら私も悲しいもの。
大好きな人には笑っていて欲しいわ。
楽しいも悲しいも伝染すると思うの。だって、一緒にいる人が笑ったら自分も笑いたくなるし、泣いてたら泣きたくなっちゃうでしょう?
だからそんな時私は何も聞かずに隣に座って笑ってお話するのよ。そうしたら兄さまも微笑んでくれるから。
ちぃ兄さまに会ったのは、その次の日だったわ。
帰ってくるのが遅くて私が寝てしまったからなの。
会うのをとても楽しみにしていたから普段よりは遅くまで粘って起きていたのだけど22時を過ぎた頃には瞼が重力に完敗したみたい。
新しいお家に、父さまにおお兄さま……環境が一気に変わって沢山ドキドキしたし疲れてたのね。やっぱり限界だったみたい。
大事な日なのに遅くにずぶ濡れで帰ってきたって父さまはちぃ兄さまを随分怒ったみたいなの。
母さまが「とにかく風邪を引かないようにまずお風呂に」って止めに入ったみたいだけど。
私が朝起きて姿が見えない母さまを探して廊下に出ると黒い服を着た男の人がいたの。黒い服は学生服と言うのだと後で母さまから聞いたわ。
その男の人は私に気付いてもまったく気にしない様子で歩いて行ってしまったの。
でも、ここに居るって事はこれがちぃ兄さまなのよね?
「おはようございまーす。昨日、母さまと一緒に来た“かなめ”です」
通り過ぎた背中に大きな声を浴びせる。だって、挨拶は大きい声で元気よくって母さまも先生もいつも言うもの。
驚いたのかしら? ピクリと肩を揺らした男の人は振り返って私を見たの。
真っ直ぐに向けられた視線。朝日が射した紅の瞳は淡く輝いて夕日の色だ――と咄嗟にそんなことを考えたわ。
私の一番好きな色。
それでも、その男の人は眉一つ動かさず表情も変えず、一房伸ばした髪が風に揺れるだけ。
ただ数秒間私を凝視して会釈するとまた振り返って行ってしまったの。
とても不思議な人だと思ったわ。
「難しいお年頃なのかしら」
たいして意味を理解している訳ではないのだけど、大人の口ぶりを真似て呟いてみた。
やっぱり朝のあの男の人がちぃ兄さまだと分かったのは、その日の夕食の時間になってから。
母さまがいつもより張り切って食事の用意をしている時に学校から帰ってきたの。
ちぃ兄さまはやはりほとんどお話をしないし笑う事もなかったの。
でもそれは母さまや私が嫌いだからじゃないみたい。初めはそうかもしれないと思ってドキドキしたのだけど。
おお兄さまや父さまともお話しないの。どうしてかしら?
――いけないわ。気になるけど、これも聞いてはいけない事かもしれないわね。
園長先生が無口な人ほど心ではいっぱいお話してるって言ってたわ。
あ。これは幼稚園で私がクラスの男の子と喧嘩してしまった時にお話してくれた事なのだけど。
大好きな夕日のお目々。
笑ってくれたらきっととても嬉しいのに……そうこっそり思うのは悪い事じゃないよね?
それでも、私にとってちぃ兄さまは『苦手な人』だったの。話し掛けてもお話してくれないし笑ってくれないのだもの、どうすればいいか困ってしまうでしょう?
不思議と『怖い』とは思わなかったのは、ちぃ兄さまの瞳が夕日の色だったからなのかもしれないわ。
それは私が新しいお家に来てから2ヶ月くらい経った頃の雨の日だった。
まだ知らないお部屋が沢山あるから私は探検する事にしたの。
雨の日はお外で遊べないし、丁度良い機会だったの。
静かな廊下を渡って何か擦る音が聞こえたから気になって開けられた戸口から部屋を覗き見て、驚いたの。
ちぃ兄さまが舞っている。
能楽師なのよって母さまからは聞いていたけど、舞を見たのはその時がはじめてだった。
私は能楽なんて知らなかったから何をしているのか初めは分からなかったのだけど、とても綺麗で目が離せなくなったの。
宝物を発見した気持ちだったわ。
お稽古だったのね。衣装もつけずに直面だったけれど雨音を音楽に舞うその姿は幽玄だったの。
面をつけない直面でも最後まで表情は変えない。自然に作り出す面は、どんな面をつけて舞うよりも困難と言われているわ。
勿論、その時の私がそんな事を知ってた訳じゃないのだけれど。
動かない表情から、流れる動作から沢山の感情が押し出される。
(「園長先生が言ってたみたいにちぃ兄さまも心では沢山お話するのかしら?」)
静かに舞うちぃ兄さまのまわりに花や光が見える気がしたの。私は息をするのも忘れて見詰めたわ。
扇が斬る風がまるで匂いたつようでとても綺麗。
それから、その日のうちに早速父さまに私も舞を習いたいとお願いしたの。
でも父さまは、まだ小さいから……と言葉を濁したわ。その時、助け舟を出してくれたのはちぃ兄さまだったの。
私も驚いてしまったのだけど父さまの代わりに兄さまが教えてくれるって。とても嬉しかったわ。
やっぱりちぃ兄さまは笑わないしお喋りもしないけど、それでも何度も何度も丁寧に教えてくれるの。
ちぃ兄さまはお話をしないけれど舞で色んな事をお話しているのね。
その事を知った時、まるでちぃ兄さまと私の二人だけの秘密のように思えてドキドキしちゃったの。
秘密ならまだあるのよ。
ちぃ兄さまがお庭に面した廊下で、通りかかった猫(何処かの飼い猫なのかノラさんだったのかは分からないけど)さんにお昼の残りかしら? 鞄から取り出したパンをあげているのを見たことがあるの。
相変わらずの表情だったけれど、甘えて擦り寄った猫さんの頭を戸惑った風ではあったけれどそっと撫でた手は優しかったわ。
猫さんも、いくらパンを貰ってもちぃ兄さまが怖かったらパンだけ食べてすぐに逃げちゃうと思うの。
ちぃ兄さまは笑ったりお話したりしないけど、猫さんには分かるのね。
だって猫さんも笑ったりお話したりしないもの。だけど、私には猫さんの声が聞こえるの。
『オイシイ、オイシイ。ウレシイ。ヤサシイ。サミシイ。イタイ……』
猫さんはそんな事を繰り返し言ってたみたい。淋しいのは猫さん? それとも――。
いつか、私にも猫さんみたいに分かる日がくるかしら?
ちぃ兄さまは猫さんみたいに頭を撫でてくれるかしら? そして、いつか、笑ってくれるかしら?
それまで私は舞で兄さまとお話できるように頑張るの。
大好きな夕日が沈んでも温かく眠れるように。
ちぃ兄さまに降り注ぐ雨や運命ごと夜を照らす月が現れるまで。
大きくなったらちぃ兄さまのお嫁さんになるのが私の夢――でも、まだ内緒よ。
=了=
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ライターより
氷川・かなめ様はじめまして。幸護(こうもり)です。
今回はご指名頂き、素敵なお話を書かせて頂きまして本当に有難う御座います。
執筆にあたり、資料として能楽の書物を数点用意しましたが然程引用できなかたった事が悔やまれます。
かなめさんの目を通しての家族像という事で、一人称にさせて頂きましたが、もしイメージが違いましたら申し訳ありません。
かなめさん同様、お兄さま二人についても私なりにではありますが解釈させて頂き執筆しました。
至らない点が多いかもしれませんが、少しでもお気に召して頂ければ嬉しく思います。
今後もかなめさんのご活躍を楽しみにそっと見守らせて頂きたいと思います。
今回は本当に有難うございました。
幸護。
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